麗江は大理から北に約200kmのところに位置し,麗江ナシ族自治県の中心地である。自治県の面積は約7500km2,そのうち平地はわずか5%しかない。人口はおよそ30万人で,そのうち6割を占めるナシ族をはじめ,漢族,ペー族,イ族,リス族が居住している。
麗江は標高2400m,年間平均気温は6-18℃と過ごしやすい。モンスーン気候帯に属し,雨は5月から10月に集中している。麗江は古くから歴代王朝の地方行政機関が置かれたところであり,成都からミャンマーに抜ける古代の西南シルクロードの要衝の地でもある。
街の中心部は麗江故城とも呼ばれ南宋時代に創建されたもので,800年の歴史をもっている。残念ながら1996年の大地震で多くの古い建築物が倒壊してしまった。
現在の麗江は古い町並みを再現した麗江故城を近代的な新市街が取り囲む構造になっている。1997年に世界遺産に登録され,中国人の団体観光客が大挙して押し寄せるようになった。
六庫(241km)→下関(190km)→麗江移動
六庫(08:20)→下関(13:00)→下関北站(13:40)→麗江(17:15)とバスを乗り継いで移動する。六庫の汽車站に着くと07:30のバスは出たばかりなので,となりのミニバスのチケットを買う。中国の交通事情は年々よくなっており,このミニバスもきれいで車内にはゴミ箱も置かれている。
09:50に大きな町を通る,古い町並みが残されており感じは良い。ここでは市が開かれており,荷物車のため片側交互通行である。11時に瀾滄江と思われる大きな川沿いの道になる。川との標高差が大きいので景色は良い。
じきに高速道路に入り立派な橋を渡る。標高が2000m前後の高地は山岳民族の世界になっており,斜面農業が随所で見られる。それにしてもこのような山間地に片側2車線の高速道路をよく通したものだ。日本の中央高速より地理的条件は厳しいだろう。周辺の山には樹木が少ない。その中で緑に覆われた山もある。ほとんど若木なのでここ10年くらいの植林の成果であろう。
バスは下関客運站に到着したらしい。しかし,この汽車站からは麗江行きは出ていない。地元の人にたずねると北站から出ているとのことでタクシーで行くことにする。タクシーは西耳河を越えて1kmほど先にある大きな汽車站に着いた。窓口でチケットを買うと13:50発になっておりあと10分もない。昼食もトイレもおあずけである。
大型バスは定刻に出発した。15時台には土壁・瓦屋根の家が集まった村をいくつか通過した。周辺の農地と合わせ写真に残しておきたい風景である。16時台は2200-2300mの高原を走る。周囲は一面の麦畑で,畦がつけられているので表作はコメだろうと推測する。5時に高速道路に入る。高速道路にはガードレールが付いており,その外側には農作業用の軽車両専用の道路がある。
周辺は菜の花が満開である。うまい具合にバスが止まってくれたので写真が撮れた。玉龍雪山も遠くに見える。雪を頂いた美しい山だ。バスは河走廊と書かれた小さな汽車站に到着した。
古城香格韵客楼
麗江の宿は古城香格韵客楼と決めていた。3年前に昆明のドミトリーで日本人旅行者から宿の名刺を受け取っていたからだ。彼の話ではとても居心地が良いらしい。
まず,汽車站で聞くとすぐそばの古い家屋の並ぶ通りを行きなさいと教えられる。道は四方街に出たので表示を頼りに五一街に入る。しばらく歩き2回地元の人に聞いてようやくたどりついた。
門をくぐるとおばさんが飛んできて部屋の手配をしてくれる。個室を希望したら2階の部屋に案内される。35元の部屋は6畳,2ベッド,電気毛布付き,T/Sは共同,清潔である。また20元のドミトリーもある。
インターネットはいつでも無料で使用可能だが,大勢の人が使うため30分くらいで切り上げざるを得ない。残念ながら日本語の入力はできない。
食事は朝食が3元,夕食が8元である。朝食は味の無いパン,目玉焼き,トマトの簡単メニューであるが,夕食はテーブルを囲んだ人数分の料理が出てくる。旅の話をしながら,ついつい食べ過ぎてしまう。
このおばさんは親切で英語もできるので一度泊まると次も必ず行きたくなる。中旬からの帰りにもう一度泊まったときも大歓迎をされた。もちろん人によって評価は異なるだろうが,僕にとっては雲南で一番居心地のよい宿の一つである。
