亜細亜の街角
アレッポ城から見ると灰色の街が広がっている
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アレッポ城  (参照地図を開く)

大モスクの西側を南に行くとスークに戻ることができる。そこをさらに東に歩くとアレッポ城を取り巻く道路に出る。正面に円錐形の丘があり,その地形を生かしたアレッポ城が堂々とそびえている。丘の形はきれいな円錐状であるが,これは自然の地形に一部手を加えたものだという。

紀元前10世紀,自然の地形を生かしてここにネオヒッタイト(BC1200-700年頃)の神殿が造られた。アラブの時代になると城塞となり,12世紀には十字軍に対する難攻不落の砦として改修された。その後も改修は繰り返され,現在の姿になったのは16世紀のことである。

アレッポ城のある丘の周囲は濠が巡らされている。現在は水が無く,底にはペットボトルなどのゴミが散乱している。城の入口は南西部の1ヶ所しかなく,濠の外側に小さな出城のような建物があり,そこにたどりつくためには狭い石段を登らなければならない。

出城と城門の間はやはり狭い石段になっており,正面から城に攻め入ることはまず不可能に近い。残りの部分も濠を渡り,石造りの丘の斜面を登るは大変なことだ。これが難攻不落の要因なのだろう。しかし,この城塞も13世紀にモンゴル軍により攻め落とされという記録が残っている。

アレッポ城の入場料は150SP(310円),これはシリアの物価に比してかなり高いが,世界遺産の入場料としてはずいぶん安い部類に入る。出城から城門を見上げる写真はとても絵になるのだが,いかんせん距離が足りない。

城門をくぐる石段は加工された自然石が使用されている。その表面は磨き上げているようになっており,滑り止めの溝もずいぶん磨り減っている。こんな石にもなんとなくこころが引かれ,写真にする。

城壁の内部はとても広いし,大小の建物があり写真を見てもどうなっていたのかよく思い出せない。とりあえず城門を抜けて左に二つのモスクを見ながら石段を登り,一番高いところに上る。

アレッポ城からの眺望

城壁越しに灰色の市街が一望できる。アレッポにはまだ高層ビルが少ないのでこの高さからほとんど全市街を眺望することができる。城壁沿いに移動しながら何枚かの写真を撮る。建物の一つ一つは必ずしも灰色ではないのだが,全体として眺めると灰色に見えるのは都市というもののもつ性格なのかもしれない。

この街には大モスク以外にもいくつかのイスラム宗教建築がある。しかしそれらはガイドブックには記載されてないので容易にアクセスはできない。やはり,旅行人の地図は良かったなあとしみじみ思う。

モノクロの地図にもかかわらず旅行人の地図は非常に見やすいし充実している。某国民的海外旅行ガイドブックも地図の重要性をもう少し認識してくれてもよさそうなのだが…。

西の方にはさきほどの大モスクがしっかり見える。上からみると北側と南側の建物は奥行きがあることが分かる。またミナレットが他の建物に比してずいぶん高いこともわかる。

大モスクの南側はまっすぐアレッポ城に向かうスークがあるはずだが,なんとなくあのあたりかなぐらいにしか分からない。そのくらいスークの周辺は建物が連続している。

すばらしい景観に感動すると,城内の写真はずいぶん雑になる。最上部から見ると城内はほとんど瓦礫の状態なので全景写真はたいしておもしろくない。まあ,それでも日陰を見つけて瓦礫の上に腰を下ろして昔日の栄華に思いを馳せるものいいものだ。

城の内部は立派な石造りのアーチとなっており,周囲のものとは時代が異なっていると思われるほど保存状態はよい。この内部もけっこう複雑で,出口はどこだったけと,探し回ることになった。

ラマザーン(断食月)あれこれ

トルコにいた時からラマザーン(断食月)が始まっていた。クルアーン(コーラン)には「この月の間,家にいる者は斎戒(断食)しなければならない」と記されている。ここでいう斎戒には飲食だけではなく夫婦の営みといった欲望を控えるという意味も含まれている。

