セルチュクはエフェソス観光の拠点の町である。安宿は多いのでバックパッカーはここに滞在し,お金のある旅行者は近くのエーゲ海に臨むリゾート地であるクシャダスに滞在することが多い。
エフェソス(古典ギリシア語読みではエペソス,トルコ語読みではエフェス)はトルコ西部に位置する古代都市である。紀元前10世紀頃イオニア人がアルテミス女神を祀る港湾都市国家をこの地に建設している。
紀元前2世紀にローマの支配下に入り,東地中海交易により繁栄し小アジアの中心都市となる。共和制ローマ末期に,マルクス・アントニウスが,エジプト・プトレマイオス朝の女王クレオパトラと共に滞在したこともある。
現在の周辺の地形を見ると古代都市遺跡は海岸から6kmほど内陸に入ったところに位置している。紀元前の時代,エフェソスの北側はカイストル川の河口となっており,海が陸側に深く切れ込んだ地形のため天然の良港となっていた。
現在,そのあたりは沖積平野のようになっているが,少なくとも3000年前の海岸線はエフェソスのすぐ近くまで来ていたはずだ。しかし,エフェソスの人口が増えるにつれて背後の山の森林は伐採され,耕作地や放牧地に変わっていった。
山から流失する土砂はエフェソスの繁栄を支えてきた港湾施設に堆積し,その機能を失わせていった。現在の遺跡がエーゲ海からかなり離れたところにあるのはこのような事情による。港湾機能の喪失により,東ローマ帝国のユスチニアヌス帝(在位527-565年)の時代に人々は現在のセルチュクのあるアヤソルクの丘へと移住していった。
東ローマ帝国のもとでも,エフェソスはアジア属州の政治と経済の中心であった。この時期には多神教が禁止されたため,アルテミス神殿や劇場は街の建築資材を得る場所とされ,一部の石材が搬出されてしまった。
8世紀に入るとアラブ人の攻撃をたびたび受けたことから,東ローマ帝国はエフェソスを放棄し,その後に入り江は完全に埋まってしまい,現在はその痕跡は見当たらない。
セルチュクの街から西に向かう幹線道路を1kmほど歩くと右側にアルテミス神殿の遺構があり,さらに2.5kmほど行くと左側にエフェソスの古代都市遺跡があり,そのすぐ先には飛行場の滑走路が見える。
古代都市遺跡はかなり保存状態が良く,十分な観光資源になっているが,アルテミス神殿は石材が運び出されてしまったためただの空き地になっているという。そのため僕はそこには行かなかったが,かっては「世界の七不思議」の一つに数えられていた。
1869年に深さ4mの泥の中から発見された神殿の遺構は3つあり,古い神殿の跡に新しい神殿を建てていたことがわかった。最も古いものは紀元前700年頃のもので,世界の七不思議に挙げられているものは紀元前550年頃のものである。
アルテミスはギリシャ12柱(12神)に含まれる清純を象徴する女神で,セレネに代わる月の女神ともされていた。エフェソスではアルテミスが主神とされており,それはギリシャ以前にこの地域で信仰されていた多産と豊穣の女神の性格を引き継いでいた。
そのため,ギリシアのアルテミスに見られる処女性とは対照的に,エフェソスのアルテミス神殿に祀られていた女神像は,豊穣多産を象徴する多数の乳房を持っていた。
この神殿がどのような建造物であったかは想像の域を出ないが,様式はパルティノン神殿と同様の周柱式神殿であり,石造りの壁で囲まれた神室(セラ)が中央にあり,その周囲に石柱を並べたものである。大きさは正面が55m,奥行き115mあり,高さ18mのイオニア式の柱127本が使用されていたと記されている。建設に着手してから完成まで120年を要したという。
世界の七不思議のリストの編纂者であるシドンのアンティパトレスは次のように記している。私は戦車が通りうるほど広いバビロンの城壁を見,アルペイオス河畔のゼウス像を見た。空中庭園も,ヘリオスの巨像も,多くの人々の労働の結集たる大ピラミッドも,はたまたマウソロスの巨大な霊廟も見た。
