亜細亜の街角
物価は高いがイスィク・クリの風景はすごい
Home 亜細亜の街角 | Colpon-Ata / Kyrgyz / Jul 2007

チョルポンアタ (地域地図を開く)

イスィク・クリ(イシククル湖)はキルギスタンの北西にある内陸湖である。ウイグル語でイスィクとは「熱い」,クリとは「湖」の意味である。唐の時代にここを訪れた玄奘三蔵もこの湖を「熱海」と記している。

その名の通り,イスィク・クリ北緯42度の高地(標高1606m)にありながら冬でも凍結しない。一方,夏季でも水温は20℃ほどまでしか上がらない。湖は東西方向に182km,南北方向の幅はおよそ60km,周囲は688kmである。

湖の最大深度は668m,面積は6,236 km2(琵琶湖の9倍),貯水量は1738km3である。水深が深いため面積に比して貯水量が非常に大きいといえる。

塩分濃度は約0.6%,淡水湖の定義は0.05%以下なので塩湖に分類される。まあ,ちょっとおまけして淡水湖だとすると,世界の貯水量ランキングの中で堂々,第10位に入っている。小さな国の大きな湖である。

順位 湖名 貯水量(km3)

1
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4
5
6
7
8
9
10
参考

バイカル湖 (ロシア)
タンガニーカ湖 (アフリカ)
スペリオル湖 (北米)
マラウイ湖 (アフリカ)
ミシガン湖 (北米)
ヒューロン湖 (北米)
ビクトリア湖 (アフリカ)
グレートベア湖 (北米)
グレートスレーヴ湖 (北米)
イスィク・クリ (キルギスタン)
琵琶湖 (日本)

23,600   
19,000   
12,100   
7,775   
4,920   
3,540   
2,760   
2,292   
2,088   
1,738   
27   


イスィク・クリは1981年放映のNHKシルクロード第2部に「地底に消えた道」というタイトルで紹介されている。天山北路はイスィク・クリの北側で南に折れ,イレニン・アラトー山脈を越えてイスィク・クリの北岸を通っていた。

番組ではチョルポンアタ周辺で7-9世紀の生活用具などが湖岸に打ち寄せられることがあること,潜水調査の結果,湖底にはシルクロードのオアシスが沈んでいることなどが紹介された。気候変動のためなのかシルクロードの時代に比べて,湖岸は500mも拡大しているという。そうならば,湖岸近くにあった集落は湖底に沈むということは大いにありうる。

ソ連時代,チョルポンアタは保養地として開発された。NHK取材班は例外的に取材を認められたが,中国国境が近いこと,周囲には多数の鉱山が存在することなどのため外国人の立ち入りは固く禁じられていた。

ビシュケク(255km)→チョルポンアタ 移動

昨日の夕方,ギルギットで同じ宿に宿泊していた男性がノマド・ホームを訪ねてきた。再会を喜びユルタの中で飲み会になった。キルギスではウオッカがとても安い。酒の強いAさん,酒好きのBさんが揃っているのでちゃんとウオッカが用意されている。

積もる話と酒が手伝って夜も更けてしまった。帰るのはちょっと危険なので宿の人には内緒でユルタに泊まってもらった。06時に起きて彼を手引きして脱出させる。日記を書いているとAさんがお茶を入れてくれたのでそのまま朝食になる。

今日で4人組は解散し,明日からはAさんの日本食も食べられなくなる。08:30にチェックアウトし,昨日と同じ場所で113番のマルシュルートカ(ミニバス)を待つ。今日もなかなかやってこない。

昨日と同じ車がやってきて西バスターミナルに到着する。係員に「チョルポンアタ」と告げると,発車直前のマルシュルートカに案内してくれた。運転手に150ソムを払う。僕が最後の乗客となり車はすぐに出発した。

