中国最西端のカシュガルはシルクロードの天山南路と西域南道が交わるオアシスの町である。カシュガルの西には天山山脈が,南にはパミールが立ちはだかり,東西交易の巨大な障壁となっている。
特に標高の高いパミール山塊は氷河に覆われており,ここを通過するのは困難を極めていた。それにもかかわらず,人々は氷河のないパミールの谷を結んで,南北をつなぐルートを開拓した。
ルートをたどってみると,カシュガルからタシュクルガンに達し,ここから道は二手に分かれる。一つはアフガニスタンのワハーン回廊を通り,アフガニスタンを縦断してイラン北部を西に進むルートである。
もう一つはタシュクルガンからフンジュラブ峠を越え,カラコルムを縦断してインドに向かうルートである。僕がパキスタンから抜けてきたのはこのルートにあたる。
この道を通り中国の絹が西に運ばれ,インドで生まれた仏教が中国に伝えられた。シルクロードは物品が運ばれるとともに,文化が地球規模で伝えられた道でもある。
遠くパキスタンのガーダーラで生まれて仏像は,姿かたちを地域に合わせて変えながら,アジアの東の果てにある日本にまで伝わってきた。
チベット仏教のマンダラに描かれた大日如来は,高野山のマンダラと同じものだという。また,正倉院には西アジア由来の楽器が納められているという。遠い昔に数千km離れた地域が一本の糸で結ばれていたということは驚くべきことだ。
広大なアジア大陸は多くの民族が独自の文化を育み,それらは互いに影響しあいながら,時には他の民族を支配したり滅ぼすこともあったが,歴史を作り上げてきた。
それらをたどることは,歴史をたどることであり,民族とその文化を訪ねる旅でもある。シルクロードは現在でも私たちの知的好奇心を大いに刺激して止まない。
カシュガルからのシルクロードは南に至るものだけではなく,西の天山山脈を越え,現在のクルグスタン(キルギス),ウズベキスタン,タジキスタンともつながっていた。
旧ソ連が崩壊して中央アジアの国々は独立を果たし,現在は陸路でそれらの国を旅行することも可能になっている。僕もそのルートを旅するためにカシュガルにやってきた。
色満賓館
04時に色満賓館に到着した日本人3人はとりあえずロビーで仮眠をとる。レセプションが開くのを待ってチェックインする。幸い30元のきれいな方のドミトリーに空があった。
このドミは3部屋続きになっていて,入口から5人,3人,1人の構成になっている。僕はドミの一番奥の部屋を使用することにした。この6畳大の部屋は窓も付いており,ドアを閉めると個室になるのでとても具合が良い。
トイレとシャワーは2番目の部屋の横に付いておりとても清潔だ。ベッドの寝心地もよく,3年前の中国シルクロードでもっとも居心地の良かったところである。
色満賓館にはもう一つの3人部屋のドミがある。こちらは20元であるが,トイレは部屋の外のものを共用するスタイルだ。2種類のドミは3つの階に一つずつある。けれども,ここは国籍を問わずバックパッカー御用達となっており,よく満室になることがある。
両替と国際バスターミナル
08時になると街も目覚めるので朝食に出かける。久しぶりの餃子は茹でたものであった。小さな一口大の餃子が20個くらい入っており,さすがにすこし余してしまった。
その足で中国銀行本店に行き,ドル建てのTCをドル・キャッシュにしようとするとあっさり断られた。雲南では手数料1%で換金できたのでとてもありがたいサービスであった。同じ中国銀行でも方針を異にするのか,ここでは人民元以外は不可であった。
ドルキャッシュの換金といえば,パキスタンのラワルピンディにはTC発行元のシティ・バンクがあるので,そこでもトライしてみたがあっさり「パキスタンではできません」と断られた。
