キルギスの正式国名はキルギス共和国,現地語の発音をカタカナ化するとキルギスタンとなるので,キルギスと表記するのが正しいようだ。国土面積は19.2万km2(日本の約半分)で,中央を天山山脈が東西に走っている。
国土の大半が山岳地帯のため人口は500万人と少ない。人口の66%はチュルク系のキルギス人でウイグル人,ロシア人,さらにいくつかの少数民族が居住している。
旧ソ連の影響なのか就学率は高く小学校で98%,中学校で88%となっており,男女差はほとんど無い。国土が天山山脈により南北に分断されており,北部と南部の地域差が大きい。北部はロシア系が多く,世俗的でロシア化が進んでいる。一方,南部はイスラム色が強く保守的である。
オシュは南部の中心的な都市でオシュとビシュケクを結ぶ道路はこの国の大動脈となっている。カザフスタンから入国する時は北部国境からビシュケクに入る。一方,ウズベキスタンおよび中国から入国する時はオシュが都合が良い。
トルガルト峠を越えてビシュケクに向かうルートもあるが,中国側の国境地帯は未開放地域となっており,パーミッションが必要なため,個人旅行で通過するのは難しい
ウズベキスタンとの国境地帯はフェルガナ(ファルガナ)盆地と呼ばれ,イスラム復興運動の盛んな地域である。そのためウズベキスタン側で第三国人の通過できる国境を2ヶ所に制限している。
2006年は中国のカシュガルからオシュに移動する計画を立てていたが,歯の具合がひどく悪化し,さらにカメラが故障したため,断念した。2007年は再挑戦ということになる。
カシュガル(198km)→国境(262km)→オシュ 移動
北京時間の07時に起床,新疆時間でも05時,通常の時間感覚からすると04時といったところだ。まだ部屋の中は暗いので明かりを点けて荷物をまとめ,残りの時間は日記を書く。
08:30に日本人3人でチェックアウトする。ドミの部屋代は毎日清算しており,その受け取りをフロントでチェックする仕組みになっている。これがまた時間がかかり,3人分が終了するまでにはゆうに15分はかかった。
同じようにチェックアウトし,キルギスに向かう韓国人旅行者と一緒にタクシーで国際バスターミナルに移動する。彼にキルギスのビザについてたずねたところ,難しい申請書と100$が必要とのことだ。
キルギスに対する日本のODAは相当額になり,そのおかげで日本人はビザ免除となっている。政治的野心のない日本のODAは中央アジアでも歓迎されているようだ。
しかし,貧困の根絶のように本当に援助を必要とする底辺の人々の役に立っているかというと必ずしもそうではない。相手国からの要請に基づくODAは為政者の意向が強く反映されるため,本当に国民が必要としているものにはならないケースが多々発生している。
国際BTではすでにBさんが待っており,これで4人が揃う。色満賓館に滞在している日本人2人は直行の国際バスではなく,乗り合いタクシーとヒッチハイクで移動するという。あとで,国境越えの話しを聞きたいものだ。
オシュ行きのバスはまだ扉が閉まっている。メインザックを荷物室に入れ待機していると,係員らしき人が乗客のパスポートとチケットを集めに来た。ちょっと怪しいけれどこれがルールのようだ。
両者はバスの扉が開き乗客が乗り込む寸前に戻ってきた。パスポートの扱いはまったくぞんざいである。キルギスの紙幣をもった(闇)両替商が乗客に両替をもちかける。レートはそれほど悪くない。Bさんが200元を両替した。このキルギス・ソムはそのうち役に立つことになる。
11時近くになってようやくバスは出発した。中国製の寝台バスはちゃんと寝ることができるので,長距離移動にはとてもありがたい。2段の寝台が横に3列,縦に5列なので定員は30人となる。バスによっては縦4列と最後尾は仕切り無しの広い2段の空間になっており8-10人が寝られるものもある。
町を出ると緑の乏しい荒地となる。日干しレンガで造られた遺跡が目に入る。観光資源にはならないので放置状態にある。永年の風化によりレンガ同士が融合し,小高い丘のようになっている。
