アンマンの歴史は古く紀元前3500年頃にはこの地に都市があったとも記されている。紀元前2000年頃,この地域を支配していたエジプト人は町を整備し,その安全と発展を祈り,当時のテーベ王朝で最高神として崇拝されていたアンモン(アムン)神の名をつけた。これが町の由来となっている。
第一次大戦のさなかに英国はメッカの太守であるハーシム家の大首長フサイン・イブン・アリーと密約を交わす。ハーシム家がアラブ軍を率いてオスマン帝国に対する反乱に成功するなら,オスマン帝国支配下のアラブ地域の支配権を認めるというものであった。
その地域とは今日のアラビア半島,イラク,シリア,レバノン,ヨルダンを包含する広大なものである。このアラブの反乱を指導したのがかの「アラビアのロレンス」である。
ハーシム家は預言者ムハンマドの曽祖父ハーシムを祖先とする名門でイスラム教の聖地メッカの太守であった。フサイン・イブン・アリーは四人の息子とともに反乱を起こし,アラブ軍は拠点のアカバ,ダマスカスを占拠した。
第一次世界大戦が終わると英仏はオスマン帝国支配下のアラブ地域をシリア,パレスチナ,トランスヨルダン,イラク,ヒジャーズ(アラビア半島)に分割した。シリアは現在のシリアとレバノンを含む地域でフランスの委任統治下におかれた。パレスチナ,トランスヨルダン,イラクは英国の委任統治下におかれ,独立を果たせたのはアラビア半島のヒジャーズ王国だけとなった。
フサイン・イブン・アリーはアラビア半島を支配するヒジャーズ王国の国王となったが,彼の考えていた「大アラブ王国」のもくろみは簡単に反故にされたのである。
フサインは1924年にオスマン家のアブデュルメジト2世が廃位されたのを機にイスラーム世界における権威を求めてカリフに即位した。しかし,イスラーム世界から黙殺されただけでなく,カリフ位を理由として重税を課したため,ヒジャーズ王国においても孤立した。
フサインはワッハーブ派のイブン・サウードにマッカ(メッカ)を奪われてキプロス島に亡命した。これでヒジャーズ王国は滅亡し,新たにイブン・サウードが国王となり国名もサウジアラビア王国となった。
英国はハーシム家の次男のアブドゥッラーをトランス・ヨルダン(ヨーロッパから見てヨルダン川の向こう),三男のファイサルをイラクの国王に任じ,間接支配の形態をとった。
ヨルダンのアブドゥッラー国王は現在のヨルダン王家につながっており,ハーシム家の名前はヨルダンの正式国名である「Hashemite Kingdom of Jordan」に残っている。これは直訳すると「ハーシム王家のヨルダン」ということになる。
一方,イラクのファイサル国王はバース党によるクーデターにより失脚する。ヒジャーズ王国,イラク王国からハーシム家の名前が消え,現在ではヨルダンにだけ過去の栄光を示す名前が残っている。アンマンがトランス・ヨルダンの首都になったとき,その人口は2万数千人に過ぎなかった。1946年に独立を果たしヨルダン・ハシミテ王国となってからは大きく発展していく。
1948年にイスラエルが建国されると,アラブ世界では精強を誇るエジプトとヨルダンの軍隊がパレスチナに進撃した。しかし,両国の軍隊は聖戦の大義も無く統一した軍事行動もとれず,イスラエルは奇跡的な勝利を得ることになる。
その後も二度の戦争によりパレスチナはイスラエルにより支配されるようになり,70-90万人の難民が発生し,その多くはヨルダンに逃れた。現在ではヨルダンの人口の7割はパレスチナ人となっている。
そのような背景もありパレスチナ解放機構(PLO)の本部はヨルダンにあった。ヨルダン政府はPLOを支援してヨルダン川を越境攻撃したが効果は無く,イスラエルに対して強硬手段をとることを諦め現実路線に移ろうとした。
ヨルダン政府の政策変更はPLOとのあつれきを深めていった。ヨルダンは対立する二つの政府が並存する状況となった。その最中の1970年9月にPLOの過激派PFLPにより西側諸国の航空会社の旅客機5機がハイジャックされた。
このうち3機はヨルダンの砂漠地帯にある使用されていないイギリス軍の旧空軍基地に強制着陸させられた。PFLPの活動家の釈放を条件に人質は解放されたが,旅客機は、「イスラエルと国際社会の対応に対する抗議」として爆破された。
ヨルダンは国際的な非難を浴びることになり,フセイン国王はPLOを排除するための攻撃を命令した。ヨルダン政府軍はPLOを敗走させるが,PLO支援に積極的だったシリアは陸軍をヨルダンに進攻させた。シリアとヨルダンの戦闘を回避するため,エジプトのナセル大統領の仲介により,PLOはレバノンに本部を移した。この内戦が「黒い九月事件」である。