これから訪問する中央アジアや南カフカスの国ではまずTCを使用することはできないので,どこかでATMを使用する必要が出てきた。今回の旅行ではTCはほとんど役に立たず,ドル・キャッシュの入手に苦労した。
中国からキルギスのオシュに向かう国際バス(55$)は人民元でも支払いができるので,100$を両替する。宿に戻り昼寝を楽しむ。昨夜はほとんど寝れなかったので,2時過ぎまで寝てしまった。
3時過ぎに国際バスターミナルにチケットを買いに行く。窓口のところにギルギットで一緒だったBさんがいる。窓口は4時に開くというので一緒に待つことにする。Bさんは僕より2日前にスストを出発し,冠水地域ではポーターに500Rpを払って荷物を運んでもらったという。2日違いの明暗の差は大きい。
4時に窓口があき,7月2日のオシュ行きのチケットを購入する。人民元の対ドルレートはじりじりと上がっており,55$のチケットは420元であった。そこにひょっこりスストからカシュガルまで一緒だった日本人が現れた。
彼は今日のバスで出発したが途中で交通事故にあい,明朝に再出発するとのことであった。宿がないというのでBさんの部屋を紹介してあげた。Bさんはチーニーバーグの3ベッドの部屋に泊まっている。この部屋はドミ扱いとなっており料金は35元,エアコンもあり,けっこう快適そうだ。
ヘイトカーフ・ジャーミー
Bさんと一緒にウイグル人地区を歩いてみる。3年前は「イエティガー」と呼ばれていたカシュガル最大のモスクは,新しいガイドブックでは「ヘイトカーフ・ジャーミー」になっていた。
モスクの語源はアラビア語の「ひざまずく場所」を意味するマスジド(マスジディ)である。イスラムがスペインを支配したときスペイン語のメスキータとなり,それが英語ではモスク(mosque)となった。
当然,イスラーム圏では「モスク」ではなく「マスジド」が一般的に使われている。現地の人に「●●モスクはどこですか」とたずねても通じないことがある。まあ,たいていの場合は●●という固有名称の部分で理解してもらえることが多い。
イスラーム圏では町の中心部にたいてい金曜礼拝を行うための大きなモスクがあり,金曜モスク(マスジド・ジャーミー)と呼ばれている。これが短くなって「ジャーミー」となり,大きなモスクを意味するようになった。
モスクはしばしば「イスラーム寺院」と訳される。日本でなじみの深い仏教では寺院とは本尊を始めとする仏像という崇拝の対象物が置かれた建物を意味する。
しかし,偶像崇拝を厳しく禁じたイスラーム教ではモスクにはどのような形であれ崇拝の対象物は存在しない。モスクはあくまでも礼拝を行うための場所であり,建物のメッカの方角に面する壁にそれと分かるミフラーブという窪みがあるだけだ。
3年前に訪問した時は工事中のため鉄板で囲まれていた「ヘイトカーフ・ジャーミー」は工事も終了し,道路からも見えるようになっていた。もっとも,3年前の工事はモスク本体ではなく広場の周辺を整備するものであった。
現在,広場はきれいに整備され,モスクを囲むように商店街ができていた。イランのイスラーム建築物を見てから,このモスクを見ると,イランのイーワーンの形式が採用されていることが分かる。
モスクの背後は緑の多い庭園となっており,黄色のモスクとうまくつりあっている。広場には多くの中国人観光客がおり,さかんに写真を撮っている。地元のウイグルの人々は緑のそばの石の台に腰を下ろしている。
職人街で写真を配る
職人街に移動し3年前の写真を配ることにする。職人街のメインストリートはきれいに整備されていた。両側の建物で営業している工房の男性の写真はすぐに分かり引き取られた。
困ったのは子どもたちの写真だ。気の向くままに歩いて撮ったため,撮影場所がよくわからない。職人街はその裏手に居住区を抱えており,そこを正確に訪ね歩くのは困難だ。
やはり中華料理はおいしい
