今日歩いたコース
滞在2日目は宮里→仲本→黒島小中学校→東筋→黒島灯台→仲本海岸→宮里(昼食休憩)→保慶海岸→西の浜→黒島港→黒島小中学校→宮里と歩いた。
滞在2日目は宮里→仲本→黒島小中学校→東筋→黒島灯台→仲本海岸→宮里(昼食休憩)→保慶海岸→西の浜→黒島港→黒島小中学校→宮里と歩いた。
ビロウ(Livistona chinensis)はヤシ科の常緑高木であり,沖縄ではクバと呼ばれる。ビロウの名はビンロウ(檳榔,Areca catechu)と混同されたことによる。しかし,クバとビンロウでは葉の形がまったく異なっており,どうしてそのような混同が起こったのか不思議である。
東アジアの亜熱帯の海岸付近に自生し,日本では九州・四国の暖地と沖縄に見られる。樹形が類似するシュロは本土でもよく知られているが,クバの知名度は低い。しかし,八重山では大きな切れ込みの入った掌状の葉を扇やみのに利用し,繊維を編んで草鞋を作るなど重要な植物であった。
宮里から東筋にまっすぐ行く道は草原の中に車のわだちが残されている頼りない道であった。島全体が牧草地になっているのでこのような道になる。黒島がこのような牧場の島となった歴史的な経過については「小さな島から見いだす大きな可能性(黒島牛まつり実行委員会)」のサイトに詳しく掲載されている。ここでは同サイトの情報を簡略して記すことにする。
黒島は琉球石灰岩が全島を覆っており,表土がきわめて薄いこと,農業用水に乏しいことから農業には不向きな地質であった。そのため,肉用牛の放牧飼育が以前から定着していた。
本土復帰直前の昭和46年に八重山地域は大旱魃に見舞われ,農作物は全滅し,牧草の枯死により家畜も次々と死んでいくという大災害となった。昭和21年には1,600人であった黒島の人口はこの大干ばつを境に急速に減少し,昭和47年には337人となり,生活保護率も42%と厳しい状況であった。
過疎化が進む中,肉用牛の振興を図るため,昭和47年から国庫補助事業によって飼料生産基盤の整備が推進され,土地の集約化により経営規模の拡大も進められた。昭和50年には西表島からの海底送水が実現し,黒島の畜産事業は急速に拡大していった。
牧草地を整備・拡大するにあたって障害となっていたのは琉球石灰岩の露頭であった。畜産基地建設事業においてはスタビライザー工法という画期的な技術を駆使し,硬い琉球石灰岩を粉砕し,土と混ぜ合わせることにより,平らで立派な牧草地にすることができた。この事業の結果が現在の黒島の風景となっており,機械利用による草地管理が可能になった。
黒島の草地は798haでありこれは島の面積(約1,000ha)の80%に相当する。草地の内訳は採草地87ha,採草・放牧兼用地73ha,放牧地638haであり,草種はジャイアントスターグラス,ギニアグラス,ローズグラス,パンゴラグラスを採用しており,特に放牧地にジャイアントスターグラスを導入したことにより牧養力が向上した。
それまで相対取引であった肉用牛取引は昭和53年に臨時家畜市場,昭和56年に常設の黒島家畜市場が開設されたため,買いたたきもなくなり価格は安定化してきた。
また,放牧場における最大の生産阻害要因であったピロプラズマ病を媒介をするオウシマダニが平成2年に撲滅されたことにより,放牧衛生環境が大きく改善され,肉用牛の飼養頭数は昭和49年の1,104頭から平成10年の2,652頭と2.4倍に増加しており,1戸当り平均肥育頭数も17頭から41頭と大幅に伸びている。
牧草サイレージの導入も肥育頭数の増加に寄与している。放牧中心の黒島では草の生育が低下する冬季の飼料が十分ではなく,頭数の制限要因となっていた。牧草サイレージの導入により,冬季のための飼料も確保されるようになり,肥育可能頭数も大幅に増加した。
このような風景が残されているのは石灰岩を砕くのが大変だったからではなく,ガジュマルの木を守るため土地をそのままにしておいたということなのだろう。ガジュマルは御嶽などにもよくあり,地域の聖木となっていたようだ。
