ビシュケクはキルギス共和国の首都,人口100万人,標高750m,カザフスタンとキルギスタンの国境となっているアラ・トー山脈の南麓に位置している。
内陸性気候のため夏期は40℃を越える酷暑,冬期の平均気温は-7℃にまで下がる。15世紀からキルギス人がピシュペクと呼ばれていたこの地域に進出してきたことから町の歴史が始まる。
1862年にロシア軍はコーカンド・ハーン国に属していたピシュペクを占領し,翌年にキルギス全体がロシア帝国に編入された。ソ連統治下では中央アジアを征服したミハイル・フルンゼ将軍にちなんでフルンゼと呼ばれていたが,1991年にキルギスが独立を果たすとビシュケクに改名された。
キルギスタンは国土の94%が1000m以上の山地,そのうち40%が万年雪と氷河のある3000m以上の高地となっている。至るところに山と湖の雄大な風景が広がっており,夏になると働き盛りの人々は高地の放牧地で過ごす。ビシュケクも市内に入る手前までは牧歌的な風景が続いている。
しかし,ビシュケクは基本的にロシア人が造った町であり,現在でもキルギス人よりロシア人の比率が高い。市内は整然とした街並みに重厚な建物が多く,ヨーロッパ的な雰囲気を強くもっている。また,ロシア正教の教会も多い。
オシュ(約680km)→ビシュケク 移動
軽い朝食をとって出発の準備をする。食器を洗おうとしたら宿の上の娘が唯一の蛇口のあるシャワールームを40分以上占拠して使用できない。たまりかねてドアをたたき,「速く済ませてくれ」と告げるとようやく出てきた。
キルギス人は人は悪くないけれど自己中心的なところが強く,周りの人の迷惑にはほとんど注意を払わないところがある。まあ,他人を押しのけてでも自分の利益を確保しようとする平地のパキスタン人よりはずっとましだけど。
4人揃って荷物をかついで旧バスターミナルに行く。フォードのバンはすでに出発準備ができていた。前の席には男性2人,次の列には我々4人,三列目は男性3人と子どもが2人,ずいぶんたくさんの乗客である。
我々の大荷物を積み込むと最後尾の荷物室はいっぱいになる。車は約束どおり08時に出発した。しばらくはウズベキスタンとの国境に沿ってファルガナ(フェルガナ)盆地を走る。
ファルガナ盆地は北の天山山脈と南のパミールに挟まれた標高1000mほどの地域で,面積3.6万km2,関東地方より少し広い。
2つの山岳地帯からの雪解け水に恵まれ,紀元前から農業が盛んな地域であり,中央アジアでもっとも人口が集中している地域でもある。ファルガナ全体が巨きなオアシスのようなものだ。
漢書西域伝には「大苑」として記されており,「汗血馬」,「葡萄酒」の産地としても知られていた。歴史的にファルガナ盆地は一つのまとまりであったが,現在の国家という枠組みの中ではウズベキスタン,キルギスタン,タジキスタンに分割されている。
現在のファルガナは立派な農地が広がる豊かな農業地帯である。麦の刈り入れはすでに終わっており,畑には麦わらのかたまりだけが残されている。
農地の向こうには人工林も見える。はるか遠くにはゆったりとした山並みが続いており,ファルガナの西に広がる砂漠地帯とはまったく異なった風景が広がっている。
南部の中心都市オシュと北部の首都ビシュケクを結ぶ道路はキルギスの大動脈である。道路状態はよく我々の車は快調に田園地帯を走る。ひまわり畑の黄色が目に鮮やかだ。
この街道にはたくさんの検問所がある。また,何も無いところでもよく警官に停車を命じられる。その度に運転手は20ソムを手に警官のところに足を運ぶ。ビシュケクまでの間に少なくとも6回はこの光景を目にした。
トクトグル湖の下流にあるダムを通過する
12時にトクトグル湖の下流にあるダムを通過する。ダムから流れ出てくる水は異様に青い。通常,この程度の深さの水流はそれほど青くは見えない。何か鉱物が溶け込んでいるのかもしれない。
空や水の色が青く見えるのはどうしてかについて調べたことがある。太陽光は(可視光の範囲では)赤から紫までの波長の異なる光の集合体なので透明となっている。しかし,プリズムのように波長の異なる光を分離する装置を通すと色の付いた光となる。
一方,光は自分の波長よりも小さい粒子に当たると散乱する性質をもっており,大気中を通過するときに窒素や酸素の分子に当たって散乱を受ける。
そのとき波長の短い青色系(青,藍,紫)の光は,波長の長い赤色系(赤,橙,黄)に比べるとより強く散乱される。そのため,青色系の光は何回も何回も散乱を受けて空全体を青くしている。
