エフェソスからの帰りは駐車場に待機しているドルムシュ(乗り合い自動車)にする。中に入るとKさん夫妻の顔がある。グルジアのトビリシ,アルメニアのイェレバンの民宿で出会ったなじみの旅行者である。
これはお久しぶりですねとご挨拶する。彼らとはほぼ同じルートであったが,イスタンブールでは少し時期がずれていたので会うことができなかったようだ。再会を喜びあい,セルチュクの町に到着するまでのわずかな時間はその後の旅の話に花が咲く。
ドルムシュを降りて,僕は市場で食材を買い,いったん宿に戻り小休止をする。セルチュクでは多くの食事はパン,リンゴ,トマト,スープ,チーズ,紅茶の組み合わせであった。
スープはクノールの粉末タイプである。ウズベキスタンで買った大きな中国製のホーローカップとウクライナ製の電熱棒(コイル型電熱器)の組み合わせでお湯を沸かし,スープを作ることができる。
紅茶のティーバッグはかさばらないが,角砂糖は梱包単位が大きいので荷物になった。なるべくたくさん消費しようとしても,そうそう使えるものではない。
それでも,サブザックの中に入れておくと,ちょっとカロリーが欲しいなと感じた時は手軽にかじることができた。エジプトのシナイ山に登ったときなども重宝した。
セルチュクの街に戻り,明日のチケットを手に入れるため鉄道駅の周辺を歩いてみる。この街にはあまりロカンタを見かけなかったので,ほとんどの食事はパンと野菜,果物を買って自炊していた。
シュロの街路樹
午後は聖ヨハネ教会を見に行くことにする。通りにはみごとなシュロの街路樹があり,その立派さに感心する。幹の高さからすると街路樹としてかなりの時間が経過しているようだ。
ヤシの木の仲間にもかかわらずシュロの木はとても耐寒性に優れており,成木ならば-12℃にも耐えられるという。セルチュクは地中海性気候なので冬期は比較的温暖で雨が多い。
セルチュクより250kmほど北にあるイスタンブールの冬期平均気温は東京とほぼ同等なので,セルチュクはもう少し暖かいのでシュロは十分に生育できる。
実生(種から芽生えた苗)は東京くらいの温度には耐えられない。しかし,都市化による温暖化と地球温暖化の相乗効果により,東京でも亜熱帯性のシュロが種から生育できるようになったと自然観察者は報告している。
種から発芽したシュロの幼木は地上に細長い葉柄を伸ばし,その先に手の平を広げたような葉をつける。この段階では幹に相当する部分は土の中で静かに成長する。
そして,十分は太さになると地上に顔を出す。ヤシの木の仲間は幹の最上部が成長点となっており,そこから新しい葉が成長する。古くなった葉は脱落し,その繰り返しで幹は上に伸びていく。他の樹木と異なり,ヤシの仲間は成長点より下側では幹が太くなることはない。そのためほぼ同じ太さの幹がまっすぐ伸びるように見える。
イーサ・ベイ・ジャーミィ
聖ヨハネ教会までの道すがらおもしろい建物を二つ見かけた。一つは四角形の基壇,八角形の胴部の上にドームが乗せられている。モスクのような建物であるが通りに面したところには入り口はなかった。一段低いところにも小さな窓のような装飾のある二つのドームがある。
もう一つは内部が中空の大小複数のドームがあり,たくさんの丸い穴が開いており,まるでカッパドキアで見かけた人工的な鳩の巣のようだ。周辺の状況から判断すると農家の庭先のようだ。地所の境界には金網の柵があったので中には入れなかった。
聖ヨハネ教会はセルチュク駅から西に向かうセント・ジョン(聖ヨハネ)通りから少し北側の丘の上にある。教会の西側にはイーサ・ベイ・ジャーミィがあるのでそちらを先に見させてもらうことにする。
このモスクの全体像は聖ヨハネ教会から見たものがもっともよく分かる。礼拝堂はほぼ南向きで,わずかに南西に向いている。礼拝堂は二連の切妻屋根の建物になっており,それぞれの中央部にはドームが乗せられている。
基壇の上に乗せられたミナレットは円柱形をしており,イランの影響が見られる。ミナレットは中庭と礼拝堂の境界の両側にあったが一本はすでに失われている。
ガイドブックにはこの地域のモスクの様式がセルジュク朝からオスマン朝へ移行する時期(1375年)のものとされている。しかし,この構造は中庭の回廊(柱廊)を除き,イスラムの初期モスクの手本とされたダマスカスのウマイヤド・モスクの様式をそのまま踏襲しているようにみえる。
