香格里拉はシャングリラと発音する。「シャングリラ」はイギリスの小説家ジェームス・ヒルトンが1933年に小説「失われた地平線」の中に書いたチベット奥地にある「桃源郷」として初めて使用された。この小説はベストセラーになり,それ以降シャングリラは桃源郷や理想社会の代名詞となった。
シャングリラが実在のどの地域に該当するかについては,いろいろな説が発表されている。香格里拉に類似する「香格里」村の石碑が麗江近郊で発見されているので麗江だと言う説,高山植物が咲き乱れる高原の中甸,玉龍第三国の伝説の舞台である玉龍雪山麓,ナシ族の故郷の白水台,女人国の濾沽湖だという説もある。
2002年5月中国政府は「中甸」がシャングリラであることを正式に認定し,町の名前は「香格里拉」と改名した。この地域の風景が小説の中の記述とほぼ一致すること,中甸を表す古チベット語の意味がシャングリラの意味と同様なことなどがその理由である。
香格里拉(中甸)は標高3200m,麗江から北に150kmのところに位置する迪慶チベット族自治州の州都である。自治州の面積は約2.4万km2,人口は約32万人である。
チベット族,リス族,漢族,ナシ族などが暮らしており,漢族の割合は15%に過ぎない。北西部には雲南の最高峰6740mの梅里雪山があり,この他にも6000mを越える高峰が12もある。
香格里拉(中甸)は現在,開発が急ピッチで進められている。特に旧市街は伝統的な家屋が復元されており,第二の麗江を狙っているようだ。宿は数軒の高級ホテルをはじめたくさんあるが,居心地のよい安宿は少ない。
麗江(176km)→香格里拉 移動
麗江(08:20)→橋頭(10:20)→香格里拉(12:40)とバスで移動する。麗江の古城香格韵客楼のおばさんは早起きをして朝食のチャーハンを作ってくれた。この宿はおばさんの暖かいもてなしで大人気である。
今朝も旅行者のチケットを買うついでだと,麗江客運站まで使用人の女の子を付けてくれた。出発するときは一路平安のお守り,水,バナナまでいただいた。おまけに客運站までのバス代を彼女に持たせてくれた。本当にすばらしいもてなしの心である。
香格里拉行きのチケットは70元,それに6元の保険が付いている。今日のルートはそんなに危険なのかな。
大型バスは定刻に出発した。今日も晴天で玉龍雪山がくっきりと見える。10時から金沙江沿いの道になる。石鼓鎮と同じようにゆったりとした流れである。
橋頭は10:20に通過した。ちょっとした町で宿もいくつかあるようだ。橋頭の標高は1800m,ここからは小中甸川沿いの道なので目的地もそれほど高くはないだろと思っていたら大まちがいであった。
橋頭から一気に1000mの上りが始まる。バスは川沿いの道をひたすら高度を上げていく。大きな工事区間もある,ダム湖をもった小さな水力発電所も通過した。
谷沿いの道はいつしか3000mを越える高原の道になる。山の上部を削り両側が山側の斜面となっている区間もある。緯度が低いためかこの標高でも森林限界には達していない。
周囲の斜面には原生林の伐採跡が見られる。チベット仏教の仏塔の背後の山も森林となっている。前方に雪山が見えるようになり,風景はよりチベット的になる。バスは香格里拉に到着した。
ユースホステルのドミ
香格里拉客運站は新しくとても立派だ。バスから降りるとタクシーがやってくる。ロンプラを持っているヨーロピアンのカップルと相談して旧市街に近いチベタンホテルに行く。チベタンホテルの建物は立派で良い部屋は80元もする。20元のドミはちょっとひどい部屋なので次をあたることにする。
近くにユースホステルがあったので20元のドミを見せてもらう。2段ベッドが3つあるだけの簡素な部屋であるが寝具も清潔そうだし,電気毛布もあるのでここに決定する。
トイレは共同で清潔である。シャワーはまきで沸かすボイラーから供給されるので日中はお湯が使用できるはずだ。もっとも,寒さのため僕はとてもシャワーを使用する気にはならなかった。
香格里拉の新市街
長袖2枚と冬用のフリースを着込み外に出る。手持ちの衣類ではこれ以上の防寒態勢はとれない。しかし標高が3200mと高いうえ,天気が悪いのでこれでもまだ寒い。メインストリートの長征路沿いは比較的立派な建物が並んでおり,歩道も整備されている。この道路と交差する道路もきれいに舗装されている。街づくりの基本はまず道路整備のようだ。