道路は舗装されており,多少振動は大きいものの快適な移動である。車の窓からはあまり外は見えない。天気も良くなく天山山脈はまったく見えない。12時を過ぎたあたりからイスィク・クリの湖面が見えるようになる。

車はワゴン車がたくさん並んでいる一画を通り過ぎた。ここが長距離BTとは気が付かず,1kmほど先の市場まで行ってしまった。宿はBTの周辺にあるので歩いて戻る。

長距離BTの2階の宿

チョルポンアタはソ連時代の保養地から新しいリゾート地に変わりつつあった。銀行,両替所,きれいなレストランが並んでいる。リゾート客用の宿もたくさんあるはずだが,英語はほとんど通じず探しようがない。

結局,BTの2階に泊まることになった。建物の中で2階に上がる階段を探していたら,民宿紹介のおばさんが案内してくれた。6畳,1ベッド,T/S共同,テーブルがあり,清潔である。料金の175ソムはまあ妥当なところか。

バザールのおばあさんとお孫さん

宿の裏手には小さなバザールで食料を仕入れる。ナン型のパンは2枚で10ソム,トマトは0.5kgで10ソム,サクランボは0.5kgで50ソムである。これでハチミツかジャムがあると食べやすいのであるがこの町では見つからなかった。

ここで商売しているのかどうか分からないがおばあさんの写真を撮ることになる。きれいな民族服の上にもう一枚羽織っている。ここは標高があるため関東の7月初旬に比べるとだいぶ気温は低い。おばあさんの近くにはお孫さんがおり,こちらも良い被写体になってくれた。

メインストリート

チョルポンアタのメインストリートはイスィク・クリの北岸に沿って西のバルッチュクと東のカラコルを結んでいる。BTの南は小さい半島になって湖に突き出しており,その東側の小さな湾が海水浴場になっている。道が分からないので浮き輪をもった一家の後をついていく。道の両側には浮き輪やビーチボールなどの遊具をそろえた店が並んでいる。食べ物屋も何軒かある。

市場の奥には食堂がある

チョルポンアタの外食はとても高い。ラグマンで80ソム(240円)というひどい値段だ。一番驚いたのは,市場の食堂で大きなギョーザ(現地ではマントウと呼ばれている)を食べた時のことだ。おばさんたちに5個で100ソムを要求された。しかも味は良くない。

あまりのことに強く抗議すると80に下がった。これでも通常の市価の2倍である。この町で外食するときは必ず値段を確認することをお勧めする。ほとんどのキルギス人は素朴で,旅行者を暖かくもてなしてくれる。しかし...観光客が増えると,このような人も増えてくるのかと少し悲しい気持ちになる。

北側の風景

果物の木が多い

チョルポンアタの7月上旬は杏とサクランボの季節だ。家の庭先にもサクランボがたわわになった木がたくさんある。1kgの値段はサクランボが100,杏とトマトは30ソムで,オシュに比べると2-3倍になっている。というよりも,オシュの野菜や果物は北部に比べて著しく安かったといえる。

キイチゴの仲間もいくつか見かけた。いわゆる「イチゴ」と「キイチゴ」はどちらもバラ科・バラ亜科に属しており近縁関係にある。キイチゴ類は非常に種類が多いうえに種間雑種も多いため名前を確認するのは困難である。代表的な栽培品種としてはラズベリー とブラックベリーがある。

まあ,ほとんどのものが食用になるいうことなので熟したものが目についたら摘まむことにしよう。メインストリート沿いの露店ではキイチゴのジュースを見つけいただく。コップ一杯で10ソムである。

なんとなく見覚えのある花もある

海水浴場(湖水浴場)

砂浜は大勢の水着姿の海水浴客でにぎわっていた。キルギスの短い夏を精一杯楽しんでるようだ。水温はちょっと低いし,気温も曇ると肌寒く感じるのに水と戯れている人も多い。

