ハマは紀元前10世紀頃から歴史に登場している。ヒッタイトの時代にはハマテと呼ばれ,イスラエルおよびレバノンとの交易で繁栄した。セレウコス朝(BC312-BC64)時代にシルクロードの中継地となる。
7世紀にシリアはウマイヤ朝の支配下に入り,ハマでもイスラム化が進んだ。現在のハマは人口15万人,落ち着いた保守的な地方の町となっている。
ローマ時代にハマを含む東地中海一帯が「エジプト女王クレオパトラ」の領土なったことがある。ローマで大きな権勢をもっていたアントニウスがエジプト女王のクレオパトラにこころを奪われ,クレオパトラと結婚するときの引き出物としてフェニキア,ユダヤ,クレタ等のローマ領を贈った。
クレオパトラはハマから北に30kmほどのところにある都市国家アパメアを訪れたとき「なんという,豊かな国……」とつぶやたという。
ハマの豊かさを支えていたのは交易による富とオロンテス川の水であった。乾燥したこの地域で灌漑農業を行うため,人々は川の流れで水汲み用の桶の付いた水車を回し,水を高い位置にある水路まで汲み上げる揚水水車を建造した。
より高いところにある水路まで水を汲み上げるため水車はどんどん巨大化し,大きなものは直径20mを超えるようになった。周辺の土地は灌漑され,一帯は豊かな穀倉地帯となった。
現在のハマには水車は残っているものの,ほとんどが観光用のものになっている。電気あるいはエンジン・ポンプが普及すると,優雅な揚水水車は無用の長物になってしまったのだ。
町を流れるオロンテス川の水量も減り,乾季には水車が回らないこともあるという。しかし,水を汲み上げるための電気や燃料が農家の家計を圧迫している状態では,昔のような揚水水車を復活させる価値はあると思うのだが...。
ハマで知っておかなければならないのは1982年に起きた「ハマ爆撃」である。エジプトのムスリム同胞団の流れをくむシリアのムスリム同胞団はレバノンへの軍事介入(イスラム教徒左派とPLOへの攻撃)を巡ってアサド政権と鋭く対立し,政府関係者を対象としたテロ事件が度々発生した。
1982年にハマでムスリム同胞団の大規模な暴動が起こった。アサド大統領(現大統領の父親)は政府軍を派遣し,爆撃などにより1.5-2万人の市民が犠牲となった。このときの爆撃で破壊された住宅やモスクはすでに再建されており,市内には当時を思い出させるものはほとんど残っていない。
パルミラ(150km)→ホムス(30km)→ハマ 移動
07時に起床,インスタントラーメンとチーズで朝食をとる。荷物をまとめたところでブドウが残っていることに気が付きあわてていただく。チェックアウトしてモスクの近くのガラージュ(バスターミナル)まで歩く。
チケット売り場でホムス行きのバスの時刻を確認すると10時だという。少し小さいバスならすぐに出発するいうのでそちらにする。およそ15分後の08:45にバスは動き出した。しばらくすると道路の左側は一面のオリーブ畑となる。木はまだ大きくないので新しい農園のようだ。
オリーブは地中海の周辺地域が原産地とされ,現在でも主要生産地は地中海沿岸となっている。葉が小さくて硬く,比較的乾燥に強い。非常に昔から利用されてきた植物で,旧約聖書では大洪水の後でノアが鳩を放ち,二度目にオリーブの枝をくわえてきたので水が引いたことを知ったという下りがある。
このため鳩とともに平和の象徴ととされ,国際連合の旗にも世界を取り巻くオリーブの葉が図案化されている。地中海世界では料理油の定番となっているオリーブオイルも世界の植物油の生産量からするとそれほどの量でもないし,この5年は生産量も増加していない。
世界の植物油生産(出典:(財)日本植物油協会など,単位:100万トン)
種類 |
世界生産量 (2000年) |
世界生産量 (2005年) |
反収 (kg/ha) |
大豆油 パーム油 なたね油 ひまわり油 落花生油
綿実油 ココヤシ油 パーム核油 オリーブ油 とうもろこし油 |
27.1 23.8 14.0 8.7 4.9
3.9 3.5 2.9 2.8 1.9 |