礼拝堂の北側には周囲を高い擁壁で囲われた中庭があり,入り口は西に面している。入り口の上部はイラン起源のの鍾乳石飾りがあるが,それほど細かいものではない。
中庭は芝生になっており,回廊あるいは柱廊にはなっておらず,壁に接した部分だけは石板で舗装されている。舗装部の端にはギリシャ式の石柱が並んでいる。
これらの石柱はアルテミス神あるいはとなりの聖ヨハネ教会のものが使用されている。ミナレットには円周方向に波型のような紋様で飾られており,これは初めて見るものだ。
礼拝堂の内部にも天井のドームを支える主柱としてギリシャ式の石柱が使用されている。ミフラーブの前には八角形の壺のようなものが置かれており,これもこのモスクの特異点である。
聖ヨハネ教会の周辺
聖ヨハネ教会はセント・ジョン通りから北に緩やかな傾斜の坂を上っていくと入り口がある。その近くには露店の土産物屋があり,大理石を加工した小さな像が売られている。
像の題材となっているのはエフェソスの遺跡や聖母マリアであり,どちらもこの土地ゆかりのものである。なぜか,聖ヨハネのものはほとんど見当たらなかった。
ここは地形的にはセルチュクの市街地からみると少し高い丘になっており,「アヤソルクの丘」と呼ばれている。エフェソスの港湾機能が失われた6世紀に,人々はこの丘の周囲に移住してきた。
丘はふたこぶラクダのようになっており,教会の北側にあるもう一段高い丘の上にはビザンツ帝国時代の城塞がある。おそらく,7世紀以降のイスラム勢力の侵攻に備えるためのものであろう。
この城塞は公開されておらず,復元された円形の城壁だけが,聖ヨハネ教会からあるいは教会の東側の道をたどっていくと見ることができる。この道からは地面に半分埋まっている遺構の背後に,セルチュクの町を見渡すことができる。僕は城塞の中に入ることはできないと判断し写真のポイントから引き返したが,他の人の旅行記によると中に入ることができたようだ。
イエスが布教を開始し,エルサレムで十字架にかけられるまでの期間はおよそ3年ほどである。彼はユダヤ教の改革者であり,それゆえにユダヤ教の指導者から迫害を受けることになる。その時期にイエスと関わりをもったヨハネは二人いる。
一人はイエスに先駆けてヨルダン川で人々に洗礼を授けた「バフテスマのヨハネ」である。彼はイエスにも洗礼を授けている。彼の墓(頭部のみとされている)はウマイヤド・モスクの前身となる「洗礼者ヨハネ聖堂」に納められている(とされている)。
もう一人のヨハネは「12使徒」と呼ばれる弟子たちの中でもペトロと並んで特に主要な人物で新約聖書にある「ヨハネによる福音書」を記している。
ヨハネの名前はキリスト教の広まったヨーロッパ全域で,その国の読み方に倣って男性の名前になっている。John(英),Johann(独),Jean(仏),Giovanni(伊),Ivan(露)などの名前は聞いたことがあるにちがいない。
この教会に関連しているのはこちらの12使徒のヨハネである。言い伝えによると聖ヨハネは聖母マリアとともにエフェソスに伝道に赴き,この地で亡くなったため,亡骸はこのアヤスルクの丘に埋葬されたとされている。
彼の墓地には小さな聖堂が建設された。その後,6世紀にユスティニアヌス帝が現在は遺構となっている大きな教会に建て替えた。14世紀に入ると一部はモスクとして転用され,その後の地震で大きな被害を受けた。
聖ヨハネ教会の構造は十字架プラン
聖ヨハネ教会の本体は東西120m,南北80mほどもある大きなものだ。建物は東西を基軸とする十字架プランであったようだ。すなわち長方形の建物を十字架状に交差させ,十字架の頂点となる東側に後陣(至聖所)を配置するものである。
教会内に展示されていた復元図によると西側には柱廊をもった中庭が付加されている。また,十字架プランのすぐ北側にも大きな建物が付加されている。
十字架の交差部に大きなドームが載せられており,その他に縦方向に3個,横方向に2個の少し小さなドームが置かれている。教会の入り口は南側にある。遺構遺構全体が巨大なこともあり,内部を回っていても十字架プランについてはまず気が付かない。