インドでもガジュマルの仲間のインドボダイジュは仏教の聖木であり,ベンガルボダイジュはヒンドゥー教の聖木である。
畜産基地建設事業の成果として島の大半は平たんになり,このようなトラクターが導入できるようになった。背後に見えているのは黒島小中学区であり,ここは仲筋集落の入り口にあたる。
黒島研究所の「数字で見る現在の黒島」によると,僕が黒島を訪問した時の生徒数は13名(小学校6名,中学校7名)となっていた。ウェブサイトによるとこの学校の教育方針は次のようになっている。
人間尊重の精神を教育活動の基盤として,子どもの個性と能力を伸ばし,心身共に健康で,豊かな情操と自主性・創造性に富む人間形成を期して下記のように教育目標を設定する。
・ 自らよく考え進んで学習する子(よく考える子)
・ 心豊かで、思いやりのある子(心豊かな子)
・ たくましくねばり強い子(たくましい子・ねばり強い子)
まったくその通りである。「心身共に健康で,豊かな情操と自主性・創造性に富む人間形成」は日本ののみならず世界の学童教育の究極目標である。
草地,ガジュマル,肉牛の組み合わせは黒島の原風景といえる。
黒島の表層となっている琉球石灰岩は多孔質なので雨水はすぐに地下に浸み込んでしまう。それでも黒島にはいくつかのため池を見かけた。
黒島小中学校の近くに乾震堂と記された御嶽がある。この御嶽に関してはネット上でもほとんど情報が見つからなかったが,とあるサイトに次のように記されていた。原典は「やえやまGUIDE BOOK,南山舎,2003年)となっているのでそれなりに信頼がおける。
昔,ユラキ浜に難破船が漂着した。船内にあった死体は既にミイラ化しており,島民がその死体を海に流したところ死体に関わった人がつぎつぎと死に,島内ではネズミが大発生した。そこで同じく船内にあった黒石を死体のかわりに海岸に埋葬したところ,ネズミの大発生はおさまった。ところがしばらく経って何者かに墓が荒らされ,再びネズミが大発生した。島民は埋葬場所を海岸から島の中心に移し,祀ったところネズミの大発生は再びおさまった。
ここにあるものは移築後のものであり,古いものは黒島灯台の横にある。
黒島小中学校のすぐ近くにある高さ10mほどの展望台であり,ブズマリをイメージして造られている。おそらく島でもっとも高いところに上がれる構造物であり,島全体を見渡すことができる。
島とは思えない平坦な地形であり,一面の牧草地となっている。
西側は東筋に向かう立派な道路がまっすぐ伸びている。この道路は黒島港のある保里と島中央部の東筋を結んでいる県道213号線であり,「日本の道100選」にも選ばれている。波照間島には県道はないのでこの道が日本最南端の県道ということになる。
展望台の近くには牛舎があり,そこからいっせいにカラスが飛び立った。カラスは雑食性であり,牛の飼料となる乾草は食べないものの,穀物はよく食べる。そのため牛舎でおこぼれを狙っているようだ。何かに驚くと全体が飛び立ち,空を覆うがじきに戻ってくる。
牛舎の中を覗いてみると牛は乾草を食べており,カラスのねらい目は周辺に散乱している穀物なのだろう。
黒島展望台から東筋集落に向かって歩く。この道の周辺もすべて牧草地となっている。中にはこのように植生が残っているところもある。物理的に平坦にできなかったのではなく,所有者がなんらかの理由で手を付けなかったところであろう。
夏は牧草の生産性が高いので冬季に備えて蓄える作業が行われる。牧草は刈り取られ,ロールにされ,適度に乾燥したところでラッピングされ牧草サイレージとなる。牧草地の外れに並んでいる円筒形のものが牧草サイレージである。プラスチックフィルムで巻かれ,その内部では(酸素が乏しいので)発酵が進み,乳酸や酢酸などの栄養素が生み出される。
郵便局のすぐ先でT字路となっており,そこには日本の道100選の碑がある。裏側には日本の道100選制定の目的と,この道が選定された理由などが記されている。
この道が整備されたときは昔ながらの石垣や赤瓦屋根の景観を配慮し,琉球石灰岩による石垣の復元,排水溝を地下浸透式にするなど地域独自の文化や景観に調和した道つくりが高く評価された。