PLO追放によりヨルダンは国内の安定を取り戻したが,その代償はアラブ連盟からの追放であった。一方,PLOを受け入れたレバノンでは多くの難民を抱えることになり,地域の政治・宗教のバランスが崩れ深刻な内戦に発展していく。
現在のアンマンは人口120万人,これはヨルダンの全人口の4分の1を占めており,政治,経済の中心都市となっている。居住地は旧市街を取り囲む丘の上を含め周辺にも膨張を続けており,水の供給が深刻な問題となり始めている。
ダマスカス(250km)→アンマン 移動
07時に起床しホールの床で寝ているスタッフを起こしてチェックアウトする。路地を出て大きな通りのセルビス乗り場に向かう。いつものように周囲の人にガラージュ・ソマリア行きのセルビスを教えてもらい乗り込む。
しかし,そのセルビスはソマリアBTには行かないという。次の大きなセルビス乗り場で降ろしてもらい,別の車に乗り換えてようやくソマリアBTに到着する。何社かあるバス会社の窓口でアンマン行きの国際バス・チケット(350SP)を求めると,すぐに発券してくれた。
発車時刻は09時,時間があるので近くの食堂でシリア風ピザとチャイで朝食をとる。出発時に乗客は10人ほどしかおらず,その後も乗客は増えなかった。道路の周囲は赤茶色の大地が広がっており,半分くらいは緑の農地になっている。
やはり,この赤茶色の土砂が昨日訪れたボスラ遺跡を赤く染めていたんだなあと感慨にふける。ところどころにオリーブの農園や遊牧民のものと思われるテントが見える。しかし,周辺には家畜は見当たらない。
10:30にヨルダン国境に到着する。シリア側のイミグレーションはけっこう立派な建物だ。出国手続きはごく簡単で,窓口にパスポートを出すとすぐにスタンプを押してくれた。バスに乗り込み少し移動してヨルダン側のイミグレーションで入国手続きをする。
ヨルダンは国境で到着時ビザが無料でもらえる。ここでもEDカードなどは無く,パスポートを窓口に出すと,「Residence for One Month」という小さなスタンプと通常の入国スタンプを押してくれた。前者のスタンプがビザに相当する1ヶ月の滞在許可になるようだ。
近くには両替所があり,余ったシリア・ポンドと米ドルを両替することができた。レートは1$=0.7JD(ヨルダン・ディナール)と町の銀行より1%ほど悪かったが国境の両替としては妥当なところだ。
国境を通過するのに要した時間はおよそ45分と快速である。バスは12:30にアンマンのバスターミナルに到着した。おそらく国際路線のジェットBTであろう。宿泊予定のダウン・タウンまでは少なくとも10kmはありそうなので乗り合いタクシーで中央郵便局のあたりに行ってもらう。
運転手は1JDを要求したが,乗り合いなので交渉して0.5JDで手を打ってもらった。そこから南に下るとアラブ・バンクと交番のようなポリス・ステーションが向かい合っており,銀行の横の路地に目的の「マンソール・ホテル」の看板があった。
マンソール・ホテル
アンマンでのバックパッカー宿としては「クリフ・ホテル」が有名である。もっとも,クリフの場合,ホテルが有名というよりは従業員のサーミルさんが旅行者にとても親切なので,旅行者が集まるいう側面が強い。
2007年の秋に彼はクリフをやめてマンソールに移った。そのため,日本人旅行者の常宿はマンソールに変わってしまった。階段を上がって2階のレセプションに行くと,となりのソファーにはシリアで出会った顔がいくつか見える。
サーミルさんは元気に働いており,さっそくコーヒーを出してくれた。情報ノートもクリフからこちらに移っており,これは役に立つのでありがたい。
3階のドミトリーは10畳,4ベッド,T/Sは共同で清潔である。まだ改装が終わっていない部屋もあり,部屋から出るとシンナーのにおいが漂ってくる。料金は3.6JD(600円)と妥当なところだ。
クリフホテル,サーミルさんの名前は「2004年の香田証生さん事件」で日本でも知られるようになった。彼はクリフホテルに宿泊し,サーミルさんの忠告にも応じず夜行バスでバグダッドに向かったという。彼の遺体が確認されたときサーミルさんはがっくりと肩を落としたという。
もとより,バグダッドに向かったのは香田さんの意思であり,サーミルさんにはまったく責任はない。しかし,彼の死はサーミルさんに大きな衝撃を与えたようだ。彼が移ったマンソール・ホテルに上がる階段の壁にはまるで香田さんを追悼するように「KODA Hotel」と記載してあった。