それでも,航空写真で見るとはっきりと十字架の形状と東側の半円状の後陣を見ることができる。ヒッタイトの古都であるハットウシャシュの遺跡もそうであったが,大きな遺跡・遺構の全体像をとらえるためには航空写真がとても役に立つ。
聖ヨハネ教会
アプローチの斜面の道は大振りの大理石の板で舗装されている。その向こうに堂々とした門がある。両側に壁が続いているところをみると,ここは城壁に近い周壁の一部のようだ。
壁の表面は加工された石材が使用されているが,芯材はこぶし大の自然石を粘土で固めたような構造になっている。つまり,自然石を固めたものの表面部を加工した石材で化粧したように見える。
周壁の別の部分は自然石をきれいに積み上げたものになっており,どちらが1500年前の構造なのかは不明だ。教会の周壁の東側にはおびただしい数のカラスが群がっており,いっせいに飛び立つ光景はちょっとしたものだ。
周壁門の先は両側を壁に挟まれた道が続き,第二の門の手前がチケット売り場になっている。ここで0.2リラ(これは安い)の入場料を払い中に入る。
修復作業の都合なのか東北側の建物はレンガと石材が組み合わされており,とてもローマ時代の建造物とは思われないものになっている。しかし,この教会に関してはそのようなレンガと石材の混合建築の技法が当たり前のものであったようだ。
教会の敷地は西側に向かって傾斜している。聖堂本体はほぼ平に整地してあるが,中庭を取り巻く柱廊部分は自然の斜面をそのまま使用し,それに合わせて基壇の高さを調整している。
この基壇部分も加工された石とレンガが混用されている。往時はこの基壇の上に二列のギリシャ式の石柱が並べられ,柱廊の屋根を支えていた。復元図から判断すると柱廊には壁がなかったので,中庭からは外部を見渡すことができたようだ。この中庭の西側からはイーサ・ベイ・ジャーミィを見下ろすことができる。
聖堂の北側に付加された建物は洗礼堂のようだ。八角形の胴部の上にドームが乗せられた洗礼堂を長方形の建物が囲む構造になっている。洗礼堂の床は磨かれた大理石の石板で化粧されており,その周囲にドームを支えていた8本の石柱の基部が残っている。
大理石の床の中心部は十字架に似せた窪みになっており,そこには水が張られ,洗礼の儀式が行われていたようだ。そのため下に降りる階段が設けられている。
洗礼堂からは聖堂に通じる石柱で支えられた三連のアーチからなる入り口があり,その上部にも同じように石柱が立てられている。この構造物は聖堂本体でもっとも目立つものだ。
聖堂の大ドームの直下には聖ヨハネの墓がある。墓は東西を軸に置かれており,その東側には半円状の後陣のような壁面となっている。
実際の聖堂における後陣は十字架の最上部に相当する東端にあるので,あたかも二つの後陣があるような構造になっている。この大ドーム直下の後陣の壁があるため聖堂全体の十字架プランは実感できないようになっている。
墓の周囲の床面はモザイク画で飾られており,その保護のため鎖で仕切られている。周囲の壁面はレンガと石材の組み合わせでできている。やはり,石材の加工より,焼成レンガを造る方がずっと楽なので,このような技法が採用されたようだ。
十字架の紋様
敷地内には多くの石材が置かれている。柱頭の装飾はギリシャ式でも,教会らしくかなりの石材には十字架の紋様が彫り込まれている。僕の見かけたものは上下と左右の長さが等しいいわゆる「ギリシャ十字」であった。また円周を60度ずつに等分する3本の線が交差する紋様もある。
ひとくちに十字といってもキリスト教世界にはさまざまな十字架紋様(紋章)が使用されている。我々が一番よく目にするのは上下が長く左右の短い「ラテン十字」であろう。
このラテン十字はキリスト教世界では広く使用されており,それと並行して宗派あるいは集団固有のものも数多く使用されている。しかし,3本の線が交差するものは検索できなかったので十字紋様とは異なるものなのかもしれない。
菊のご紋のような紋様
紋様といえばまるで日本の菊のご紋のような紋様もあった。花弁の数は16枚であり日本のそれと同じである。ただし,中心部の円形部はこちらのものにはない。1500年前の建造物に日本と類似の紋様が刻まれているのは偶然のなせる業であろう。