しかし,アルテミスの宮がはるか雲を突いてそびえているのを見たとき,その他の驚きはすっかり霞んでしまった。私は言った,「見よ,オリンポスを別にすれば,かつて日の下にこれほどのものはなかった」
巨大な神殿を建設するほどの熱烈なアルテミス信仰はパウロ(サウロ)がこの地にイエスの教えを伝道に来たとき,群集は「エフェス人のアルテミスは偉い方」と叫び,騒動が持ち上がったと使徒言行録には記されている。
しかし,ローマ世界にキリスト教が広まり,4世紀にローマの国教となった。その過程でこの地域でもキリスト教への改宗が進み,異教の神殿は省みられることもなくなり,5世紀には完全に破壊されてしまった。
現在のエフェソスは大規模な古代都市遺跡,アルテミス神殿遺跡,聖母マリアが晩年を過ごしたといわれる地に建てられた聖母マリアの家礼拝堂,聖ヨハネ教会,考古学博物館などがあり,トルコの重要な観光地であり,キリスト教徒の聖地にもなっている。
イスタンブール→セルチュク 移動
移動は夜行便となったので移動日の日中はイスタンブールの最後の散策を楽しむ。宿に戻り荷物を持ち,トラムとメトロを乗り継いで巨大なオトガルに到着する。
イスタンブールのオトガルは巨大であり,平面的にバス会社の事務所が並んでいるため,アンカラのものより分かりづらい。21時発のセルチュク行きのチケットは45リラ(4000円)と予想よりだいぶ高い。
荷物をバス会社の事務所に預けて近くの食堂で夕食をいただくことにする。とはいうものの,ラマザーンの最中なので夕食の時間は日没後になる。それまではテーブルで日記を書いていた。
テレビでは日没の前後に行われる行事を流しており,テーブルの上に置かれた食事はテレビで日没が宣言されるまでお預けである。19:20に回りの人たちが食事を開始したので僕もそれに合わせて食べ始める。
バスは定刻に出発し,2時間ほどで港に到着した。不思議なことにここからフェリーに乗船した。確かにセルチュクに行くためにはマルマラ海の南側に出なければならない。
イスタンブールからフェリーに乗り,マルマラ海を縦断するのであれば意味があるけれど,2時間も走ってからフェリーとは解せない。ともあれ,フェリーからは周辺の夜景を楽しむことができた。
フェリーは45分ほどで港に到着し,再びバスでの移動となる。いくぶん暖かくなり,車内では長袖2枚で十分であった。乗客の大半はセルチュクの少し北側にあるイズミールで降り,セルチュクまで行く人は1/4程度である。
Dream GH
セルチュクのオトガルには07時に到着した。ここのオトガルは街の中心部から少し外れており,広場の西側にチャイハネがあるだけのところだ。テーブルが外に出されているので日記を書く。車内ではほとんど寝たような気はしないが,それでもうつらうつらの状態で多少は眠ったようだ。
チャーイとパンで朝食をとり,オトガルの前の通りを東に少し歩くと,左側は市場になっている。右側にも何軒かの商店がある。しかし,ここは街の中心部ではなく,駅と食堂などは500mほど北側にある。
バーダー・ペンションに行こうとしたらその手前にあるドリームGHのおじさんにつかまってしまった。受付の背後にはベッド当たり25リラなどと記載された恐ろしい値段表が貼ってある。
それをチェックして「僕には高過ぎる」と告げると,「いくらならいいんだ」と聞かれ,思わず「15リラ」と口走ったら,その値段でいいよ」と言われ,ここに泊まることになった。
部屋は6畳,2ベッド,T/S共同,とても清潔である。窓は2方向にあり気持ちがよい。壁面には棚が付いており,これはとても役に立った。
それにしても,この部屋の15リラは高い。東から移動してくると,ただでさえも高く感じていたトルコの物価がさらに高くなり,あまりは長居はしたくない気分になる。
