ボスラはダマスカスの南約150km,ヨルダンの国境近くにある人口1万人に満たない小さな町である。紀元前1世紀にナバタイ王国の北の都(南の都はペトラ)となり交易の中継都市として繁栄した。
ローマ時代にもローマの属州アラビアの首都として引き続き繁栄した。この時期に有名なローマ劇場をはじめとする数多くのビサンツ様式の建造物が建てられている。石材としてこの地域で豊富にある玄武岩を使用したため,街全体が黒っぽく見える。
7世紀になるとアラブ人の支配下に置かれ,12世紀には十字軍に備えて要塞化される。しかし,その後は交易の主要路から外れたため衰退し,都市は放棄された。1980年に世界遺産に登録されたので,現在はダマスカスからの直通バスも運行されている。
2003年頃までは遺跡の中に宿泊できるところがあったが,イタリア人が酒を飲んで大騒ぎをしたらしく,宿泊禁止になってしまった。ここに宿泊するのも楽しみの一つだったのでとても残念だ。その結果,この町には100$の高級ホテル以外はちゃんと泊まれるところが無くなったのでダマスカスからの日帰りにするか,50kmほど離れたダラーに泊まらざるを得ない。
ボスラ日帰り観光に出発する
07:30に起床しボスラに出かけようとするとNさんがチェックアウトするところであった。彼はヨルダンに向かうという。僕も明日はヨルダンに向かう予定なので向こうで再会できるかもしれない。
ボスラはヨルダン国境の近くにあるのでヨルダン行きと同じガラージュ・ソマリアからバスが出ている。ガラージュはバスターミナルを意味するアラビア語である。中心部からは西に10kmほど離れたところにあり,2007年からはここがメインのBTになった。
ソマリアBTに行くには宿の近くのシュクリー・アル・クワトリ通りからセルビスを利用することになる。しかし,外国人が自力でひっきりなしにやって来るセルビスの中から目的地に向かうものを見つけるのは不可能に近い。Nさんが人の良さそうな地元の男性にお願いしてようやく見つけることができた。
しかし,セルビスは満員,我々はしばらく床にしゃがむことになった。荷物のスペースが無いので混雑している時は本当に大変だ。しかし,料金が5SPでは文句を言うのはぜいたくというものだ。
車はまっすぐ西に向かい家屋の途切れた辺りでBTに到着した。道路側はセルビスもしくはミクロバス,その奥にBTの建物がある。ヨルダン行きのバスはすぐに見つかり,Nさんと再会を約してお別れする。
ボスラ行きのバスは10時発のものしかない。チケット(65SP)を買って近くにあるシリア風ファストフードで朝食をとる。シリア風の小さなピザは決しておいしいものではない。
ザックの背負いカバン
バスは2時間弱でボスラの町に到着した。終点まで乗るとシタデル・ローマ劇場の前まで行ってくれるようだが,町の中で下校中の子どもたちを見つけ,途中下車をしてしまった。そのため,帰りのバスのチケットを買いそびれてしまった。やはり,帰りの足は事前に確保すべきであった。
肝心な子どもたちの写真はうまくいはない。写真慣れしていないので足早に行き過ぎてしまう。女子児童の服装は青の上着に紺またはジーンズが多い。青の上着は形によらず制服のようになっている。
全員が背中にナイロン製のザックをランドセルのように背負っている。このザックは世界的に見ても小学生の背負いカバンの主流になっている。皮製のランドセルを背負っているのは日本と韓国の子どもたちだけだ。
日本のランドセルは明治20年(1887年)に当時の皇太子(後の大正天皇)の学習院入学に際して,内閣総理大臣伊藤博文が特別に調整させ献上したのが原型とされている。
当時は軍隊で使用されていた布製の背嚢(はいのう,今のリュックサックに近い)あるいは風呂敷に包むのが主流であった。皮製のランドセルは学習院を中心に男子児童,その後は女子児童に使用されるようになった。箱型のランドセルを「学習院型」と呼ぶのはそのためである。
