亜細亜の街角
ボスポラス・クルーズは氷雨の中
Home 亜細亜の街角 | Istanbur / Turkey / Oct 2007

旧市街を歩く  (参照地図を開く) (地域地図を開く)

丘の上にあるスレイマニエ・ジャーミから坂を下ってヴァレンス水道橋の方向に下りていく。といっても,このあたりの道路は複雑であり,見通しもきかないので適当に歩いていくしかない。

見知らぬ街を適当に歩くのは旅の楽しみの一つである。ガイドブックに載っている名所・旧跡を訪ねるのもいいが,人々の生活を見歩くのも良い思い出になる。

坂の途中の家には持ち送りで支えられた出窓をもつ木造の家が並んでいる。この出窓の家屋はオスマン時代によく見られたものである。

家屋は石造りのものと木造が混在しており,一つの建物でも一階は石造り,二階は木造になっているものもある。やはり,地震多発地帯ということもあり,単純なレンガ造りとはいかないようだ。

と思っていたら,レンガ造りの大きな建物があった。上部にドームを乗せているので,おそらくモスクであろう。ただし,オスマン時代のオリジナル・モスクならば石造りになりそうなので,これはビザンツ時代の会堂を改修したものであろうと推測した。中央のドームの壁面は八角形になっており,その上にオスマン風のドームが乗せられている。

大きな通りに出るとちょっと奥まったところに学校があった。周辺は商業施設になっており,ここも複合施設群のようになっている。

ちょうど下校時間のようで,小さな子どもは親が迎えに来ている。もちろん,大きな子どもたちはそれぞれに帰宅することになる。姉妹と思われる二人に「写真を撮ってもいいかい」とたずねるとすぐにOKが出た。

イスタンブールではあまり子どもたちに出会うことはなかったが,写真に対しては特に制約は無いようだ。一組目の撮影が終わると,通りがかりの子どもたちが次々とモデルになってくれた。

学校に続く建物の壁面にはモザイクが描かれている。これは遠いビザンツ時代から受け継がれてきた技なのかもしれない。もっとも絵柄の内容はまったく分からないものであった。

ヴァレンス水道橋はローマ帝国時代の水道橋の遺構である。コンスタンチノープルの時代,旧市街は現在のハリチ橋あたりから半円を描くな二重壁のテオドシウス城壁により囲まれていた。

旧市街は半島状の地形なので,陸側を城壁で囲むと,残りは金角湾とマルマラ海に面した堅固な城塞都市となる。防衛上の観点からすると旧市街をまかなう水源は城壁の内側にあったと推測される。

テオドシウス城壁からスルタン・アフメット地区まではおおむねゆるい下り坂になっている。といっても丘の多い地形なので,水源から単純な水路では水を流せなかったのであろう。

ローマ帝国では,そのような地形でも水を供給するため多くの水道橋が建造された。水道橋はローマの土木技術の最高の成果物であり,ヨーロッパや西アジアでは近代的な水道システムが整備されるまで,広く使用され続けてきた。

水道橋の最大の特徴は精密な傾斜計算であった。水の流れは完全に重力に頼っていたので,A地点からB地点まで水を流そうとすると一定の傾斜が必要になる。

長い距離を少ない傾斜で水を効率よく流すためには傾斜誤差を正確に管理しなければならない。ローマ市における標準傾斜は1kmあたり34cmと1/3000の傾斜であった。つまり3mの高低差があれば10km離れたところに水を運ぶことができる。

また,土砂により水流が妨げられたり,動物の死骸などにより水が汚染されないように定期的な水路のメンテナンスも機能を維持するため重要であった。

ヴァレンス水道橋は旧市街北西部の水源からスルタン・アフメト地区にある地下貯水池へと中継する役割を果たしていた。コンスタンティヌス1世の時代に工事が開始され,ウァレンス帝の時代の378年に完成したので,英語名は彼の名前を冠した水道橋となった。

