ダマスカスからパルミラを経由して東に向かう幹線道路がユーフラテス川を渡るところにデリゾールという町がある。英語の表記は「Dayr Az Zawar」,これをデリゾールと発音する。
悠久の大河の風景と地方都市の大らかさに会いたくてこの町にやってきた。町はユーフラテスの西岸にあり,橋を渡り東岸から見る夕陽は素晴らしい。
トルコ北東部のエルズルムあたりを源とするユーフラテス川はシリアの北東部を切り取るように西北から東南方向に流れている。シリアに入ったユーフラテス川はデリゾールの100kmほど上流でアサド・ダムにより堰き止められ,アサド湖となっている。
1975年に完成したアサド・ダムは高さ60m,ダムの長さ4.5km,底幅512mのアース式ダムである。シリアの10%にあたる80万kwの発電設備容量を有しているが,主たる目的は地域の灌漑である。
ここでの取水量は毎秒100m3となっており,まさしく年間降水量が100-200mmしかないこの地域における農業の生命線となっている。
ユーフラテスの東側をほぼ平行して流れているチグリス川はシリア国境をかすめるだけでイラクに入る。2つの河川はバグダッドを挟む形で流れ,その先で合流しペルシャ湾に至る。そこはメソポタミア文明が花開いたところでもある。
チグリス,ユーフラテスのように複数の国を流れる川を国際河川という。砂漠あるいは半砂漠地帯のこの地域では水は非常に貴重な資源である。その水をどのように使用するかということについては国際的な法律があるわけではなく,しばしば政治問題に発展している。
トルコではチグリス川とユーフラテス川の大規模な水資源開発を進めており,下流側のシリア,イラクから大変な批判を受けている。上流でダムができると下流では流量が減少する。
川の水位が下がると既存の灌漑設備は役に立たなくなるという不都合も発生する。チグリス,ユーフラテスの合流部にある大湿原がやせ細るという問題も発生している。また,流域の都市にはほとんど下水処理施設がないので河川の汚染も深刻な問題になりつつある。
アレッポ(300km)→デリゾール 移動
時計塔の少し手前にあるボルサイドとおぼしき食堂で朝食をとる。08時を回っているけれど,シリアでもラマザーンの朝食は大目に見てもらえるようである。パン,スープ,ヨーグルトの朝食は悪くない。これで50SPなので,シリア滞在中はこの値段を基準に食事を考えることにした。
09時過ぎにチェックアウトしようとしたら管理人の青年はまだソファーで寝ていた。宿から1km強離れたガラージュ・ハナーイまで歩き,8番ブースに停車しているデリゾール行きのバスを見つける。
デリゾール行きのバス情報が不確定のため,昨日は宿の近くのガラージュ・カルナックに行ってデリゾール便をチェックしたら無いことが分かり,遠くのハナーイBTまで行ってデリゾール便があることを確認しておいた。
Aという町からBという町へバスで移動する時の情報の表し方はガイドブックにより異なる。「旅行人」はA町のバスターミナルを列挙し,それぞれのターミナルからどこ行きのバスが何時にあるというように記載している。
それに対して「地球の歩き方」ではBという町に行くにはどこの町からバスがあるというように記載している。Bという町のページを開き,A町の○○BTからバスがあることをチェックし,A町のページに戻りBTを探すことになる。
発想方法として「A町からバスでどこにいけるか」と「B町に行くにはどの町からバスに乗ればよいか」という差である。個人的にはすでにA町に滞在しているのであるから,A町のページにBTの情報を載せるのが旅人には分かりやすいと思う。
特に直通バスが無いような場合,あるいはB町の先にあるC町行きのバスに乗ってB町で途中下車するような場合は歩き方のような逆引きではかなりチェックが煩雑になる。もっとも僕の出合った旅人たちはどちらでもそれほど問題にしていないようだ。