しかし,ランドセルは高級品であり,普通の子どもたちは依然として風呂敷などを使用していた。日本全国で小学生がみんなランドセルを背負うようになったのは戦後のことだ。
ランドセルの語源はオランダ語で背負い鞄を意味する「ランセル」であり,このランセルが「ランドセル」の原形である。日本ではランセルが発音しづらかったので「ド」を入れてランドセルとなったといわれている。
昔のものは現在より小さいにもかかわらず,1.6kgもあったという。現在のものは教科書が大きくなったこともありふた回り大きくなっているにもかかわらず,重さは半分程度になっている。
値段は1-4万円とシリアの子どもたちが背負っているものに比べると比較にならないくらい高い。まあ,ほとんど手作りに近い皮革,もしくは人工皮革製品なので高いのは当然である。しかも,中国から輸入するというわけにはいかないので少子化にもかかわらずこの業界は安定しているようだ。
ボスラ遺跡
大きな通りを歩いていくとシタデル・ローマ劇場の前の広場に出る。シタデルは城塞を意味する。劇場と城塞の結びつきは奇妙なことであるが,12世紀に十字軍に備えて要塞化された名残であろう。
実際に建物を目にすると石造りの堅固な要塞である。636年にイスラム勢力がビザンツ帝国からこの地域を奪取すると,劇場は本来の目的では使用されなくなった。その代わりにこの建造物が防御にきわめて適していることから,劇場を内部に閉じ込めるように堅固な城壁を築いていった。
その結果,12世紀までに劇場はシタデル(城塞)となり,十字軍の2度に渡る攻撃にも耐えることができた。12世紀には城壁の外側に濠が巡らされていたが,現在では一部を除きその痕跡ははっきりしない。劇場見学は後にして,周辺の遺構をまず回ることにする。
劇場の西と南側は広場になっており,加工した自然石が敷き詰められている。その石畳は南に向かう大通りにも同じように使用されている。少し離れたところにはこの小さな町には不釣合いな2本のミナレットをもった立派なモスクが見える。
ボスラは繁栄した古代都市遺跡なので,1km四方くらいの広がりをもっている。遺跡らしい風景は確かに存在するのだが,そこには地元の人たちが居住している。最盛期の数万人からほど遠い人数ながら,ボスラが交易路から外れて都市として放棄された後も,人々はここに住み着いてきた。
遺構の石畳の道も住民の生活道路になっており,遺跡の建物にも人が居住している。往時の建造物に使用されていた石材は住民の家造りに使用されており,遺構と現在の村の境界ははっきりしない。
周辺を歩いてみると,どこまでが遺跡でどこからが居住区なのか線引きするのは不可能だ。遺跡の写真を撮っているつもりでも,パラボラアンテナが構図に入っていたり,アーチ門の向こうに普通の民家があるというようなことになる。
ざっと見たところではローマ時代の地面は現在より2mほど低いところにある。つまり,全体を2mほど掘り下げると2世紀の都市遺跡の全貌が現れるのであるが,村の生活地域と重なっているため発掘は相当難しいようだ。住民のいない地域はそれなりに発掘され,往時の石畳が見えるようになっているが,多くの場所では遺構は埋もれたままになっている。
太古の火山活動により玄武岩はこの地域でもっとも入手しやすい石材である。そのため遺跡の多くの建造物には黒っぽい玄武岩が使用されており,それは今まで見てきた石灰岩を使用した明るい感じのローマ遺跡とはかなり趣が異なる。
遺跡をさまよう
ボスラのように広い遺跡を順を追って見学するのは苦手だ。いつも「おっ,あれは」という方向に適当に歩いて写真を撮る習性があるので,帰国後に写真を眺めていてもどのように歩いたのかは思い出せないことが多々ある。ボスラもそのような遺跡であった。