完成時の全長は1kmであったが,現存するものは800mほどである。水道橋や地上(地下)の水路を通って運ばれてきた水は,スルタン・アフメット地区にある地下貯水池にたくわえられた。この水路システムは少なくとも17世紀までは機能していたようである。

水路の終点にあたる地下貯水池も観光名所になっている。僕はこのような有料施設には入らなかったが,336本の円柱が140mX70mの地下貯水池を支えているという。

現在のヴァレンス水道橋は市内の幹線道路であるアタチュルク通りをまたぐように立っている。上下2層のアーチ橋になっており,アーチの一つが一車線に対応している。

正面からの画像が欲しかったが,この交通量の多い通りはとても横断できるものではない。灰色の石材が使用されているので,地元の人たちは「灰色の鷹のアーチ橋」と呼んでいる。

シェザーデ・ジャーミィ

ヴァレンス水道橋の南側にシェザーデ・ジャーミィがある。入り口のプレートにはミマール・シナンと記されていたので中に入ることにする。このモスクも(当然のことであるが)南東に礼拝堂,北西に中庭を置いている。

中庭を囲む柱廊は幅が広く,その分だけオープンスペースの中庭は狭くなっている。その柱廊の屋根には相応の大きさのドームが並べられている。

中庭の中央には八角形の屋根をもった水場があり,礼拝堂本体の写真を撮るにはちょっとジャマをする。ミナレットは二本で礼拝堂の入り口の左右に置かれている。

礼拝堂本体は大ドームを四辺に置かれた半ドームが支える構成となっている。4本の巨大な主柱は六角形となっている。4つの半ドーム構造なので,礼拝堂の内部構造はスレイマニエ・ジャーミィとよく似ている。

大ドームを含む5つのドーム基部の周囲,および壁面には採光用の窓が取り付けられており,明るい印象の礼拝堂空間となっている。また,多くの小ドームが配置されており,それらを支えるための柱とアーチが連続的につながっており,複雑なアーチ空間を造り出している。

今まで見たモスクにはなかった,アラビア語の記載された円形のプレートが柱とアーチの接点部に取り付けられている。イスタンブールの巨大モスクは全体の印象としては類似していても,それぞれの建物にはいくつかの個性が主張されている。

イスタンブール大学付近

シェザーデ・ジャーミィの横の通りを南東に歩くとイスタンブール大学とベヤズット・ジャーミィ,グランドバザールに挟まれたベヤズット広場に出る。

石畳の広場には鳩が群がっている。何人かの女性が鳩用のエサを売っており,そのためここには鳩が集まるようだ。広場の北側にあるイスタンブール大学の構内には緑が多いので,それも鳩の多い理由なのかもしれない。

鳩のエサ売りの女性の背後には白い大きなテントが設営されている。これはラマザーンの時期に夕食をふるまうためのものである。日没直後になると大勢の人が集まり,食事をいただくことなる。

僕も同宿の日本人旅行者と一緒に,時間(19:45)を見計らって訪れてみた。外国人が入ってもなんのお咎めもなく,金属の盆に乗せられた食事をいただくことができた。

内部は長いテーブルが並べられており,その両側にイスが配置されている。テーブルクロスとなっている白い布の上には,前の人のお盆が放置されている。周辺のものを片付けて,4人の日本人旅行者はごはん,豆の煮込み,お菓子,水をおいしくいただく。

トルコ人は親日的であり,お盆を回収に来た人たちは「ゆっくり食べてもいいよ」とおりがたい言葉をいただく。ラマザーンの時期なので,この人たちは(恐らく)朝から何も口にしていないはずだ。朝食も昼食もしっかり取っている僕は心の中でかなり恐縮していた。

1506年に完成したベヤズット・ジャーミィは征服王メフメット2世の息子ベヤズット2世により建設され,イスタンブールに現存する最古のスルタンのジャーミィである。ミマール・シナンがスレイマニエ・ジャーミーを完成させたのはその約50年後である。