西に向かって歩き出す
昼食用のパンとリンゴを買い,エフェソスの遺跡に向かって歩き出す。距離はおよそ4kmほどとみた。街中の通りの一部はアブラヤシに似た木が中央分離帯に並んでいる。この街の緯度は仙台と同じくらいのところなので,ここでヤシが育つというのはちょっと驚きである。冬場の気候が比較的穏やかなのだろう。
西に向かう幹線道路の近くにモスクがある。四角形の基壇の上に八角形の胴部を置き,その上にドームが乗せてある。ミナレットは比較的太いものが一本である。
このようなモスクは初期のオスマン様式に多い。オスマンがまだ君候国の時代,その根拠地はマルマラ海南岸のブルサのあたりであった。ここはそこから遠くは無いのオスマン初期様式のモスクが残っていても不思議はない。
道路脇の空き地にはコウノトリの仲間のシュハシコウが立っている。極東のコウノトリは絶滅危惧種になっており,日本の野生種はすでに絶滅している。しかし,ヨーロッパから西アジアにかけて生息するシュハシコウは数が多く,思いがけないところで見かけることになる。
広大な綿花畑とモロコシ畑
少し町を離れると広大な綿花畑が広がっている。もうすでにゴルフボール大の実ははじけて,綿花が顔を出している。この白い繊維はセルロースでできており,白い繊維の中に種子が入っている。
生物学的な意味合いは分からないが,この繊維は種子から伸びたものである。繊維の部分をほぐしていくと柑橘類と同じくらいの大きさの種子が出てくる。
繊維質と種子を分離し,種子を砕いて絞ると綿実油がとれる。ワタはアオイ科の植物なので花はオクラやムクゲに似て十分に花を楽しめる植物にもなる。
モロコシの大きな畑もあった。モロコシの属名はソルガム,熱帯アフリカ原産のイネ科植物で痩せた土地でも収穫することができるので世界中で栽培されている。中国で栽培されているコーリャンもモロコシの改良種である。
種子は千粒重で25gとほぼ日本で栽培されている食料米と同等である。千粒重とはその名の通り,種子1000粒の重さを意味する。穀物の種子は一粒単位ではあまりにも軽すぎるので1000粒の重さで比較するようにしている。
日本酒に使用する酒造好適米の千粒重は30gに近くなる。ちなみに,世界で栽培されているもっとも小さな(軽い)穀物はおそらく,エチオピア高原のテフであろう。
千粒重ではとても計れないほど軽く,3-4gといったところであろう。テフは粉にして水で練り,一晩発酵させてから中央部が盛り上がった鉄板の上で焼き,薄いクレープ状のインジュラにする。
モロコシを主食としているアフリカのサバンナ地域では,すり潰して粉にし,熱湯をかけるか,熱湯の中に入れて練り,粘り気のある団子状にして食べる。中国ではコーリャンから白酒(パイチュウ)という強い蒸留酒を造る。しかし,多くの国では家畜の飼料として利用される。
イスラムと墓
お墓に使用する石棺を製造しているところもあった。このサイトにおけるパキスタンのラワルピンディのページでも書いたが,イスラム教徒にとっては墓は重要なものである。
コーランには「最後の審判の日に死者はよみがえり,アラーの前で天国行きか,地獄行きかの審判を受けなければならない」と記されている。これはキリスト教の教えと同じである。
そのためイスラム教国では火葬にはしないで,肉体をできるだけ完全な形にしたまま土葬にする。墓の方向は頭部をメッカの方角に向けるのが慣わしとなっている。
ここで製造されている墓は大理石の柱と板とを組み合わせたもので,かなり立派なものだ。もっとも,昔は墓廟に近いものもよく造られたようだ。そのような立派な墓が集まると,死者の町といってよいよいな景観になる。
イラクにナジャフという町がある。イラクのフセイン政権が打倒され,イスラム教の宗派間対立が激化した頃,この町も自爆テロの被害にあい,ニュースで報道されることがあった。