どうしてそんなバカげたことをするんだという声が聞こえてきそうであるが,ラマザーンはイスラム教徒の5行(5つの重要な義務)に含まれている。ここでいう断食とは日のあるうちは飲食が禁止されるという意味である。食はともかく砂漠で日中水が飲めないというのは大変なことである。

断食にはどのような意味があるかは日本の 「イスラミックセンター」で分かりやすく説明している。その大意は,「断食によって人は欲望から逃れることができる。飢えや渇きを身をもって体験することにより,貧困者の苦しみを理解することができる。また断食という精神的行為を通じて人々は世界中のムスリムとの一体感をもつことができる」となっている。

外国人や旅行者には断食は適用されないとはいうものの,人目に付く所で飲食,喫煙などをしようものなら注意を受ける。トルコは世俗主義のため断食中も食事に苦労することはなかったが,シリアはだいぶ厳しいようだ。

ということで日が落ちてから外に出て食堂を探す。う〜ん,屋台しか見当たらない。宿の北側を歩いていると食堂が見つかった。どうしようかと迷っていると,後からやってきた英語のできるビジネスマンに声をかけられ一緒に入ることになった。

ここはけっこう繁盛している。シリア人のビジネスマンと一緒のテーブルについて,彼の助けを借りてミンチケバブを注文する。僕のテーブルの上にはミンチケバブ,ヨーグルト,サラダ,薄いパン,スープが並べられた。

食べきれない量ではないが,どうも一種のセットメニューのようになっているようだ。彼の前にはそれ以上のものが並んでいる。彼と主に料理の話をしながら大半のものをたいらげる。トルコのおいしいパンにすっかり慣れてしまい,薄いパンに自分を慣らしていくのは大変そうだ。

さて夕食の料金は150SP(310円)とこの国の物価からするとお高い。ここは例外的で場所を選ぶと,50SP以内で夕食をとることができた。ともあれシリアの最初の日の夕食は無事に終了した。

狭い自分の部屋では日記を書くことができないので4階というか屋根付きルーフトップの食堂のテーブルで日記を書く。この食堂の食事は朝食が160SP,夕食が225SPと天文学的に高い。この値段で誰が食事をするというのだろう。

食堂の隣は一応仕切りがありドミになっている。覗いてみると16人分のマットレスのうち2つが使用されている。一つは蚊帳が吊ってあり,これにはちょっと驚く。しかし,シリアはアフリカとヨーロッパの中間点,マラリア多発地帯からやってきた人が蚊帳を持っていても不思議はない。

夜に寝ていると,夜中の03時から下の通りが騒がしくなる。ラマザーンの食事時間のようだ。車で出かける人々が大声を出すので必然的に目が覚める。04時を過ぎると通りは再び静かになる。ラマザーンの期間中,人々の生活時間帯はどうなるんだろう。

昨日は金曜日のため十分に食材を買うことができなかったので今日はまず買出しに出かける。時計台の南にあるスークでパン(2個で25SP)とトマト1kg(25SP)を買い,宿でいただく。それに昨日買っておいたチーズとぶどうがあるので,充実した朝食になる。

チーズといえば僕は旅行中の栄養補給にラーフィング・カウブランドの三角チーズを毎日1-2個食べている。3年前にインドから帰国して1週間後に高熱を出して入院騒ぎを起こしたことがあるからだ。

ずいぶん検査してもらったが赤血球が少ないこと以外は何も見つからなかった。熱も点滴を打ってもらったらすぐに下がり,食欲も戻ってきた。医者に「1週間前にインドから戻った」と素直に告げたら,大部屋から個室に強制的に移された。

差額ベッド代は半額にしてもらったがえらい出費となった。おそらく鉄分が不足して体のバランスが狂ったのだろうと自己診断した。院長にかなり嫌味を言われながらも6日目には退院させてもらった。