34.9 36.1 18.2 11.0 4.6
4.9 3.2 4.2 2.7 2.2 |
300 3,900 500 500 200
1,500 - - - - |
2時間弱でホムスに到着した。しかし,路上で降ろされたため場所が分からない。道路を渡ったところにバスターミナルがあり,ハマ行きを探したがここからは出ていないと告げられる。どうやらガラージュ・ブルマンのようだ。
周りの人たちがセルビスに乗れと教えてくれる。ワゴンタイプのセルビスは荷物スペースが無いので気兼ねしながら通路に置かなければならないので大変である。1kmほど離れたミクロバスターミナルに到着して20SPを出すと15SPのおつりが返ってきた。市内のセルビスは5SP(12円)と覚えておこう。
ハマ行きのミクロバスは普通のワゴン車である。この車も荷物スペースが無いのでとても窮屈な思いをした。ハマでも路上で降ろされた。方位計が無いのでどちらに歩けばいいのかさっぱり分からない。
英語もほとんど通じないのでガイドブックの水車の写真を見せて道を教えてもらい,15分くらいで中心部に近づいてきた。ここでアレッポのドミにいたMさんに出会い,一緒にリアド・ホテルに行く。
リアド・ホテル
Mさんはクラック・デ・シュバリエに行くつもりであったが,そろそろ12時を回っていたので明日朝から二人で行くことにした。リアド・ホテルはビルの3階と4階にあり,3階のフロントでチェックインするようになっている。
ドミトリーがあるのは4階である。ここにはロビーと食堂,炊事室もある。食堂はテーブルが5-6個あるほど広いけれど誰も使用していない。このテーブルは日記を書くのに使用させてもらった。
炊事室は清潔で器具が使用できるのでその気になれば自炊することもできる。しかし,シリアは食事が安いのでラマザーンのような特別な事情が無い限りほとんど必要性はない。
ドミトリー(200SP)は10畳,4ベッド,T/Sは共同,とても清潔で居心地は良い。ハマは日本人バックパッカーに人気があり,ここの宿でも中央アジアで知り合った旅行者と再会した。
とりあえず昼食にしたいのだが食堂はラマザーンのため開いていないし,パン屋も見つからない。非常食の干しぶどうとチーズで空腹をしのぐ。
ハマのランドマーク
ハマの見どころは1km四方程度のところであり,その中央部を東西方向にオロンテス川がゆるやかな逆S字を描いて流れているので,方向音痴の僕でもまず道に迷うことはない。宿泊している「リヤド・ホテル」のすぐ北側に大きなロータリーがあり,その中心には時計塔が立っている。これはとても良いランドマークになっている。また近くには細い一本ミナレットのモスクもあり,こちらもよく目立つランドマークになった。
とりあえず水車を見に行く
ハマの見どころはなんと言ってもオロンテス川の巨大水車である。時計塔の北側にオロンテス川にかかる橋がある。この橋から川の風景が見られるのだが,風光明媚のハマをイメージしてやってきた僕にとって川の汚れはかなりショックであった。
おそらく相当量の生活雑排水が流れ込んでいるのであろう。緑がかった濁り水がよどんでいる。岸辺に近づくと臭いもある。富栄養化はそれほど進行していないのか,岸辺近くに固まる1cmほどのウキクサの量はさほどでもない。
橋の少し下流側にある水車はアクセス用の橋が付いているので一番見学しやすい。巨大な一輪ホイールがゆっくりと回転している。
日本の水車はほとんどが二輪で水受けの羽を二つのホイールの間に渡す構造となっているが,ここのものは外側と内側に二つのホイールをもち,羽は二つのホイールをつなぐように(内側から外側に向かって)取り付けられている。
おそらくこの差はホイールの大きさによるものであろう。直径15-20mもあるホイールを1個で済ませるか2個にするかは建造コストに大きな差が生じる。
ホイールの外側には羽が突き出ており,ところどころに水汲み用の桶が取り付けられている。水流が羽を押すことにより水車が回る。水中に沈む時,桶に水が入り,頂点近くに達すると桶が外側に傾くようになっているので水がこぼれ落ちるようになっている。