2003年3月に始まったイラク戦争から5年が経過し,その間における米軍の死者は4000人に達したと報道された。それだけではない,宗派間の対立や米軍を狙ったテロのまきぞえになって死亡したイラク人は10-15万人にのぼると推計されている。
シーア派,スンニー派という二つの宗派が混在していたバグダッドでは米軍により宗派による地区を分けるための分離壁ができているという。住民たちは否応無く,壁の向こうの地区が自分たちとは異なっているものであることを強く意識させられてしまう。
米軍の戦費は5年間でおよそ2500億ドルに迫り,現在も毎月68億ドルの駐留経費がかかっているという。昨年の米軍増派によりテロの件数は減ってきているものの,それは力による封じ込めであり本当の意味での平和の機運が訪れたわけではない。
このぼう大な金額が戦争という破壊行動ではなく平和構築や地球環境対策に振り替えられたら,いやその10分の1でも使用されたら,世界は違った方向に進んでいくことになるのにと思わざるを得ない。
ラマザーン明けのお祝いなのだろうか,その日の夕食はサーメルさんが作り,宿泊客に無料でふるまってくれた。チキン入りの炊き込みご飯,スープ,サラダである。マンソールに移籍して多少は給与も上がったろうけれど,彼にこのような散財をさせることはとても心苦しい。彼のこころ尽くしの料理を宿泊客と一緒に喜んで平らげた。サーメルさんのこのような人柄が特に日本人旅行者にとってはたまらない魅力となる。
キング・フセイン・モスク
ヨルダンのラマザーン(断食)はトルコやシリアよりも厳格で,外国人がタバコを吸っていても注意されるという。人前では水も飲めない雰囲気なので苦労しそうだ。もっともラマザーン月は明日か明後日には明けるので,もうじきこのような苦労からも解放される。
宿の前のキング・フセイン通りは片側2車線,中央分離帯がありそこにはシュロの木が植えられている。この木は方向音痴の僕にとっては良いランドマークになった。とりあえず南東に歩いていくとじきに大きな交差点に出て,キング・フセイン・モスクが見える。
アンマンで最も歴史のあるこのモスクは僕のガイドブックの「見どころ」には載っていない。歴史的あるいは文化的な価値のある施設だけではなく,このような庶民的なモスクを訪ねると地元の人々の生活が少しは分かるようになる。
キング・フセイン・モスクは英語読みであり,アラビア語では「アル・フサイン・マスジド」と呼ばれているはずだ。やはり,アラビア語圏ではアラビア語の呼び名がピンとくる。アル・フサイン・マスジドは7世紀に第2代正統カリフであるウマル・イブン=ハッターブが建設を指揮したとされている。
現在のモスクはトランス・ヨルダンの初代国王に任じられたハーシム家のアブドッラー・ビン=フサインによりオスマン様式に改装されている。フサインは彼の父であるフサイン・イブン=アリー の名前なので,父親の名前を冠したようだ。
アラブ・イスラム圏では名前の付け方はちょっと変わっている。ハーシム家の例で分かるように父親の名前が苗字のように使用される。ヨルダンの初代国王アブドッラー・ビン=フサインは「フサインの息子アブドッラー」となる。
イラク戦争で失脚したかのフセイン大統領も正しい名前は「サダム・フセイン」であり,フセインは彼の父親であるフセイン・アブドゥルマジドの名前を受け継いだものである。
さて,この由緒あるモスクは道路の反対側からカメラを構えても全体を撮るのは難しい。ミナレットの感じからするとオスマン様式にも見えるが,やはりドームが見えないのでちょっとピンとこない。
このモスクはミナレットを除くとダマスカスのウマイヤド・モスクとほぼ同じ構造となっている。方形の中庭を囲むように回廊付きの建物はあり,メッカの方角にあたる南側が礼拝堂になっている。雨の少ない季節なので回廊だけではなく中庭にもじゅうたんが敷かれている。
僕はジーンズ,半袖ポロシャツと地元の人とほぼ同じ服装なので中に入ってもとがめられることはなかった。これがグループならばなにがしかの摩擦が生まれるかもしれない。
ラマザーンの期間中ということもあり,中庭や礼拝堂には多くの男性が寝転んだり世間話をしたりしている。モスクは集団礼拝のための空間であるが,礼拝時間以外は自由に過ごしていいようだ。
