亜細亜の街角
カシオン山から市街を眺望する
Home 亜細亜の街角 | Damascus / Syria / Nov 2007

スーク・ミドハド・パシャ  (地域地図を開く)

ダマスカスの旧市街は西半分がイスラム教徒,東半分がキリスト教徒の地域になっており,二つの宗教が平和裏に共存している。大きさは東西に1.3km,南北に0.8kmほどなので歩いてどこでも行くことができる。

しかし,実際にこの内部の道路はかなり複雑なものとなっており,また立て込んだ建物のため見通しがきかないので目的地にたどり着くのは容易ではない。ありがたいことにほぼ中央には東西を結ぶ「真っすぐな道」がある。

この道路だけは方向音痴の僕でも迷うことはない。ウマイヤド・モスクから南に行くとこの道に出る。そこはちょうどスーク・ミドハド・パシャのアーケードが切れるところである。アーケードの屋根はトタンでできており,たくさんの穴があいている。屋根の下の天窓がなければ暗い空間に星がきらめいているような雰囲気に浸ることができるかもしれない。

このスークは人通りも多く写真の題材も多い。しかし,やはり写真を撮るならアーケードの無いところの方がずっと楽だ。問題は車の往来である。さほど広くない通りに車がひしめいている。

これは無理のないことだ。旧市街では車がちゃんと走ることのできる道路は限られているからだ。車であふれる道を注意しながら先に進む。

真っすぐな道|ムスリム地区

真っすぐな道|キリスト教地区

スーク・ミドハド・パシャから出ると「まっすぐな道」はバーブ・シャルキー(東門)まで続いており,全体の2/3ほどのところにローマ記念門がある。ここが一応イスラム教地区とキリスト教地区の境界になっている。

記念門はローマ式のアーチが一つ残っているだけであるが,あまりランドマークの無いこの通りの目印になる。真っすぐな道にT字で突き当たる道は記念門から北のバーブ・アッサラーム門に向かうものであるが,この道ですら簡単には門までたどり着くことはできない。

記念門のすぐ近くにこの道を挟むように西にモスクのミナレット,東に聖マリア教会が向かい合っている。真っすぐな道の両側の商店街も雰囲気がずいぶん変わる。今までは主流であった食料,生活雑貨に代わって,骨董品や土産物屋が多くなる。

雑多な古い生活道具に混ざって,イコンが納められていると思われる小さなアーチ型のケースも並べられている。売り物なのか虫干しなのか,じゅうたんは停車中の車に無造作に置かれている。多くの土産物屋や骨董品屋は店の古さを演出しようとして商品の飾り付けに腐心している。

道の幅は一定していないし,途中には工事区間もあり,お世辞にも歩きやすいとは言えない。通りを歩く人々の服装も完全に洋風化している。半袖やノースリーブの女性も見かける。

聖アナニア教会

キリスト教地区の見どころの一つは聖アナニナ教会である。真っすぐな道をバーブ・シャルキー(東門)の近くまで行き,北に折れるとすぐに見つかる。この教会は新約聖書にも登場する聖パウロ(サウロ)縁の教会なので欧米人のツアー客も訪れている。

新約聖書の使徒言行録(使徒行伝)の9章には次のようにように記されている。

『さて,パウロはなおも主の弟子たちを脅迫し殺そうと意気込んで,大祭司のところに行き,ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それはこの道に従う者を見つけ出したら,男女を問わず縛り上げ,エルサレムに連行するためであった。

ところがパウロが旅をしてダマスコに近づいたとき,突然天からの光が周りを照らした。パウロは地に倒れ「パウロ,なぜ私を迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。(中略)

パウロは地面から起き上がって,目を開けたが何も見えなかった。人々は彼をダマスコに連れて行った。パウロは三日間目も見えず,食べも飲みもしなかった。

ところでダマスコにアナニナという弟子がいた。幻の中で主が「アナニア」と呼びかけると,アナニアは「主よ,ここにおります」と言った。すると主は言われた。「立って直線通りと呼ばれる通りへ行き,ユダの家にいるパウロというタルソス出身の者を訪ねよ」(中略)