シリア最初のバスはヨーロッパ仕様の立派なものでエアコンも入っている。デリゾールまでの約300kmが135SP(2.8$)なので距離単価はおよそ100km/$となる。これはインドのオンボロバス並みの安さだ。
バスは定刻の10時に出発した。アレッポの町を離れ,1時間もすると半砂漠の土地になる。道路は全面的に舗装されており片側2-3車線と立派なものだ。交通量は道路に比べてずいぶん少ない。
途中からユーフラテス川に沿った道を走ることになり,アサド湖の脇を通ることになるが何も見えなかった。この辺りから道路の周辺には農地が見られるようになる。ユーフラテスの恵みに頼るのは今も昔も変わらない。
14:30にバスはデリゾールのBTに到着した。僕はBTの係員に連れられて近くの事務所に向かう。そこは外国人登録所で係官はパスポートの内容を大きな台帳に記帳する。
僕をここに連れてきたのはBTの係員ではなくタクシーの運転手であった。町の中心部までは歩いて20分と教えられタクシーで宿まで行ってもらった。料金は50SPであったが25くらいに値切るべきであったと日記を書きながら反省することになった。
アル・ジャミア・アル・アラビア
タクシーの運転手は予定していたアル・ジャミア・ホテルのおおよその場所を知っていた。もっともデリゾールは小さな町で,北東から南西方向にタマーニャ・アザール通りが,北西から南東方向にアル・イマーム通りが走っている。二つの通りの交差点付近が町の中心部となっている。
この交差点からアル・イマーム通りを南東に500mほど行くとアル・ジャミア・ホテルがある。交差点からタマーニャ通りを南西に1kmほどのところに僕が到着したBTがあり,北東に1kmほど行くとユーフラテス川にかかるデリゾール橋に出る。
この小さな町にもかかわらず,交差点周辺はなぜか交通渋滞となっており,宿に到着するまでには30分近くかかってしまった。アル・ジャミア・アル・アラビアという長い名前のホテルの部屋は4.5畳,1ベッド,T/HS共同,清潔である。
部屋は広く,ベッドも十分に大きく快適である。部屋に洗面台があるのもありがたい。料金は200SP(480円)である。英語のできるマスターに説明を受けてすぐにここに泊まることにする。値引き交渉をする気が起きないほどのコスト・パフォーマンスである。
宿の名前のアルはアラビア語の定冠詞,ジャミアは金曜日(集まる)を意味する。トルコではマスジド・ジャーミー(金曜モスク)という言葉が略されてジャーミー単独で「礼拝する場所」を意味するようになっている。
シリアではこれがジャミアとなっているようだ。シリアの母国語はアラビア語なので「ジャミア」が本来の言葉でジャーミーはそれが訛ったものなのかもしれない。
現在はラマザーンの最中である
宿の前の通りには何軒かの食堂はあるがラマザーンのため日中は営業していない。窓の付いた金属ケースの中でチキンが丸ごと何羽もローストされている。食べられる時間帯19時から30分ととても短い。宿の主人もさっさと店を閉めて家族と夕食を食べたいという事情がある。
しかもたくさんローストされているものの大半は予約のあったものであり,僕のような旅行者がふらっ入って注文が取れるものではない。
コーヒー豆のロースト
コーヒー豆屋の店先でではバケツのような金属容器で豆がロースとされており,とてもすばらしい香を漂わせている。容器を下から加熱し,焦げ付かないように中で金属棒が回って攪拌している。しかし,この町ではコーヒーを飲ましてくれるところはまったく見かけなかった。
野菜と果物
交差点の周辺には果物の屋台がいくつも出ている。メロンと思われる果物は黄色の表皮で何となく縦方向に筋が入っている。シリアのメロンを制覇してみたかったが一人では簡単ではない。ブドウはマスカットを長くしたような品種で,1kgで40SP,味は悪くない。
体格の良いシリア人