12:30にバスは停車した。はるか先まで車列が続いている。しばらく待っていてもさっぱり動く気配はない。乗客は外に出てバスの周りにたむろしている。僕も外に出てみたが荒地ばかりで写真の題材も無い。
30分ほど経つと突然車列は動き出し,乗客は慌ててバスに乗り込む。どうやら一時的な道路封鎖のようだ。14時に最後の町で昼食休憩となる。見栄えの悪いラグマン以外に食べるものがない。幸い大きなバナナを売っていたので一人2本づつで昼食にする。
14:30,国境が近くなり運転手が乗客にパスポートを提出するよう指示する。乗客の少年がみんなのパスポートを集める。前方に山が迫り,その手前にオアシスように緑がかたまっている。
中国官憲が乗り込んできてパスポートチェックとなる。それが終わるとパスポートは戻ってきた。赤茶色の岩山の後方に雪を頂いた山がそびえており,舗装道路はそちらの方向に向かっている。
17:15,中国側のイミグレーションに到着する。雨の中を荷物を持って建物に向かう。なぜか,パスポートをチェックする係官と出国スタンプを押す係官に分かれている。二重チェック体制になっているようにも見える。
その先にカスタムがありバスの乗客は一列に並んで順番を待っている。そこにキルギス人の女性が堂々と横から入ってくる。「私は子ども連れだから先に行かして」というように身振りで訴えるが困ったものだ。
このあたりの標高は3600m,7月だというの天気が良くないので肌寒い。長袖を2枚着込んでなんとか寒さをしのぐ。中国のカスタムはX線の透視検査だけですんなり通過できた。
建物の外に出るとバスが来ていたので荷物を後部座席付近に持ち込む。20:00,バスは30分ほど経ってからようやく動き出した。周囲には国境通過の手続き待ちのトラックが長蛇の列を作っている。両国の国境貿易は盛んのようだ。
バスは両国の中立地帯の未舗装道路を走る。右側は幅の広い川原になっており,わずかばかりの水が流れている。キルギス側の国境の建物群が見えてくる。中国国境に到達してからかれこれ3時間が経過しており,寒さも手伝ってトイレに行きたい。
バスが止まり乗客はイミグレの建物に向かう。入国審査はごく簡単なものですぐにパスポートに押印してくれた。中央アジアでは出入国時にちゃんとスタンプが押してあるかチェックする必要がある。
キルギス側の荷物検査はまったく無かった。他の人の旅行記では国境通過に12時間かかったなどという経験談が書かれていたが,今回は5時間で済ませることができた。
国境からサルタシュまでは未舗装道路が続く。登り区間が多いのでバスの速度はゆっくりしており快適に眠ることができた。チャリダー(自転車旅行者)に言わせると,この区間はキルギスでもっとも風光明媚な区間らしいが,夜中ではどうにもならない。
バスは2-3時間ごとにトイレ休憩をとってくれた。もっとも民家やトイレがあるわけではない。バスから少し離れると真っ暗なので,明暗の境界辺りで用を足すことになる。
ホテル・ヌルベク
08時にようやくオシュに到着する。たぶん新バス・ターミナルであろう。といっても,建物もほとんどない広場のようなところである。町の中心部までは約4km,タクシー料金は30元(約450円)と中国の4倍である。協定価格のようで交渉の余地はなかった。
タクシーの運転手は「ホテル・ヌルベク」が分からず,別のホテルに到着した。英語はまったく通じないし,周りにあるのはキリル文字の看板だけでさっぱり読めない。荷物番を残して宿探しに出かける。道路と川の位置関係で現在地を割り出し,バザールの間を抜けてようやくヌルベクを見つけ出した。
ヌルベクの部屋は8畳,2ベッド,T/Sは共同,清潔で居心地は悪くない。この部屋に2人で泊まって料金は一人125ソム(1$=36ソム,1ソム=約3円)である。女性陣はとなりの部屋である。ガイドブックにはドミの料金も記載されていたが見当たらなかった。
