亜細亜の街角
アラム語の話されているキリスト教徒の町
Home 亜細亜の街角 | Maalula / Syria / Nov 2007

マアルーラ  (参照地図を開く)

シリアの西側にあるレバノンには南北方向に走る全長160kmのレバノン山脈がある。レバノン山脈の東側にはヨルダン地溝帯が走り,その東側にはアンチ・レバノン山脈が走っている。地中海からの湿った風が山脈で上昇気流となり雨を降らせるのでここは地域の水源となっている。

二つの山脈の周辺にはキリスト教,イスラム教を問わず,マイナーな宗派の人々が多く暮らしている。キリスト教のマロン派,東方正教会,カトリック,プロテスタント,アルメニア使徒教会,イスラム教のスンナ派,シーア派,アラウィー派,ドルーズ教が混在している。

恐らく山がちで複雑な地形のため,小集団の孤立した村が長い間,外との交流無しに暮らしてきた結果だと考えられる。そのような状態はイスラム教スンニー派がこのシリア地域の主要宗教になっても変わらなかった。

ダマスカスからおよそ60kmのところにある人口約2000人のマアルーラ村もそのような孤立した村の一つである。シリアにありながら,アンチ・レバノン山脈の麓にあるため,地域の大勢力からは忘れ去られた村となっていたにちがいない。

そのためこの村には二つの古いものが存在している。一つは住民たちの使用している「西方アラム語」であり,もう一つは彼らの信仰している「東方典礼カトリック」である。

セム系のアラム語とアラム文字はアッシリア帝国,バビロニア帝国の共通語として使用され,その後のアケメネス朝ペルシャもこれを継承したので紀元前10-4世紀には西アジア地域の国際共通語となった。この時期のものを「帝国アラム語(聖書アラム語)」という。

紀元前6世紀,バビロン捕囚によってユダヤから連れていかれた人々はバビロンで話されていたアラム語とその文字を学び,これがヘブライ文字の原型となった。その関係もあり旧約聖書の一部はアラム語で記されていたという。

紀元前4世紀にアレクサンダー大王の東征とアケメネス朝ペルシャの滅亡により,ギリシア語が世界共通語となり,アラム語は次第に地方語として衰退していく。

3-8世紀にかけて使用されていた「後期アラム語」は西方アラム語(パレスチナ地域)と東方アラム語(シリア,バビロン地域)に分類される。

7世紀からは地域のイスラム化により,アラム語はアラビア語に取って代わられ,どちらの言語も現在では限定された小さな集団,あるいは聖書研究などの特殊な場合を除き使用されていない。

イエス・キリストの時代にパレスチナで使用されていたのはヘブライ語もしくは西方アラム語であり,マアルーラの人々はその言語を今も使用している。ウエブサイトによっては「アラム語を話す唯一の村」と表現しているものもある。

この地域ではアラム文字を使用していないため,アラム語は親から子へ口伝えで伝えられてきたという。現在では学校でも教えられていないとBBCは報じている。

東方典礼カトリック教会は,東方カトリック教会,東方帰一教会,ギリシャ・カトリックなどとも呼ばれる。11世紀にキリスト教会の東西分裂により西はローマ・カトリック,東は東方正教会(ギリシャ正教)に分かれた。

しかし,東方正教会の中には東方正教会の典礼を使いながら,神学的にはローマ・カトリック教会と同一の立場にたつものが現れ,それらをまとめて東方典礼カトリック教会という。

東方典礼カトリック教会のあるものはローマ・カトリックの首位権を認め,あるものは各地に六つあるカトリック東方総大司教座に属するものもあるので一くくりのグループというわけではない。

マアルーラの村の二つの教会のうち聖テクラ教会は東方典礼カトリック(ギリシャ・カトリック)に属し,聖セルギウス教会は東方正教会(ギリシャ正教)の教会だという。小さな村に,二つの宗派の教会とは不思議な感じを受ける。

ダマスカス(60km/1H)→マアルーラ 移動

ダマスカスからマアルーラに向かうバスはガラージュ・マアルーラから出ている。場所は旧市街の北側,距離は宿から2kmほどのところにある。歩いても行けるが,宿の近くの路上からセルビスが出ているのでお世話になることにする。

もっとも,セルビスの表示はアラビア語表記なので自分で見つけることはできない。隣の男性に「ガラージュ・マアルーラ」と告げるとセルビスを教えてくれた。イスラム圏の男性は旅人にはとても親切であり,こんなときは本当に助かる。