ナジャフにはイスラム教第4代カリフであるアリーの廟がある。アリーはイスラム教シーア派の始祖ともいうべき人であり,彼の廟のあるナジャフはシーア派最大の聖地となっている。この町には「Wadi al-Salam」という名前の巨大な墓地がある。wadi(谷),al-salam(平和)なので平和の谷となる。
イスラム世界においてはシーア派は少数派であるが,イラン人の大半,イラク人の50-60%はシーア派に属する。イラクのシーア派の人々はアリーの廟が見える場所に葬られることを望むため,「Wadi al-Salam」はおそらく1000年以上も拡大を続け,現在では数百万人が眠る世界最大級の墓地となっている。
ここの石棺製造所のとなりは墓地になっており,ほぼ標準化された墓石が並んでいる。石棺の上部は一様に土が盛られているので,この石棺はふたに相当するものがなく,遺体が安置されたあとは,土をかけられるのかもしれない。
これがイトスギかな
イトスギと思われる樹木が歩道をふさぐように立っている。実物を見るのはこれが初めてである。イトスギ(糸杉)はヒノキ科イトスギ属の総称であり,ヨーロッパ,西アジア,北米に自生している。属名からサイプレス,あるいはセイヨウヒノキ(西洋檜)とも呼ばれている。
日本のヒノキ(檜)は日本と台湾にだけ自生する固有種である。学術的にはマツ目,ヒノキ科,ヒノキ属に含まれており,イトスギとは同じ科に属している。
日本のヒノキは成長すると高さ50mにもなり,木目が緻密のため反りによる狂いが少なく加工しやすいといった長所を有しているため,最高級の木材として古代から寺社のような巨大建築物に使用されてきた。
ヒノキの精油(植物から得られる特有の芳香を持つ揮発性の油)成分にはシロアリの殺虫成分や木材腐朽菌に対する耐朽性成分が含まれており,虫害や腐朽に強い性質をもっている。
このような優れた性質の木材を使用した建築物の中には,法隆寺のように1000年以上もの寿命をもつ建物もある。また,ヒノキの樹皮は檜皮葺として屋根を葺くための材料にも使われ,非常に有用な樹種であった。
日本のヒノキも針葉樹らしく樹高に比して枝はあまり広がらない。一方,イトスギは名前の通り,枝の広がりが極端に小さく,非常に細い独特の樹冠を形成する。著名な画家のゴッホはイトスギを好んで題材にしており,日本人にもなじみの深い植物となっている。
ここのイトスギもヒノキの仲間らしく,鱗片に覆われたような球果が枝先に鈴なりに付いていた。球果は熟すると鱗片が開き,内部にある3mmほどの薄い円形もしくは楕円形の種子がこぼれ落ちる。種子本体は円形の中心部にあり,その両側に翼に相当する部分があるので円形となる。
ガソリン価格
道路の進行方向右側は道路面より一段低い歩道になっており,道路わきに見える珍しい植物や農地を眺めながら歩いて。そのため,頭上にある案内標識を見落としてしまい,どんどん先に進んでしまった。
ガソリンスタンドがあったのでエフェソスの遺跡についてたずねると2kmほど手前だと教えられた。がっかりしながら,記念にガソリンスタンドの価格案内を撮影する。
トルコのガソリン価格はとても高い。2007年9月時点でレギュラーが2.47リラ(約220円)もする。世界的にみてもほとんどトップクラスの値段である。2008年6月時点での世界のガソリン価格($/リッター)を比較するとトルコ=2.57,ドイツ=2.43,イギリス=2.26,韓国=1.95,日本=1.69,米国=1.06,中国=0.74となっている。
こうやって比較してみると,日本のガソリン価格は約25円の暫定税率を含めてもそれほど高いものではない。米国のガソリン税はガロン(3.785リットル)あたり18.4セントと極めて低額であり,ほとんどガソリン本体価格に等しい。