そこでアナニアは出かけていってユダの家に入り,パウロの上に手を置いて言った。「兄弟パウロ,あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは,あなたが元どおり目が見えるようにようになり,また聖霊で満たされるようにと,わたしをお遣わしになったのです」。すると目からうろこのようなものが落ち,パウロは元どおり見えるようになった。


これによりパウロは洗礼を受けてキリスト教徒に改宗し,アンティオキアを拠点として小アジア,マケドニアなどローマ帝国領内で布教活動を行った。「使徒行伝」では3回の伝道旅行の後にエルサレムで捕縛され,ローマで殉教したとされている。

キリストが十字架に架けられてから改宗した彼はいわゆる12使徒には含まれないが,初期キリスト教の最も重要な理論家となった。多くの「信徒への手紙」を遺し,それらは新約聖書にも含まれている。

聖アナニア教会はここに出てくるアナニアの名前を冠した教会である。門をくぐり中に入ると欧米人の団体が中庭のベンチで休んでいる。キリスト教徒にとってはこの教会は聖書に記された故事をたどるものであろう。

右側にはパウロの上に手をかざすアナニアの彫像があり,聖書の故事を知る者にはそれと分かるが,知らない者にとってはただの祝福の像に見えるであろう。旅行の前にあらゆることを調べておくのはもちろん不可能であるが,旅行から帰った後に自分が見聞きしたことを調べ直すのも楽しい。

僕はたまたま日本人の団体客と一緒になったのでガイドの説明でパウロのことだと知ることができた。ガイドの男性は「聖書では,このときパウロの目からうろこのようなものが落ちたとされています,これが『目からうろこが落ちる』の語源となっています」と丁寧に説明してくれた。

なるほど,そういうことだったのか。この団体について階段を下りると,地下には時代を感じさせる古い石積みの礼拝堂がある。半地下式の様式,石組みの古さから考えるとキリスト教のごく初期のものと考えられる。

正面には三枚の絵が飾られている。右から神の光により落馬するペトロ,アナニアに癒されるペトロ,カゴに乗ってダマスカスの城壁を越えるペトロとなっており,いずれも聖書に記載されている場面である。

礼拝堂には十字架すら飾られていない。このことからもここが原始キリスト教の様式であることが分かる。人々はこのような場所で信仰を告白し教団を形作っていったことだろう。

礼拝堂に入る回廊の両側にはたくさんの絵が飾られている。おそらくパウロの改心前後から伝道の様子を描いたものであろう。人間の意識とは不思議なものだ。自分がうろ覚えでも知っている事物はそれなりに意識を集中して見ることができる。日本人の団体のガイドさんに感謝しよう。

バーブ・シャルキー(東門)付近

東門の内側も工事中で地面はほじくり返されている。門の横には見張りのための塔があり,厚い城壁が飾りではないことを思い知らされる。イスラムが西アジアを席巻してからも,戦乱は絶えることがなかった。

城壁で囲まれた都市が落ちるということは,多くの場合,市民を含む虐殺と略奪を意味する。そのあたりは日本とはまったく事情が異なる。

日本では城が落ちるということは支配者の滅亡は意味しても,戦略的な放火などを除き,城下町の人々がそれに巻き込まれることはない。その差がこの城壁に表れている。

近くにはアルメニア使徒教会がある。アルメニア本国で見たものとは異なっており,おそらくオスマン帝国による第一次世界大戦中のアルメニア人の強制移動後のものであろう。

塀の上の案内板にはなつかしいアルメニア文字があった。一番下には英語表記があり「Armenian Apostorolic Orthdox Church」とあった。辞書で確認するとApostorolic は12使徒(の教え)に関するという意味であった。

