パルミラはダマスカスの北東200km,砂漠の中にあるローマ時代の都市遺跡である。パルミラの由来はギリシャ語の「パルマ(ナツメヤシ)」であるといわれている。その名の通りこの遺跡はナツメヤシの森に囲まれている。
パルミラは西側のアンチ・レバノン山脈から供給される地下水が湧き出るためシリア砂漠のオアシスとして新石器時代から人が住み着いてきた。パルミラの東側はムー塩原となっており,水と塩に恵まれた土地であった。
このオアシスに関しては4000年前のバビロニアの粘土板文書にも「タドモール」の名前で記述がある。現在でもパルミラ観光の拠点となる町は地元ではタドモールと呼ばれている。
パルミラはBC1世紀からAD3世紀にかけて中央アジアと地中海を結ぶ交易路の中継都市として繁栄した。シルクロードを行きかう隊商たちが立ち寄ったパルミラはその美しさから「シルクロードのバラ」とも呼ばれていた。
当時は地中海周辺を支配していたローマ帝国とカスピ海からイラン高原で勢力を拡大していたバルティア王国(イラン系スキタイ人の王国,BC248-AD226年)が対峙していた。
2大強国の中間に位置していたパルミラはローマ帝国に服属しながらも,ローマとパルティア双方に隊商を出し,その仲介貿易によって莫大な利益を上げていた。パルミラには,アラム人,アラブ人,ペルシャ人,ユダヤ人などが居住し,人口は3万人に達したという。
パルミラはローマの属国でありながら大幅な自治権と豊かな財力に支えられた軍事力ををもち,半独立的な自由都市として勢力を拡大していった。270年ごろに君臨したゼノビア女王時代には,エジプトの一部も支配下に置いていた。
しかし,ゼノビアが独立を宣言したのか,ローマが独立を恐れたのか,真偽のほどは分からないがローマとの戦争になり,272年にパルミラは陥落し廃墟となった。パルミラ遺跡の研究から,石柱が立ち並ぶ1kmにもおよぶアプローチ・ロードの先に劇場,大浴場,大神殿など隊商や旅人たちを歓待するためのさまざまな施設があったことが分かってきた。
また,周辺には多くの地下墓地があり,その調査から古代パルミラ人が高い美意識や独自の死生観を持っていたことも明らかにされている。このシリアを代表する遺跡は1980年にユネスコの世界遺産に登録された。
デリゾール(250km)→パルミラ 移動
07時に起床,明け方から大型車が宿の前の通りを走るのでとてもうるさい。丸いドーナッツ状のパン,チーズ,リンゴで朝食をとる。昨日のパンは味の無いホットケーキのようなものだったので,今日の方がずっと食べやすい。デリゾールのラマザーンは厳しくて朝食は食堂というわけにはいかない。
08時にチェックアウトして南西方向の大通りを突き当りまで歩き,右に曲がると長距離BTに到着する。ちょうどパルミラ行きのバスが出るところだったのでメインザックを横の荷物室に入れる。事務所に出向きパスポートチェックと記帳という儀式を済ませる。係官は2日前の僕の名前と照合してメモを書いてくれた。このメモをバスの車掌に渡すとバスはすぐに動き出した。
デリゾール→パルミラ→ダマスカスを結ぶ道は古くからの隊商路となっている。あたりは荒涼たるシリア砂漠が広がっており,その中に唯一のオアシスがパルミラということになる。シリア砂漠はシリア,イラク,サウジアラビアにまたがっており,定義にもよるが面積はおよそ50万km2ある。今日移動するルートはシリア砂漠の北の縁にあたる。
町を出るともうすっかりおなじみになった砂漠の景色が始まる。赤茶色の土とそこにしがみつくように生えているわずかな植物の小さな群落という風景が続く。ところどころに地下水が得られるのか荒地の中にぽつんと家がある。
乏しい草を求めて羊の群れが移動し,遊牧民のテントも散見される。冬期に多少雨が降るので,その時期に訪れれば現在とはかなり異なった風景が見られるかもしれない。
パルミラに到着する20分ほど前におもしろい家屋を見かけた。日干しレンガの壁の上に白い円錐形の屋根が乗っている。この白い屋根が20個くらい密集しており風変わりな集落を形成している。シリア砂漠のベドゥインはこのような家を造るということをテレビで見た記憶がある。