自宅で鉄分強化牛乳を飲んで,体調はすぐもとに戻った。それ以来,チーズは旅の栄養補助食品として重宝している。シリアでは24個入りが100SPとまあまあの値段であった。

考古学博物館

宿の南側のアル・マーリ通りには考古学博物館があるので行ってみる。さすがに時間が早すぎてまだ開いていなかったが,敷地内には入ることはでき,展示されている石像は見学することができる。

博物館の正門前には紀元前9世紀,おそらくネオヒッタイトのものだろう,3体の獅子像の上に立つ3人の人物の石像が置かれている。獅子も人物も目には白い石を使っているのでなんとなくユーモラスな感じを受ける。

この他にも獅子の石像,ビザンツ時代の石棺や十字架石類似のものもあり,けっこう外だけでも楽しめた。館内は写真撮影不可なのでこれで満足することにしよう。

キリスト教地区に行こうとして公園に出る

午前中は500mほど離れたキリスト教地区に行こうとしてあっさり道をまちがえた。アレッポの道路は微妙にカーブしているし,そのうえロータリーのような複雑な交差点があるので,僕のようにあっちを見たり,こっちを見たりしていると目的地に正しく到達するのは難しい。

北東に行くつもりがいつの間には北西の公園に出てしまった。噴水池があるのでガイドブックの地図で場所は推定できるが,その公園の名前も載っていない。けっこうきれいな公園なので何枚か写真を撮る。

ベンチにはお年寄りが固まって坐っており,それはすべて男性である。僕が通りかかると彼らからお呼びがかかり,写真を撮ることになる。

カフェの雰囲気

公園から大きな通りを横断し東に歩いていく。このあたりは新市街となりスーク周辺とはだいぶ家並みが異なる。比較的新しいビルが立ち並び明るい感じの商店が多い。茶店もチャイハネというよりはカフェという雰囲気である。

ここにはいろいろな宗派の教会がある

ビル街に溶け込むように教会がある。高さは5階建てのビルほどもあり,その上にドームが置かれ,最上部に十字架があったので教会だと分かる。建物は明るい感じの石造りであるが,通りに面した壁面はほとんど窓が無く,今まで見てきた東方正教会とはまったく別物である。

会堂の手前に人,手,足,長靴,馬などの形をした薄い金属箔の装飾品が展示されていた。にぶい金色をしているので材質は真ちゅうもしくは金製と思われる。教会とこのような装飾品の関係は見えない。

会堂内はとても簡潔で木のベンチが並べられ,正面に30cmほど高くなった至聖所がある。入口の左右には灯明台がありローソクが灯されている。飾られているイコンの図柄は聖母子像である。

正面に3個のアーチ型の入口をもつ教会も見かけた。こちらは先ほどのものに比べると一見して教会と分かる建物である。3個のアーチの上部にはそれぞれイエス・キリスト,聖母マリア,主教の絵が掲げられている。文字から判断するとアルメニア使徒教会のようだ。

シリアのキリスト教徒は人口の10%を占めている。パレスチナに近いシリアは1-2世紀には原始キリスト教が広まり,その後の宗教会議で異端とされたものを含む,多くの宗派が並存している。
(1) 非カルケドン派のシリア正教会
(2) 東方正教会のアンティオキア総主教庁
(3) マロン派の東方典礼カトリック教会
(4) アルメニア使徒教会

通りに面した建物はだいたい高さがそろっており,1階は商店,2-5階は集合住宅になっている。それぞれの家からはベランダが張り出しており,独特の風景を作り出している。角地に立つ教会は最初に見たものと同様に窓の少ない建物の上にドームと十字架が置かれている。公民館ホールといった感じの建物で被写体としては全然おもしろくない。