水が落ちるところには水受けの仕掛けがあり,それは水車の背後に壁のようになっている。壁の上部には溝があり,その先はローマの水道橋のような導水路につながっている。この地域では水車,水受け,導水路の組み合わせにより,川の水流を利用して水を汲み上げ,飲用あるいは灌漑用に利用してきた。
日本でも7世紀に中国・朝鮮半島をから水車が伝来し,動力用,揚水用として利用されてきた。揚水水車はある程度以上の水流が必要なので,その条件が整わない場合は足踏み式水車(踏車,人間が水車の上に乗り体重を利用して水車を回す)で田畑に水を送り込んでいた。
日本で現在でも実際に使用されている揚水用の水車としては朝倉町(福岡県),倉敷市(岡山県)などのものが知られている。水車が最初に作られたのは紀元前1世紀の小アジアといわれている。それからわずか700年ほどで水車の技術が日本にまで伝わってきたとは驚くべき速さだ。
中国では黄河に面した「蘭州の左公車」が有名であるが,こちらはもう現役ではない。また雲南の「大孟龍」でもごく簡単な揚水装置を見かけたことがある。
水車の様子をうまく伝える写真は難しい。ホイールを正面から撮ると背後の水受けの壁にジャマされて水道橋の構造がよく分からなくなるし,逆側から撮るとホイールがよく見えない。水車の全貌をきちんと伝えるためには二枚組みの写真が必要になる。
アン・ノウリ・モスクに向かい川沿いを歩く
第一の水車の少し下流側にある二番目の水車は動いていないのでつまらない。三番目のものはその先のアン・ノウリ・モスクの横にあるものだ。そこに行くには市街地を通らなければならない。
周辺の建物からスッと伸び出している中心部のモスクの細長いミナレットが印象的だ。玩具屋の店先に並べられている人形の顔がいやにリアルでドキッとする。
川沿いの一画はなんとなく旧市街の雰囲気が漂っているが,1982年の政府軍による爆撃により旧市街の大半は破壊されてしまった。この辺りは再建されたものであろう。
古さを損なわないように再建された路地の突き当たりに入口のアーチの上に小さなミナレットを乗せたモスクがある。この辺りは迷路のようになっており,簡単には川に出られないようになっている。
ようやくアン・ノウリ・モスクのミナレットが見つかった。アン・ノウリ・モスクは川岸に建っており,その横を橋に通じる道路が通っている。川の対岸からの写真が一番絵になるのだが,そこはカフェの庭となっており入ることはできない。
アン・ノウリ・モスク横の二連水車
しかも,ラマザーン中の昼間は営業していないので,客として中に入ることもできない。しかたが無いので橋の上からモスクの一部と二連水車の構図で写真にしたがどうも物足りない。この二連水車は川の水流の感じがよく出ているので写真写りはとてもいいのに残念だ。
モスクの横からこの水車のところに下りることができる。アーチの入口をくぐりぬけ石段を下りると水車の巨大なホイールがある。ホイールの構造を詳細に観察できるのは嬉しいが動いていないのはちょっと残念だ。
水車を回す水流を作るため水車の手前は堰になっており対岸にも小さな水車がある。クツではなくサンダル履きなら堰を通り対岸まで行くことができそうだ。アーチが連続する近くの橋もけっこう風情がある。
アル・モハンメディーエ水車
次の水車はかなり離れている。川沿いの城砦を回りこむように北を目指す。城砦は20mほど高くなった丘の上にあり,往時の石材は持ち出されてしまいほとんど残っていないという。
この通りが川に突き当たったところに四番目の水車がある。これも二連水車となっている。水受けの壁がジャマになり岸からはホイールが良く見えない。水面まで下りる石段がある。しかし・・・下に降りると小便の臭いが鼻につくので早々に切り上げる。
その先にあるアル・モハンメディーエ水車は町一番の巨大水車で唯一ガイドブックに名前が記されている。直径20mのホイールはとても巨大である。川の本流の横に水車用の水路があり,その分流用の堰の上から水車を見ることができる。