日本では2008年の初めに暫定是率の延長が政治問題となった。確かに消費者からするとガソリン価格は安い方がよいが,暫定税率の廃止による2.2兆円もの歳入減をどのようにカバーするのか考える必要がある。
2008年度末の日本の国債発行残高(見込み)は553兆円に達し,2007年度末に比べて6.6兆円増加している。この10年では258兆円も増加しており,そのうち建設国債分を除く210兆円は俗に言う赤字国債の増加分である。下表は大蔵省の公表データである(単位:兆円,20年度は見込み)。
簡単にいうとこの10年は毎年平均して20兆円近く国家財政の赤字状態が続いていたことになる。この10年の(国債に対する)利払い費は86兆円にも達している。
この10年はほぼ「ゼロ金利」であり,新規国債の平均金利は2%未満に抑えられていたが,平均金利が1%上がると単年度の利払い費は5.3兆円も増加することになり,国家財政は確実に「財政再建団体」以下になってしまう。
直近の3年は法人税の大幅増収および社会保障費増加の圧縮により国債発行残高の増加傾向は鈍化しているが,米国発の金融危機は輸出に大きく依存する日本の実体経済にも深刻な影響を与え,2008年度の法人税収は当初予算の見積額より6-7兆円減少する見通しだという。
この危機的状況に「定額給付金」の名目で各世帯に2兆円もの大金を(借金で)ばらまこうとするのであるから,政府は財政の危機にどのように対応しようとしているのか首をかしげたくなる。孫子の代にぼう大な借金を残す政策は早急に改めなければならない。
ガソリン税の暫定税率も財政規律を,地方自治体の財政の独立性をどう実現するのか,二酸化炭素排出量削減に代表される環境政策とどう整合させるのかなどという視点から議論されなければならないのに,政争の単なる道具にされているようでは悲しい。まあ,40年以上もゴールの無い暫定の延長で税率を維持してきた政府に最大の責任があるのは言うまでもない。
エフェソス遺跡
ガソリンスタンドで行き過ぎに気が付いたので2.5kmほど戻ることになった。今度は遺跡への分岐点を見落とさないように幹線道路の反対側を歩くことにする。しかし,そちら側には歩道が無く,すぐ近くを大型バスが通り過ぎて行くので歩く環境は良くない。
道路の右側(南側)は道路に平行した2km弱の滑走路になっており,小型機が離発着している。道路と滑走路の距離は200mもない。その間は一部がりんご園になっている。摘果をきちんと実行しており,立派な実が付いている。
空港へのアクセス道路の少し先に遺跡への分岐点があった。少し低くなった反対側の歩道を歩いていると,この分岐点は分かりづらい。分岐点から1km弱で大きな駐車場に出る。
大型観光バスがたくさん並んでおり,イズミールやエーゲ海に臨むリゾート地であるクシャダスから大勢の観光客が訪れているようだ。
周辺の地形は東になだらかな斜面の丘,南西に急勾配の斜面をもつ丘があり,3000年前は北側と西側は入り江に面していた。エフェソスの遺跡は入り江に面した部分と二つの丘に挟まれた南東方向の回廊に伸びている。
有名なローマ野外劇場は東側のゆるやかな斜面を利用して観客席が造られている。この劇場の前で東西(アルカディアン通り)と南北(マーブル通り)の主要道路が交差している。西に伸びるアルカディアン通りの終端に港湾施設があったと推測できる。マーブル通りは南側のセルシウス図書館の前で南東に折れて丘の間の回廊に続いている。
駐車場の先にあるチケット売り場で入場券(10リラ)を買う。並木道を少したどると東西道路に出て,左側に巨大な半円形の劇場が見える。
僕の立っているあたりには何も建造物は残っていないが,アザミの装飾があるギリシャ式の柱頭部分などおびただしい数の加工された石材が並べられている。この東西道路の両側にもローマ式の列柱とたくさんの建物があったようだ。