もちろん決まった時間以外に礼拝をすることも自由だ。何人かの人々は礼拝堂の壁に向かって並び,祈りを捧げている。中庭のじゅうたんに坐り,コーランを唱えている人もいる。
礼拝堂の内部はアーチをかたどった礼拝専用のじゅうたんが敷かれている。メッカの方角を示すミフラーブという壁の窪みはほとんど装飾がない。壁面は漆くいで塗られており,高さ1mくらいまでが幾何学模様のタイルで飾られている。
下町らしいにぎわい
アル・フサイン・マスジドの前のキング・タラール通りの両側は下町らしいにぎわいをみせている。このあたりは交通量が多いのか,駐車している車がジャマをしているのか,いつも混雑している。
黄色の粉のかかった魚の干物
ここを少し北東に行くと右側に野菜や果物の露店が出ている。その中で黄色の粉のかかった魚の干物があった。大きな魚を干物にするときは内蔵をとり,開きにするのが普通であるがここのものは頭も付けたたまま丸干しになっている。これはヨルダンの新発見だ。
ニンファエウム(ニンフの聖なる噴水)
近くには2世紀後半に造られたニンファエウム(ニンフの聖なる噴水)があるが,発掘作業が続いており,金網で囲われていた。
ローマ劇場周辺
少し先にあるローマ劇場は外から眺めた限りではけっこう保存状態は良いようだ。劇場の前の広場にはテントが張られ,まだ17時にもならないうちから人々が集まっている。ここはおそらくラマザーンの食事がふるまわれるところであろう。
イスタンブールではこのようなテントでラマザーン食をいただいたことがある。地元の人々と会話は成立しなくても,一緒に食事をいただくのはとても素敵な思い出になる。南の山の上にはモスクと教会があり,この国にもキリスト教が残っていることが分かる。
夕食は一人だったら迷わずここに来たことだろう。しかし,マンソールには多くの日本人旅行者がおり,彼らと一緒に19:30に夕食に出たところ,ほとんどの店が営業を終了しており,結局ケバブサンドイッチとコーラという食事になってしまった。ヨルダンの物価は高くこれだけで1JD(170円)である。
丘の多い町
この辺りも道路はもっとも低いところを走り,この周辺は南と北の丘に挟まれた狭い平地になっており,どちらを見ても丘の斜面に沿って段々畑のように建物が競り上がっている。どうしてこのような不便なところに町を造ったのか不思議であるが,古い歴史のある町なので相応の理由があったのだろう。
アンマン城に登る
宿の北東にある「城砦の丘」の上にアンマン城の遺構がある。直線距離は400m程度なのだが道路はずっと東を迂回しているので2km近くありそうだ。人口増加によりアンマンは丘の上まで家屋が建っているので民家の間を抜けていくとショートカットができそうだ。
とりあえず丘の南側の道路に出て,斜面に並ぶ家屋を見ながら上に登れる道は無いかと探してみる。家屋がかなり丘の上まで迫っているので登れそうだ。途中からは民家の間の階段を上がり,展望台に出ることができた。
最後の階段はその家の子どもに通行料を要求され,笑ってごまかしてしまった。このルートを利用する人は多いのかもしれない。僕としては丘の上からの眺望が目的なのでこの展望台までで十分である。それでもそこから見えるヘラクレス神殿跡にそびえる石柱の写真はしっかり撮っておく。
この街がアンモンと呼ばれている時代から繰り返し造営されてきたアンマン城は遺構しか残っていないので写真にはならない。丘の下では現在も発掘が行われており,重機が置かれている。遺構は丘の最上部だけではなく斜面にまで広がっている。
支配勢力が交代するたびに造営されたのでかなり広い範囲に遺構があるようだ。時代により建築資材が変わっているのか,自然石を積み上げた壁もあるし,切石を使っている建造物もある。いずれにしてもそれほど見る価値のあるものではない。この丘の価値はやはり街の眺望である。
しかし,その眺望は無粋な電線により邪魔されている。展望台付近から眺めるとちょうど電線が横切ってしまう。展望台から少し下がったあたりが撮影ポイントである。
昨日,外から眺めただけのローマ劇場の全貌がよく見える。向かって左側の最上部は崩れているけれど,全体として保存状態は良好である。それにしても,ローマはその支配地域のあらゆるところにこのような巨大な建造物を残している。その建築に対する熱意には頭が下がる。
ローマ劇場は向かいの丘の斜面をそのまま利用して造られている。人口の急増により背後の丘は最上部まで家屋で埋め尽くされている。アンマンは地震がよく発生するところである。この斜面の家屋が強い地震でどうなるのかと考えただけでも恐ろしい気になる。