正面には雪を頂いた天山が横一列に並んでいる。上には雲がかかっており,その雲も天山の稜線に合わせるように横一列に並んでいる。湖面の深い青,山並みの薄い青,雪と雲の白,空の薄い青が下から積みあがっているような風景だ。

イスィク・クリは南と北を天山山脈の支脈にあたるアラ・トーに挟まれた地形となっている。周辺の山岳地帯からは50を越える河川が流入しているが,流れ出る川は1本もない。流入量と蒸発量がバランスしたところで湖の面積が決まる単純な原理が働いている。

湖の南北に連なる山並みにはおもしろい名前が付けられている。北岸がキュムゲイ・アラ・トー(背中を太陽に向ける),南岸がテレスケイ・アラ・トー(顔を太陽に向ける)という。テレスケイ・アラ・トーの分水嶺を越えると,そこはナルン川の流域になり,キルギスを横断して中央アジアの大河シル・ダリヤになる。

浜辺にいるのは大半がロシア系の人たちである。中にはウズベキスタン,カザフスタンから来たという外国人観光客も混じっている。乾燥した国から来ると,この青い水をたたえた光景は天国のようなものであろう。湖の水を舐めてみると少し塩味を感じるだけで,玄奘三蔵のいうほど塩辛くはない。

ロシア人の若い女性は足が長くスタイルはすばらしいのに,20代の後半から肉が付きはじめ,中年になると特有のどしりとした体型になってしまう。男性もその傾向が強い。キルギス人はまだ肥満の問題はそれほど抱えていないようであるが,子どもたちにはもうその兆候が散見される。

小さな半島の方に移動すると

池に写るポプラ

帰り道を歩いていると,海水浴客の一団がわき道に入っていく。僕も一緒に行くと大きな池があった。池の中ほどまで桟橋のような橋が架かっている。池の半分をポプラが囲んでおり,なかなか絵になる。水辺の道に沿って白樺が並木をつくっており,これは僕が子どもの頃の過ごした北海道の風景によく似ている。

北側の斜面を上る

標高1600mの夜はかなり冷える。長袖のトレーナーを着たまま寝る。06時に起床し日記を書く。ビシュケクの滞在中は4人組でのおしゃべりが多く,日記作業はかなり溜まってしまった。

朝食としてナンを厚くしたような丸型のパンと野菜サラダをいただく。ジャムか蜂蜜があるといいのだけれど,商店を探しても見つからなかった。丸型のパンはビニール袋に入れて封をしておくと,そんなに固くはならない。デザートはサクランボにする。

イスィク・クリの北岸はゆるやかな斜面が続いている。しばらくは道路沿いに家並みが続く。家々の庭にはサクランボ,キイチゴ,クルミなど果物の木が植えられている。サクランボなどは枝もたわわに実が付いておりちょうど食べごろだ。

家並みが途切れると感じの良い農家が見えてくる。農機具や農産物を保存するためであろう,2階が物置構造になった家もある。窓の鉄格子もなかなかユニークだ。左下隅から放射状に金属棒が伸びており,それを同心円状の金属で溶接してある。

今日は天気が良くない

今日も天気は二分されている。北側は白から灰色に変化する厚い雲が上空を覆っている。ほとんど陽射しはないため,茶色の岩山の背後にある山脈の写真写りは良くない。一方,南側は比較的雲が少なく,イスィク・クリの青い湖面のかなたに蒼い山脈が浮かんでいる。

岩絵博物館

午前中は街の北側にある岩絵博物館に出かける。大きな石に狼やヤギの絵を描いたものがごろごろしているらしい。大半は紀元前8-1世紀にかけてサカ人が残したものである。

サカは紀元前の中央アジア,ファルガナから現在のカザフスタンにかけての草原地帯に居住していたイラン系遊牧民である。ギリシャ語でスキタイと呼ばれてた黒海北岸のイラン系遊牧民と同じ系統に属すると考えられており,スキタイ=サカ族という民族名称も使用されている。