色満賓館には日本人がたくさんいるので夕食はみんなで中華料理をいただいた。やはり,人数が多いと料理の品数が増えるのでいろいろな味を楽しめる。食堂は間口一間,家族経営の小さなもので,中は狭いので歩道にテーブルとイスを並べている。
となりもやはり同じようなスタイルの食堂で,そちらのテーブルに坐ったり,イスを持ってくると叱られる。メニューは当然中国語のみの表記であるが,なんとなくどのような料理が出てくるか推測がつく。最初の日は3人で3皿,ごはんを付けて19元である。安いしおいしいのだから十分合格点をあげられる。こんな西の外れの町で立派な中華料理が食べられるとは感激だ。
ちょっとうがった見方をすると,この程度の食堂は化学調味料を相当量使用しているはずだ。僕の味覚がすっかりそれに慣らされてしまい,そのため化学調味料を使用している料理はみんな同じくらいおいしいと感じるのかもしれない。
僕は飲めないので食事代は10元,他の2人はビールを4本で12元,中国のビールはペットボトルのお茶や清涼飲料水と同じくらいの値段だ。ちなみに500ccのジュース類は1本3元,ちょっと大きめのメロンは5元である。
@西紅柿炒蛋:トマトと卵の炒め物
A回鍋肉:キャベツと豚肉の味噌炒め
B家常豆腐:揚げ豆腐と豚肉の炒め物
次の日の夕食会は9人で6皿,ごはんとビール6本を付けて62元となる。こうやって料理を列挙してみるとほとんどが炒め物であることに気が付く。中華料理の基本は炒め物なのだ。
@西紅柿炒蛋:トマトと卵の炒め物
A回鍋肉:キャベツと豚肉の味噌炒め
B空芯菜炒め
C青椒肉絲:ピーマンと豚肉の細切り炒め
D腰果鶏丁:鶏肉のカシューナッツ炒め
E忘れた
人数がまとまったときは中華料理となるが僕の旅行スタイルではそのようなことはめったにない。カシュガルで一人で食べるときは朝はおかゆ,包子,餃子,昼はラグマンとケバブの組み合わせが定番である。料金は朝食が2-4元,昼食が5元といったところだ。しかし,食事のときは食べるのに忙しくて,ほとんど料理の写真が残っていないのは悲しい。この地域でもっともおいしいものはと聞かれたら,迷わず,羊の串焼き(ケバブ)と答える。そのくらい中国西域の串焼きはおいしい。
2016年に「中国の”爆食い”でスーツ価格上昇?」という記事に出会った。中国の羊肉の消費量は急増し,2014年には445万トンに達しており,国内生産では賄いきれず33万トンが輸入されている。輸出産地のオーストラリアやニュージーランドでは羊毛生産から羊肉生産に切り替える農家が増え,その影響で羊毛価格が上昇しているという。中国の代表的な羊肉料理は火鍋(日本のしゃぶしゃぶに近い)だという。
ウイグル人地区で写真を配る
この季節,カシュガルでは夜が短い。外が完全に暗くなるのは北京時間の23時過ぎである。朝は07時頃には空が白み始めるので,睡眠時間を確保するのに苦労する。夕食時間も20時頃にいただくと,まだ十分に明るいので雰囲気が出ない。これも悩みの種だ。
中国は朝食で苦労したことはほとんど無い。町に出て適当に探すと朝食メニューを備えた食堂はすぐに見つかる。今日は小ぶりのどんぶりに入ったおかゆとセイロ半分の包子をいただく。これで2元なのだから人民元の価値は大変なものだ。
午前中はひたすら2日分の日記を書く。旅先のさまざまな経験も時間とともに記憶が薄らいでいく。毎日1時間くらいを日記に充てると,すばらしい自分の記録ができる。僕は夜は出歩かないで早寝して,朝は06時くらいから朝食までの時間を散歩や日記にあてている。
今回の旅行では「ボイス・レコーダー」を新たに持参した。移動中は写真が簡単には撮れないこともあるので,目に付いた風景などを音声で記録しておくと,日記を書く時に大いに役に立つ。