巨大な水車がギー,ギーときしみながらゆっくりと回る。水路の反対側の部分が持ち上がると羽から盛大に水がししたり落ちる。水汲みようの桶は付いていない。あまりきれいとは言えない川の水なので風のあるときは近寄りたくない気分だ。
さすがにこの堰からでは対象物が大きすぎてホイールの一部しか撮ることができない。幸い近くに橋があり,対岸から撮ろうとしたら,そこも営業していないカフェになっており,入ることはできない。
鉄柵を乗り越えてそここから水車の全景を撮ることができる。水車から落ちる水しぶきがすごい,やはり動いている水車は迫力がちがう。
学校の終了時間は15:30なのかな
水車を十分に見学させてもらったので町を散策してみることにする。学校の終了時間になっており,子どもたちが家路についている。この町でも男子は青いシャツ,女子はピンクのブラウスは制服になっている。二人連れの女の子の写真を撮らせてもらう。
しかし,すぐに男子が集まってきて写真にはとてもジャマだ。学校の入口では彼らのリクエストにお応えして集合写真を撮る。意外とちゃんとまとまってくれたのでそれなりの写真になった。
大モスク
近くには大モスクある。このモスクはダマスカスのウマイヤド・モスクと同じようにキリスト教の教会をモスクに転用したものだ。そうすると,8世紀のものということになるが,10世紀にビザンツ帝国軍により破壊され,さらに1982年の爆撃によりほぼ完全に破壊されたという。
現在のものはその後に再建されたので,モスク自体の歴史に比べると建物はずいぶん新しいものとなっている。中庭に入ると特異なミナレットが目に付く。基壇は四角形で途中から八角形になっている。
中庭には8本の石柱に支えられたタンクのようなものがある。ウマイヤド・モスクにある同様の施設は宝物殿となっている。モスクの内部は人工的な照明により意外と明るい。ちょうど礼拝の時間になり,男性たちがメッカの方向の壁の前に並ぶ。
壁は幅が広いので彼らは長い列を作る。最初の列がいっぱいになると次の列が形成される。イスラムでは礼拝の作法はどこでも同じだ。この日は木曜日で集団礼拝の日ではないが,モスクに会した人々は誰かに号令を受けているように整然とした礼拝を行っている。
夕食
大モスクの近くには5段の鐘楼をもったキリスト教の教会がある。石造りの教会の建物も写真写りは良い。イスラム教一色と考えられがちなシリアは初期のキリスト教にあたるシリア正教会やアルメニア使徒教会など少なくとも4つの宗派の教会がある。外観だけではそのいずれかは分からない。
夕食はMさんと一緒に近くの食堂に行く。お目当てはロースト・チキンである。食堂の前には串に刺された丸ごとのチキンがいくつもローストされている。最小販売単位がハーフなので二人で行くと都合がよい。一人でハーフを食べるのははかなりしんどいからだ。
ハーフチキンは200SP,これにサラダ,薄焼きパン,オイリー・ペーストが付いてくる。ここでは日没の空砲が鳴るまでは目の前の食事はお預けである。チキンもサラダもおいしい。
薄いパンでチキンをくるむようにしてちぎり取りいただく。十分に食べて一人分は100SPである。普段の野菜中心の食事よりよりはだいぶ高いが,おいしかったので満足だ。
クラック・デ・シュバリエに向かう
06:30に起床,昨日買っておいたバナナとリンゴで朝食をとる。同室の3人は寝ており,物音を立てないようにしてロビーでMさんを待つ。07:30に宿を出て南西1.5kmくらいのところにあるミクロBTを目指して歩き出す。
途中でパン屋があったのでいただく。小さなものが4個で10SPである。宿の名刺の裏に地図があったので割と簡単にBTに到着する。
クラック・デ・シュバリエはホムスの西25kmのところにある非常に保存状態の良い十字軍時代の城で,世界遺産に登録されている。ハマからシュバリエ城に行くにはまずホムスに出て,そこからミクロバスを利用することになる。
ハマのミクロBTでは簡単にホムス行きに乗ることができた。ホムスのミクロBTでカラート・アル・ホスン行きの車を探すと,300SPなどという不届き者が出てくる。