シリアの人口は約2200万人であり,キリスト教徒は約10%(約220万人)を占めている。アルメニア人はキリスト教人口の約8-10%(約20万人)とされている。その多くは第一次世界大戦のさなかにオスマン帝国領の東部アナトリアからシリアに強制移住させられてきた人々の子孫である。

アルメニアはユダヤ人と同様に数奇な運命をたどった民族であり,現在もアルメニア人の7割はアルメニア共和国外に居住している。アルメニアが国家として歴史に登場するのは紀元前1世紀の大アルメニア王国である。王国の支配地域は南カフカスを中心に地中海にまで及んでいた。

キリスト教を早くから受け入れ,301年に世界で初めてキリスト教を国教とした。現在でもアルメニア人の大半は非カルケドン派であるアルメニア使徒教会の信者である。世界に拡散したユダヤ人を定義するものはユダヤ教であるよはうに,アルメニア人のアイデンティティはアルメニア使徒教会にある。

しかし,その後はローマ帝国とササン朝ペルシャの支配を受けようになる。9世紀半ばにはバグラト朝が興り一時的に独立を回復するが,セルジューク朝やティムール朝などの侵攻を受け国土は荒廃した。

このため10世紀に多くのアルメニア人が故国を捨てる(ディアスポラ)ことになった。11世紀にはレバノン地方への移住者がキリキア王国というアルメニア人国家を樹立したが,それも長くは続かなかった。

17世紀にはアルメニア人居住地域はオスマン帝国とサファヴィー朝ペルシアに分割統治され,19世紀にはペルシャ統治地域はロシア領となる。19世紀の後半になるとオスマン帝国領内のアルメニア人の族意識が高まり,複数回の武力衝突が発生し多くのアルメニア人が虐殺されている。アナトリア東部のアルメニア人の多くは欧米への移住,あるいはロシア領へ避難した。

第一次世界大戦ではオスマン帝国の東部戦線ではロシアと戦うことになり,ロシアに内通して叛乱を起こすことを恐れたオスマン帝国は1915年に東部アナトリアのアルメニア人をシリアに強制的に移住させた。戦争と強制移動により100-150万人のアルメニア死亡したとされている。

アルメニア共和国およびアルメニア人の多い欧米諸国はこの件を「アルメニア人ジェノサイド」と呼んで避難しているが,トルコ政府は計画性や組織性を認めていない。ここにあるアルメニア使徒教会の1915年と記された石碑はこのときの虐殺を伝えるためのものであろう。

聖パウロ教会

聖パウロ教会は南側なので真っすぐな道を少し戻り南に行こうとしたらこれは大不正解。ガイドブックには壁は記載されていないのに教会にはたどり着けないようになっている。

ケガの巧妙は「ノックする手」を見られたことだ。これはドア・ノッカーなのだが,ムハンマドの四女ファーティマの手を模したものである。

どのようないきさつかは分からないが,ムスリムは理想の女性とされるファーティマの手を護符にするようになった。そうは言われてもこの手をつかんでドアをノックするのは僕にはためらわれてしまう。

とうことで,東門から外を回るのが正解。すぐに教会は見つかる。歩道からは近過ぎて全体がフレームに入らない。かといって,片側3車線,中央分離帯つきの道路を横断する勇気は無い。

この教会はとても新しく,あまり教会らしくはない。内部には何枚もの壁画が飾られているものの内容はよく分からない。唯一,パウロが籠に乗せられ城壁から吊り下ろされる場面は分かる。この教会の立っている場所はまさしく,パウロが吊り下ろされたところだという。

学校がある

聖パウロ教会からの帰りに小学校があった。ちょうど下校時間で子どもたちは学校の前の石段に腰を下ろしている。なぜか石段に坐っているのは全て女子生徒である。青の上着に紺系のズボンが制服のようだ。