この宿には湯船付きのシャワールームがある。お湯も出るのでAさんがお湯をためてお風呂に入った。風呂が終わると当然バスタブの栓を抜く。そのとき事件が起こった。彼女の大きな声に呼ばれて我々が駆けつけると,広いバスルームの半分くらいが黒い煤のようなもので覆われている。ただ,バスタブの栓を抜いてお湯を流しただけだという。
宿の女主人はこの状況を見てもまったく慌てるところはない。床を調べてみると小さな穴があることが分かった。水を流してみるとどんどん吸い込まれるので,その穴は排水溝に通じているようだ。
逆にいうとバスタブから大量のお湯が一気に流されると,排水溝があふれ一部が床上に流れ出すことになる。そのとき,汚れを一緒に運んできたのだ。いずれにしてもそのままではシャワーが使えないので,男性2人は雑巾を使って黒い汚れを排水溝に戻す作業をすることになった。
朝食と両替
バザールの見学方々,4人で銀行に行く。朝食のために食堂に入る。メニューは無く,周りの人の料理をチェックして大きな餃子風のものを注文する。サイズは大きいが蒸餃子で,唐辛子ペーストと酢を使って食べる。3個で14ソム,味は悪くない。
タージ・マハールというホテルの1階が銀行になっており,ATMも使用できる。ATMからキルギス・ソムの引き出し方がよく分からなかったので,利用限度額の200$を引き出し,これを両替してもらった。レートは100$=3600ks(1$=36ks)なので1ソムは3円ほどの感覚である。
バザールで4人分の夕食の材料を買って宿に戻る。メロンは1個12ソム,葡萄は30ソム/kg,ジャガイモ,タマネギ,トマトは5-10ソム/kgほどの値段だ。
シェフのAさんの昼食メニューはソーメンとキャベツの浅漬け,ベトナムで仕入れたというコメの麺を和風のツユにつけていただく。夕食メニューは「肉無しの肉じゃが」とサラダであった。久しぶりのしょうゆ味はとてもなつかしい。
外国人登録が必要
午後はオヴィールに行ってレギストラーティア(外国人登録)をしなければならない。この外国人登録は旧ソ連時代のなごりの制度で,外国人は入国3日以内に登録を済ませなければならない。キルギスは1回の登録でOKであるが,となりのウズベキスタンはすべての滞在地で登録証をもらわなければならないというやっかいな制度である。これを怠ると国外追放の憂き目に会うこともある。
オシュの外国人登録はオヴィールから内務省に変わり,再びオヴィールの管轄に戻っていた。このオヴィールの場所が分かりづらい。地元の人に何回も聞くが,そもそも地元の人は外国人登録は不要なので「オヴィール」などというものを知らないのだ。
それではと「レギストラーティア(外国人登録)」とたずねると,門のある建物を教えてくれた。建物の中に入るとどうみてもこれは病院である。「レギストラーティア」には一般の登録という意味もあり,そのため病院の受付もそう呼ばれているのだ。
それが分かり4人は大笑いをしながら外に出た。結局,頼りになったランドマークはオシュ・ヌル・ホテルであった。ようやくオヴィールの建物を探し当て,登録担当者の部屋に入る。
すると,彼女は「事前に登録料金を銀行で支払わなければならない,今日はもう銀行が閉まっているし,明日はこの事務所が休みなのであさって来て下さい」という思いがけない返事である。
我々は昨日国境を通過しているのであさっては3日以内という期限を過ぎてしまう。そのあたりの事情をとなりの英語をできるスタッフに一生懸命説明すると,手数料120ソムで即時処理をしてくれた。これで一安心だ。
ビシュケク行きの足を確保する
滞在2日目の仕事はオシュからビシュケク行きの交通手段を確保することだ。この区間はキルギスの大動脈となっているにもかかわらずバスの便はなく,交通機関は「乗り合いタクシー」だけだ。