そのときはまだ舗装されておらず評価通りの景観が残っていたのかもしれない。しかし,現在では展望台から郵便局の手前までは牧草地を横断する立派な舗装道路になり,そこから先も道幅は広くないものの舗装されてしまった。これでは鄙びた雰囲気はとても味わえない。
日本の道100選の碑があるあたりが東筋(あがりすじ)の中心部であり,ちょっとした広場になっている。
正式名称は「竹富町黒島伝統芸能館」という町立の施設ようだ。伝統芸能館の設置および管理に関する条例が制定されており,その中に「地域の伝統芸能及び文化の振興に寄与することを目的とする」と規定されている。伝統芸能館の入り口左側には「八重山舞踊・勤皇流ゆかりの地」と記された石碑がある。おそらくそれがこの地に伝統芸能館が建てられた理由であろう。
広場の南側には琉球瓦と石垣,福木の防風林をもつ伝統的な集落の風景を見ることができる。個人的にはこの集落の通りの方が今では日本の道100選にふさわしいと考える。
黒島は隣の竹富島と異なりほとんど観光開発は進んでいない。その黒島でもこのような昔ながらの家並みが残されており,子どもの作った「じっくりと 時間を忘れて 夢の国」という標語がしっくりする一画となっている。
ここの琉球石灰岩を使用した石組みの技術もすばらしい。自然石を加工することなく積み上げてきれいな石垣に仕上げている。琉球石灰岩は表面に小さな凹凸があり,隣同士がしっかり噛みあうので強い(安定した)石垣になる。
ホウライカガミ(Parsonsia alboflavescens,キョウチクトウ科)と思われる。ネット上の画像は花が黄色味を帯びており,少し違うかなという感じもする。キョウチクトウの仲間でつる性の木本植物である。南中国からマレーシア,インドにかけて自生しており,日本では南西諸島に分布している。
蓬莱とは古代中国で東の海上(海中)にある仙人が住むといわれていた仙境の1つであり,そのような有難い名前をもらった植物にしてはあまり目立たない。花が咲いていなかったら写真にはしなかったことだろう。
しかし,この植物は日本最大のチョウである「オオゴマダラ」の幼虫の食草として有名である。幼虫はホウライカガミの葉を食べその毒素を体内に蓄積する。この毒素は成虫である「オオゴマダラ」にも引き継がれ,ゆっくりと飛ぶことにより毒素をもっていることを天敵にアピールしていると考えられる。
タイワンレンギョウ(Duranta repens,クマツヅラ科・タイワンレンギョウ属)は西インド諸島から熱帯アメリカ原産の常緑低木である。園芸種としては「ヂュランタ」の名前で流通している。暖かい沖縄では通年開花が楽しめる。
タイワンレンギョウの木陰では雑草の生育が著しく悪いことが知られている。研究の結果,葉から「トリテルペノイド系サポニン」が発見され,それが他の植物に作用する植物生育阻害物質であることが分かった。このようにある種の化学物質を産生し,周囲の植物の成長を妨げる戦略をもつ植物はけっこう多い。植物の世界も生存競争は厳しいのだ。
東筋の集落を散策しているとき,緑のトンネルを見つけた。道の両側に石垣があり,ちょど向かい合う位置にガジュマルの木があり,その枝が重なり合ってトンネルになったものである。
琉球石灰岩の灰白色とシーサーの赤茶色がよいコントラストになっている。
比江地御嶽(ページワン)は東筋集落に一つだけある御嶽だ。名前は環境庁が設置した案内板に記されていた。ただし,「御嶽」が「御獄」となっていることはご愛嬌である。
黒毛和種,牧草,木陰を提供してくれる樹木,ところどころに残された琉球石灰岩の小さな盛り上がりは現在の黒島の原風景である。
日本で飼育されている乳牛や肉牛は一般的に暑さは苦手である。特にホルスタイン種の乳牛は暑さに弱く,猛暑の時期には乳の出が悪くなりしばしばニュースにもなる。
牛は草だけを食べていてもあの大きな体を維持し,家畜となっている乳牛は分娩後10ヵ月の間に7000kgもの牛乳を出す。その中には200kgのたんぱく質,250kgの脂肪,300kgの糖などが含まれている。この驚異的な栄養産生能力の秘密は特殊な胃にある。