サン・ホテル
およそ2時間でパルミラの入口に到着する。正確にはパルミラは遺跡の名称であり,オアシスの名前はタドモールという。バスはさらに先まで行くので,ここで休憩をとるようだ。荷物を出してもらい,近くの観光客にたずねると街の中心部までは少し離れてるようだ。「スズキ・タカシ」とカタカナで書いた紙をフロントガラスに貼ったタクシーが25SPで街まで行くと言う。
このタクシーは日本人相手のツアーで稼いでいるようだ。彼の差し出した手帳には「最初の料金以上は請求しない誠実な人」という表現が多かった。宿のサン・ホテルにチェックインしたあと,彼にツアーに誘われた。
その中にベドゥイン・キャンプがあったので参加することにした。ただし,料金は一人だと400,二人以上だと300となっていたので他の参加者を見つけることを条件にしておいた。
サン・ホテルのマネジャーは地下のベッドが4つある8畳の大部屋を一人で使用して300SPと提示した。シングルの料金は200なので僕は200と主張した。結局,間をとって250SP(600円)となった。T/Sも付いておりとても清潔である。それに地下にあるのでとても涼しい。
パルミラにはもう一つニュー・ツーリスト・ホテル(NTH)があり,そこに宿泊している日本人旅行者は「なぜなのか,このホテルにはさっぱり宿泊客が来ない」と教えてくれた。ドミの料金は125SPなのでそれならNTHにすれば良かったかもしれないと一時的に考える。
パルミラ博物館
ベドゥイン・ツアー前の時間で軽く遺跡を見学することにする。宿から遺跡の入口に面した大統領広場のロータリーに行く途中にパルミラ博物館がある。
敷地内にはローマを思わせる石像が並べられており,パルミラがローマ文化圏に属していることが分かる。博物館の中に入らなくてもこれで満足し遺跡に向かって歩き出す。
パルミラ遺跡概要
パルミラ遺跡の主要部は東南から西北に向かってベル神殿,列柱付き大通り,ディオクレティアヌス城砦が並んでいる。その間は約1.5kmであり,大通りを長手方向とした楕円形の城壁によって囲まれていた。しかし,城壁は現在ではほとんど残されていない。町の西側には丘が連なっており,西側の丘には「墓の谷」,西北方向の丘にはアラブ城がそびえている。
ベル神殿を半円状に囲んでナツメヤシの農園が広がっている。タモドールの町はナツメヤシ農園を挟んでベル神殿の北側にある。タモドールから墓の谷に向かう舗装道路がベル神殿と記念門の間を通っており,時間帯によりベル神殿の周辺の駐車場には観光バスがたくさん並ぶことになる。
ベル神殿
パルミラには入場料に相当するものは無く,ベル神殿など特定の遺跡だけが入場料を徴収される。入口から記念門まではおよそ1km,周囲にはナツメヤシが植樹されているけれど,育ち具合はかんばしくない。この遺跡の中の道路は一般道なので車も普通に走ることができる。
左側には低い日干しレンガの塀に仕切られてナツメヤシの農園が広がっている。ナツメヤシの農園は明日見せてもらうことにして先に進む。道路から少し離れるとそこは遺構となっており,人工的な切石や石柱がころがっている。
暑さと乾燥のため歩くのはずいぶん難儀してようやく「記念門」にたどりつく。記念門から大通りはゆるやかに右に曲がり,その先には210mX200mの擁壁に囲まれたパルミラでもっとも重要な建物であるベル神殿に続いていた。
現在は市街地から「墓の谷」に向かうアスファルト道路が記念門と「ベル神殿」を分断している。そのため,この辺りは観光バスがよく集まるところだ。しかし,昼下がりの時間帯に遺跡を回りたいという観光客は少なく,観光バスは見当たらず,観光客用のラクダもひまそうに日陰で寝そべっている。
「ベル神殿」は主神ベル(バビロニアの大地の神,豊穣の神であり主神,セム語ではバールという),太陽神ヤヒボール,月神アグリボールに捧げられたものである。