建物は南東に礼拝堂本体を,北西に柱廊で囲われた中庭を配している。そこまでは通常のオスマン様式であるが,なぜか南西と北東ににも中庭を囲む外壁と同じ高さの壁面をもった建物が付加されている。礼拝堂の両翼のように付加された建物に抱かれるように二本のミナレットが立っている。

礼拝堂の大ドームは前後の半ドームで支えられており,左右には各4個の小ドームが並べられている。この建物が建造当時の姿と保っているとすれば,オスマン様式のモスクの原型はここにあることになる。

正面入り口は30cmほど奥まっており,窪みの天井部分にはイラン風の鍾乳石飾りが施してある。その下にはアラビア語で恐らくコーランの一節が緑地に金色の文字で記されている。

礼拝堂の造りもシナンの作品に比べると少し異なっている。シナンは礼拝堂の内部空間の一体性が損なわれないするため,大ドームを支える4本の主柱を内部空間の広さに比して相対的に細くしている。

それに対して,このモスクでは柱の太さと左右に連続する小アーチのため,左右の空間が大ドーム下の空間から分離され,側廊のような印象が強い。

その中央とは分離されたようなところでコーランの音読会が開かれていた。コーランはアラビア語で記されており,翻訳版はない。

もちろん内容を例えば日本語に翻訳したものはあるが,それは意味を翻訳したものでコーランとは呼ばれない。コーランはアラビア語で記されたものを声に出して読むことが求められている。

しかも,その読み方は棒読みではなく,一定の抑揚をもっており,それがちゃんとできないと読んだことにはならないというやっかいな決まりがある。

ここでは指導者を中心に何人かの人たちが集まって音読会を開いている。読み手が次々と変わり,指導者は節回しに不都合なところがあるとそれを指摘し,是正する。コーランを読むことはアラビア語圏内の人でも訓練が必要であり,非アラビア語圏の人々にとってはさらに多くの努力が必要となる。

イスタンブール大学の正門は非常に重厚で歴史を感じさせる。1453年にイスタンブールを征服したメフメト2世は現在のイスタンブール大学の敷地に最初の宮殿を建設した。スルタンの名を冠した最古のベヤズット・ジャーミィが大学のすぐ南側にあるのはそのような歴史的背景によるものである。

しかし,オスマン帝国がさらに隆盛するとトプカプ宮殿が新たに造営された。跡地は19世紀にオスマン帝国の陸軍省となり,現存の門はその当時のものである。大学の創立はオスマン帝国のイスタンブール征服の年にあたり,トルコで最も歴史の古い高等教育機関である。

正門の背後には緑豊かな敷地となっており,その背後に高さ85mのベヤズット塔が優美な姿を見せている。この塔はメフメット2世の時代に火の見櫓として建設されたという。大学の正門には守衛が詰めており,中には入れそうもなかったので外からの写真でがまんする。

グランドバザール

ベヤズット広場の東側はグランド・バザールの入り口になっている。この巨大な屋根付きバザールは東西250m,南北150mほどの広がりをもち,敷地全体は連続したアーケードに覆われている。

このバザールはオスマン帝国のイスタンブール征服の直後から整備され,現在は観光客用の土産物屋を中心に4000を越える小さな店がひしめいている。

NHKのシルクロードでも20年前のグランドバザールが紹介されている。そのような場所を選んだものなのか,当時はまだ地元の人たちの利用するバザールの色合いが濃かったようだ。

現在は本当にただの土産物屋になっており,それほど興味を引くところではない。内部はアーケードの集合体となっており,天井には明り取りの窓があるので十分に明るい。

革製品,陶磁器,じゅうたん,水パイプ,照明器具など外国人観光客が求めそうなトルコのお土産が並べられている。値段はいわゆるツーリスト・プライスになっており,少なくとも良い品を安く買うところではない。