セルビスの料金は5SP(12円),これで市内のたいていのところに行けるのでありがたい乗り物だ。セルビスは30分ほどでバスターミナルに到着する。乗客の男性がマアルーラ行きのセルビス(25SP)を教えてくれた。この町は地元の人にも知られているようだ。

セルビスはダマスカスを出てホムスに向かう幹線道路をしばらく走り,そこから左に折れて荒地の丘を越えてアンチ・レバノン山脈に向かう。村の入口にはアーチがあり,マアルーラと表示されている。ここは「イエスの時代のアラム語を話す村」として欧米人の観光客に人気があるところなのだ。

マアルーラ村

ダマスカスからここまではおよそ1時間,日帰りの観光地としてもちょうどよいところにある。村の広場はロータリーになっており,家屋の背後には巨大な岩山がそびえている。

その岩山を取り巻くように家屋が密集している。岩山に向かって少しずつ高くなっているので下からでも全貌が良く分かる。いくつもの十字架が立っているし,岩山にも十字架が描かれている。

そして,その上には古くからの信仰と言語を守っている村を祝福するように聖母マリア像が立っている。すべてが絵のような構成になっている。

マアルーラ村の大多数はキリスト教徒であるが,その一方でロータリーに面したところにはモスクもあり,ここは二つの宗教が共存していることが分かる。ダマスカスの旧市街に代表されるようにシリアではイスラム教徒が多数派になっても,キリスト教徒がずっと存続してきた。

シリアのイスラムは改宗を無理強いしなかったようだ。イスラム教にとってはユダヤ教やキリスト教は兄弟宗教なので,それが大きな要因であろう。二つの宗教が鋭く対立した十字軍の時代においてもそれは変わらなかったようだ。

聖テクラ教会

ロータリーから坂道を登っていくと村の家屋が岩山の斜面にへばりついていることが良く分かるようになる。まるで岩山自体が聖なるものでそこから離れたくないと主張しているようだ。多くの家屋の壁は薄い青色の漆くいが塗られている。これは初期段階のキリスト教徒の習慣であったという。

ここからはある程度村の構成が分かる。村は二つの岩山に挟まれた谷間にある。向かって右側が聖なる岩山に続く稜線となっている。5合目あたりに教会が見える。あれが聖セルジウス教会であろう。

稜線の先には9合目あたりに突き出た自然の岩棚があり,聖母マリア像はその上に建てられている。岩山の下に密集する家屋群の上方には直方体の建物の上にドームが乗せられ,その上に十字架が立っている。あれが聖テクラ教会であろう。

家屋が途切れる高さあたりから,岩山には小さな人工の洞窟がいくつも穿たれている。奥行きはさほどないので,修道僧が祈りや瞑想にふける場所として利用されていたと推測する。

坂道を登りきると聖テクラ教会前の広場に出る。石造りの建物があり,そこには「Convent of St.Takla」という看板が出ている。ガイドブックの表現は教会になっていたが,ここは修道院なのだ。

伝説によると,セレウコス王家の血を引く娘テクラは聖パウロの教え得て敬虔なキリスト教信者となった。異教徒の父親から改宗を迫られ,追われる身となった。岩場に追いつめられたときテクラは神に助けを求めた。

すると突如として岩が割れ,彼女はそこに身を隠し,岩肌から滴り落ちる水で生き延びることができた。その場所に建てられたのが聖テクラ教会である。現在の建物は1930年代に改修されたもので,オリジナルの建物がいつ頃のものかはハッキリしていない。

教会の敷地内は撮影禁止となっており,入口にはその表示がある。礼拝堂ではお葬式が行われていた。神父の声がスピーカーを通して流れてくる。これがアラム語なのだろうか。神父の声の調子はグルジアやアルメニアの教会のミサで聞いたものと同じように聞こえる。

礼拝堂には大勢の村人が集まっており内部は見えない。イコノスタス(聖障)の内側にある至聖所の横にある窓が開いている。中には棺が置かれ,数人の蜀台を持った黒服の神父がその周りを回っている。

おそらくイコノスタスの扉は開けられており,村人は会堂からその様子を見ているにちがいない。この地に教会ができてから,何千回,何万回と繰り返されてきた儀式である。人が変わり時代が変わっても,この周囲から孤立した村では初期の様式がそのまま受け継がれてきたのであろう。