ベル神殿の周りは門と擁壁になっており,しかも一辺が200mもあるので近くからの写真ではどうにもならない。ここのラクダもこの酷暑の時間帯は観光客がいないので休養時間となっている。ここは明日にとっておくことにする。
記念門周辺
パルミラ遺跡の象徴ともなっている「記念門」はローマ式の三連アーチの優美な建造物でり,中央の大アーチが大通りにつながっている。中央のアーチの要石がちょっとずれており,上の重みに耐えられるのか疑問に思う。
大通りはベル神殿まで続いていたはずだが,記念門周辺ではわずかな列柱が残っているだけだ。記念門の南側から手前の列柱,記念門,背後のアラブ城という構図で写真を撮ろうとするとアスファルトの道路がもろに入りどうも好ましくない。
ガイドブックには記念門の南側(向かって左側)はナボ神殿となっているが,どこが神殿の遺構なのか分からないくらいにいろいろな石材や石柱の土台が密集している。記念門の北側(向かって右側)も大浴場などの公共建造物があったとされているが,こちらもガレキが散らばっている。
列柱道路はパルミラの大通りである
列柱道路は「記念門」から「葬祭殿」までまっすぐに1kmほど続き,そこで直角に左に折れてダマスカス門まで続いている。ダマスカス門の手前右側,現在はディオクレティアヌス城砦のある場所に,当時は商人たちに崇拝されていた神殿が置かれていた(王宮という説もある)。
「葬祭殿」から「ダマスカス門」に至る辺りはほとんど何も残っておらず,わずかに列柱の名残があるだけなので,ほとんどの観光客はやってこない。僕も夕日見物のときに全景を見て,もうそれで十分と考え,翌日も行くことはなかった。
大通りの幅は11m,ラクダの足裏を保護するため舗装はされていなかった。両側に並ぶコリント式の柱頭をもつ石柱は高さ9.5m,直径は95cmあり,石柱の上部にはレリーフが施された石材の梁が渡されている。
それぞれの石柱の2/3ほどの高さには大通りに面して突き出た持ち送りが備えられている。そこには現在は失われてしまったが,パルミラの有力者の彫像が飾られ,石柱にはパルミラ語とギリシャ語の献辞が刻まれている。列柱の裾には給水用の水道管が通っていた。
「記念門」から400mほどのところに「四面門」があり,ここはかっての大通りの大きな交差点となっていたところだ。パルミラからみて東からやってきた隊商は西側の門から入り「記念門」をくぐって「四面門」に向かい,西からやってきた隊商は西側の「ダマスカス門」から大通りを「四面門」に向かって進んだことであろう。
「四面門」の周辺には神殿,劇場,公共浴場などが立ち並び,砂漠を越えてきた隊商の人々にとって,その豪華さ,美しさはまさに「シルクロードのバラ」と形容されるものであったことだろう。四面門の南側にはアゴラ(広場)があり,隊商はそこの取引場でまず関税を支払い,それから香料,象牙,真珠,絹織物などの商品が取引きされた。
おっ,人を乗せたラクダがやって来ると思ったら地元の人であった。さすがにこの暑さの中ではラクダに乗るのも相当難儀なことだ。列柱が連続して残っている箇所がある。
地上から2mくらいのところまで石柱は砂のやすりで削られたようになっているが,その上の部分はずいぶんきれいだ。この差異はどうしたものなのかとちょっと首をかしげてしまう。
四面門周辺
四面門は列柱の大通りとそれに交差する通りの交差点に建てられており,基壇の上に四本の柱に支えられた屋根が乗っている。往時はそこに彫像が立っていたと推測される。ここは場所を選ぶと良い日陰を提供してくれるので休憩には都合がよい。。
またラクダがやってきた。さすがは元気な日本人旅行者である,暑さをものともせず4人が隊列を組んでやってくる。四面門が入る構図で一枚撮らせてもらう。この先はしばらく列柱がない区間となる。
それでも土台の部分だけは残っている。四角の基壇の上に高さ1m弱の二段にふくらんだ円柱が置かれている。この上に巨大な円柱を立てたとはちょっと驚きだ。どうやって接合面を合わせたのだろう。直方体の切石を積み重ねるのとはわけが違う。