そのあたりを歩いていると男性から「ワシらの写真を撮ってくれと」声がかかる。体格も服装もいかにもシリア人というおじさんだ。本来はくるぶしの辺りまである長衣を膝までたくしあげて,まるでスカートをはいているようだ。
シリア人は太りやすい体質なのか,100kgを越えている人は珍しくない。その一方で,メタボリックが心配な男性の割合は日本よりずっと少ない。
ナツメヤシ
ナツメヤシを干したものもずいぶん見かけた。ナツメヤシは干したものをそのまま食べる。しかし,ここではナツメヤシを発酵(?)させたようなペースト状のものを水で溶いたジュースが売れ筋だ。氷が使用されているので僕は手を出さなかったがいかにもおいしそうだ。
アサド親子の支配するシリア
交差点の北側には軍服姿の男性の騎馬像がある。この国で近代的な軍服姿の人物とくれば先代のハーフィズ・アサド大統領であろう(間違っていたらゴメンナサイ)。
1970年のクーデターで穏健派のアサドが実権を握り大統領に選出された。彼は2000年に死去するまで30年に渡り,シリアの元首の地位にあった。現在は息子のバッシャールが大統領となっている。彼の大きな写真看板はデリゾール橋の手前にある支流の沿いの通りに立っていた。
青いドームと白いミナレットのモスク
支流の橋を渡ると大きな中島があり,その先にユーフラテスの本流がある。中島の支流側は町になっており,四角柱のミナレットが見える。
青いドームと白いミナレットという変わった組み合わせのモスクがあったので入ってみる。西アジアらしく入口にはナツメヤシの木があり,黄色い実をつけている。
ドームの周辺には明り取りの窓がたくさんあり,ドームの内側は白い漆くいが塗られているので,内部はずいぶん明るい。床には礼拝の位置決めができる模様のじゅうたんが敷かれている。壁の一面にミフラーブという窪みがあり,こちらがメッカの方角を示している。
デリゾール橋
デリゾール橋は立派なつり橋であるが二輪車を除き車両の通行は禁止されている。橋の上には自転車に乗った子どもたちがたむろしている。上半身は裸なので水遊びに来ているようだ。
車両用の橋は少し下流側にあり,この橋から見ることができる。上流側はもう一つの中島があり,その両側からユーフラテスが流れてきている。時刻は16:40を回っており,水の表の暗い青,地平線のすぐ上は薄い茜色,上空のまだ明るい青色という不思議な色分けになっている。
トルコ共和国の大部分占めるアナトリア高原から南に向かってユーフラテス川,チグリス川という二つの国際河川が流れ出ている。
二つの河川はほぼ平行して流れ,イラクのバグダットの南で合流してシャトル・アラブ川となり,ペルシア湾に注いでいる。ユーフラテス川はシャトル・アラブ川を含め全長は2980kmとなる。
この二つの大河に挟まれた沖積平野である「肥沃な三日月地帯」は「メソポタミア」と呼ばれ,人類最古の文明の一つを育んだ。メソポタミア文明とはこの地域で生まれた文明の総称であり,最古のものはシュメール文明である。
西アジアではおよそ9000年前に麦の栽培が始まり,これが新しい形の定住社会と文明を生み出した。麦の栽培に関連付けられているのが「ヤンガードリアス(12,900年前-11,500年前)」の寒冷期である。
1万5000年前に氷河期が終わり,温暖化していた時期に突然発生した寒冷化のため人類は食料の調達が困難となった。乏しくなった食料を調達する手段として,それまで採取だけしていた野生種の麦を栽培するようになった。これが西アジアでの農業の始まりといわれている。
メソポタミアでも農業の高い生産性は人口の増加,都市化を促進し,いくつもの地域支配勢力が出現するようになった。地域的には北部がアッシリア,南部がバビロニア,バビロニアのうち北部がアッカド,南部がシュメールと区分される。
この古代国家の呼び名はそのまま現在の「シリア」という国名になっている。もっとも「アッシリア」はギリシャ語に由来しており,本来の呼び名は「アッシュル」である。