ドミの最奥の部屋はとても暑い。日記を書いているとついつい水分が欲しくなる。昨日,近くのスーパーで1.8リットルのブルーベリー・ジュースを買ってきたのに,もう半分くらいになっている。
午後は職人街の周辺にあるウイグル人地区を歩いてみる。子どもの写真が多いので女性が外に出ていると,「この子たちを知りませんか」と写真を見せる。だいたい3年前に歩いたと思われる道をたどってみたけれど数枚が引き取られただけだ。
それでも写真の本人が現れ,喜んでくれたときは僕もなんだか暖かい気持ちになる。職人街の通りとバザールの通りの交差点のあたりで人が集まっているので写真を取り出すと,顔見知りが次々に出てきて10枚ほどが一挙にはけた。
残りはどうやらこの近くではないので諦めることにしよう。写真配布が一段落すると近くのおじさんに呼び止められ,メロンをご馳走になる。「遠いところ,よく写真を持ってきてくれたねえ」というお礼のようだ。
夕食のためいったん宿に戻ろうと人民路を歩いていると日本語で呼び止められた。ギルギットで会ったCさんである。CさんはAさんと一緒に,色満賓館の3人部屋のドミに宿泊しているという。
さっそく,Aさんにご挨拶にうかがう。彼女は70代とは思えないくらい元気で,行動力もある。彼女のように好奇心や行動力を失わずに年を取るのは素晴らしいことだ。
スイカの切り売り
スイカ,メロン,ハミウリは大きいので1個を買うわけにはいかない。そんなときこの切り売りはとても重宝していた。どれも1切れ0.5元に調整してあるので,2切れで1元の幸せが味わえる。500cc3元のブドウジュースもいいけれど,果物の水分補給はやめられない。
2種類のパン
カシュガルでは2種類のパンを見かけた。どちらも土釜の内壁に張り付け,熾火で焼く。チュルク系民族のパンといえば円形で少し厚いものがもっとも目立つけれど,注意してみるとアンパン大の厚みのあるものにも気が付く。ただし,中国西域ではアンパン型のものの比率がずいぶん高い。
伝統楽器のヨーチンを発見
中央のおじさんが木琴のバチのようにして演奏しているのは「ヨーチン」という楽器である。中国では「揚琴(ヤンチン)」と呼ばれている。弦楽器は撥弦楽器(ギターのように弦をはじく),擦弦楽器(バイオリンのように弦を弓で擦る),打弦楽器(ピアノのように弦を打つ)の3種類に区分される。
「ヨーチン」は打弦楽器であり,台形型の箱の上に弦が数10本から200本くらい張ってあり,それを2本の竹のバチでたたく楽器である。グランドピアノの蓋を取り外したような楽器であり,そのルーツとなった楽器からピアノも生まれている。発祥はイランから中央アジアであり,モンゴル帝国の時代にほぼアジア全域に広まった。柔らかく澄んだ音が魅力的でいつか見たいと思っていたら夢がかなった。ただし,演奏の方は周囲の雑音があり楽しむことはできなかった。
日曜家畜市のにぎわい
キルギスに出発する前日,カシュガルで大きな日曜バザールが開かれる。このバザールはとても有名でカシュガルがコースに入っているツアーはたいてい日曜日をそれにあてている。
今回はちょっと趣向を変えて少し郊外で開かれている家畜市を見学に行くことにする。日本人4人でタクシーに乗って出発する。20分ほど走ったところに広場があり,牛,羊,ロバが売買されていた。
広場に通じる道路沿いにはたくさんの露店が出ている。多くは食べ物の店で,肉屋の店先には皮をはがれた羊をそのまま吊るしてある。
パン屋は土釜の中から直径10cm,真ん中がへこんだパンを取り出している。ナンのような平べったいパンだけではなくこのようなものも釜で焼くとは・・・新しい発見である。
ラグマンの店先では男性が麺を引き伸ばしていた。両腕の幅に伸ばしてから両端をまとめ再び引き伸ばす。熟練の手さばきで,この動作が2秒サイクルで進んでいく。見る見るうちに麺は何本もの束になっていく。