途中から通りの面が列柱の土台より数十cm高くなっている。遺跡の発掘の時,路面を本来のところまで掘り下げなかったようだ。記念門からここまでは高さが揃っていたのでこれは,発掘時の状況を保存するためかなと推測する。
約束の時間も迫ってきたし,疲労も出てきたので北側のバールシャミン神殿を見て宿に戻ることにする。この遺跡は5世紀に教会に転用されたため保存状態はとても良い。
様式はギリシャの擬似周柱式神殿の変形型といったところだ。石造りの壁で囲まれた神室(セラ)があり,その前面に二列の石柱が並べられている。しかし,側面や背面には付柱化した柱は見当たらない。
ベドゥイン・ツアー|墓の谷
宿に戻り(ペットボトルの)水を1リットル近く飲んで一休みである。約束の時間にスズキ・タクシーが迎えに来た。参加者は日本人3人で,料金は300SPとなる。タクシーはツアー・メンバーの要求により,墓の谷を通ってくれた。
エラベール家の塔墓と三兄弟の地下墓室は墓の谷で最も有名なものだが外から見るだけではただの石の塔である。入口の鉄格子の間から中を覗くことができる。内部は石造りの柱が並びとても立派なものだ。周辺には崩れかけたいくつもの塔墓がある。
ベドゥイン・ツアー|キャンプ地
タクシーはアラブ城から北西に4kmほど離れたキャンプ地に到着した。夏用のテントが張られており,そこで一家が暮らしている。
巨大なキャンバス地のテントを何ヶ所かの棒で支え,ロープで引いて立てている。テントの片側は地面まで届いており,その反対側は2mほどの高さまでしかない。おそらく,陽射しや風により形を変えるのであろう。
この一家は6人の子どもがいるという。また,主人の男性には第一夫人がおり,そこにも4人の子どもがいるという。う〜ん,これでは人口が増えるわけだ。運転手の紹介でこのテントに荷物を置かせてもらい,周辺を歩いてみる。
少し離れたところではトラクターの後ろに取り付けられた給水タンクからこのキャンプ地のタンクに水が注がれている。そこには穀物の入っているような袋が積み上げられている。
かなり遠くから羊の群れがこちらにやってくる。キャンプ地の周りはほとんど緑の無い荒地であるが,1kmほど向こうに緑は見えるので,そこが放牧地になるのかもしれない。
運転手にこの点を確認すると,水と緑の少ない夏場は羊の飼料と水は政府から供給されるとのことであった。さきほどの袋の中には乾燥させた牧草が入っているという。また羊はこの一家の財産ではなく,羊を預かり太らせるのが彼らの仕事だとも教えられた。
周辺には100頭ほどの羊がいつの間にか集まってきている。男性がブリキの水飲み場に水をあけると羊たちがそこに首を突っ込む。この水飲みの様子はけっこういい絵になる。
羊の写真は一段落したので子どもたちと一緒に遊ぶことにする。テントの中は地面にそのままじゅうたんを敷いており,その上でヨーヨーを作る。一緒の日本人旅行者もこのおもちゃには驚いている。
下の小さな子どもにはフーセンを作ってあげる。これなら大きいので簡単にかじることはできないだろう。このプレゼントによりずいぶんテントの家族とは仲良くなることができた。最初ははにかんでいた子どもたちもようやく正面から写真を撮ることができるようになった。
でも,少し大きな子どもたちは遊んでいるわけにはいかない。母親が我々に力を貸して欲しいと言って来た。若い日本人二人は離れたところにいたので僕が14歳くらいの男の子と一緒に腰を上げる。近くの小さなテント小屋からかさばって重い冬用のテントを取り出す作業である。
僕が一輪車を押さえ,二人がフェルトを巻いたものをそこに置く。ちょっと腰をふらつかせながら指定の場所まで運ぶ。これを二回繰り返すと一汗をかく。遊牧民の暮らしは決してのんびりしたものでもなく,楽なものでもない。
12歳くらいの少女は白いロバに乗って羊たちの水場に行く。同じ年頃の少年と一緒に羊を移動させる。羊は先頭の一頭について移動する習性があるので移動そのものは難しくない。我々と小さな子どもに見送られながら砂埃を立てて羊の群れは移動していった。