彼らは馬を飼育し,初めて騎乗した遊牧騎馬民族としても知られている。彼らは「とんがり帽子のサカ」と呼ばれる勇猛な戦士集団でもあり,その機動力によりユーラシアの草原地帯を支配し,東西交易の端緒を開いた。

スキタイ人は祖先の墳墓を崇拝し,権力者の墓は大きなマウンド(墳丘)になっている。内部には貴金属の装身具や死後の世界で必要とされた最上の品物が副葬品として納められた。そのようなマウンドから発掘された黄金の鎧は,彼らの高い芸術性を表している。

岩絵博物館はいちおう柵で囲われていた。管理人はいないので断らずに入ることにする。そこはゆるやかな斜面に大小の岩が密集している。その中の900ほどの岩に絵が描かれているということであるが,簡単には見つからない。

何個かこれが岩絵であろうというものを見つけた。どのような顔料を使用したものか,岩の表面が黒くなっており,それを削って動物や人間の姿を描いている。線刻画のように姿をなぞったものもあれば,面を削って造形したものもある。

アイベックスのように後ろに反り返った角をもった動物だけがはっきりと認識できた。しかし,他のものはどう解釈してよいものか思案に暮れるようなものばかりだ。帰ろうとしていたら,道路にマイクロバスが止まり乗客が降りてきた。こんなところにはるばるやってくるのは日本人のツアーしかない。案の定,ガイドと一緒に集団がやってくると日本語が聞こえる。

この一行は西遊旅行のメンバーであった。僻地に強い旅行社で何回か「こんなところで」と思うようなマイナーなところで会ったことがある。ガイドのロシア人女性は英語で説明し,それを女性添乗員が通訳している。

この一行について岩絵群を回ると,今まではてな状態の絵が何を表してリいるかが理解できた。彼女の説明では岩絵の題材はアイベックス,鹿,雪ヒョウ,狼それに狩人だという。確かに,そう説明を受ければそれらしく見える。

岩絵博物館からの眺望

壁の3枚の絵がおもしろい

船着き場

BTの西側を歩いてみると湖に出そうな道があった。どうやらBTの南にある半島の西側の湾に出るようだ。駐車場から団体と一緒に歩いていくと船着場に出た。

桟橋の板敷きの床はちょっと心もとない。団体客は桟橋に停泊している船で沖合いのクルーズに出発した。今日も南の山脈には雲がかかっている。テレスケイ・アラ・トー(顔を太陽に向ける)は簡単には素顔を見せてくれない。

今日も海水浴場はにぎわっている

両側が白樺の並木になっている小道

幹線道路に出てBTの北東の小さな山に登ろうとする。両側が白樺の並木になっている小道に出た。絵に描いたような牧歌的な風景だ。思わずロシア民謡を口ずさんでしまう。地元の人と挨拶を交わして先を行くと,山の手前で道は途切れていた。その先は柵で仕切られた果樹園となっており,入るのはためらわれる。

移動日の朝

06:30に外に出てみると北側の山がきれいに見える。カメラをもって早朝の散歩となる。BTの裏手は牧場になっており,そこからは南北どちらの山脈もよく見える。

今朝は南の山脈に雲がかかっていない。湖面の向こうに連なる山脈の風景を撮るため牧草地を横切って湖岸に向かう。しかし,これが意外と遠い。ようやくたどりついた湖岸には家があったり,水路に隔てられた中島があったりして具合が悪い。

改装中のホテルの裏手にでると障害物の無い風景にめぐり合えた。真っ青な湖面とそれを映し出すようなテレスケイ・アラ・トー(顔を太陽に向ける)にようやく対面することができた。

薄い雲は雪山の連なりをジャマすることはない。すばらしい景色に何枚も写真を撮る。こんなときは本当に一眼レフの望遠が欲しい。ともあれ,この風景にめぐり合えたので心残りはなくなった。


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