青色系の光に比べると赤色系の光は散乱が小さいためまっすぐ届きやすい。太陽が地平線近くにあるときは,青色系の光は散乱されてしまい,私たちの目には散乱の小さい赤色系の光がよりたくさん届くので赤く見える。空の青や水の青は散乱光,夕陽の赤は直接光を見ていることになる。
さて,運転手はダムのところでサービス停車してくれた。僕は外に出てダムとその下流にある変電所の写真を撮る。すでにファルガナ盆地は遠く去り,蛾々たる山並みを縫うようにナルン川が流れている。
ナルン川はイシククル湖の南を東西に走る天山山脈の支脈に源をもち,ウズベキスタンに入ると「シル・ダリヤ」となり
「アラル海」に注いでいる。ファルガナの農業を支える最大の水源である。
ドライブインのようなチャイハネで昼食となる
車はどんどん高度を上げていく。周辺の山はほとんど緑のない岩山である。わずかに沢の部分にだけ緑がしがみついている。15時にドライブインのようなチャイハネで昼食となる。
メニューはパン,牛肉と野菜の煮込み,チャーイで選択の余地は無い。高度が上がると物価が上がるという法則はここでも生きていて,値段は60ソムとこの国の物価からするととても高い。
乗客の中で我々日本人は一番長く待たされた。注文するときは鍋の中を指差して日本語で「これを下さい」と言っただけなので,どうもよく伝わっていなかったらしい。骨付きの牛肉は長い間煮込まれておりとても軟らかい。スープの味もなかなかのものだ。
遊牧民の夏の放牧地
高度が上がるにつれて天気は悪くなる。このオシュ街道だけではなく,キルギスでは高度が上がり景色のよいところになるといつも雨にたたられた。今日も草原が広がるようになると雨模様となる。
夏の間,遊牧民の人々は青草を求めて高地の草原にやってくる。彼らの住居はユルタと呼ばれる移動式住居だ。モンゴルのパオと同じもので,組み立て,あるいは解体に要する時間は2時間程度である。
遊牧民の間にも自動車が普及してきているが,彼らの住居は少しも変わっていない。ユルタの周辺の草原には牛や馬が放牧されている。なぜか馬のほうが圧倒的に数が多い。
というのは,かれらは馬の乳を発酵させた「クムス(馬乳酒)」を常飲しているからである。運転手が車を止め,近くのユルタに案内してくれた。暖をとるためか,調理のためか中には大きなストーブが置かれていた。
隅のほうに作り置きの馬乳酒がありそれがどんぶりで出てくる。アルコール度は1%もないだろう。下戸の僕でもある程度は飲める。味は酸っぱい。キルギスの人々はどんぶりを簡単にあけてしまうが,我々は慣れない味に半分も飲めない。値段はどんぶり一杯が10ソムであった。
馬乳酒はその名の通り馬の乳を発酵させて作る。馬乳の中には乳糖が含まれており,これが酵母によってアルコールに変えられる。
ただし,同時に乳酸菌により乳酸発酵も進むのでできあがったものの酸味が強いものになる。馬乳酒は草原の文化でありモンゴルでは「アイラグ」,チュルク系民族の間では「クミス」と呼ばれている。
余談になるがこの馬乳酒(酸乳)からヒントを得て「カルピス」が生まれている。
「カルピス社HP」には
カルピス社の創業者である三島海雲は青年時代に内モンゴルの地で現地の人に勧められるまま飲んだ酸乳(発酵乳)によりカラダが健康になったという体験をしたことがカルピスを生み出す原点になったと記されている。
風景の良いところでも止まってくれる
道中は馬乳酒をペットボトルに入れて売っている光景を何回も目にした。ペットボトル入りの蜂蜜を売っている屋台もたくさん並んでいる。運転手は気を利かせて風景の良いところでも止まってくれる。
天候が回復してきており下界がよく見える。周囲はゆるやかな起伏をもった草原になっており,たくさんの馬が放牧されている。晴れていればきっと素晴らしい眺望を楽しむことができるだろう。
高山植物
道路のすぐ近くにも高山植物が花を咲かせている。栽培品種のように華やかさはないけれど,厳しい気候に耐えてけなげに咲いている姿は質素な美しさに溢れている。大きな石の上に坐り,夕暮れ時の弱い光の中に咲く小さなお花畑をしばらく眺める。
天山山脈を越える
20時にこのルート最長のトンネルの手前で車が止まる。前方はトンネルの入口あたりまで長い車列が続いている。ちょうど夕陽が沈み,残照に照らされて山の輪郭がきれいなシルエットになっている。ここの標高は3500mを越えている。