テントの裏手には別の羊の群れが非常に乏しい草を食んでいる。羊たちの周辺にはくすんだ緑が残っているが,この程度では十分な量とはとても言えそうもない。こちらの群れはずいぶん黒毛のものが多い。背後のテーブル状の台地と合わせていかにも半砂漠の遊牧地の雰囲気が出ている。
羊の群れは決して一ヶ所に留まっていない。同じところの草を食べつくすと再生は難しいことを本能的に知っているのかもしれない。羊たちは食べる,移動するを繰り返しながらだんだん遠ざかっていく。
生後まもなくの子羊を連れた母羊は群れから少し離れたところをゆっくり歩いていく。親譲りの頭が白くて首から後ろは黒い子羊は一生懸命にその後をついていく。コンパクト・カメラのズームではこの距離の被写体は苦しい。デジタルズームを使用して何とか映像にする。
夕陽のビューポイント
ベドゥインの家族にお礼を言い,運転手の提言により一人50SPの謝礼を払ってキャンプを出発する。だいぶ日が傾いてきたので行き先はアラブ城である。アラブ城の丘の西側には頂上までの道路があり,夕暮れともなると観光バスが続々とやってくる。
我々が到着した時はまだ時間が早かったので,のんびりとパルミラ遺跡を150mほどの高さから俯瞰することができた。ここからの写真は遺跡全体の配置が良く分かるし,背後のナツメヤシ農園も構図に入れることができる。
遺跡の左側には町が広がり,その手前には競馬場と思われる巨大なトラックがある。競馬場の左にはデリゾールに向かう道が一直線に伸びている。二つの山に挟まれた遺跡の右側の谷にはたくさんの塔墓が立っている。二つの山はまったく植物が生えておらず,傾いた陽射しに赤く染まっている。
夕陽の時間帯になると観光バスが到着して,丘に向かう道路にはバスが一列に並ぶことになる。欧米人はことのほか夕日見物が好きだ。小さな丘の頂上はパルミラ中の観光客が集まってきたような混雑となる。
人々は西向きの斜面に腰を下ろし,緩やかな山並みの背後に落ちていく夕日を眺めている。今日は低いところに雲が無く,なかなかの夕日を見ることができた。
宿に戻り夕食に出かける。宿の周辺には何軒かの食堂があり,それらを物色していたら食事中の家に呼ばれ夕食をごちそうになる。ごはん,ヨーグルト,スープ,パン,茹でた羊肉,デーツ・ジュースとまさしくごちそうである。この夕方はさらにモスクで果物をごちそうになり,感謝の一日であった。
ナツメヤシ農園から見るベル神殿
サン・ホテルの地下の部屋は静かなうえに朝日が入らないのでついつい寝過ごしてしまった。07:30に起床し昨日買ったインスタントラーメンを作る。中国製の大きなホーロー・マグカップと電熱棒(ヒーターの入ったコイル状の道具)でお湯ができるので,インスタント・ラーメンは簡単に作ることができる。
西アジアは物価が高いのでこのような道具を用意しておくと半自炊で旅行することができる。インドネシア製のチキン・ラーメンは食べ慣れた味だ。値段は1個15SP(30円)と日本とたいして変わらない。
午前中は遺跡見学に出かける。パルミラは世界遺産にも登録されている貴重な遺跡であるが,遺跡の中に堂々と道路を通しているのはいかにもまずい。
主要な遺跡の横まで観光バスがやってきて,エンジンも止めずに停車している。お年寄りの観光客にこの炎天下を歩けという気は無いが,もう少しやりようがあると思う。列柱付きの大通りの記念門から四面門の間に車が4台も停まっているのでは写真を撮る気にもならない。
今日はベル神殿の周囲に広がるナツメヤシ農園に入ってみる。中には石柱や石材が至るところにあり,かってのパルミラの一部であることが分かる。ガイドブックを見ても,このあたりはパルミラの城壁の内側になっている。
農園の中は平坦ではなく,そこに日干しレンガで新しい塀が追加されており,所有権ができているようだ。意外とパルミラの語源ともなったナツメヤシは少なく,オリーブなどの潅木が幅をきかせている。