記憶ちがいのところがあればご容赦願いたい。ローマ劇場を左から回りこみ北側に出る。劇場から北に向かって石畳の道があり,その両側には白い石灰岩の列柱が並んでいる。ここだけはなぜか白っぽい石灰岩の石柱が使用されている。道の向こうにはアーチ形の門がある。
門に近づくと右側の視界が開ける。黒っぽい石柱が林立しており,地面には黒い切石と石柱がころがっている。門の向こうは遺跡の東西方向を結ぶ石畳の大通りがあり,そこは地元の人の生活道路になっている。
世界遺産の遺跡の中に人が住んでいる
近くには民家があり地元の人がいるので覗いてみるとパン屋であった。この遺跡の中心部で堂々とパン屋を営業しているとはちょっと驚きだ。お使いに来た女の子が窓からお金を差し出している。カメラを向けるといいタイミングで振り向いてくれた。
この辺りの建造物はほとんど崩れており,原形は想像がつかない。ガレキの向こうにはオマール・モスクの四角形のミナレットが見える。北側には古い石材を再利用した民家が点在し,テレビのアンテナやパラボラも見える。本当に多くの人々が遺跡の中に暮らしている。玄武岩の黒がお気に召さないのか壁の一面を漆くいで白く塗っている家もある。
高さ14mのニンファエウム(神殿)の柱だという
東西方向の大通りを西に行くと城壁の風の門に出る。しかし,僕はそちらは全然見ないで東に向かって歩いたようだ。交差点のところにひときわ高い石柱がある。高さ14mのニンファエウム(神殿)の柱だという。この交差点から北に真っすぐ石畳の道がオマール・モスクのミナレットに向かって伸びており,その両側には黒い石柱が並んでいる。
鳥居のような建造物
交差点の東側は石畳の道が土砂に埋まっており,二本の石柱に支えられた鳥居のような建造物がある。なぜか,片側は丸い石柱であるが,反対側は建物の壁から四角い石材を積み上げている。これも宗教的な建築物だという。この建造物とオマール・モスクのミナレットはどこからでもよく見えた。
外部階段を利用し屋根に上る
オリジナルのものかどうかは怪しいが,いくつかの建物には外階段がついているので容易に屋根に上がることができる。遺跡保存の観点からは好ましいことではないが,屋根の上からは違った視点の写真が撮れる。
とはいうものの,いつ崩れてもおかしくないようなものなので屋根の上に登るのはかなり危険そうだ。壁際の比較的安全なところを歩いて見学することにする。
浴場?とアゴラ
そこからは黒い石柱の道路とアゴラ(市場)の遺構がいい角度で見える。神殿の柱は列柱よりも3倍ほどの高さをもっている。アゴラの建物はボスラでは珍しい赤っぽい石で造られており,その前には白い石柱が立っている。
視線を巡らすとローマ劇場もその手前の大きな建造物も赤っぽく見える。アゴラを含めて,それらの色はオリジナルの石材の色ではなく,この土地の土砂が付着したもののようだ。
近くの建物には人が住んでいるようだ。壁は漆くいで塗られ,ちゃんとした窓ができている。屋根もしっかりしているので,遺跡の石材を使用して建て直したものだろう。こうして見ると2世紀の建造物がそのまま残っているのは広い遺跡の中でもそれほど多くはない。
ナバタイ人の門
東西方向の大きな通りを東に行くとナバタイ人の門に到達する。ローマ以前にこの地域を支配していたナバタイ人の遺したものとされている。これは奥行きのある立派な門だ。
ナバタイ門をさらに東に行くと貯水池に出る。しかし,水は完全に干上がっており,監視塔だけが侘しく建っている。以前にここを訪れた人のサイトを見ると,少なくとも2005年の5月にはここには満々と水が湛えられていたという。それ以前にも水はなかったと報告している旅行者もいるので,水量は降雨などの自然条件で大きく変動するようだ。
シタデル・ローマ劇場|入り口の展示品
中心部に戻り,シタデル・ローマ劇場に入ることにする。劇場の東側は広場になっており,その周辺には観光客用の食堂が数軒ある。世界遺産の入場料は150SP,妥当な金額だ。