欧米人がメインのこの宿はロンプラには掲載されていない。なんでもおばさんは掲載を断ったそうだ。ここを訪れる旅行者の多くは,旅行者同士の情報交換や情報ノートで知った人たちである。僕もチェックアウトのとき,名刺を何枚かいただいたので日本人旅行者に紹介しておいた。
ナシ族の女性たちのパフォーマンス
布団が少し重かったが良く寝られた。この季節はもう電気毛布は不要である。朝食をいただき,今日は白沙周辺を回ろうと宿を出る。五一街の土産物屋はまだ閉まっている。大石橋の周りはもう観光客が動き回っている。
四方街に出ると民族服のナシのお年寄りが丸くなり,音楽に合わせてステップを踏んでいる。ありがたく写真を撮らせていただく。彼女たちの服装は地味な藍染であるが,背中に特徴がある。
背中にエプロンを背負っているという表現が分かりやすい。エプロンには2本の紐が付いておりこれを肩越しに交差させ,腰の後ろで結んでいる。エプロンの上部は黒,下部は白い布が使用されている。白布の少し上には7つの丸い布が横一列に並んでいる。
これは北斗七星を表しており,白い布は本来羊の皮で作るものなので「七星羊皮」と呼ばれている。その意味するところは,ナシの女性は朝は星の出ているうちから,夜は星の出るまでよく働くということらしい。
女性たちはカードゲームに興じている
玉龍橋の西側で日本語入力のできるネット屋を見つけメールを出し,日本のニュースをチェックする。東大街を抜けて四方街に出る手前でナシのおばあさんたちが集まってカードゲームをしている。
マージャンのピンズのような図形が上下に描かれた何種類かのカードを使用している。しばらく見ていたがゲームのルールは全く分からない。
用水路の両側
四方街の西側には用水路が流れている。1.5kmほど北にある黒龍潭から流れてくる水は澄んでいるが,生活雑排水が流れ込むため藻が発生している。水路の両側にレストラン,カフェが並んでいる。客引きのため若い男女が華やかな民族衣装で店の前に並んでいる。
店の軒先には何段にもなった赤い提灯が吊るされており,古い家並みによくマッチしている。ナシ族の伝統文字である東巴文(トンパ文字)で記された看板もある。
四方街から北に向かう道が東大街である。きれいな石畳の道で古城のメインストリートである。あのゴミを捨てまくる中国人が大挙して押し寄せるにもかかわらず,この通りはゴミ一つ落ちていない。道路の広い両側はほとんど土産物屋である。
世界遺産登録記念碑
東大街をまっすぐ北上すると玉龍橋前の広場に出る。ここには麗江のシンボルになっている巨大水車が回っており,その近くには世界遺産登録記念碑がある。
玉泉公園正門,入場料は60元もする
ここから水路沿いに北に行くと玉泉公園の入口の門に出る。しかし,入場料は60元もするのであっさりあきらめてミニバスを探しながら民主路に南に向かう。
毛沢東の像が人々を見下ろしている
毛沢東像の前の広場にミニバスが何台か停まっている。白沙と表示されたものはないので,雲杉坪行きのものに白沙とたずねると5元だという。
白沙に移動すると玉龍雪山がくっきり見える
ミニバスは片側2車線の立派な道路を走り,白沙まで2kmの分岐点で僕と中国人のカップルを降ろした。中国人はなにやら運転手に文句を言っていたが,この分岐点は玉龍雪山のビューポイントになっているので僕としては文句は無い。
今日は天気が良く,雲がかかっていないので標高5596mの玉龍雪山がくっきり見える。障害物の少ない場所を選んで何枚か写真を撮る。午後になると雲が出てきてしまったので午前中に撮れたのはラッキーであった。平地からそのまま立ち上がる玉龍雪山の雄姿は心に残る風景だ。
トウモロコシを干しているのだがまじないのように見える
白沙壁画の標識があり入口で15元の入場券を買う
分岐点から白沙村の方に歩いて行く。道路の左側は小麦が豊に稔っている。古い町並みが保存されている村に到着する。「白沙壁画」の標識があり,入口で15元の入場券を買う。
木氏土司歴史博物館
彩色が施された立派な門をくぐると,桃,梨,八重桜の花が咲いている。植樹されたばかりの木々は新芽を出している。ここには木氏土司歴史博物館があり,古い時代の地域の人々の風俗がある程度分かるようになっている。
壁画のある大宝積殿