この菊のご紋の正式名称は「十六弁八重表菊紋(菊花紋章)」といい,天皇家の家紋である。日本には「国章」に相当する紋章が法律では制定されておらず,明治以降の歴代政府は慣用的に国章に相当するものとして使用している。
僕のもっているパスポートの表紙には「十六弁八重表菊紋」を少し簡略化し,八重ではなく一重にした紋章が記載されている。また,個人情報が記載されているページには「五七桐花紋(桐紋)」が使用されており,こちらは政府(内閣)の慣例的な紋章となっている。
国家のシンボルとしての国旗あるいは国章は多くの国々で制定されている。しかし,日本では太平洋戦争を境に国家の形態が大きく変化し,戦争に対する嫌悪感もあり,1999年になって「国旗及び国歌に関する法律」がようやく制定さるた。
丘の上からの眺望
聖ヨハネ教会はセルチュクの街の東側の「アヤソルクの丘」に位置しており,そこから西側に広がる街を眺望することができる。その手前にはローマ時代のものと思われる半分地中に埋まった遺構がある。
「木の文化」をもつ日本と異なり「石の文化」のヨーロッパでは2000年前,3000年前の遺構が残ることになり,この街も遺跡と共存しているというイメージが強い。
「アヤソルクの丘」はふたこぶラクダのようになっており,教会の北側にあるもう一段高い丘の上にはビザンツ帝国時代の城塞があり,見る角度によっては聖ヨハネ教会と一体となっているようだ。丘の西側には「イーサ・ベイ・ジャーミィ」があり,この地域のたどってきた長い歴史を思い描くことができる。
駅で再会
06時に一度目をさましたが外は暗いので寝なおすことにした。東西に長いトルコの西端に位置するセルチュクではアンカラとは1時間くらいの時差がある感じだが,実際は経度差は5度くらいであり,これは20分くらいの差に過ぎない。
朝食用のパンを買うため早朝の散歩となる。宿の向かいでイスタンブールの宿で一緒だった日本人男性に再会する。彼はセルチュクには泊まらず,エフェソスを見学し,夕方の列車でデニズリに向かうという。
若さとはすごいものだ。僕の年では夜行で移動したら2日は次の訪問地で宿泊しないと体調が維持できない。僕の場合,長期旅行の秘訣はどうやって体調を維持するかにかかっている。
僕も明日のデニズリ行きのチケットが買えるかもしれないと考え,パンを買ってから駅に行ってみた。彼はホームのベンチに坐っていた。
駅の窓口が開いていなので荷物が預けられないとのことである。朝食もまだというので,パンとチーズで一緒に朝食をとる。たしかにチケット売り場も開いていないので,出直すことにする。
シリンジェ村に向かう
今日の午前中はシリンジェ村に行くことにする。僕のもっているガイドブックにはこの村は記載されていない。どうしてこの村のことを知り,訪問しようという気になったのか不明だ。
シンジェ村はセルチュクから東に9kmほど離れたところにある。宿の息子はオトガルからドルムシュがでていると教えてくれた。09時少し前にオトガルに到着すると,09時発のものにちょうど間に合った。
乗り合い自動車に相当するドルムシュはトルコではけっこう役に立った。通常は町の中の路線が活躍の場であるが,バスの走っていない田舎への路線ももっている。今回のシリンジェ村までは2リラとバス並みの料金である。
シリンジェは山の中にある人口1500人の小さな村である。昔はギリシャ系の人たちが居住していたけれど,第一次大戦後の独立戦争を経て,1924年にギリシャとの間で住民交換が行われ,代わりにギリシャから移住してきた人々が住むようになったという。
村の名前もギリシャ系のものからシリン(かわいい)と変えられた。名前の通り斜面に沿って白壁,赤みがかった瓦屋根の家々が並ぶかわいい村である。観光からはほど遠いひなびたところだったであろうこの村は,欧米人の観光客が大勢押し寄せるところになっていた。
ドルムシュはシリンジェ村の小さな広場に到着した。おそらくこの先は村の生活道路以外の道はなさそうだ。村の家屋は斜面を利用して半円形に広がっている。村の北東部は平地といってもいいくらいの緩やかな斜面になっており,ブドウやオリーブの果樹園が目に付いた。
村の全貌を見たかったので北に向かう道を歩き出す。5分もすると東側の視界が開ける。この平地のような土地を眺めても畑はほとんど見当たらない。緑の濃い樹木と薄い樹木があるので,おそらくオレンジとオリーブであろうと見当をつけた。