別の人にたずねると,城から1kmほどのところに幹線道路が通っており,そこで降ろしてもらえる車を紹介してくれた。料金は30SPと妥当なところだ。丘の上まで行く車もあったかもしれないが,時間を優先させてこの車で行くことにする。
難攻不落の城に入る
接続が良かったので10時には城の近くの幹線道路で降りることができた。しかし…,幹線道路から見るとすぐ近くにモスクがあり,はるかかなたの山の上に目指す城が見える。
城は山の上に孤立して建っているイメージであったが,実際には城のすぐ下まで村の家屋が迫っている。もっとも反対側から見ると家屋は無いのでよく写真にある景観となる。ここから山の上にそびえる城までは1時間くらいはかかりそうだ。
歩き出してすぐに古いベンツが横に停まり,運転手は城まで一人25SPという魅力的な提案をする。一人だとちょっと躊躇したかもしれないが,25ならすぐにOKを出せる。村の中の急坂をベンツは駆け上がって城の正門に到着した。
入場料は150SP(約300円),世界遺産としては妥当な料金だ。入口付近には城の外観図と説明文があった。クラック・デ・シュバリエはフランス語(Le Krak des Chevaliers)で「騎士の城」を意味する。
原型はアレッポの領主により建築された。第1回十字軍の1099年に落城し,1144年に聖ヨハネ騎士団に譲渡された。聖ヨハネ騎士団は大規模な拡張を行い,二重の城壁をもつ城砦に変えた。厚い外壁には7つの守備塔が配置され,外壁と内壁の間には一部濠も巡らされていた。
城には50-60人の騎士と2000人の歩兵が常駐していた。城の中央部には巨大な食糧貯蔵庫があり,さらに地下にももう1つの貯蔵庫が造られており,5年間の包囲に耐えうる食糧が備蓄されていた。
クラック・デ・シュバリエは難攻不落の城であり,1163年にヌールッディーン,1188年のサラーフッディーン(サラディーン)による包囲にも耐えた。
1271年にマムルーク朝により落城したがそれは調略によるものとされている。この結果,イスラム風の内装が施されるようになり,東西の建築文化が融合する姿となった。
入場門から入るとゆるい傾斜のあるアーチ状のトンネルが折り返すように続き,簡単には内城には入れないような構造になっている。明り取りの窓があるので意外と明るい。アーチの上部はレンガではなく自然石を加工したものを使用している。
傾斜通路は中庭に出る。南側に城壁に接するようにように長さ50mほどの大きな馬小屋の空間がある。ここから外壁の上に登る階段がある。上に出ると外壁の上を半周することができる。
外壁の上からは周辺の地域を眺望することができる。このあたりは雨に恵まれおりシリアの穀倉地帯となっている。なだらかな丘の斜面はほとんど農地になっている。残念ながら軽くガスがかかったようになっており,遠景の写真は良くない。
クラック・デ・シュバリエ(Le Krak des Chevaliers)
外壁の端は柵の類は何も無いので足を滑らせたらそれでお終いである。日本だったら必ず柵か鎖が回されるところだ。外側に張り出した部分には,おそらく石でも投げ落とすためと思われる隙間が開いており,十分に人が落ちてしまう。足のすくむ思いをしながら写真を撮る。
中庭に下りて濠のあたりを歩いてみる。内城は外壁より一段と高くなっており,この位置からはかなりの角度で見上げることになる。急角度で立ち上がる城壁は灰白色の石が使用されており,石の隙間に根を下ろした草が一面に生えているため,まだら模様になっている。
内城の壁全体をを撮るのは外壁までの距離が足りないので難しい。濠は水は入っているもののペットボトルがたくさん浮いており,近くから写真を撮る気はしない。内城はいくつものブロックに分かれており,何回か上り下りを繰り返してほとんどの部分を見学した。
アーチ天井の通路はさすがに見ごたえがある。この装飾は今までのイスラム圏では見たことがない。かといってこの城の他のアーチ型通路とも異なっているのでヨーロッパ,イスラムどちらの様式なのかよく分からない。どちらにしてもアーチの連続するような不思議な空間を演出している。