ヤシの仲間は枝に相当するものが無い。幹の成長点から直接葉柄が伸び,巨大な葉となる。時期が来ると葉柄の根本から葉が落ち,その繰り返しで幹は高さ方向に成長していく。果実は栄養価が高く,干して保存が利くのでこの地域では最も重要な食料の一つとなっている。
農園の中の小高いところに登るとベル神殿の全景が見えるようになる。擁壁に囲まれているので内部の詳細は見えないが,神殿やいくつかの列柱は見ることができる。擁壁は高さが揃っているように見えるが,北西の一部は原形が残っており,小窓の付いたずっと高いものであったことが分かる。
西側が正門でそこはもう一段高くなっている。本殿は奥まったところ(東側)にあり,その周囲を柱廊が囲む構造のようだ。この神殿の入場料は150SPなのでここから観察するだけで満足しよう。
再び遺跡見学
記念門の全体を写真に撮ろうとすると,どうしても右側の道路がジャマになる。もっと左側から,背後の列柱を含めた構図が良いということが写真を整理していて気が付いたが,後の祭りである。
僕がナツメヤシ農園に到着した頃には何台かのバスが周辺に停まっていたのに,この時刻には一台もいない。観光客の見学時間はずいぶん短いようだ。昨日と同様にヒマなラクダは日陰で寝そべっている。
ラクダは寝そべるとき足を折りたたみ腹を地面につける。そのため,膝,足の付け根,腹など地面に接する部分は角質化してタコのように硬くなっている。足の裏は軟らかく,体重がかかると広がるようになっているため,軟らかい砂漠も歩くことができる。
ひとこぶラクダの原産地はアラビアからアフリカ北東部といわれている。少なくとも5000年前にはアラビアで家畜として利用されており,現在では野生種は存在しない。飼育されていたものが野生化する事例は多く,オーストラリアには30万頭近くが生息している。
ラクダは乾燥に強く,通常は植物から水分を摂取できるので水無しでも生きていける。しかし,水分が摂取できないとラクダはどんどん痩せてしまう。これは細胞中の水分が失われるからである。しかし,血液中の水分は維持されるので体の機能には支障は出ない。
人間の場合は血液中の水分がまっさきに失われる。すると血液の循環が悪くなり体の機能に障害が発生する。水分を失って痩せたラクダは一度に体重の1/4程度の水を飲むことができる。すると,すぐに細胞中の水分はもとに戻るので,ラクダは元の体型を回復することができる。
「ラクダのコブには水が入っている」という俗説があるが,実際には体細胞が水タンクの役割を果たしている。もっとも,ラクダのコブは脂肪でできており,体内で脂肪を燃やすときに水分を産生することができるので,「水が入っている」という表現はまったく的外れというわけではない。
再び列柱の大通りを歩いてみる。大通りの左側にはいくつもの公共施設があるとガイドブックには記載されているがほとんど原形は分からない。わずかに石を積み上げた壁面が残っているだけだ。
ローマ式の円形劇場は施設全体が円形の壁で囲まれており,外からは幅48mの舞台の建物だけが見える。この施設も入場料が必要だったので入らなかった。
さすがにトルコのエフェソスで巨大な円形劇場を見ているし,シリアのボスラやヨルダンのジェラッシュで程度の良いものを見る予定もあるのでそちらに期待しよう。鉄格子の隙間から覗くと,小さいながらもずいぶん状態は良い。
列柱の土台の横には水道管がそれと分かる形で残っている。構造は二種類あり,一つは素焼きの菅が使用されており,もう一つは石造りの導水菅になっている。構造がかなり異なるので用途が違うのかもしれない。
通りの横に切り石があり最近削れた跡があった。その面は灰白色なのでこれらの石材は石灰岩であることが分かった。パルミラが隊商都市として華やいでいた頃は多くの建造物は灰白色に輝いていたことだろう。
砂混じりの砂漠の風は石の表面を削り,そこに赤みを帯びた細かい粒子が付着して現在のような赤っぽい表面に変わった。少し遠くの丘に塔墓がいくつも立っており,その手前にはラクダがわずかに生えた草を探している。日中の強い日差しの下ではそろそろ僕の限界が迫っている。