ウシの胃は4つに分かれており,食道に近い方から第1胃,第2胃,第3胃,第4胃となっている。第1胃から第3胃までは食道が変化したもので,胃液を分泌する本来の胃は第4胃ということになる。大きさは第1胃が80%を占めており,成体では120リットルにもなる。
第1胃は巨大な発酵工場として機能し,第1胃内には内容物1gあたり約100億の細菌と50-100万の原生動物(プロトゾア)が常在している。これらの微生物は嫌気性の環境で食道を通過した草や飼料を発酵させる。
これらの微生物は草の細胞壁を作っているセルロースやその中に含まれているでんぷんを分解して酢酸,プロピオン酸,酪酸などの低級脂肪酸を生成する。これらの栄養素は第1胃から直接吸収される。飼料中の窒素化合物は微生物により効率よくたんぱく質に変換される。微生物の体を作っているたんぱく質はとても栄養価が高く,最後の第4胃で消化・吸収される。
また,第1胃内の微生物はビタミンB複合体を合成する能力があり,そのようなビタミンもウシの栄養素となる。つまり,ウシは第1胃という発酵工場で草や飼料から自分に必要なあらゆる栄養素を産生していることになる。
大きな発酵工場を有するウシはセルロースの50-80%を分解して栄養素とするとともに,微生物をたんぱく源として利用している。このすぐれた栄養摂取の仕組みがあるため,乳牛は大量の牛乳を出すことができる。
しかし,発酵時には大量の熱が発生するので少なくとも乳牛は暑さが苦手となる。乳牛の健康や生産に適した環境温域は4-24℃といわれており,それ以上になると体熱放出機能が弱いため生理的ダメージを受け始める。
それに対して黒毛和種は暑さに強く,炎天下の日なたの草地でも平気で座って反芻している。とはいってもやはり休むには木陰の方が良いのか,ここではたくさんの牛が木陰の周りに集まっている。仔牛の場合は成体ほど暑さには耐性がなく,常に十分な水が飲める環境でないと熱射病にかかる。
牛飲馬食という言葉があるように牛は大量の水を飲むことで知られている。ただし,(電解質成分が含まれている場合は問題ないが)仔牛は体重の5%以上の大量の水を一気に飲むと水中毒になる危険性がある。これは体内に吸収された水分により赤血球が水膨れの状態になり壊れてしまうからである。
花の特徴からサキシマボタンヅル(Clematis chinensis,キンポウゲ科・センニンソウ属)かと思ったが,葉の縁は不ぞろいな鋸歯状になっているのでボタンヅル(Clematis apiifolia,キンポウゲ科・センニンソウ属)であろう。
つる性の半低木であり,つるの長さは2-4mになり茎の基部が木質化する。なにかつかまるものがある場所ではつる性の特徴を生かすことができるのだが,牧草地の中では草に巻きつくしかない。
茎の先端や葉腋から集散状の花序を出し,白色の花を多数つける。花弁のように見える十字型のものは萼片である。日本では本州,四国,九州に分布しているとあるが,八重山にも自生しているようだ。
刈取り前の牧草地では長く伸びた牧草が風により自由に揺れ動くので風の動きを見ることができる。サトウキビはこの程度の風では葉ずれの音を出すくらいであるが,牧草は弱い風にも素直に反応している。
牧草地の向こうに黒島灯台が見える。この組み合わせはなんとなく不釣り合いだ。
道路わきの石灰岩を抱えるように根を張っている樹木は風のせいなのか片側にだけ枝を伸ばしており,まるで大きな盆栽のようだ。
この海岸も宮里海岸と同様にリーフエッジまでは平たんな琉球石灰岩の地形となっており,陸側は一段高くなったところからゆるい傾斜の斜面になっている。地元では干潮時に渡れる渡路(干潟)をワタンジと呼んでいる。ワタンジから一段立ち上がった琉球石灰岩の下部は海食によりえぐられており,このような海食地形をノッチという。ノッチが深くなると一部が崩れる。
ホソバワダン(Crepidiastrum lanceolatum,キク科・アゼトウナ属 )は本州西部から沖縄にかけての海岸に生育する多年草である。八重山の海岸で何回か見かけすっかりなじみになったホソバワダンはここでも岩の窪みにしっかり根を下ろて生きていた。このような植物のけなげな姿を見るとついつい写真にしてしまう。