入口を入ると周辺の遺構から発掘された石像やモザイク画などが展示されている。石像の半分くらいは造形が稚拙でありローマ時代のものとは思われない。
シタデル・ローマ劇場|感じの良い回廊
その先は感じの良い回廊になっている。所々に天井の明り取りがあるが,それを補うように松明を模した照明があり,なかなかの趣である。とはいってもここは城塞の一部であり,場所によっては矢を射るためのスリットが開けられている。
シタデル・ローマ劇場|観客席と舞台
回廊を歩き回っていると劇場の上段の観客席に出た。およそ15000人が収容できるという巨大な施設は非常に保存状態がよい。アラブ人の時代には外側は城塞にされたが,劇場部分も強化材で覆われていたという。この強化材が風化から遺跡を守ってくれたのである。
観客席は直径102mの半円状になっており,下から14,18,5列の3段・37列からなっている。下段,中段,上段に数箇所の出入り口が設けられている。出入り口の前は半円状の通路となっており,出入り口の両側には上下方向に移動するための階段がある。
最上部には列柱廊が巡らされており,この形式のローマ劇場はボスラにしか残されていないという。正面にステージがあり,その背後には役者の声を反響させ観客席に届けるためのスケナエ・フロンスとよばれる壁面がある。
スケナエ・フロンスの下部には楽屋に通じる3ヶ所の出入り口があり,それを飾るようにこの地域では産出されない白大理石の列柱がある。円柱の上部はコリント式の稠密な装飾が施されており,かなり強い印象を受けた。
この広い遺跡に観客は僕を含めてたった数人しかいない。その中の二人が舞台の中央に座り込んで話をしており,これはじゃまだった。まあ,それでも遺跡の大きさを分かってもらう尺度になってくれた。
すり鉢状の形状をしているローマ劇場は斜面の傾斜を利用して造られることが多い。しかし,ボスラのものは平地にそのまま造られており,すり鉢構造全体が石造りの建造物となっている。観客席の下はなかなか複雑な通路になっており,大部分はかなり暗い。あちこち歩いていると屋外博物館に出た。
ナバタイ文字なのであろう
ここにも周辺の遺跡から出土した円柱や石像が展示されている。さらに適当に歩いていると不思議な文字が記されている石材があった。おそらくこれがナバタイ文字なのであろう。
この劇場の建築年代についての議論はまだ決着がついていないが,専門家の多くはナバタイ文字が刻まれていることを根拠に2世紀にさかのぼるとしている。
城壁からの眺望
劇場の最上部から城壁に上る危ない階段があった。これは落ちると命にかかわるので一般には公開されていないようだ。両手をついて登るとそこからは遺跡を一望できる。しかし,さほどよい眺めではない。遺跡というよりは遺跡もどきの村を見ているようなものだ。これでは苦労の甲斐がない。
劇場から出て広場の近くのレストランで帰りのバスの情報を確認する。どうやら16時にバスがあるようだ。まだ1時間以上間があるのでこのレストランの前のイスに坐っていると中庭のテーブルで食事をしようとしている二人の欧米人に呼ばれ,ごはんをご馳走になった。
彼らはシリア人のガイドと一緒に遺跡を回っており,ここで昼食をとることになったという。話を聞くと彼らはオランダ人で1月ほど中東を旅行するという。
僕がイランから入って5ヶ月ほど旅行していると話すと驚いていた。出てきた料理はピラフ,肉とジャガイモの炒め物,チーズ干しぶどう,サラダと品数も量も多く,三人でも余してしまった。
バスの時間が迫ってきたのでさきほどの従業員にバス乗り場を聞くと,「16時のバスは満員」と教えらた。その代わりに彼はダラー行きのセルビスを教えてくれた。ダラーのバスターミナルでバスに乗り換えなんとかダマスカスに戻ることができた。