また,精緻なレリーフの施された大きな石材も置かれており,往時はすばらしい石造建築物の並んだ都市であったことが分かる。広い空間に並べられたこれらの石材は,まるで古代の町の墓標のように感じられる。
東西のアルカディアン通りは幅が20mほどあり,その両側にはギリシャ式の石柱もしくはその基壇が並んでいる。道路面は大きさは不ぞろいの平らな石材で舗装されており,港からの立派なアプローチ道路になっている。観光客はとても多く,人のいない写真は難しい。
ローマ劇
突然,古代ローマの服装をした人々が現れ,アルカディアン通りで寸劇が始まった。近くの観光客がどっと集まってくる。劇の内容はほとんど分からないが,当時の服装のファッションショーだと割り切って眺めていた。劇は15分ほどで終了し,観客からの拍手を受けて役者は退場する。
野外円形劇場
野外円形劇場に近づくと観光客はますます増える。劇場への入り口は狭いので渋滞となっている。このローマ劇場はトルコで最大級のものであり,直径150mほどの半円状になっている。西側に舞台施設があり,東側の斜面には階段状に観客席が設けられている。収容人員は25,000人という巨大な施設である。
このような劇場,あるいは闘技場,競馬場などの娯楽施設はローマ支配化の地域に建設された。ローマ帝国が地中海世界を支配するようになると,属州から運び込まれる富や食糧などにより,ローマ市民は労働から解放された。
食べることに困らなくなったローマ市民が求めたものは娯楽であった。ローマ帝国の皇帝といえども当初は市民の代表という位置づけであり,彼らの支持なしにはその地位を維持できなかった。そのため,多くの娯楽施設を建設し,市民の満足を買うことになった。
市民は為政者により与えられる食糧と娯楽により,政治に対する関心は薄れていった。生活水準が上がると政治に無関心になるというのは,現代の日本だけの話ではない。
詩人ユウェナリスはこのような古代ローマ社会の世相を,「かつては政治と軍事の全てにおいて権威の源泉だった民衆は,今では一心不乱に専ら二つのものだけを熱心に求めるようになっている,すなわちパンと見世物を・・・」と風刺詩集の中で表現している。
エフェソスの町にもこのような巨大な劇場施設が建設され,市民はここに集って演劇を楽しんだのである。よもや,ローマ市のコロッセオのように,ここで剣闘士同志の殺し合いが行われていたなどとは考えたくもないことだ。
劇場の中に入ると最も低いところにある半円状の舞台の周辺には大勢の観光客が集まっている。バスでやって来る観光客の時間帯と重なったことは不幸であった。
円形劇場は半円状の舞台の背後に役者の控え室に相当する施設や音響効果を高めるための壁のような施設があったはずであるが,ここではそれほどはっきりとは残っていない。
それにしても,最上部の席から舞台までは50-60mも離れている。これで役者の声がしっかり聞き取ることができたのだとする,ちょっとした驚きである。最近の研究ではこのすり鉢状の構造は低周波域の雑音を吸収するようになっているとの報告もある。
それにしても,丘の傾斜を利用してこのような施設を造り上げたローマは,卓越した軍事力だけではなく,建築・土木の面でも偉大な才能を発揮した。
アルカディアン通りが鳥瞰できる
観客席の最上部まで上ると,西に伸びるアルカディアン通りが鳥瞰できる。往時はこの通りの終端辺りに入り江があり,交易のための船が停泊していたはずだ。港湾関係の建物の遺構なのだろうか,まだガレキに戻っていない建物がその近くにある。
最上階からは円形劇場全体の写真は撮りやすいけれど,工事中のクレーンが構図の中央に入ってしまう。これはちょっと残念だ。陽射しが強いので舞台の観光客の何人かは日傘をさしている。銀色の光沢のある素材を使用しているので,まるで舞台で劇が上演されているような感じだ。