黒島灯台から海岸近くの道を歩いて仲本海岸に向かう。この道の左側はアダンなどの低木の樹林帯となっており,右側はすべて放牧地となっている。牛たちは草を食み,横になってのんびり反芻をしている。1年の大半はこのような放牧状態なので,ストレスは少ないことだろう。肉牛にとってもストレスは大敵であり,肉質に影響するのでストレスフリーは肥育の重要ポイントである。
夏場の牧草は刈り取られ牧草ロールにされ,少し乾燥させてからラッピングされて牧草サイレージになる。作ったばかりの牧草ロールは水分が多く,1個350kgから1トン近いものまである。このような作業はとても人手ではできないので機械化が必要になる。
機械化するためには牧草地が平坦であることが必要であり,それを実現したのが畜産基地建設事業であった。スタビライザー工法という画期的な技術を駆使し,硬い琉球石灰岩を粉砕し,土と混ぜ合わせることにより,平らで立派な牧草地にすることができた。この成果なくしては現在の黒島はなかったと言える。
八重山でもっとも多く目にしたのはアワユキセンダングサ(Bidens pilosa var. radiata,キク科・センダングサ属)である。原産地は熱帯アメリカであり,世界の熱帯・亜熱帯地域に外来種として分布している。
日本では1840年代に観賞用に導入され,九州南部,沖縄,小笠原に定着している。繁殖力が強く八重山では道路わきを埋める雑草となっている。日本生態学会が選定した日本の侵略的外来種ワースト100に含まれている。1年中開花しているのでチョウなどの昆虫を観察するにはよいが,明らかに在来種の植物と競合している。
僕は写真を撮るために草地の中に入るが,アワユキセンダングサだけは二の足をふむ。草地から出ると靴ひもやズボンにたくさんの「ひっつきむし」が付くからである。細長いアワユキセンダングサの種子には逆さ棘があり,簡単には取れない。地元では「サシグサ」と言われている。
アサガオガラクサ(Evolvulus alsinoides,ヒルガオ科)はさわやかな青が特徴である。園芸種としては「アメリカンブルー」としても知られている。
海岸近くの草地でなどで生育し,茎は地表を這って伸びたり,斜上したりして長さ30-60cmになる。花の大きさは1cmほどしかない。与那国島には近縁種のマルバアサガオガラクサが自生しているということであるが見かけなかった(と思う)。
グンバイヒルガオ(軍配昼顔,Ipomoea pes-caprae,ヒルガオ科・サツマイモ属)は世界中の熱帯から亜熱帯の海岸に広く分布する海浜植物である。砂浜でもほふく前進によりテリトリーを広げる。
奇妙な枝ぶりのガジュマルがあった。太い枝が水平方向に張り出し,それを複数の気根が支えている。ガジュマルは枝からたくさんの気根を出し,それが地面に届くと幹のように成長する。人間が盆栽のように枝先を固定すると,どこまでも水平方向に伸びていくことだろう。
仲本海岸の少し手前に南風保多御嶽(パイフタワン)がある。刈取りの終わった牧草地の先にあり,周辺の樹木を見ると,鳥居がなくても御嶽だろうと分かる場所である。
おそらく中心部には石灰岩の露頭があり,それをアダンが取り巻いている。ガジュマルの木が生えているこの一画は畜産基地建設事業から外されたのだろう。
潮が引いていたのでリーフエッジにある前方礁原までが見えるようになっている。この海岸はリーフエッジまでは平たんな琉球石灰岩の地形となっており,今日は大潮に近い干潮の時間帯なので,その間にある礁池(イノー)の水深は膝ぐらいまでのものだろう。地元では干潮時に渡れる渡路(干潟)をワタンジと呼んでいる。
リーフエッジのあたりはサンゴ礁がもっとも発達しており,その外側は急に深くなる。そのことは海の色からもよく分かる。今日は天気も良く,波もないので絶好のダイビング日和であろう。リーフエッジのすぐ外側にはダイビングの船が3隻も集まっている。