背後の山の斜面はむき出しの裸地もしくは潅木の緑に覆われており,背の高い樹木はあまり見当たらない。日本ではどこに行っても樹木に覆われた山を見ることができるので,この荒れた風景は寂しい。
シリンジェ村の目抜き通りを歩く
観光客を運んできた大型バスが広場に停まっており,村の目抜き通りはそのような観光客を土産物屋が多い。目につくものはワインと独特の布地を使用したカバンなどの実用品やアクセサリーである。
特にワインは多くの店で扱われていた。原料となる果物もぶどうだけではなくサクランボ,スモモ,アンズ,ザクロと多様のようだ。おそらくこのような村は自給自足の暮らしが基本であり,ワインも自家製のものが造られてきたのだろう。
長い間,伝統的な暮らしを営んできた小さな村は緑多い田舎の風景に白い壁,赤い屋根が並ぶ観光地として脚光を浴びるようになった。自家製のワインも観光資源として活用されるようになったのだろう。しかし,国民の大半がイスラム教徒のトルコにあって,ワイン造りの伝統があるとはとちょっとつっこみを入れたくなる。
ブドウとオリーブ
道の横にオリーブの古樹があった。太い幹の部分は細いものが絡み合っいるような網目状になっており,それも途中から折れている。それでもこの木は元気に枝を伸ばしている。
ぶどう園もあった。シリンジェ村の自家製ワインは村の特産品のようになっており,出発点となった広場の周りにはなにやらいろんな種類のラベルが貼られたワインのビンが並べられている。
また角ビンに入ったオリーブ・オイルと思われるものを販売している店もあった。そのような商品は周辺の農園で収穫された地元産のものだけなので,おのずから販売数量は限定される。そのあたりも観光客の人気なのかもしれない。
オリーブ園に入ってみる。まだ現役の樹木の幹はさきほどのものとは異なり,普通の樹木のそれである。トルコではオリーブの実の収穫時期は12-02月なのでまだだいぶ先のことだ。
本来ならこの時期(9月)にはそれこそ鈴なりに実を付けるはずであるが,ここの木はどういうわけか,まばらに青い実が付いているだけだ。
オリーブは地中海世界で古くから栽培されており,ブドウと並んで最も重要な植物となっている。また,オリーブの実は塩漬けにして保存食とすることもできるし,実や種子からはオリーブ・オイルを絞ることができる。
現在もオリーブの主要栽培地域は地中海沿岸なので,栽培起源はそのあたりかと思っていたら,どうやらペルシャかメソポタミアの辺りで5000年ほど前から栽培されていたとされている。
この有用な植物はフェニキア,エジプトそしてギリシャに伝えられたと考えられており,最古の文献はBC12世紀のエジプトに残されている。栽培起源の古さと栽培地が広がったことにより,現在では数百の栽培品種がある。
オリーブ・オイルはオリーブの実をすり潰し,ペースト状にしたものに圧力を加えて絞ることにより得られる。古代世界では巨大な石の挽き臼を使用して実を粉砕していた。このペーストからスクリュー・プレスを使用して効率的に搾油する方法はローマ時代に開発されている。
オリーブはモクセイ科の常緑樹で乾燥に強く,地中海性気候によく合う。オリーブの葉は細く,表面は濃い緑色,裏面は水分の蒸発を防ぐため細毛が密生しており,銀白色となっている。このため,遠くから見ると薄い緑色に見える。
オリーブの木が実を付けるようになるまでは数年かかり,15-20年くらいで成木になる。樹木としては長寿であり,推定年齢1000年という古樹も報告されている。
オリーブ農園の近くではプラタナスの木がイガイガの付いたゴルフボール大の実を付けている。この中には針毛に包まれてたくさんの細長い種子が放射状に入っている。
本来ならば木に付いたまま,実が割れて中の種子が風に乗って飛んでいくようになっている。しかし,日本では多くの実がそのまま地面に落ちてしまい,この植物の繁殖戦略はうまく機能していないようだ。
シリンジェ村
農園の辺りからはシリンジェ村の全景がよく見える。緩やかな丘の斜面を取り囲むように白壁,赤い瓦の家が並んでいる。背後の山は半分くらいが裸地となっている。