数千年前の古代国家の名前を現代に引き継ぐとは歴史のロマンである。しかし,アッシリアを構成していた民族と現在のシリア人の関係ははっきりしていないという。
ユーフラテスの夕日
デリゾール橋を渡りながら太陽の沈む位置を確認し,橋を渡った対岸が夕陽のビューポイントであると判断した。対岸には屋外のチャイハネがあり,テーブルが用意されていた。ここからお茶を飲みながら夕陽を眺める趣向のようだ。
川岸まで下りると4本の高い支柱とワイヤーで吊られているデリゾール橋の構造が良く分かる。川,橋,空の構図もいい絵になる。近くにはガチョウの群れがよたよたと歩いている。
ガチョウは野生のガンを家禽化したもので,ヨーロッパ,西アジア,アフリカでよく飼育されている。ガンとほとんど同じ体型をしているにもかかわらず飛翔能力がない。肉,卵が食用となり,羽毛は羽毛ふとん,ダウンジャケット,寝袋などに利用される。
僕が岸辺に下りるとガチョウは川に飛び込む。さすがに水鳥の一族の末裔だけあって,泳ぐ姿は優美だ。太陽が川の向こうに沈みかけると空も川も茜色に染まり,なかなかの夕焼けになってくれた。
最後の輝きを見せる夕陽の前を家路を急ぐ川漁師の舟が横切っていく。18時に太陽は対岸の森の向こうに沈むが,赤く染まった空とそれを映す川面の風景はしばらく続いていた。橋を渡って街に戻る途中で,日没後の礼拝を呼びかけるアザーンが響いてきた。
宿の近くに戻ってくるとまだ19時前だというのに,ほとんどの店や食堂はもう閉まっていた。急いで夕食を探さなければならない。交差点の東側のアル・イマーム通りはどこも開いていない,唯一屋台のサンドイッチ屋がある。ちょっと衛生的に怪しいけれど背に腹は代えられない。
肉を鉄板で焼いたものを薄いパンでくるんだサンドイッチとチャイで35SP,味はともかくなんとか夕食にありつくことができた。宿に戻り久しぶりのお湯のシャワーでリフレッシュする。
幼稚園の送迎車
06時に起床,しかしすることが無いのでガイドブックを読んで07時まで横になっていた。朝食かたがた朝の散歩に出かける。しかし,この町では朝食がとれるような食堂は見当たらない。パン屋も開いていないので朝食は難しい。
学校で写真を撮る
母親に手を引かれた制服姿の子どもがいるので後をついていく。高い塀に囲まれた小学校がある。子どもたちは校舎の入口を通り,そのまま教室に入っていく。中庭に子どもたちが見えるので校舎の横を通って,そちらに向かう。
上級生の子どもたちが校舎に向かって整列している。校舎の石段には男性の教師がいるけれど,特に注意はされなかった。自由時間になると東アジア系の外国人は珍しいのか子どもたちが寄ってくる。
こんなとき,イスラム圏の国では男女別に写真を撮るのは容易だ。宗教的に男性と女性を分ける習慣が定着しているので,「ハイ,男の子はこっち,女の子はこっち」と言うとちゃんと左右に分けることができる。
子どもたちの服装は男子が青のトップと紺のボトム,女子はピンクのトップと紺のボトムである。トップはシャツもしくはブラウスでデザインはまちまちである。色だけが規定されているようだ。女子はブラウスの上から紺の上着を着ている子やスカーフを着用している子が2割くらいいる。
子どもたちはなかなか一列に並んでくれないのでフレームが難しい。学校という環境のせいなのか女子も写真に対して物おじするとことはない。画像を見せてあげると列を乱して集まってくるのでちょっとした騒ぎになる。唇に人差し指を当てて「シーッ」と言うと騒ぎ声だけは収まる。
自由時間が終わり子どもたちは教室に入る。僕が正門から外に出るとき,三階の教室から金網越しに子どもたちが「サヨナラ」を送ってくれる。僕も手を振り返し学校を後にする。
スークの周辺
交差点の西側のスークを覗いてみたが衣類と雑貨が主体で食料になるものは何もない。昨日のパンの半分がザックに入っているので,屋台でリンゴ2個を買って昼食にあてる。