新市街もすぐに道に迷ってしまう

それにしてもこのあたりはガイドブックの地図と道路がほとんど照合できない。太陽で方角を判断して歩いているとアル・ハタブ広場と思われるところに出た。ここはキリスト教地区のランドマークとなる場所だ。

広場にはスピーカーの付いた高い塔があり,これはおそらくアザーンのためのものであろう。キリスト教地区には不似合いなものだ。広場に面して骨董店がある。2階のテラスにさまざまな古い生活用具が吊り下げられており,ちょっといい雰囲気である。

広場の周辺は古い街並みが広がっているが,南側のアラブ風旧市街とはどこか感じが違っている。通りはひどく狭く,両側からテラスや出窓が張り出しているので空がほとんど見えない。すこし開けた空間になると日が当たる部分と当たたらない部分の明るさの差が大きすぎて露出が合わない。

マロニデ大聖堂

ようやくマロニデ大聖堂とおぼしき教会に出ることができた。両側に二つの塔をもった教会らしい建築物である。門はあいているけれど,会堂は閉まっていた。会堂の入口の上部には見たことも無い文字が記されている。ここはいったいどのような教会なのだろうか。

近くの通りには案内板が掲示されていた。ギリシャ正教,アルメニア教会,シリア正教会が同じ方角にあることが分かる。たしかにいくつかの教会はあり,そのうち一つに入ることができた。

正面にはイコノスタスがあり,至聖所に通じる扉は無く,カーテンも開かれている。イコノスタスの上部には12使徒のイコンが掲げられている,と思ったら13人いる。その上には大きな十字架が取り付けられており,そこにはキリストが描かれている。シンボルとしての十字架ではなく,十字架に磔になったキリストをそのままイコノタスに表現するのは珍しい。

信者は正面ではなく横にある小さな祭壇に向かってお祈りをしている。正面には聖母マリアの,左右には聖人のイコンが飾られている。会堂内は比較的明るいのでイコンもしっかり写すことができた。

会堂の外には小さな礼拝堂のようなものがあり,等身大に近い大きさの聖母マリアの立像が置かれている。このような像も東方教会では珍しい。聖母像の前では一組の夫婦が祈りを捧げており,ちょっと暖かい気持ちが湧いてくる。

迷路と張り出し窓

この先の通りは両側が石造りの壁になっている。ところどころはアーチ型の通路になり,その上には家屋がある。雰囲気は悪くはないが,写真の素材になるものは少ない。近くにあるはずのアルメニア大聖堂も見つからなかった。

アル・カンダクと思われる通りに出てキリスト教地区の探検は終わりとなる。この通りに面した建物は新旧が混在しており,石造りの家屋から木造の古い部屋が張り出している。

張り出し窓の文化はオスマン帝国時代の建築物によく見られる。現在でもトルコには張り出し窓をもった古い家屋が残されており,世界遺産の町「サフランボル」は張り出し窓の美しい古い木造家屋が登録理由となっている。

オスマン帝国の最大版図は北アフリカ,中近東,バルカン半島ににまで及んでおり,エジプトやブルガリアにも張り出し窓の家屋が見られる。ただし,ブルガリアのものはオスマンの建築様式をブルガリア風に洗練させたもので「ブルガリア・ルネサンス様式」と呼ばれている。

オスマン建築がどうして外に面した張り出し窓をもつようになったかははっきりしない。イスラム建築では中庭を建物がぐるりと囲う家屋が一般的である。

それでもアラビア語で「マシュラビーヤ」と呼ばれる格子や透かし彫りになった外向きの出窓をもつことがある。マシュラビーヤはイスラム圏独特のもので,平安時代の貴人が御簾を通して外を眺めたり,人と対面していたのに似ている。

外に出るときの制約が大きかった女性たちが,(外から見えないようにして)外を眺めたとされており,オスマンの時期にこの「マシュラビーヤ」を発展させてトルコ風の張り出し窓になったと推測する。

再び大モスクを訪問する

大モスクからスークに入る

のんびりと街を歩く


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