Bさんと一緒に近くの旧バスターミナルに行くと,行き先別に表示があり,ビシュケク行きのブースには何台かの車が停まっている。青色のフォードのバンのそばにいる運転手に明日の出発時刻をたずねると08時発だという。ビシュケクまでの所要時間は12時間なので,これならば深夜前に宿にたどりつけそうだ。
このとき,4人組みの間ではまだ出発日について合意はできていなかった。運転手は4人もの上客をのがすまいと,日にちを決めてくれと迫る。彼と一緒に宿に戻り明日出発することに決定する。
料金は一人900ソムとまあ妥当な金額だ。運転手は「予約金1000ソムを払ってくれ」という。これはちょっと危ない。支払いの時にもめる原因にもなりそうなので領収書を作成し,彼のサインをもらう。これで明日の足は確保できた。
女性陣は調理を担当しているので僕とBさんは買出しに出かける。川の東側に沿って中央バザールが広がっており,食材の調達は簡単だ。新鮮なキューリ,トマト,メロン,コメ,卵を買って110ソム(3$)なので,この国では自炊はとても安上がりにつく。キューリやトマトも昔ながらの味でとてもなつかしいし,おいしい。
橋がランドマークとなる
連れがいるとどうしても写真は取りづらいので,昼食後は一人で町を歩いてみる。オシュの町はアク・ブーラ川に沿って南北に長く,川の西側に2本,東側に1本のメインストリートが走っている。東西方向の大きな道路は一つしかなく,この道路が3本の南北道路を結んでいる。この通りと川が交差するすぐ東側にホテル・ヌルベクがある。
川の水はきれいだ
川の水は都市の中を流れるものにしてはずいぶんきれいだ。キルギスタンの人口は500万人,ちょっとした都市の人口程度である。それでも1965年頃は250万人ほどであったので40年で2倍に増加して増加率は現在も続いている。人口が増えれば水が汚れるのは必然であり,この川の水もいつまできれいな状態を保っていられるかは不明だ。
橋の上には小さな商いをする人たちが露天を開いており,このような路上で商いをする光景は多くの場所で目にした。橋とホテル・ヌルベクの間にはテント小屋のマーケットがあり,衣類や雑貨が商われている。
キルギスは多民族国家
羊毛で作られたキルギス伝統の男性用帽子は現地では「カルパック」と呼ばれている。都会の若者はほとんどかぶることはないが,地方ではまだまだ伝統は受け継がれている。しかし,このバザールで売られていたものは実用品というよりおしゃれ用品のイメージである。
キルギスは多民族国家である。人口構成はキルギス人71%,ウズベク人14%,ロシア人8%,その他7%となっている。中央アジアは紀元前2000年頃に南ロシアから遊牧民の原アーリア人が移動してきた。彼らはさらにイラン高原,インドパンジャブ平原に進出していった。
中央アジアから中国西域に定住した原アーリア人は一般的にイラン系定住民と呼ばれている。その後,7世紀になるとチュルク系民族の勢力が東から西に広がり中央アジアではゆっくりとイラン系定住民族との混血が進み,現在のチュルク系民族が形成された。
キルギス人,ウズベク人はチュルク系民族の範疇に入る。しかし,遊牧民であったキルギス人の居住範囲は広く,中には原アーリア人の特徴を残している人も多い。カシュガルとフンジュラブの中間にあるタシュクルガンで見かけたキルギス人には青い眼と金髪の子どももいた。
11世紀にはモンゴル帝国がアジア大陸の大半を支配し,民族の混ざり合いと混血によりキルギスはさらに複雑な多民族国家となっていく。
スレイマンの岩山
一番西側の通りを少し南に歩くとスレイマンの岩山が見える。「スレイマン」は旧約聖書に出てくる古代イスラエルのソロモン王のことである。旧約聖書はイスラム教にとっても聖典とされており,イスラム圏の支配者や物語にもスレイマンの名前はよく出てくる。
山の斜面にはたくさんの洞窟があり,紀元前の岩絵があるそうだ。また,キリスト教の遺跡も発見されている。それを,地元の人々はスレイマン縁の岩山として「タフティ・スレイマン(スレイマンの玉座)」と呼んでいる。ただし,この言葉はペルシャ語であり,かってはペルシャ語は中央アジアの公用語となっていたときの名残かもしれない。