マーブル通り
円形劇場から南に向かうマーブル通りは,その名のように大き目の大理石の石板で舗装されており,その両側にも建物や列柱に使用されていた石材や石柱が並べられている。
往時の建物のパーツがすべて揃っているとは思われないが,ある程度でも復元することができたら,すばらしい都市遺跡が見られることだらろう。
セルシウス図書館
マーブル通りはセルシウス図書館の前で南東に折れ,二つの丘の間にある回廊に続いている。セルシウス図書館は紀元前2世紀に建設された。もとはエフェソスの知事を務めていたセルシウス・ポレマエヌスの墓廟であったが,彼の息子が墓の上に壮麗な図書館を建設した。
この図書館には12,000巻(当時の書物はパピルス紙もしくは羊皮紙に書かれ巻かれて保管されていた)の蔵書があり,アレキサンドリア,ベルガモンとともに古代世界の3大図書館のひとつに数えられている。
この図書館のファサード(正面外観)は幅21m,高さ16mの見事な造形である。建物の壁面に対して上下2段の石柱と壁により支えられた張り出し構造となっており,上部はテラスのようになっている。
おそらく2階部分の上部にはパルティノン神殿のように切妻屋根の構造になっていたと思われる。一階部分には4体の女神の立像により挟まれた3つの入り口が設けられている。
この女神像がまたすばらしい。彼女たちはそれぞれ「美徳」,「知識」,「学問」,「知恵」を表すものとされており,いかにも図書館の入り口を飾るのにふさわしい。
もっとも,エフェソスの遺跡から出土した多くの文物はヨーロッパの博物館に収蔵されている。4体の女神像はウィーンの博物館にあり,ここにあるものはレプリカである。
建物本体は260年に火災にあったが,ファサード部分は大きな被害を受けなかった。建物の内部は火災で破壊されたのかほとんど何も無い空間となっている。この地下には墓所があり石棺が残されているという。
回廊の両側にある遺構
エフェソスの遺跡の主要部分はローマ時代のものであるが,紀元前10世紀にさかのぼる歴史をもっているため,建物の造り方,碑文などの文字もローマ一色というわけではない。
図書館の先にある半分崩れた建物は加工度の低い小さな石材とレンガを積み上げたものであり,ローマの石造建築とはまったく異質のものである。また,道路わきの碑文にはギリシャ文字とラテン文字があり,この町の長い歴史と住民あるいは支配者層の変遷が読み取れる。
図書館の東側は通りの両側にそれぞれ100m四方の住宅密集地があり,町の一つの中心地であったようだ。通りの南側は50X100mほどの区域が遺跡保存のため白い建物で覆われている。
先に進むと通りの左側には美しいアーチをもつ「ハドリアヌス神殿」の入り口がある。この神殿は石柱とアーチからなる飾り門とその後ろにある本当の門をもっている。
この構成のためファサードは非常に見ごたえがある。飾り門のアーチ部分や門の上部には細かなレリーフが施されており,小さな写真ではそのすばらしさが伝えられないのが残念だ。この都市遺跡における優れた建築物ということでは,セルシウス図書館と好一対である。
この先も道路の両側およびそれに連なる丘の斜面には多くの遺構が残されているが,原形を想像するのは難しい。団体の観光客はガイドから建物等にまつわるレクチャーを受けているが,仮に日本語で説明されてもメモでもしていない限り,記憶にとどめるのは難しい。
左側に皇帝もしくは知事と思われる人物の首なし像がある。ヨーロピアンの青年たちは台の上に乗り背後から首を出して記念写真を撮っている。ここに限らずヨーロピアンの観光客のふるまいは目に余るものが多い。
日本の築地市場でもマグロのセリの様子を見たという外国人観光客が多いため,市場側が見学用のスペースを設け見学を黙認してきた。