植物を失った土地からはすぐに土壌が流出してしまう。この植物の生育に必要な土壌は細かく砕けた岩石と植物の有機物の残渣が作り出したもので,そこでは微生物と小さな動物が植物と一緒に複雑な生態系を営んでいる。
こうして蓄積された土壌がある程度の厚さにならないと大きな樹木は育たない。一度,土壌を失った裸地をもとに戻すには多くの労力と時間が必要になる。
古代文明が繁栄した地中海の東側には人為的な森林の破壊(木材伐採,開墾)により,土地が乾燥化し,土壌を失って荒地になってしまった地域が広範囲に存在する。
3500年前のギリシャは豊かな森林に恵まれており,それらは木材資源,エネルギー資源としてギリシャ文明を支えていた。しかし,地域の人口が増加し,経済活動の規模が大きくなると森林は失われ,それは地域文明の衰退につながっていった。
人類は文明の初期から自然資源を利用することで環境に負荷を与えてきた。20世紀には世界的な規模で人口と経済の爆発的な拡大があり,地球全体への環境負荷が急増した。
その負荷が一定の限度を超えると(すでに1980年代に限界点を越えているという報告もある),自然環境は加速度的に劣化し,人類の生存基盤が脅かされることになる。古代文明の衰退から学ぶべきことは多い。
村に戻り,のんびり村の中を歩いてみる。砕いた自然石の平らな面を上にして舗装された道に面して,古い石壁の家屋があった。漆くいで化粧されていない石壁は,自然石を巧みに積み上げて平らな壁面を造っている。これがこの村の伝統的な家屋なのだろう。
斜面の上から眺めるとほとんどの家屋はきれいな漆くいで化粧されており,壁面の構造は分からない。屋根は赤い瓦で葺かれており,古い家屋は半円状の瓦を曲面を下にしたものと上にしたものを横方向に交互に並べている。
建物の特徴は小さな窓が多いことだ。壁面の同じ高さのところに同じ形の窓が一列に並んでいる。そのような家屋が緑の多い斜面に集まっており,いかにも田舎の村といった風情がある。
一軒の家ではおばさんがパンの生地をこねていた。基本的に自給自足でやってきたこの村では,パンもワインもそれぞれの家で作られていたようだ。
観光客が訪れるようになると,古い家を改装したレストランや土産物屋が多くなり,この村もどんどん変わっていくようだ。宿泊施設もできており,いくつか宿の案内を見かけた。
この村ではほとんど子どもたちは見かけなかった。大人は働いており,村の生活を見せてもらうというわけにはいかなかった。名前の通り「かわいい」村の建物だけを見学してセルチュクに戻った。
パジャム・ビーチ
午後はドルムシュに乗って8kmほど西にあるパジャム・ビーチに向かう。昨日歩いたエフェソス遺跡に向かう幹線道路をそのまま行くとすぐに海岸に出る。道路はそこで南に折れるのでその辺りで下ろしてもらう。
近くにはオリーブの木があり,たわわに薄茶色に色付いた実が付いている。やはり,シリンジェ村の農園のものは収穫が済んでいたのかもしれない。
リゾート施設の中を歩くとすぐに海岸に出る。そこはエーゲ海である。南国の陽光にきらめく青い海のイメージが自分の中に出来上がっており,それと比較すると目の前の秋のエーゲ海は感動するほど青くはなかった。
北側には低い山並みが続いており,そこまではゆるく弧を描く海岸になっている。3000年前はそこは入り江になっており,海はエフェソスの遺跡近くまで入り込んでいた。入り江を埋めたカイストル川はここから2kmほど北でエーゲ海に注いでいる。
砂浜は灰色の上質の砂でできており,海岸から少し離れるとエーゲ海の青さが見られる。季節外れのため海岸にはほとんど人影が無く,南北それぞれ200mほどの範囲で海岸を独り占めである。
ここでは写真を撮ってしまったら,まったくすることが無い。砂の上に腰を下ろし,寄せては返す波の動きを,何も考えずに見ているだけである。陽射しに恵まれているのでポロシャツを脱いで日光浴で時間を過ごす。
しばらくすると,海水浴客がやってきて海に入っていった。でもそれは100mほど離れたところであり,僕を取り巻く風景の静寂さには影響は無い。
山羊の大群と遭遇する
道路に出ると反対側にはかなり規模の大きい別荘があり,同じ造りの家が並んでいる。この道路を300頭ほどの山羊の群れが横断している。彼らは東側の斜面を上っていこうとしている。これはちょっとしたスペクタクルである。