1時間ほど待って長さ2kmのチョル・アシュー峠のトンネルを通過する。トンネル内は特に異状はなく,たんに片側交互通行のため待たされたらしい。ここから先は下りとなり,なんとなくビシュケクが近くなったという感じを受けた。
実際にビシュケクに到着したのは予想より1時間ほど遅い21:30であった。運転手は前金の900ソムことを忘れたように四人分で3600ソムを要求する。僕が昨日の領収書を取り出して説明するとようやく2700ソムで納得してくれた。
車が止まったところはビシュケクのどのあたりかさっぱり分からない。近くには英語のできる人もいないので,タクシーでサクラGHの近くにある中華系スーパーのゴーインまで行ってもらった。たまたまガイドブックに写真が出ていたので運転手もすぐ分かってくれた。
しかし,ガイドブックの地図でゴーインの位置が違っていたため,サクラGH探しは難航した。通りの名前を何とか聞き出して現在位置を確認する。荷物番の2人を残して暗い路地に入る。けっこう距離があるので地元の人に2回聞いてようやく探し当てる。
残念ながらサクラGHは満員で宿泊は不可であった。GHの日本人オーナーは「夜になるとこの辺りは危険なので,何人かの宿泊客と一緒にアクサイ・ホテルに行きなさい」と教えてくれた。若者4人と一緒にアクサイに到着し,なんとか今日のベッドは確保することができた。
アクサイとノマド
アクサイは旧ソ連時代の大きなホテルであるが,設備はかなり老朽化している。特に共同のトイレとシャワー(15ソムの有料なので使わなかったけれど)はひどい状態だ。
それでも部屋(10畳,2ベッド)はまあまあ清潔である。料金はBさんとシェアして187ソムと高い。早く日本人宿のサクラかミナミに移動したいものだ。
女性たちが持っていたインスタントラーメンをいただき,すぐに横になる。その夜,同室のBさんは下痢状態になり,数回トイレに行くことになった。馬乳酒が悪かったのか,ホテルのひどさに精神的なショックを受けたのかもしれない。
Dさんもパキスタンから下痢を引きずってきており,Aさんはカシュガルの下痢から回復したばかりだ。どうもこの4人組は下痢から縁が切れないようだ。翌朝,朝食もとらずに僕とDさんは空室の状況を確認するため南旅館(South GH)に向かった。
南北方向のアブドラフマノフ大通りに出て,南に向かうトロリーバスもしくはミニバスを待つ。ミニバスは3桁の番号が付けられており,とにかく種類が多い。その中から目的の番号を探し出すのは大変であった。
40台くらいチェックしてようやく目的の番号を見つけ出し乗り込む。運転手に料金の5ソムを渡し,帰りの下車位置のランドマークを確認しておく。
ミニバスは一路南に進み,左に曲がったところで下車する。ここはもう街外れで山がずいぶん近くなっている。それでも,空気中の水分が多いためか本来なら見えるはずの天山の連なりは見えない。
Aさんがパキスタンで入手した詳細な地図を頼りにアパートの棟を見つけ,20号室を訪ねた。呼び鈴の下に小さくSGHと書かれているのでそれと分かる。ミナミGHは非登録の宿なのでそれ以外の表示は無い。
ドアを開けてくれた男性は日本人で,「オーナーのナンチャンはアフガニスタンに出稼ぎに行っている。彼のお母さんは英語ができないので,ボランティアでマネジャーをしている」と話してくれた。
肝心なベッドの空きは2人分と告げられ,4人一緒にここに泊まるのは無理だと分かった。どうしようかと悩んでいると,彼が東バスターミナルの近くにある「ノマド・ホーム」という新しいゲストハウスを紹介してくれた。
このGHの情報はどこかの情報ノートで知っていたので簡単な地図を書いてもらった。アクサイに戻り4人組はすぐにタクシーで出発した。当該地域は普通の民家が並んでいるだけで,10番地を頼りに探し当てる。
ノマドは家の中の部屋と中庭のユルタの両方に宿泊可能である。我々は部屋の方を選択した。部屋は8畳,2段ベッドが3個あり,体重の軽いDさんが上に上がることになった。もっとも3日目は部屋の予約客が到着したため,4人組はユルタに移動することになった。
中庭の共同トイレとシャワーも清潔でアクサイよりはるかに居心地がよい。東バスターミナルの近くにはマーケットもあり食材も容易に手に入る。Aさんがパンを買ってきて昼食となる。