街を歩く
宿に戻りシャワーを浴びて,1リットル弱の水を飲んで休憩をとる。12:30から近くのサンドイッチ屋でチキン・レバーのサンドイッチとチャイをいただく。小ぶりのフランスパンに具を挟んだもので合わせて50SPは妥当な金額だ。ここはラマザーンの期間中でも内緒で昼食がとれるのでありがたい。
これに対して夕食をとったレストラン・パルミラはひどかった。薄いパン,オイリー・チーズ,野菜,チャイで75SP,まったく納得のいかない値段だ。
文句を言ったら「サービス料が入っているんだよ」と事もなげに告げられ,さらに不愉快な気分にさせられた。昨日の夕食は感謝,今日は不愉快,なかなか難しいものだ。
昼食後はホムス行きのバス停を探しながら街を歩いてみる。街はおおよそ碁盤の目のようになっているので歩くには苦労しない。街中にはスークのようなところが見当たらず写真の題材は少ない。
大きな通りに何十年前かのメルセデスが停まっている。この車が現役で働いているのだからすごい。日本では平均で11年というところだが,この国では3倍ほど寿命が長い。
資源ごみを回収している12歳くらいの兄妹を見かけた。彼らの乗っているロバ車には発泡スチロールなどのプラスチックが積まれていた。
今回の旅行でも中央アジアで,南カフカスで,トルコでも教育の機会を奪われ家族の一員として働いている多くの子どもたちを見てきた。また,昨日訪問したベドゥインのテントでも子どもたちが学校に通っているとは見えなかった。
1989年に国連総会において採択された「児童の権利に関する条約(子どもの権利条約)」は子どもが家族と社会により適切に保護され,教育を受ける権利を保障している。それでもユニセフのデータでは「世界で学校に通っていない子どもは約1億1,500万人」となっている。
女性の地位向上,家族の経済状況の改善,人口の安定化,社会的寛容さの育成・・・教育がすべての問題を解決できるわけではないが,その多くに関連しているのも事実である。
観光地の子どもたち
おっ,子どもたちが家の前で遊んでいる。近づいて写真を撮ろうとするとお行儀よく並んでくれた。大きな子どもはしゃがんでくれたので構図もうまくいった。
小さな子どものお姉さんが出てきて,その子を抱き上げたところで写真を要求される。はい,はい分かりました。このくらい簡単にいくと写真は楽なのだが,そうは行かなかった。
男の子の集団に見つかってしまい,写真の中に入ったり,金や物(ワンダラー,ベン)をせびる。どうしてこんなにひどい子どもに育ってしまったのかとため息が出る。観光客が子どもたちに不用意に金や物をあげるので,すっかりスポイルされてしまったようだ。
同じようなことはアジアの観光地で何回も経験してきたが,僕自身は簡単には免疫ができない。これ以上彼らに付きまとわれると「うるさい,あっちに行け」と怒鳴りそうになるので,係わり合いを持たないようにして先に行くことにする。
それでも小さい子どもたちは割と素直に被写体になってくれる。悪がきに見つからないうちに写真を急がなければならない。なかなか良い笑顔が二組撮れた。
お礼にヨーヨーを作ってあげたいけれど,さきほどの「ワンダラー,ベン(アラビア語ではペンではなくベンになる)」のことがあるので「ありがとう」のお礼だけにする。
夕暮れの遺跡
17時からは再び遺跡に戻り,夕日に染まる四面門の写真をとる。文献によると四面門の円柱はエジプトのアスワンから運ばれてきた赤みを帯びた花崗岩が使用されているという。そのため,夕日を浴びると赤みが一層増して美しいとガイドブックは説明している。
う〜ん,確かに赤みは強くなっているが「このうえなく美しい」というのは,ガイドブックの表現でもちょっと誇大であろう。他の石柱も夕日の時間帯にはそれなりに赤くなり美しい。
欧米のガイドブックはどのように説明しているかは分からないが,この時間帯に遺跡にいるのは僕ぐらいのものだ。この季節,夕日は塔墓のたくさんある丘の左側に沈んでいった。