壁画のある大宝積殿の入口には樹齢500年といわれるタマリスクの古樹が何本かの木の台に支えられて花をつけている。タクラマカンで見たときの鮮やかな赤紫に比べて,ずいぶんくすんだ色である。中庭には藤棚があり,こちらは見事な花盛りになっている。
内部にある明,清代の大きな壁画は保存所帯もよく,色もあせていない。壁画は撮影禁止なので外から建物と一緒に撮らせてもらう。正面のものは大乗仏教とチベット仏教を題材にしたものだろう。
文化大革命のとき白沙村の壁画は大きな被害を受けた。こころある人たちは大宝積殿の壁画に新聞紙を被せてカモフラージュし,入口に毛沢東像を置いて紅衛兵の進入を防いだという。
ドクター・フーの診療所
壁画の建物から出ると土産物屋の並ぶ通りに出る。ここを抜けるとドクター・フーの診療所がある。診療所の前に新聞等が飾ってあったのでそれと分かった。外から写真を撮ろうとしたら,偶然本人が現れた。先生に招かれ息子さんから薬草茶をいただく。
和士秀先生は1923年生まれ,ナシ族に伝わる知識をもとに,実際に100種類以上の薬草の効能を試し,独自の治療方法を開拓した。そして中国漢方医の名医となり,多くの患者の治療を行ってきた。
彼はお金を持っていない患者からは治療費をとらなかった。しかし,どういうことか文化大革命ではスパイ容疑で裁判にかけられるという苦難も味わう。
1985年に彼は自分の小さな家に「麗江玉龍雪山本草診所」を開設し,息子さん夫婦と一緒に10数万人を治療してきた。この中には4万人の外国人も含まれている。
「治療費は患者が払える範囲で払えばよい」という方針で,昔と同じように貧しい人たちには無料で治療を施している。診療所には多数の海外からのお礼の手紙や海外で出版された著書も展示されている。その中には旅行人編集長蔵前仁氏がここを訪ねたときの日記のコピーもある。
その先生は83才の今も元気で,貧しい人々のために薬を出している。日本語のできる先生の息子さんからたくさんのエピソードを聞き,薬草茶のお礼を言って診療所を後にした。いつまでも元気で人助けを続けていただきたい。
土産物の風鈴,風鈴は日本・中国どちらの文化なのかな
伝統的な木造家屋は基本的に軸組工法である
白沙村を後にしてその先の向陽村に向かう。伝統的な木造家屋の向こうに少し雲に隠れた玉龍雪山がそびえている。建設中の家があるので見学させてもらった。基本的には木造軸組工法であるが通し柱から飛び出している部分があるため複雑な構造になっている。柱を組むときに釘はまったく使用していない。
職人というか助っ人というか男性たちは昼食の時間である。蒸しパン,豚肉の炒め物,豆腐の炒め物などがテーブルの上に並んでいる。僕も家人に招かれてごちそうになる。蒸しパンはとてもボリュームがあり1個食べると十分だ。お礼を言って先に進む。
塀の内側はこのようになっている
この辺りの家は建物の壁と塀で囲われ,外からは見えないようになっている。家は基本的に木造であるが,左右あるいは外側の壁は泥を固めたブロックを積み上げたものである。塀も同じように泥のブロックを積み上げ,雨から守るためか上に瓦を置いている。
家と塀に囲まれた中庭が生活の場になっており,家も中庭にはオープンである。出入り口は1ヶ所の門だけである。家は通常L字型に作られるが,コの字型になっている例もある。
集落の裏手には麦と菜の花の畑が広がっている
集落の裏手には麦と菜の花の畑が広がっている。麦と菜の花はどちらも半々なので,仮に上から見たら畑は黄色と緑に塗り分けられていることだろう。それにしてもこれだけの菜の花は何のために栽培しているのであろう。油をとるのか,家畜の飼料にするのか,緑肥にするのか,この謎をいつか解いてみたいものだ。
菜の花といえば雲南省は中国の菜種の1/4を産出している。その中心地は昆明から東に200kmほどいったところにある羅平県である。ここの菜の花畑は500km2ほどもあるというのだから規模がすごい。
石灰岩地帯特有の円錐形の山々が林立しており,平地はすべて菜の花畑になっている。1月下旬から3月上旬にかけて石灰岩の山が黄色の海に浮かんでいる島のように見えるという。
この菜の花を求めて中国全土から養蜂家が羅平に集まるという。また,黄色の海を見るため海外からも大勢の観光客が訪れている。不幸なことに僕は菜の花の時期に雲南に行ったことがないので,このすごい景色は目にしていない。