セルジウス教会からの帰りにもう一度ここに寄ってみた。すでにお葬式は終わり,内部のフレスコ画を見ることができた。天井のドームの中心にイエス・キリストがこちらを見下ろしている。

ドームの胴の部分には天窓と使徒のフレスコ画が交互に配置されている。今まで見たことの無い斬新なデザインである。会堂には礼拝用のベンチが置かれ,正面はイコノスタスになっている。

イコノスタスの上部には上下に各13枚のイコンが飾られている。至聖所の上部の半円状のドームにもフレスコ画が描かれている。こうしてみると会堂内はイコンとフレスコ画で埋め尽くされており,幽玄ななかにも華やかさが感じられる。

聖テクラの洞窟

礼拝堂から階段を登ると僕が勝手に命名した「聖なる洞窟」がある。入口には両手を広げた女性の絵が掲げられている。聖母マリアとはポーズが異なるのでおそらく彼女が聖テクラであり,ここに彼女の墓があるのだろう。

洞窟と表現したが実際には岩がオーバーハングしたような場所だ。聖テクラが身を隠したという岩の裂け目の伝説は,この場所もしくは教会の左下にある岩壁の隘路から生まれたと考えるのが自然である。

自然の岩場をそのまま利用して石造りの壁を造り,聖なる場所にしている。洞窟の奥に生えた木が光を求めて5mほど幹を横に伸ばし,外で葉を繁らせている。この木の様子は光(神)を求めて手を伸ばす人を連想させ,なんとなく聖地にふさわしい雰囲気を演出している。

左側の壁にある扉は閉ざされており,その両側には聖母マリアとイエス・キリスト,扉の上には聖母マリアのイコンが飾られている。

奥の部屋だけは一般に開放されている。そこは自然石を削り表面をある程度滑らかにした礼拝堂になっている。入口の左側には黒服,黒ベールの尼僧が静かに坐っている。彼女の前には蜀台があり,何本かのローソクが灯っている。

正面はイコノスタスになっており,至聖所への入口はカーテンで仕切られている。狭いながらもちゃんと礼拝堂の形式をもっている。イコノスタスの上にはすばらしい出来栄えの12使徒のイコンが並べられている。

右側の壁にもすばらしいイコンがたくさん飾られており,ラフな岩肌を背景にローソクの灯りに輝いている。何枚かのイコンは板の上に直接描かれているようだ。この印象深い部屋の写真が撮れないのはとても残念だ。

欧米人の団体が入ってきてこの聖地の静寂は失われた。彼らは平然と洞窟の中で写真を撮り,10分も経たないうちにいなくなった。

再び訪れた静寂の中で特に考えることもなく石の上に腰を下ろす。下の礼拝堂からはお葬式のミサの声が響いてきており,聖地を独り占めしたような気持ちで宗教的な時間に浸ることができた。

岩の通路を通り台地の上に移動する

聖テクラ教会の下の広場に出て「岩の間の道」を探す。教会の左側に道があり,そこを行くと次第に両側の岩が迫ってきて,岩壁の間の隘路になる。この風景はヨルダンのペトラの入口を小規模にしたものだ。

しばらく行くと水が湧いているのか地面が濡れている。この隘路を抜ける途中で,聖タクラ教会のドームとチャペルを上から見下ろすことのできるポイントがある。残念ながら聖なる洞窟はこの角度からはよく見えない。

聖セルギウス教会

隘路の向こうに橋があり,その上をアスファルトの道路が走っている。そこを左に行くと聖セルギウス教会が見えてくる。教会の手前の崖からマアルーラの村が一望できる。

岩山の周囲にある家屋ばかりに気をとられていたが,その背後にはかなり広い林が広がっている。ここはアンチ・レバノン山脈からの水が利用できる谷なのだ。

道路の反対側はゆるやかにうねる山並みとなっており,水の得られるところはわずかばかりの農地となっている。レバノン山脈やアンチ・レバノン山脈の周辺にはこのようなオアシスのような村が点在しているにちがいない。

この教会はおそらく4世紀より以前からの歴史をもつとされており,現存する最も古い教会の候補にもあげられている。薄暗い礼拝堂の正面にはイコノスタスがあり,十字架上のイエス・キリストの大きなイコンを中心に,12使徒のイコンが飾られている。

ここのイコンもすばらしい。祭壇の前では説明要員の女性がこの教会の謂れを話してくれているけれどほとんど覚えていない。ここの雰囲気もとてもよいけれど写真禁止なので絵葉書を買い求める。


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