ユースホステルの前にある食堂で少し遅い朝食をいただく。驚いたことに日本語が聞こえる。僕と同世代の男性が2人でメニューを検討している。彼らはユースホステルの個室に泊まっており,今回は香格里拉と白水台を回るつもりだという。
日本の高度成長を支え,新しい価値観を作り出してきた団塊の世代(僕もそうだけど)もそろそろ定年を迎える。彼らがどのような定年後の生活を送るかは興味のあるところだ。少子高齢化の進む日本では彼らの価値観が日本の経済に大きな影響を与えることになるだろう。
3人の民族服を着たチベット系のおばさんたちが歩道を歩いてくる。カメラを向けても特に嫌がるそぶりは見せない。パン屋の店先では2人の男女がクッキーの型をとっている。出来上がったものは鉄製のバットに入れており,この状態でパン屋に持ち込むようだ。
伝統的な家屋を建てる
街は伝統的な家屋の建築ラッシュとなっている。伝統的な家屋を建てるには太い通し柱を何本も必要とする。最初に見た建築現場では大きなものは直径1m,小さなものでも直径50cmほどある。
3階建ての場合,長さはどちらも13mほどである。この円筒形の通し柱を横方向に6本,それを3列並べて基本骨格を造っていく。この地域独特のみごとな木造軸組み工法である。
最前列の柱には工事の安全を祈願するものであろうかお札が貼ってある。各フロアの天井部分は3層になっており,上のものほど外にせり出しているような装飾になっている。
その下には龍や鳳凰をモチーフにした彫り物が横一列に飾られている。新しい木肌が清清しい。このサイズの家はもちろん民家ではなく土産物屋にでもなるのであろう。
床はコンクリートで固め,最前列の通し柱は石の台の上に置かれている。左右の壁は一種の日干しレンガを使用している。ただし壁の上部はコンクリートになっているので,コンクリートの外側に泥を塗り,伝統的な家屋に見せているのかもしれない。
それにしても,これほどの大木が惜しげもなく新しい家屋に使用されているのには驚かされる。この街の周辺は豊かな森林があるにちがいない。
道路の横にチョルテンが立っている
この街には立ち寄る計画が無かったので地図を持ち合わせていない。道路があるので適当に西の方に歩き出す。道路の横にチョルテン(チベット仏教の仏塔)が立っている。
チョルテンはチベット仏教圏においてよく見かける。それ自体が信仰の対象になっており,早朝や夕方にマニ車を持った人々がその周りを時計回りに回っているのを目にする。
ブッダの入滅後,遺体は荼毘にふされ,遺骨は八つに分けられ当時の有力者が遺骨(仏舎利)を納める建造物を造った。古代インドの遺骨をおさめた墳墓がその起源とされている。当初のものは土を盛っただけのごく簡単なものであったが,次第にストゥーパとして形式を整えていった。
基本的な構造としては,方形の基壇の上に半円形の覆鉢が築かれ,さらにその上に平頭と相輪が置かれるものである。インドで仏舎利を納めるために建造されたストゥーパは仏教の伝来とともに変化し,スリランカ,ミャンマー,チベットでは独自の発展をとげた。
僕が訪れたとき,仏塔の周りにはだれもおらず,基壇の正面にお供え物が置かれているだけだ。空はどんよりと曇り,寒さと酸素不足で気分はすぐれない。少し歩くと前方に山が見えてくる。周囲の家は白壁,瓦屋根で庇が大きく前に出ている。
チベット牛とも呼ばれるヤクの群れが歩いてくる
チベット牛とも呼ばれるヤクの群れがこちらに歩いてくる。黒く長い毛がヤクの特徴である。中には部分的に白毛のものもいる。ヤクはチベット語に由来するが,オスだけ「ヤク」と呼ばれメスは「ビ」と呼ばれている。
ヤクは体重500kg程度になる高地に適応した牛の仲間である。6000m程度の高地も生息することができ,香格里拉の標高3200mはヤクにとっては限界的に低い標高であろう。ヤクはヒマラヤ,カラコルム,天山などの山系周辺に分布しているが,チベットのココシリなどを除くと野生種は少なくなっている。
保温のためヤクの体は黒く長い毛に覆われている。季節によって毛が生え変わることはないので暑さには弱い。オス,メス共に長さ1mにもなる長い角をもっている。鳴き声は「モー」ではなく低いうなり声を発する。