これは小さな島の風景とはとても思えない。まるで北海道の景色のようだ。もっとも北海道でも平地は農耕地となっており,牧草地はほとんどなだらかな斜面にある。
宿でクバもち,おにぎりで昼食をとる。与那国島で買ってきたクバもちもこれが最後だ。午後は海岸近くの道を歩き,黒島港を目指すことにしよう。
宮里海岸から黒島研究所の横の道を行くと,保慶海岸,西の浜を経由して黒島港まで行くことができる。そこから伊古桟橋の先まで海岸近くの道は続いている。黒島には一周道路はなく,黒島灯台から反時計回りに伊古桟橋までの2/3周道路となっている。
海岸通りの内陸側はやはり牧草地となっており,大きなガジュマルの木がある。この辺りは琉球石灰岩により凹凸が見られ,畜産基地建設事業が及んでいないような印象を受ける。ガジュマルの木はずいぶん横に広がっており,1本の木ではないように見える。
ヤエヤマアオキの若葉がすばらしく瑞々しい色彩を見せてくれた。この植物は波照間島2に続き2回目の登場である。ヤエヤマアオキ(Morinda citrifolia,アカネ科・ヤエヤマアオキ属)は八重山ではよく見かける常緑小高木である。原産地はインドネシアであり,インド洋から東部太平洋の熱帯・亜熱帯地域に広く分布している。
果実の内部は空洞となっており,海流に流され広い範囲に生息域を拡大したと考えられる。原産地のインドネシアでは地域により異なる呼称があり,果実は食用,薬用として利用されている。一般的には「ノニ」として知られているが,これはジュースを健康食品として販売する業者がハワイの現地語である「ノニ」を使用したことによる。
西の浜に出る道は感じの良い樹木のトンネルになっている。島の植生をできるだけ残すように努力している様子がうかがえる。この先は上りとなり藪の向こうに西の浜が見える。
この海岸は岩場と砂浜が隣り合っており,変化に富んだ景観となっている。黒島には砂浜は少なく,ここはウミガメの産卵地として知られている。確かにこのくらいの奥行きのある砂浜なら産卵は可能だろうと一人うなづきながら周辺を見渡していた。西の浜は文字通り西に面しており,午後の光ではちょっと角度を変えないと良い海の色に出合えない。
波の打ち付ける岩場ではカニを見つけた。近くによるとすぐ逃げてしまうので望遠レンズに切り替える。このような岩場でエサが見つかるのか,繰り返し打ち付ける波をものともせずに,カニはしっかりと岩にしがみついていた。確かに表面に凹凸の多い琉球石灰岩ならしがみつくのは難しくないのであろう。
少し角度を変えるとエメラルドグリーンの海となる。右端にはキノコ岩があり,その全体をフレームに入れなかったのはちょっと残念だ。
サンゴ礁の海がずっと先まで続いており,その向こうには西表島と小浜島が見える。
海岸沿いに先に進むと黒島港が見えてくるが,300mほどの区間の海岸斜面は護岸用ブロックが貼られている。ブロックの上は海岸林となっており,その保護もしくは赤土の流出防止のためではないかと推測する。この護岸区間を含め600mほどの海岸は適度の水深に恵まれサンゴ礁が発達しており,仲本・宮里海岸のようなワタンジの海岸とは趣を異にしている。
その先は再び自然の海岸となり,狭い砂浜と海食により下部がえぐられた琉球石灰岩の風景となり,その向こうに黒島港の防波堤が見える。西側の防波堤は50mほどしかなく,琉球石灰岩ではなく普通の岩を積み上げたものになっている。
黒島港の西側の小さな防波堤のから黒島港を眺める。ここの薄いエメラルドグリーンの海の色は絵に描いたような色彩である。その中央に浮桟橋と旅客待合室がある。黒島港が現在のような浮桟橋になったのは2006年のことである。このときの工事は浮き桟橋と突堤の整備,しゅんせつ工事を含めて総額6億5000万円となっている。
浮桟橋ができる前は潮位により高速船と桟橋の位置関係が変わるので,渡し板を使用しなければならなかったはずである。現在は高速船が発着する八重山の港はすべて浮桟橋となり,高速船の舷側に取り付けられている渡し板を倒すと安全な乗降ができるようになった。