山羊の群れは大きな牧羊犬にガードされながら,急な斜面を上っていく。中には草や木の葉を食べるため,道路下の藪に潜り込んで出てこないものもいる。
羊飼い(山羊飼い)はそれらを集めながら,最後尾を歩いていく。僕も彼らと一緒に斜面を上ろうとする。一頭のビーグル犬に吠えられる。羊飼いは犬を追い払い先に進む。迷子の山羊を集めながらも,彼らは山羊の速度に合わせて移動していく。僕にはとても彼らの速さには追いつけず,途中で断念した。
彼らのキャンプは山を越えて反対側にあるという。この斜面はとても緑が多い。そかしそれはとげだらけの潅木で,さすがに悪食の山羊でさえ手が(口が)出ないので残っている。
この植物のトゲはかなり長く鋭いので,ジーンズをはいていても藪こぎなどはとてもできない。山羊たちが作ってくれた空間を使って移動することになる。
エーゲ海を眺望する
山羊のおかげで少し高いとこまで上ったので下界の様子がよく分かるようになった。さきほど海岸に出たリゾートハウスの南側には3つの大きなホテルがあり,そのうち一つは建設途中で中断している。
その南側にはさらに規模の大きなリゾートホテルがあり,そこから5-6km南にはトルコ有数のリゾート地のクシャダスになる。僕の立っているところからクシャダスは低い山の向こうになるので眺望することはできない。
ちょっと面白い花
周囲にはおもしろい花が咲いていた。まっすぐな茎の上下方向にたくさんの白い花を付けている。奇妙なことに地面から茎だけが出ており,葉に相当するものが見当たらない。
日本にも葉無し花という球根をもつ植物がある。まず春に盛大に葉を伸ばし,夏にいったん葉が枯れ,秋になってから花が咲く習性をもっている。
この植物もそのようなものなのであろうか。ここはさきほどの山羊の通り道にあたっており,それでもこの植物が花を付けることができるのは,何か山羊の食害を防ぐ手立てを講じているのであろう。
この町でもラマザーン食があった
食堂の表にはカフェのようにテーブルが出してある。ラマザーンの期間中なので日中はシャーイ(紅茶)もおおっぴらには飲めないのか,男たちが坐っているテーブルの上には何も置かれていなかった。
それでも近所のお年寄りはテーブルを囲んで世間話に興じている。子どもたちと同居していたり,このような近所づきあい場所があるので,この町のお年寄りは孤立ということは少ないであろう。
セルチュクの鉄道駅の前には水道橋の遺構が残っている。ここのものは石材で高さ6mほどの柱を建て,その上にアーチを造っている。駅前の4本は水道橋と分かるが,その向こうの石柱は民家の支えとして利用されている。
鉄道駅はごく小さい。線路に沿って長い平屋の建物の中央部だけが2階になっている。入り口は線路側にあり,建物の前にはベンチが置いてある。今朝はそこで日本人旅行者と一緒に朝食をとった。
明日のデニズリ行きのチケットは簡単に入手できた。座席指定ではないので当日でも問題はなかったようだ。実際,翌日列車に乗り込むと,乗車率は50%程度であった。
この町のカフェでは4色の1から13までの番号のパイを使用した7ブリッジのようなゲームを見かけた。ゲームは4人で行われており,何らかのルールに従ってパイを中央に出していき,全て出すことができると勝ちになる。
このゲームのルールを調べるため,横に坐っていたら,ゲームのメンバーがシャーイを注文してくれた。ラマザーンの期間中なのであまり人目につかないようにこっそりいただく。こんなとき,現地語ができたらずいぶん旅の思い出が積み上がっていくのに残念なことだ。
19時を過ぎた頃に食事に出かける。ある食堂の前で4人家族が金属のお盆に乗せられた同じ食事をとっていた。これはと見当をつけ,中に入ってみるとやはりラマザーンの無料給食であった。
とりあえず自分の食べる分をお盆に乗せてもらい,挨拶方々,外のテーブルで食事中の一家の写真を撮らせてもらう。やはり,料理だけを撮るより,人が入っているほうが雰囲気がでる。
メニューはごはん,ロースト・チキン,甘いお菓子で十分にいただいた。僕はほとんど最後の客だったのでチキンをたくさん乗せられ,となりの少年に一つあげることになった。これで少年と仲良くなり,一緒にチキンを平らげることになった。