チベットの人々にとっては高地に適応したヤクは大切な,そしてほとんど唯一といってよい家畜である。ヤクの乳からはバターを作り,それはバター茶などの食用になるとともに,寺院の灯明にも使用される。また,糞は乾かして燃料として使用される。
ヤクたちは僕を見るとかなり警戒した様子で畑を横切り,山の方に向かっていった。おとなしそうな動物であるが,あの大きさなので少し怖い。
広大なヤクの放牧地が広がる
しばらく歩くと家が無くなり,道路の下は広い平地になり,遠くには地面の色に溶け込むような集落が見える。その背後の山の上部は白くなっている。4月だというのに寂しげな冬景色である。
平地のところどころに黒い物体が動いている。放牧中のヤクである。一面茶色に見える大地にもわずかな緑があるらしい。道路の下の家には番犬がおり,50mも離れている僕に向かって吠えている。下に降りていくのは危険のようだ。この風景はずっと先まで続いているので引き返すことにする。
ここでも新しい家が建てられている
街に戻るとき工事中の家がある。基本的な造りは前の家と同じである。チベット人の女性たちが土を運び水をかけてこねている。この高地での力仕事は慣れているとはいえ大変だろう。僕は坂道を歩いているだけでもときどき呼吸を整えなければならない。
パン屋の前に二組の親子がいる
パン屋の前には2人のチベット人女性と,2人の子どもたちがいる。子どもたちの写真を撮り,画像を見せてあげると4人の写真を撮ってくれ要求される。プリントはあげられないが,彼女たちにとってささかな思い出になることだろう。
昼ごろここで買った非常食のパンを一緒に食べる。パン屋の横に水道の蛇口があったので水をもらい,ヨーヨーを作り,子どもたちに遊び方を教えてあげる。思いがけないプレゼントに子どもたちも女性たちも喜んでくれた。
幼稚園児の寒中散歩
近くの道路を先生に引率された20人ほどの幼稚園児が歩いている。ほとんどの子どもたちが冬用の防寒服を着込んでいる。この寒いのに散歩であろうか。もっとも,子どもたちは寒さ知らずで散歩を楽しんでいるようだ。やはり,この環境で育った子どもたちは強い。
カメラを向けると行列が止まる。男の子はほとんど坊主頭である。中には前髪だけを少し伸ばしたおもしろい髪型の子どももいる。ピース・サインでポーズをとる子どもたちの笑顔がファインダーの中に広がる。
旧市街の家並み
宿の南側には伝統的な家屋が残っている。ここも新しい家の建築ラッシュとなっている。近くには製材所があり通し柱となる太い丸太と角材が並べられている。ここでは事前に組み立て用の加工が行われている。
この小さな町としては建築中の家屋がずいぶんたくさんある。香格里拉というすばらしい名まえを許されたので観光開発が急ピッチで進められており,新しい伝統的な家屋はそのため必要なのだろう。
少し先は石畳となっており,古い木造家屋が密集しているかと思えば,その先で交差する通りは新しい家が並んでいる。民宿でも開けそうな大きさである。ここを抜けると急に田舎の風景に変わる。道路の両側は高さ1.5mくらいの土塀となり,その内側には干草を作るためのハザが並んでいる。
斜面の上から旧市街を眺める
少しずつ斜面が上りになり,ときどき呼吸を整えなければならない。小さな丘の斜面からは街を一望できる。手前に瓦屋根の旧市街があり,その向こうに新市街が広がっている。旧市街の中心部には直径100mくらいの小さな丘があり,その上には寺院のような建物がある。
ヤクの毛で作った魔除けの道具?
ぽつり,ぽつりと雨が落ちてきたので旧市街に戻る。何軒かの土産物屋が営業している。店の前にはヤクの毛をすいて束ねた白と黒の飾りが下がっている。売り物ではないので何か意味のあるものなのかもしれない。
かじかんだ手を暖めながら日記を進める
宿に戻り食堂の横にある炊事用のストーブのそばで日記を書く。ストーブのある部屋の中でも冬着はとても脱げない。同じ漢字文化圏のせいか従業員の女の子が興味ぶかそうに日記を覗き込んでいる。
夕方になるとどんどん気温が下がる。ストーブにときどき手をかざしてかじかんだ手を暖めながら日記を進める。さすがに4月初旬の香格里拉は寒すぎると自省する。夜は電気毛布があるので軽い布団でも気持ちよく眠れた。翌日はみぞれになり早々に香格里拉を撤退することになった。