このホームは家族もしくは一族の経営で,台所は姉妹が担当している。妹は愛想がよくとても親切だ。それに対して姉は台所を管理する責任をもっているのでけっこう口やかましく,我々の台所の使用に注文をつける。
この宿は有料の朝食(50ソム)と夕食(100ソム)が付いている。おそらく食事はこの宿の大きな収入源になっているはずだ。日本人の4人組みは夕食を自炊にしていたので,姉としては少し嫌味も言いたくなるのであろう。
結婚宮殿は結婚式ラッシュ
アクサイホテルの近くに「結婚宮殿」という施設がある。ソ連時代に結婚式の宗教色を薄めるために各地にこのような施設が建設された。ビシュケクは人口の半分がロシア系なので,この施設を利用して結婚式の記念撮影をするカップルは多い。
結婚宮殿の前の広場には白いリムジンが何台も並んでおり,どうやらこの車を利用するのが現在の流行らしい。花嫁を抱いて石段を降りてくる新郎がいるのでありがたく一枚撮らせてもらう。当節の新婚カップルはビデオと写真で記録を残すのが当たり前になっている。
新婚のカップルは次から次へと現れるので写真の題材には事欠かない。晴れの結婚式なので写真を撮っても誰からもクレームはつかない。建物の中に入ってみると何も無い。奥に集合写真のためのスペースがあるだけだ。参列者は写真屋の指示通りに並べられ記念写真となる。
手入れの行き届いた公園がある
現在は長文のメールを出せるので,自分がどのような旅行をしているのかほとんどリアルタイムに報告することができる。また,日本からの情報も受け取ることができるので,緊急対応も可能だ。本当に便利な世の中になったものだ。
自分の生活を楽にしたり便利にするためだけにエネルギーや資源を使うのは大きな抵抗がある。我が家のエアコンは夏に運転することはほとんどないし,スーパーの買物もマイ・バッグを利用している。
コンピュータと通信の発展は大した資源やエネルギーを使わなくてもコミュニケーションや情報伝達・収集方法に革命をもたらした。このような「便利さ」ならば大歓迎である。
大通りに戻る途中に公園がある。ビシュケクはロシア・ソ連時代に開発された計画都市なのでよく整備された立派な公園がある。素朴な遊具で遊んでいる子どもたちの写真を撮ろうとすると,写真慣れしていないため逃げ出す子も多い。
公園の中には有料の遊具もある。日本ではふわふわ●●と呼ばれている空気で膨らませる遊び場の大きなものがあった。驚いたのは料金である。聞き違いかもしれないが10分間で30ソムである。チキン入りの三角形のパイが15ソム,自炊のごはんが40ソム程度であがる土地柄ではとても高い。
中央郵便局はよいランドマークとなる
ビシュケクには日本語使用可のネットカフェがある。サクラGHで場所を聞いて出かける。郵便局のあたりで西に折れそのまま行くと左にネット屋がある。前にメールを出したのはカシュガルなのでおよそ1週間ぶりに近況を報告する。
旅先で親族や知人にメールで近況を報告できるのは大変ありがたい。昔は両親を心配させまいと1週間おきに絵葉書を出していた。たいした内容は書けないが,とりあえず生きていることは分かってもらえた。このときのランドマークとなってくれたのがこの中央郵便局である。
ビシュケクにはロシア人が多い
ビシュケクではロシア人をよく見かけた。チュルク系のキルギス人やモンゴル系とは違いが大きいので目立つということもある。キルギスタンにおけるロシア人の人口比は8%なので40万人くらいとなる。その大半はビシュケクとその周辺に居住しているようなので目立つのは当たり前化もしれない。
ネットの世界では「スラブ人には美人が多い」というのは定説となっている。確かにロシア人の女の子を見ているとその説にうなずけるところがある。しかし,彼女たちは中年にさしかかる頃には立派な(体格の)ロシア婦人になってしまう。
西バスターミナル
次の移動に備えて西バスターミナルの下見に行く。宿の近くの東BTからまっすぐ西に行くと西BTがある。トロリーバスを乗り継ぐか,113番のミニバスで行けるのだがなかなか来ない。
ようやく来たかなと思ったら満員で乗れない状態だ。30分ほど待って2台目が到着し,ようやく乗ることができた。ビシュケクのミニバスは外国人には手強いものがある。
西BTには大型バスは見当たらない。ワゴン車がたくさん並んでいるので,イスゥク・クリ(イシククル,東部の湖)方面の移動はこの車になりそうだ。台数は多いので適当な時間にくればいいだろう。何といっても英語が通じないので情報収集ができない。
オシュ・バザール