ジーンズもOKである。何人かの生徒はスカーフを被っているのでムスリムとキリスト教徒の子どもたちが混在しているようだ。別に宗教が異なる子どもたちが一緒に学べないということはないだろうが,宗教と生活習慣が密接に結びついているので授業内容は難しいこともあるだろう。

門の外から写真を撮っていると三枚目で見つかってしまった。子どもたちは写真好きなので何の問題もないが,横に並んでくれないのでフレームがムチャクチャになる。おまけに必ず前に出てくる大きな子がおり,思うようにはいかない。まあ,制服の子どもたちが撮れたのでよしとしよう。

ラマザーン期間中の朝食

07時に起床,しばらくベッドで考え事をしていたらフランス人の目覚ましが鳴ったのでそれに合わせて起きることにする。問題は朝食だ。朝食の材料は買っていないのでどこかで朝食をとらなければならない。しかし,ラマザーンはまだ明けていないので苦戦が予想される。

とりあえずヒジャーズ駅方面に行こうと東側の陸橋の下を歩く。うまい具合にサンドイッチ屋があり,ニ人がイスに腰を下ろして食べている。前の人の注文の仕方を観察すると,サンドイッチの具材を指定すれば良いことが分かった。野菜とチーズを指定すると,それを薄いパンで巻いてくれた。

これが25SP(60円),味は悪くない。肉類が入ると値段が上がる。次の日はレバーを指示したら,焼きたてのものをたくさんくるんで50SPであった。飲み物は冷たいものしか無いので遠慮しておく。ともあれ,朝食が確保できたのはラッキーであった。

国立博物館

そのまま真っすぐ歩き国立博物館に向かう。博物館はすぐに見つかったが入口が分からず無駄に敷地を半周してしまった。入場料は150SPと妥当な値段だ。博物館の庭は彫刻庭園となっている。

樹木の豊かな庭園に遺跡からの出土品が展示されており,それを周りの遊歩道から眺める趣向になっている。石像,モザイク画などここだけでも立派なコレクションである。

彫刻庭園に展示されている石像の多くはギリシャ,ローマ時代のものであり,7世紀以降のイスラム時代のものは少ない。偶像崇拝を禁じたイスラムにおいては,芸術・美術の分野でも人や動物を模った像は制作されなかったようだ。

この庭園でも石像の顔の部分が削られているものが多数あり,これもイスラムも影響である。展示品には説明書きがないのでどのような由来のものなのかは分からない。

それでも,ブッダを思わせるような石像,ギリシャ式の柱頭,凝ったレリーフの施された石棺などがそこかしこに置かれており,庭園の中を歩くだけでも楽しい。牡牛に襲いかかる翼をもったライオン(グリフィンかな),イノシシ狩りなどの立体的なレリーフもすばらしい。

本来のグリフィン(仏語はグリフォン)は鷲・鷹の翼と上半身,ライオンの下半身をもつ伝説上の生物である。ここに展示されているものは翼をもったライオンなので厳密には定義にはあてはまらならない。

また,ライオンが牡牛を襲う場面はイラン・ペルセポリスのアーバータナーに上がる階段の側面に彫られたレリーフにも描かれており,西アジア共通のモチーフなのかもしれない。

グリフィンの語源はギリシャ語ではあるが,オリジナルは古代メソポタミアであろう。古代メソポタミアの多くの遺跡からは人間と動物,あるいは動物と動物を合体させたキメラのような空想の怪獣の像が飾られている。

モザイク画が展示されている一画もある。モザイク画は色の異なる自然石を細かく砕き,それをジグゾーパズルのように並べて絵に仕上げるものなので屋外に展示しても大丈夫なようだ。婦人像,熊に襲われるアンテロープ,グリフィンに襲われる牡牛など動物を題材にしたものが多い。

博物館の収蔵品はさらにすごい

博物館の入口も変わっている。本来の建物に古代遺跡の門を付加している。この門に相当するものはパルミラの近くで発見されたウマイヤ朝時代の宮殿のもので,小さな破片を集めて再現したものだという。博物館の入口を歴史的建造物の門で飾るという発想はすごい。