ナシ古楽の老音楽師
村の家も見たし,菜の花畑も見たし,そろそろ帰ろうとすると,村の中で見事なあごひげを生やした老人に声をかけられ彼の家におじゃますることになった。お茶とくるみをいただきながら老人のアルバムを見せていただく。
何人かの人たちと楽器を演奏しているところが写っている。彼はナシ族古典音楽の演奏者だったようだ。家の壁には二弦の胡弓(二胡)が飾られている。
ナシ古楽はナシ族に伝承されてきた民族音楽で,「中国音楽の生きた化石」と言われるほどその起源は古い。元・明時代に雲南省に入ってきた古い楽曲とナシ族の演奏技法が融合したものといわれている。現在は麗江の劇場で演奏会が開かれている。ただし,チケットは100-140元ととても高い。
文化大革命のときはナシ古楽も弾圧・破壊の対象となった。白沙の古楽集団のメンバーは楽器を土中に埋めて狂気の紅衛兵から守ったという。
和士秀先生,白沙壁画,ナシ古典音楽など現在この地域の宝ともいうべきものが文化大革命の時代には弾圧の対象になったのだ。権力奪取のため古い文化と秩序をすべて破壊しようとした毛沢東の狂気は雲南の僻地にも大きな傷跡を残した。
お茶のお礼を言って老人の家を辞去する。帰り道で音楽が聞こえてきたのでそちらの方に歩いて行く。家の門が開いており,中で年配の男性たちが演奏している。さきほど老人の家で見かけた二胡を弾いている人もいる。許可をもらって写真を撮っていると,くだんの老人が入ってきた。彼はこの楽団の長老だったのだ。
故城のビューポイント
今日は石鼓に行くため民主路と南過境路の交差点にある長距離BSを目指していた。四方街の西側の山を越えると民主路に出るとふんでそちらに歩き出す。
道はどんどん上りになり万古楼の表示がある。見晴らしのいいところに有料の展望台がある。といっても民家の物干し台程度のものである。ここからは麗江故城の古い建物が一望できる。
故城内には4000戸を越える伝統家屋が密集しており,まさしく「甍の波」という表現がぴったりである。この風景は麗江で撮りたいと思っていたものなのでいろいろな方向で撮ってみた。
獅子山入口からは玉龍雪山が良く見える
さらに西に行くと獅子山の入口がある。ここからは玉龍雪山が良く見える。今日は頂上付近に少し雲が出ており,いかにも高山らしい趣である。新市街の背後に雪山がそびえる構図で写真を撮る。今日は思いがけず2つのビューポイントが見つかったのでごきげんである。
石鼓と長江第一湾
ここから細い道を下ると民主路に出て,そこを左に行くと麗江客運站に出る。次の目的地である濾沽湖行きのバスは朝に1本あるだけだ。その手前の寧浪までは1時間に1本程度出ている。巨旬行きのカウンターで石鼓行きのチケットを買う。
ミニバスは2600mの峠を越えて1800mの石鼓に80分で到着した。ここもナシ族の村で幹線道路の山側には瓦屋根の集落がある。反対側には金沙江(長江の上流)が流れている。チベット高原,横断山脈を下ってきた金沙江はこのあたりではゆったりとした流れになっている。
西北からの流れは石鼓鎮のところで固い岩盤にさえぎられ東北に向きを変える。この大きく湾曲した流れは「長江第一湾」と呼ばれ観光名所になっている。
長江第一湾はこの高さからはまったく実感できない
しかし直径1kmくらいのカーブなのでここの全景を見るのは容易ではない。石鼓港と書かれた門から眺めても湾曲した流れの感じはほとんど分からない。
ビューポイントから見る長江第一湾
近くの山に登ろうとするが適当な場所が無い。地元のおばさんが「第一湾全景...」と書かれた小さな看板を教えてくれた。上りの道はいくつかに分かれており,試行錯誤の末にビューポイントにたどりついた。
乾季のため大きな中洲ができており,風景としてはいまいちである。またコンパクトカメラでは広角に限界があり全景は難しい。
この山の別な位置からは石鼓鎮の村が良く見える。2つの山塊に挟まれた平地は緑の農地になっており,その両側の山沿いに土壁,瓦屋根の家屋が密集している。この風景もなかなかのものだ。
石鼓村|菜の花はすでに実を結んでいた
下に降りるとワゴン車の客引きにつかまり麗江客運站に戻る。客運站の前にはジャイモの炭火焼があり1個(1元)いただく。かなり大きなイモにもかかわらず中までちゃんと火が通っている。これはおいしい。