スークの近くでは履物の修理屋が店を出していた。「ものを修理して大事に使う」文化は日本ではもう完全に衰退してしまった。大量生産・大量消費社会では生産→販売→使用→廃棄という一方向の流れができており,その流れから外れる「修理」はとても高額の商品になってしまう。
僕が2万円で買った腕時計の修理費が16,000円ではとても修理して再使用する気にはならない。低額の家電製品でも修理費用は決して商品価格に比べて安くはないので修理に二の足を踏むことが多い。高額の家電製品,自動車くらいの商品になるとさすがに修理が常識となる。
高度市場経済社会においては企業の定める価値基準がそのまま社会の価値基準となり,人々の生活スタイルに大きな影響を与える。2万円の時計の修理費用が5000円ならば修理をして使い続けようと考えるが,16,000円では新しいものに買い替えるしかない。
個人的には「もったいない」と思いながらも,企業の価値基準に従わざるを得ない自分が歯がゆい。企業サイドにしても安い値段で修理をして,旧い製品をずっと使い続けられては新しい製品が売れないので利益につながらない。
また,壊れないまでも,適当な時期に新しい商品に買い替えてもらわなければならないので,消費者のこころをくすぐるような新らしい商品を販売する。高度市場経済社会とは必然的により大量に作り,より大量に売れなければ企業として存続できないという性格をもつ。
そのような経済の拡大は地球の環境容量をすでに超えており,どこかで歯止めをかけなければ社会がよって立つ基盤が崩壊することになる。いくら多くのモノを手に入れても満足感が得られない社会から,必要とする最小限のもので満足する社会への変革が必要である。
しかし,悲しいことに人間の欲望は地球を食い尽くすまで続きそうだ。それはホモ・サピエンスとしての宿命なのかもしれない。とりあえず,シリアの小さな町ではクツを修理して使おうとする人たちと,それを支える職人が健在だ。
ドゥラ・エウロポス遺跡に向かう
南北の幹線道路を南に歩き,市バスのバス停を見つける。ここで宿の主人に書いてもらったアラビア語で「ミクロBT」と書かれたメモを見せると,市バスに乗せられ歩いて5分のところにあるミクロBTで降ろされた。
ミクロバスを利用する前に建物の中で「外国人登録」をする。戻ってきた時も同じところに行けと言われた。この不可解な仕組みは何なのだ。
ドゥラ・エウロポス遺跡行きのミクロバス(普通のワゴン車)は遺跡が終点というわけではなく,途中で降ろしてもらう必要がある。料金の50SPを払い,運転手に「ドゥラ・エウロポス」と告げると,うんうんとうなづいていたのでたぶん大丈夫であろう。
ミクロバスは1.5時間ほどで幹線道路のわきに僕を降ろしてくれた。周囲は完全な砂漠になっている。少し赤みを帯びた砂漠を切り裂いて灰色のアスファルト道路が続いている。
乾燥に強い植物
東側に見える土色の盛り上がりがドゥラ・エウロポス遺跡である。遺跡への取り付け道路を20分かけて歩く。周囲は赤茶色の土漠なっている,わずかに乾燥に強い植物が小さな群落を作っている。
ドゥラ・エウロポス遺跡
ドゥラ・エウロポスは紀元前3世紀にアレクサンダー大王の武将セレウコスより造営された軍事都市である。ドゥラは古代セム語で「要塞」を意味している。ユーフラテス川に沿ってバビロンと地中海を結ぶ道路は重要な交易路となっていたのでそれを支配下に置くためのものと考えられる。
この町はローマの支配下に入り,隊商都市として繁栄するが3世紀にササン朝ペルシャにより破壊され住民は追放された。日干しレンガ造りの街は風化し,砂に埋もれていった。20世紀に塹壕を掘っていたイギリス軍が偶然に発見するまで人々の記憶から忘れ去られていた。