西BTから田舎道を南に下るとじきにオシュ・バザールに着く。メインの建物にはケータイのような高額商品が並び,日用品や衣類は周辺の建物やテントの中で売られている。
商品は豊富だ。テントの下の台には衣類やサンダルなどが山積みされ,女性たちが真剣に品定めをしている。この一画は通路が狭く,人通りも多いのでフレームを作るのが難しい。
ミネラルウオターの自販機
ビシュケクにはちょっと変わったミネラル・ウオターの自販機がある。たいていのものは炭酸入りなのであまり好みではない。マーケットでボトルの水を買うときにも炭酸が入っていないことを確認してから買うのだがときどき外れる。
機械の操作は係員がするようになっており,自販機から出てくる水は紙コップで受けることになり,場所によってはグラスが置かれていることもある。日本人なら「えっ,これは洗ってあるのだろうか」とまず疑うようなものだ。取り出し口がもう少し高さがあればボトルに追加できるのにと思う。
トロリーバスと交差点
オシュ・バザールからのんびり街の様子を眺めながら宿に戻る。大きな交差点ではトロリーバスの送電線が複雑に交差しており,これでどうやって給電するのか不思議だ。しばらく眺めていたが,こんなときに限ってバスは来ない。
アパートはこんな建物が多い
ソ連時代に建てられたアパートは機能優先であり,だいたい同じような没個性的なものになっている。
公園にはこのような銅像が多い
街の通りには並木が多くプラタナスに似た葉を広げている。計画都市だけあって街並みはきれいだ。建物は4-5階のものが多く,高層ビルはほとんど見当たらない。
札幌の大通り公園のように一区画が公園になった通りが続いている。この公園もよく整備されている。旧ソ連時代のものであろう,たくさんの胸像が並んでいる。公園の中には銃を持った兵士の像がある。おそらく「大祖国戦争」のモニュメントであろう。
このような銅像もそれ時代の遺産であろう。ロシア語が理解できないのでどのようないわれのものなのか分からず,ただ写真にするだけだ。
パン焼き釜の内部はこうなっている
アンパン型のものもナン型のものもパンはほとんどおわんを伏せたような形状の土釜で焼き上げられる。土釜の内部で火を起こし熾火になったら内側にパン生地を張りつける。
パンは熾火の輻射熱と熱くなっている土釜の熱で焼き上げられる。ところがこの土釜の中にはなにやら液体の入った鍋が置かれていた。この鍋の目的は分からない。
ロシア正教会
東西のBTを結ぶシベック・ジョル通りにはロシア正教会がある。通りから玉葱形の小ドームを頂いた特徴のある建物が見える。ロシア正教に代表される東方教会はバチカンを首座とするカソリックとは異なった教義,典礼規範を有している。
「キリスト教の東西分裂」はローマ帝国の東西分裂に起因するものではない。また,ローマ・カソリックから東方教会が分離したというのも正しくない。広大なローマ帝国内でキリスト教が普及した当初からローマ教会とコンスタンチノープル教会の間には教義や典礼の差異が見られた。
ローマ帝国の東西分裂後の数百年の間に東西の教会は独自の道を歩むことになる。同時にキリスト教の総本山たる「首座権」を争い,それぞれの教義・典礼規範に対する論争も続いていた。東西分裂が決定的となった1054年の相互破門は一つの結果に過ぎない。
教会の前にはロシア系の少女が乳母車の番をしている。母親は教会でミサに参加しているのであろう。乳母車の赤ん坊は薄いブルーの瞳をいっぱいに見開いてこちらを見ている。姉の少女もなかなかの美人だ。
初めて入ったロシア正教会は僕の目には異様なものであった。正面および左右の壁面はイコンと呼ばれる天使や聖人の絵で飾られている。12使徒と思われる大きな絵もある。これではまるで偶像崇拝の宗教ではないか。
とはいうものの,そのような宗教絵画はとてもよい写真の題材になる。フラッシュを使わず,マニュアルでていねいに撮らせていただく。初めてのロシア正教会訪問はかなりのカルチャーショックであった。
感じの良い古い民家
感じの良い古い家並みが並ぶ一画もある。平屋で三角屋根はブリキで葺かれている。屋根の中央部には暖炉かストーブにつながる石造りの煙突が立っている。家の内側には中庭になっているようだが塀に囲まれており,中には入れない。
食堂があったので中に入りラグマンを注文したら,丼で出てきた。値段は35ソム,中国の金額に換算すると8元に相当する。キルギスの外食はかなり高いものにつく。