イスと床の文化が混ざり合っている
道路の近くには大シルクロード博物館があるけれど,外観を見ただけでもういいやという気になり,引き返すことにする。アク・ブーラ川の橋まで戻ると,南側に遊園地があるこことに気が付く。
入口近くに感じの良い食堂がある。手前は普通のイス席であるが,奥の方はチャイハネのような寝台スタイルになっている。地元の人たちにとっては座布団を敷いた板の上のほうがくつろげるようだ。それは日本人が畳の上で足を伸ばす感じと似ている。
チェスが盛んだ
ここは遊園地なのに意外と成人男性と老人の姿が多い。彼らの楽しみはチェスだ。10面ほどの盤が並んでおり,それらはすべてふさがっている。道路わきにある寝台の上で老人がやはりチェスを楽しんでおり,それをギャラリーが取り巻いている。
水の流れる石段
石段があり上から水が流れてくるしかけになっている。これはおもしろい文化であり,その前で記念写真を撮る人も多い。
たくさんの噴水をもつ池
となりの階段を登ると上には50m四方の大きな池がある。池といっても水はたまっていない。中にはたくさんの噴水が設置されている。床面近くからも水が噴出しており涼しさを演出している。
涼を求めて池の中に入り込んでいる人もいる。とうぜんびしょぬれになってしまうが本人は意に介していない。カメラを向けるとその若い女性はポーズをとってくれる。
周囲にはテーブルがあり,家族連れやカップルが飲み物やアイスクリームを楽しんでいる。子どもの写真を撮り,お礼にヨーヨーを作ってあげようとしたら,近くには水道の蛇口はない。
仕方がないのでさきほど池に入っていた女性に水汲みをお願いする。二人の子どもにヨーヨーを作ってあげると,近くのテーブルから子どもを連れた大人がやってきて,合計8個を作ることになった。
中央バザール
日も傾いてきたので急いで中央バザールに向かう。おもしろいのは野菜や果物を商う露店だ。売り手はすべて女性である。キルギスのおばさんは陽気で人なつっこい。カメラを向けられてもにこやかにポーズをとってくれる。それどころか撮影希望者が多くあちこちから声がかかる。
大きな袋にジャガイモやタマネギ,ニンジンなどが入っている。外観的品質は日本のものと変わりは無い。ということは同じくらいの農薬と化学肥料を使用しているということだ。旧ソ連は化学肥料が安価だったので,それを大量に使用する栽培形態がすっかり定着しているようだ。
化学肥料はともかく農薬の大量使用なら日本も負けていない。おそらく,単位面積あたりの農薬使用量は世界一であろう。無農薬,減農薬という言葉が市民権を得ても,大半の農作物は農薬から無縁ではない。
日本の消費者は「食の安全・安心」に大きな関心をもっており,産地偽装・賞味期限改ざん事件には厳しい目が注がれている。しかし,本当の食の安全とは私たちはふだん口にしている食材がどのように生産されているかにかかっている。
「食の安全・安心」も農薬をたっぷり使用した農作物を食べていてはちょっとむなしい。政府が許可した農薬は安全で,未許可の農薬は危険というような明確な境界はありえない。かといって,僕は無農薬,完全有機栽培を主張しているのではない。
そんなことをしたら日本の農業はまったく成り立たなくなる。要は程度の問題なのだ。消費者が外観的品質(見栄え)を多少犠牲にすれば,今よりずっと農薬使用量を減らした農作物が手に入るということなのだ。高価な農薬使用量が減れば生産コスト低減にもつながる。
私たちが日常的に廃棄している野菜クズや残飯をリサイクルして有機肥料をすることができれば,高価な化学肥料の使用量も減らすことができるで。少しずつ土壌の健康を取り戻すような地道な活動が結局は私たちの安全にもつながる。
キルギスの立派な野菜を見てふとそんなことを考えてしまう。売り手のおばさんたちは「さあ,買っていきなよ」と盛んに声をかけてくれる。しかし,ごめんなさい,今日の食材は午前中にもう買ってある。