もっとも,博物館の収蔵品はさらにすごい。歴史の長いシリアで発掘された一級品の文物が展示されており,興味は尽きない。展示は大ざっぱにウガリット(BC14世紀),マリ(BC20世紀),パルミラの地下墳墓(AD3世紀),ドゥラ・エウロポス(BC3世紀)など遺跡ごとに分かれている。

記憶に残るのはドゥラ・エウロポス出土のフレスコ画,マリ出土のウガリット文字の小さな粘土板,ビザンツ時代のモザイク画などだ。他にも青銅器,土器,石像が多数展示してあり150SPの価値は十分すぎるほどある。

ここでは,長い歴史と支配民族の変遷の中で生み出されたシリア文明の多様さと奥深さを知ることができる。しかし,いくら興味深いものでもこの博物館のぼう大なコレクションはとても覚えきれるものではない。

そのコレクションの写真を(おそらく許可を得て)何枚か撮影した人がいるので, 「Syrian National Museum」を参照していただきたい。web の世界は探すといろんな情報が見つかるものだと感心する。

博物館の中は撮影禁止である。自分の手元に情報を残すためには,敷地内の土産物屋で絵葉書や写真集を買うしかない。館内では先生に引率された小学生の一団を見かけた。

子どもたちのため館内には学習用の部屋があり,そこで子どもたちは展示物を描いたり,砂場で石器などを掘り当てる遊びを通して学んでいた。その後,彼らは集団で見学に出かけていった。僕も十分に楽しみ,同時に疲れ果てて博物館を後にすることになった。

カシオン山に向かって歩く

カシオン山の住宅街を上る

博物館を出てカシオン山を目指して歩き出す。カシオン山はダマスカスの北側にある小さな山である。市内の見通しの良いところから緑の全く無い茶色の山肌を眺めることができる。

頂上には軍の施設があるので,うっかり迷う込むと面倒なことになる。市内からの写真も頂上を含めたものは撮影禁止となっているらしい。そうは言っても,それほど高い山ではないので,そちら方向の写真を撮れば自動的に上まで入ってしまうのでしょうがない。

ガイドブックの写真にも頂上のアンテナがしっかり写っている。ダマスカスの南側に広がるグータ・オアシスを保存するため,開発は北側に向かうことになる。現在ではカシオン山の中腹まで家屋がびっしりと立ち並んでいる。

さて,博物館からどうやってカシオン山に登ったのか,どうもルートがはっきりしない。ウマイヤド広場に出て,そこからカシオン山が見えるのでそのまま真っすぐ歩いたと思う。

広場のロータリーには学校帰りの子どもたちが大勢セルビスに乗るため並んでいる。カメラを向けると笑顔が返ってくるのでありがたく撮らせてもらう。ロータリーから山に向かう道路は大渋滞をしている。

少し先のロータリーでは車が我先にと進入するためにっちもさっちも行かない状況になっている。警官が出て交通整理にあたっているが,さっぱり状況は改善されない。この道路の終端には高い塀をもつ各国の大使館が多い。

車の場合はここから西を回って頂上近くの公園に行くようだが,僕は家屋の密集する道をあちこち歩き,ようやく真っすぐ上る道を見つけることができた。両側にひな壇のように家が並ぶ石畳の道はかなり急で,歩道は1mおきくらいに階段になっている。

どうしてこのような条件の悪いところに街が拡大するのか理解に苦しむ。この急な道は車の通り道になっており,片側にはずらりと駐車している。めざすカシオン山は正面に見えるけれどまだ遠い。

さすがに車の道は途中で途切れる。そこから先はさらに急な坂になっている。大変だなあと見上げていると,その道を上っていく軽ワゴンがある。見ていると近くの同じような車に子どもや女性が乗り込む。これはありがたい乗り物だと思い一緒に乗る。

