亜細亜の街角
クレオパトラとローマ帝国
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クレオパトラ(BC70-BC30)はエジプト・プトレマイオス朝最後の女王である。父親のプトレマイオス12世がBC51年に亡くなるとクレオパトラが即位する。彼女には複数の姉と弟がいたが,2人の姉はすでに亡くなっており,このとき子女のうち最年長であったクレオパトラはエジプト王家の伝統に従い,弟プトレマイオス13世と結婚して共同統治を開始した。この時代ファラオの一族の間では近親結婚はごく普通のことであった。しかし,夫であるプトレマイオス13世や妹との権力闘争によりその基盤は危ういものであった。

共同統治に不満を持つプトレマイオス13世がクレオパトラをアレキサンドリアの宮廷から追放した。そのようなときにポンペイウスを破ってエジプトに入ったユリウス・カエサル(シーザー)に密会するため,クレオパトラは自らを絨毯にくるませカエサルのもとへ贈り物として届けさせた。このあたりの機転は映画「クレオパトラ」でみごとに描かれている。

こうしてカエサルの愛人となり助力を得たクレオパトラはプトレマイオス13世を攻撃してナイル川に溺死させた。その後,クレオパトラは別の弟プトレマイオス14世と結婚して共同統治を再開したが,実態はクレオパトラの単独統治であった。カエサルとの愛人関係は継続され,BC47年に息子カエサリオン(シーザリオン)をもうけた。

BC46年,独裁官に就任したカエサルに招聘されクレオパトラとカエサリオンはローマに凱旋した。このときがクレオパトラの生涯で最高の時期であった。しかし,カエサルはBC44年に暗殺され,カエサリオンはその後継者となることもなく,クレオパトラは失意のうちにエジプトに帰国した。

その後,オクタウィアウスとマルクス・アントニウスの間に権力闘争が開始されると,クレオパトラはアントニウスに接近し同盟を結ぶ。アントニウスがエジプトに近接するシリアなどの東方地域に勢力を持っていたため両者の利害が一致したためである。アントニウスはオクタウィアヌスの姉オクタウィアと離婚し,アレキサンドリアでクレオパトラとエジプト式の結婚式を挙げた。結婚の引き出物として地中海東岸一帯のローマ属州を勝手にクレオパトラに譲り渡す。

アントニウスに失望したローマ市民はアントニウスとの決戦を望んでいたオクタウィアヌスを強く支持するようになった。オクタウィアヌスはアントニウスに宣戦布告し,歴史に名高いアクティウムの海戦でアントニウス・エジプト連合軍を破る。戦線を離脱してエジプトに帰還するクレオパトラの船を追ってアントニウスも戦場を後にする。ローマ軍に追撃されたアントニウスはかろうじてアレキサンドリアに逃げ込んだ。

敗走の中でクレオパトラ死去の誤報に接したアントニウスは自殺する。クレオパトラはオクタウィアヌスに屈することを拒みコブラに身体を噛ませて自殺したと伝えられている。