適当な太さのところで茹で上げ,トマトソース味のスープをかけるとラグマンが出来上がる。僕は昨日から少し腹具合が悪く,大事をとってパンだけをいただく。このパンも焼きたては本当に香ばしい。
日曜家畜市
家畜市は会場も広いが人出もすごい。牛は組んだ鉄パイプにつながれており,周りに人だかりのできているものもある。背の高さの目線では会場の雰囲気がつかみきれないので,鉄パイプの上に立ち,周辺の雰囲気を写真に収める。
この家畜市には日本から写真愛好家の一行がツアーでやってきていた。さすがに立派なカメラを使用しており,複数のカメラを下げている人もいる。この世界ではまだフィルムカメラが主流で,ある人は日本から200本のフィルムを持参していると話してくれた。
彼らの中の女性が僕に習ってパイプの上から撮影している。やはり,高いところから全貌を撮りたがるのは写真好きの性のようだ。欧米人の観光客もたくさん来ており,マイナーと思っていた家畜市がけっこうメジャーであることを認識させられた。
羊と山羊は種類が多い
牛の隣は羊が並べられている。こちらの扱いは少々気の毒だ。毛を刈られた羊たちは横一列に並べられ,輪のついたロープに首を通されほとんど身動きできない状態だ。
毛を刈り取られた羊の尻が一列に並んでるのを見て2つのことに気が付いた。まず尻尾が無いこと,そして大きな尻たぶである。尻たぶの部分はまだ毛が残っており,まるで大きなぼんぼりを付けているようだ。
羊の尻尾はただぶら下がっているだけでまったく役に立たないという。それどころか,毛が伸びるとふん尿で汚れて不衛生となる。そのため,生後まもなく尻尾を切り落とすという。また尻尾の根本を紐できつく縛ると,血行が止まり自然に落ちるという方法もあるそうだ。
尻たぶは脂肪が多く,特別の部位として食用になるという。そういえば,「美味しんぼ」ではボンボチ(鶏の尻の先端部分,ほとんど脂肪からなる)の話があった。マグロのトロ,霜降りの牛肉など日本人は脂肪を含む肉を好むようなので,羊の尻たぶも上手に調理すれば好まれるのでは…。
広場の端では食べ物の露店があり,中にハミ瓜の切り売りがある。地元の人も暑さで喉が渇くのか売れ行きは上々で列ができている。僕も1元を出して二切れをいただく。
ハミ瓜の本体はラグビーボールほどもあり一人ではとても買う気になれないので,この切り身はありがたい。長手方向にうまくナイフを入れると,中の種の部分がそのまま残り,切り身の部分だけを取ることができる。
この技はサマルカンドでハミ瓜をみんなで食べるときとても役にたった。味はもちろん素晴らしいものだ。メロンほど糖度は高くないので,水分補給には最適の果物の一つだ。
家畜市|ロバの市
ここではロバ車は荷物を運ぶための重要な手段であり,一種の自家用車の役割も果たしている。この家畜市場にやってくるときもロバ車を利用し,周辺に駐車している。
そのためロバは売り物と自家用の区別がつかない状態でつながれていた。荷馬車から外され,特定の杭につながれているものが売り物なのだろう。残りのものは荷車の上の青草を無心に食んでおり,これも絵になる。
ひっくり返ったロバ車を起こす
別のものは首のところには飼い葉の入った袋を取り付けてあり,ロバは口をその中に突っ込んで食べている。僕が子どもの頃は日本でも馬車が活躍しており,一休みの時にそのようにして飼い葉を食べていた。
物音がしたのでそちらを見ると,ロバ車が横倒しになっている。そのためロバ君も一緒に倒れてもがいている。二人の男性が荷車を引き起こすと,ロバは自力で立ち上がった。あんなものがどうして転ぶのかな。
暑さ,喧騒,砂ぼこり,空腹のため待ち合わせ場所に戻り,近くの露店のゴザに坐らせてもらい一息つく。若い二人はこれから日曜バザールに行くという。年寄り二人はバスで町に戻り,2時間ほど昼寝を楽しむ。