クラック・デ・シュバリエのビューポイント
クラック・デ・シュバリエの写真をどこから撮るのが良いか。それは少し離れたレストランからと決まっているようだ。城から出て背後の軽い上りの道を歩いてレストランに到着する。
ここから城の全景が見ることができるし,斜面には家屋も無いのでお気に入りの写真が撮れる。やはり,少し引いて斜面の上に立っているという感じを強調した方がいい。この写真が撮れただけでここまでやってきたかいがあるというものだ。
ツアーの観光客のバスがこちらにやってくる。ちょうど昼食の時間である。彼らのためなのだろうか,さきほどから店の従業員は大量のケバブ(串焼き)を作っている。
僕とMさんは城を眺めながら斜面に腰を下ろし,今朝のパンとチーズで昼食をとる。すばらしい風景と,ケバブの匂いの中での食事は悪くない。戻る途中,城の南側の水道橋を確認する。現在はもう水は涸れており,アーチ式の石組みの上の溝は外壁に通じている。
城の門に戻るとホムス行きのミクロバスが見つかった。乗客は我々を含めて3人だったので運転手は割増料金の50SPを要求した。正規料金は30なので仕方がないなと思いながら前払いした。
この車は村を抜け幹線道路に出るとどんどん乗客が増え,満員になった。それでも運転手は割り増し分を返却してはくれなかった。まあ,しょうがないか。
4つの水車
帰りのの移動もスムーズにいったので宿で一休みをしてまだ15時前である。町の中心部にある細いミナレットをもつモスクの写真を撮りに出かける。ビルの間にあるため撮影場所を選ばなければならない。
4つの水車を見るため川沿いに西に向かうとバアス党の建物が目に入った。シリアは共和制,大統領制の国家となっているが,実態はバアス党の一党支配となっている。1973年に制定された憲法にもバアス党(アラブ社会主義復興党)を「国家を指導する政党」と定めている。
まあ,共産党がアラブ風の看板を掲げているようなものである。議会にはいちおう複数の政党は存在するがすべて与党であり,野党は無所属で立候補するしか手段がない。
国家元首である大統領もバアス党の提案を受けて議会が1名を候補とし,国民投票で承認する形をとっている。任期は7年で再選は禁止されていない。イランとは友好関係にあり,反米・反イスラエルなど利害が一致する点が多い。
パレスチナのハマス,レバノンのヒズボラなど反イスラエル闘争を継続している組織を支援しており,米国からは「テロ支援国家」に指定されている。
余談になるがイスラエルに入国するとき,パスポートにシリア,イラン,パキスタンのうち一つの国のスタンプがあると,長時間入国審査が保留されるという懲罰があるという。僕は今回の旅行で3カ国とも回っているので,半日くらいは懲罰放置になりそうだ。
道は川に沿っているけれどその間はほとんど私有地として囲われており川面すら見えない状態だ。そしてお決まりのように水車の周辺はカフェになっている。まだ開いていない店の従業員に断って中に入れてもらう。
川の風景と4つの水車は見えるが距離があり過ぎる。川沿いに近づいていくと隣のレストランとの境界が藪のようになっている。レストランはもう廃業しているようなのでかまわず中に入る。
確かにレストランの建物は什器も無く誰もいない。ここまで近づくと4つの水車をいろいろな角度から撮ることができる。小さい方の2つは動いているのでハマで一番よい水車の写真になった。
公園の子どもたち
4つの水車の周辺は公園となっており,家族連れや子どもたちが遊んでいる。ブランコのところにいた子どもたちは問題なく写真を撮らせてくれた。お礼の言葉は「サンキュー」でも通じるかもしれないが,アラビア語の「シュクラン」にした。
夜景の写真
夕食はMさんと一緒に昨日と同じメニューをいただく。暗くなってから街を歩いてみると時計塔がライトアップされている。中心部のモスクのミナレットも内部の照明と上部のライトで輝いている。夜に出歩くことはほとんどないので,久しぶりに夜景の写真を撮ることになった。