しかし,セリの最中にフラッシュを使用したり,見学用スペースから出てマグロに触れるなど,業務の妨げになる行為が多発したため,年末年始の繁忙期は見学禁止にしたというニュース(2008年12月)が流された。
ふた昔前は日本人の団体観光客のマナーの悪さが世界からひんしゅくを買ったが,現在では旅行先進国のヨーロッパでも(特に若者の)マナーの悪さはひどいものだ。
最近,エフェソスで発見された女性の遺骨が最新の研究でクレオパトラの妹の「アルシノエ」のものであることが判明したというニュースが流れた。エジプト女王の妹の遺骨がなぜ遠く離れた地にあったのか,その謎解きをNHKの「エジプト発掘・クレオパトラ 妹の墓が語る悲劇」で詳細に説明してくれた。
また,「アルシノエ」の頭骨の形状から彼女がギリシャ系とアフリカ系の混血であることが分かり,ギリシャ系と考えられていたクレオパトラも同じように混血であることが分かり,古代史の新しい事実が明らかになった。
そもそも「アルシノエ」がこの地に送られたのはエジプト王朝における近親結婚の習慣が原因となっている。クレオパトラの父親が死去すると兄弟で最も年長のクレオパトラ7世が弟のプトレマイオス13世と結婚しエジプトを共同統治することになった。このような習慣は古王朝からのものであり,ギリシャ人のプトレマイオス王朝でもそのまま引き継がれた。
二人の共同統治はローマとの同盟関係を重視するクレオパトラ7世の政策にプトレマイオス13世の側近が反目し,ローマ軍を攻撃したためカエサルが率いるローマ軍はナイルの戦いでプトレマイオス13世軍を破り彼を溺死させた。
プトレマイオス13世と結託し,クレオパトラ7世と敵対していた妹アルシノエ4世はローマ軍の捕虜となった。その後,彼女はエフェソスの神殿に幽閉され,数年後に急死したようである。
歴史書にはアルシノエの殺害をアントニウスに依頼したのはクレオパトラであると記述されている。「アルシノエ」の遺骨研究により古代史の新事実が判明したのは喜ばしいことだ。
遺跡はさらに先まで続いている
その先で通りは東に伸びるものと,南に向かうものに分かれる。この辺りで回廊状の地形は終わり,ごくなだらかな斜面状の平地が広がっているが,町は回廊の出口近くにある150mX300mほどの区画で終わっている。
通りの分岐点近くには巨大な切石がころがっており,往時の建物のアーチ部分だけが復元されているが,建物自体がどのようなものであったのかは想像できない。
ローマ時代の遺構らしく石で造った円形の水道管のようなものも見かけた。また,ギリシャ神殿のファザードを飾る切妻屋根の最上部もいくつか並べられている。
南に向かう通りは丘の裾に沿っており,両側に石柱が並んでいる。柱頭の装飾部分まで残っているものもあれば,1mほどの高さまでしか残っていないものもある。
往時は通りの両側にギリシャ式の柱頭をもつ高さ10m近い石柱が並び,その上部にはレリーフが施された石材の梁が渡されていたのであろう。
石柱の周囲は縦方向に筋状の装飾が施されており,なかなか芸が細かい。こうして見るとローマの都市は通りから見た景色を非常に大切にしていたようだ。
小さな円形劇場もある。こちらも,丘の斜面を利用している。小さいだけに全体構造は分かりやすい。観客席の下半分は加工した石材を使用しているが,上部は自然石もしくは加工度の低い石を階段状に積み上げている。
古代社会で最高の石造建築技術をもっていたローマにしても,石を加工するのはそれなりに多大の労力を必要としていたことは想像に難くない。あるいはこの状態はたんに復元工事の都合なのかもしれない。
緩い下り坂となっている
帰り道はセルシウス図書館まではゆるい下り坂になっていることに気が付いた。図書館のはるか背後には低い山の連なりがあり,エフェソスの町と山の手前が入り江のような構造になっていることが分かる。