旅客待合室から出たところには黒島の案内地図があり,その左側には「はーとらんど黒島」というカフェがある。その間には黒牛のモニュメントがある。僕が訪問した時は黒牛の視線の先に牧草サイレージが置かれていた。これは本物か模型かは確認しなかった。
保里御嶽は黒島港のすぐ西側にある。その昔,島に漂着した大和人と島の女性が夫婦になったものの,男は帰郷することになり,女は夫の航海の無事をここで祈願したと云われている。鳥居の背後は植生が残されており,全体が御嶽のように見える。
この組み合わせの写真は何枚撮ったのか覚えていない。青空とアダンの組み合わせは本当に南国の一枚となる。
保里御嶽のすぐ近くに「アサビシバナ」と呼ばれる岩の隙間があり,竹富町指定の天然記念物となっている。宿の食堂のおばさんに教えられて探してみたらすぐに見つかった。以前は下部のすき間が膨らんでいたが,砂に埋もれてしまった。
この岩のすき間は横になるとくぐり抜けることができる。出てきたところは西の浜である。海岸から見ると,かってはつながっていたであろう琉球石灰岩に亀裂が入ったことが分かる。それにしてもここの地形は,海岸と岩の背後はほぼ同じ高さであり,その間に3-4mの厚さの岩の帯があるという珍しい地形である。
保里集落から伊古に向かう道の周辺には伝統的な家屋が多い。また,保里集落を過ぎると道の海岸側は深い林となっており,内陸側も植生が多く黒島でも自然植生が残されている地域である。もっとも今日は保里集落から黒島小中学校に向かう道を歩いた。
この記念碑は保里集落と黒島小中学校の間に位置している。昭和50年に西表島からの海底送水が実現したことを記念したものであろう。表層が琉球石灰岩で覆われている黒島は水の確保には大変な苦労をしたであろうことは想像に難くない。
飲料水や生活水を確保するので手いっぱいであり,とても農業用水などに回す余裕はなかったことだろう。そのため,農業はもっぱら天水に頼っており,昭和46年の大旱魃のとき農作物は全滅している。海底送水による水の確保は黒島の住民の悲願であり,島の肉牛の肥育も水の確保があってのものである。
黒島小中学校から宮里に向かう道に入り少し歩いたところで複数のカラスのやかましい声が聞こえ,後ろを振り返った。水道記念碑のある林からシロサギの群れが飛び立っている。何かカラスとトラブルになったのかもしれない。
シロサギはカラスほどまとまって飛んでくれないし,白い雲が保護色になってしまい簡単には撮ることができない。それにしても,近くを通ってもこれほどたくさんのシロサギがいることには気が付かなかった。
宮里到着は16時30分くらいだったので海岸でしばらく過ごすことにする。しばらくは岩の上に座ってぼ〜つと海を眺めていたが,ふと思い立って海岸に散らばっているサンゴのコレクションを作ることにした。集まったものはキクメイシとエダサンゴである。こうして並べてみると,キクメイシのブロックの大きさにはずいぶん差があることが分かる。
僕の座っている岩に貝殻を含めても体長10mmにも満たない小さなヤドカリが動いていた。このサイズになるとほとんどオモチャのようだ。
岩に座って半分居眠りをしていたようだ。気が付くと水際にアオサギと思われる鳥が現れた。これはありがたいと望遠園レンズに切り替えて1枚撮ったところに,海岸の茂みの方から出てきた人がそのまま鳥の方に歩いていき,鳥はすぐに飛び立ってしまった。
昨日の夕食は完全に食べ過ぎ状態であった。今日のメニューは若者には物足りなかったと思うが,僕にとっては適正量であった(ごはんはおかわりしたけれど)。
夕食後はやはり「あ〜ちゃん」のヤシガニツアーとなった。今日は雨が降らなかったのでヤシガニに出合う確率は低い。それでも立派なサイズのものが見つかった。フラッシュのせいもあるが,今日の個体はずいぶん色が黒い。
ヤシガニは通常はのんびり前進し,危険が迫るとすばやく後退する。はさみの力がとても強く,人間の手指を切断するほどなので,慣れない人は捕まえようなどとしない方が良い。この個体は民宿に飼われている(放置されている)ものに比べて一回り小さいのでそのまま逃がしてあげる。