城門とそれに続く城壁は何とか原形が分かるけれど,内部の建造物はほとんど何も分からない状態だ。アラビア語と英語の併記された看板があり,そこには28もの建造物を表示されている。しかし,考古学上は意味のあるものかもしれないが,旅人にとってはほとんど風化したガレキでしかない。
遺跡の中はだいたい平らであり,ユーフラテス川から50mほど高くなっている。北西側は川に向かう斜面となっており,手前の台地から崖の上にある東側の城壁と背後のユーフラテス川の風景を眺望することができる。この台地の終端部分がこの遺跡のビューポイントになっている。
川に続く道の向こう側には少し保存状態の良い建造物の跡が見える。一部分は補修されているようだが,それが昔の状態を再現したものかどうかは分からない。
城壁の右側には10mX20mほどの建造物の跡が見られる。ここは土砂が取り除かれており,建物の土台部分が露わにされているため,在りし日の街のようすが若干なりとも想像することができる。
その右側には日干しレンガ造りの建物が並ぶ一画があるけれど,よもやBC3世紀のものを復元したものではあるまい。少し遠くの斜面の下にも漆くいで塗られた建物がある。
城壁から眺めるユーフラテス
城壁の上からはユーフラテスの沖積平野に広がる農地が見える。川が運んできた肥沃な土壌に川の水で灌漑された農地である。規模と農法は異なっていても,川の恵みに依存している地域農業の姿は数千年前とさして変わっていない。
城壁の上を涼しい川風が吹いてゆく。緑豊かな農地と風化した赤茶色の遺跡のコントラストを眺めながら,パン,チーズ,リンゴの昼食をいただく。この時間に遺跡にいるのは僕を含めてたった二人しかいない。
台地に戻り城門をくぐると管理事務所の前にバイクが置いてある。中に入ると管理人がおり遺跡の入場料75SPを要求された。ガイドブックには150SPと書かれていたが,さすがに150では高いというこことになったようだ。
幹線道路に出てミクロバスを拾おうとすると,満員のため止まってくれない。手を上げて止まってくれた軽トラックをヒッチして近くの集落まで乗せていってもらった。おじさんへのお礼は1本15SPの缶コーラにする。
お菓子
この集落から2回ミクロバスを乗り継いでようやくデリゾールの町に戻ることができた。宿に戻りシャワーで汗を流し,南北道路を端まで歩いてみる。この町ではお菓子屋さんが目立って多い。
立派な菓子店もあれば,お菓子の屋台もあり,どこもけっこう賑わっている。これはラマザーンと関係があるにちがいない。日中は食事ができないので,日が落ちてから一家揃って夕食をとり,お菓子で一日を締めくくるのであろう。
さて今日の夕食はどうしよう
チキンが丸ごとあぶられている食堂を夕食のためにチェックする。しかし,出来上がったものはすでに予約が入っているらしく,はさみで適当な大きさに切られ,発泡スチロールの容器に入れられ,薄いパン,野菜と一緒にどんどん出荷される。これでは僕の分はとても無いと思い,場所を変える。
そろそろ夕暮れのアザーンが始まる時間帯だ。宿の近くの食堂ではすでにテーブルの上に料理が並べられている。ここも完全に予約注文のようだ。三人の男性が席に着いているテーブルからお呼びがかかる。
彼らのテーブルにはケバブ,薄いパン,サラダ,スープ,コーラのボトルが置かれている。一緒に食べなさいということらしい。喜んでご一緒することにする。アザーンが始まり,食事が解禁された。
ケバブは小さくちぎったパンで挟んで串から抜き取り,そのままいただく。サラダは大皿からスプーンで直接いただく。合間にコーラをいただき満腹となる。それでもテーブルの上にはまだ料理が余っている。
ずいぶんたくさんのものを注文したものだ。30分ほどでテーブルの上の余りは店の人が片付けた。僕はお金を出そうとすると,一人がそれを制して払ってくれた。アラビア語のありがとうという「シュクラン」と言って店を出る。彼らにお呼ばれされなければ今日の夕食も危ないところであった。