車は200mほどの急坂を上り切りそこが終点であった。10SPの料金は炎天下の急坂を登ることを考えると納得できる。もっとも,そこでも斜面の家屋は密集しているうえに高さがあるのでまったく見通しは悪い。

眼下にダマスカスが広がる風景を求めてさらに登らなければならない。もう縦方向のちゃんとした道は無く,家の間を縫うように歩くことになる。ようやく横方向の道路に出て,そこから市街を眺めることができた。

といっても道路からは眺めが良くないので,他所の家の屋根に上がって見ることになる。この辺りの家の屋根はだいたい背後の道路と同じ高さになっており,しかも上は平なのでその上を歩くことができる。

ようやくダマスカスの街を一望することができた。さすがに人口200万人の大都会である。家屋の密集ぶりに驚く。旧市街はどこかと探してみたがまったく分からない。ともあれ,市街一望写真が撮れたので満足して急な坂道を下っていく。

ウマイヤドモスクで夕食

昼の山登りでけっこう疲れたので宿で昼寝をする。昼寝は旅先でのぜいたくの一つであるが,必需品でもある。長い旅行をするときは健康がもっとも大事である。体調が悪くなると旅行もへちまもない。日本にいる時と異なり歩き回ることが多いので一日の中でも休息が必要になる。

昨日は近くの両替屋に行って両替をしようとしたら40$につき2.5$の手数料を要求された。これはいくらなんでもひどすぎるので即座に断る。今日は日曜日であるが銀行は開いているので訪ねてみる。レートは1$=48.8SPであった。シリアのお金は余ってもヨルダンで再両替できるので問題は無い。

これで格別にすることが無くなったので旧市街を歩いてみる。スーク・ハミディーエを歩きウマイヤド・モスクに出る。モスクの北側のサラディーン廟の前の広場のベンチに坐り夕暮れの時間を過ごす。周囲には同じようにのんびり夕暮れを楽しむ地元の人たちが多い。

英語を話す男性が現れ,しばらく世間話をする。僕は彼をシリア人だと思っていたらチュニジアから来たという。奥さんと子ども二人を連れてシリア旅行とはすごい。別れ際に彼がウマイヤド・モスクで食事ができると言う。本当かなと思いつつも彼が示した東門に回る。

なるほど,たくさんの人が列を作っており僕もその後ろに並ぶ。後ろから日本人男性に呼びかけられる。同じ宿に泊まっている旅行者だ。「この行列は何ですか」ときかれ,「もしかしたら,ラマザーンの食事にありつけるかもしれしれない」と答える。彼も一緒に並びしばらく待つ。

やがて行列は動き出し,東門から中に入ることができた。あの白い大理石の中庭にクツのまま入るのには少なからず驚いた。行列は中庭の北側に集められ,西側から順番に場所を決められた。

広い中庭(120mX50m)いっぱいに等間隔で袋が置かれている。一袋に5人分の食事と水が入っている。人々がどんどん集まり7割くらいの席が埋まった。日本人二人を含む5人組は袋から食料を取り出し,合図を待つ。

北側にいたときは写真をとれたがこの状態ではとても無理だ。スピーカーからは説教のような調子の声が流れており,合図がよく分からないうちに食事となった。

食事の内容はごはん,干しナツメ,チキン,ヨーグルト,リンゴである。水は自分のものがあったのでお断りした。短い時間ではあったが,ウマイヤドの中庭での食事は格別の味であった。この日の夕食に集まった人々は4000人ほどと推計した。

食事が終わると人々は三々五々に家路につく。西門を出ると水売りがいる。西アジアでは水の入った大きな金属製の容器をもち,水を売り歩く商売の人がいる。イスタンブールで見かけたときはあまりよい写真にならなかったので,ここで一枚撮らせてもらう。


ダマスカス 1   亜細亜の街角   ボスラ