商品の種類ごとに店が固まっているので全体像は一回りしないとつかめない。しかし,すぐに飽きてしまい外に出ることにした。やはり,この一画は外国人観光客の姿が多い。

ヌルオスマニエ・ジャーミィ前の広場

グランドバザールを東に抜けると,ヌルオスマニエ・ジャーミィ前の広場に出る。ここは旧市街では数少ない駐車場になっている。広場からヌルオスマニエ・ジャーミィとその手前の付帯施設の写真を撮ろうとすると,どうしても車がフレームに入ってしまう。

このモスクは18世紀中ごろに造られたもので,ヨーロッパの影響を受けたトルコ・バロック様式とされている。大ドームの四隅の小さな装飾塔を配しただけのシンプルな姿が逆にとても新鮮に感じる。手前の付帯施設の煙突状の塔とあいまって印象的である。

シリアのビザを申請

翌日,インビターション・レターを受け取るため,もう一度日本総領事館に向かう。領事館ではすぐにレターがもらえたので,その足でシリア大使館に向かう。メトロでオスマン・ベイに戻り,テシヴィキエ・ジャーミィを目印に大使館を探すと,意外と簡単に見つかった。

小さなビルの中にあるので,ちゃんとした地図がないと自分で見つけ出すのは難しい。古い箱型のエレベーターは自分で内と外の扉を開き,自分で閉める方式である。

3階に上がり,ビザの申請書をもらい記入する。入国ポイント,出国ポイント,宿の連絡先などの項目が並んでおり,ガイドブックを持ってくればよかったと後悔する。

申請の手続きそのものは簡単で必須4アイテム(写真,レター,パスポート,申請書)を提出すると,日本人の場合は20ユーロと記載された用紙を出される。

この用紙を持って,大使館のビルを出て右側の銀行に行き,20ユーロ相当のトルコリラを振り込む。銀行ではレシートが2枚出されるので,それを持って再び大使館に行き窓口に提出する。引換証を受け取り,これで手続きは完了する。

ビザの受け取り時間は午後の早い時間だったので,のんびりとタクスィム広場まで歩いてみた。新市街のメインストリート沿いの建物はまるで高さ制限でもあるのか,みごとに9階建てでそろっている。

新市街を歩く

並木に何やら実が付いている。大きさはくるみよりも一回り大きく,表面は小さなイガイガ状態になっている。殻が半分落ちたものをがあり,中から黒い種が覗いている。

僕もこの植物を初めて見たが葉の感じから栃の木の仲間のマロニエであろうと推定した。栃の実は表面のイガイガが無いけれど,マロニエは栗よりもずっとまばらであるが柔らかい突起があるという。

木の下には栗に似た種子が落ちていたのでまずマロニエであろう。栗そっくりなので食べることができるかというと,日本の栃の実と同様に苦労して灰汁抜きをしなければ食べられない。そのため,地元では誰も拾い集めようとはしないようだ。

タクスィム広場に出て共和国記念碑から見える二つの塔の正体を確かめに向かう。ブロックを半回りすると建物のアプローチ道路があった。この建物はキリスト教の教会であり,二つの塔は礼拝堂の両側に配置されたものであった。

トルコにある教会はギリシャ正教もしくはアルメニア正教のものと推定されるが,第一次世界大戦後の独立戦争においてアンカラ政府軍ははどちらの国とも戦ったし,ギリシャとの間には双方で150万人もの住民交換を行っている。

そのような国情からトルコには教会はないと思っていたら,イスタンブールにはごく少数のキリスト教徒が残っていたようだ。教会の内部はイコノスタスまで赤いじゅうたんが敷かれており,その壁の背後には至聖所がある。

天井はドームではなく丸アーチのバシリカ様式(長方形あるいはその両脇に幅の狭い側廊が張り出した様式,長方形プラン)になっている。

そのような違いはあるもののイコノスタスをミフラーブに置き換えてみると,全体の雰囲気は驚くほど類似している。それは主柱とアーチで構成せざるを得ない石造建築としての類似点なのかもしれない。

広場に戻ると近くを女子高校生が歩いていた。驚いたことに彼女たちは膝上15cmくらいのミニスカートを制服として着用していた。スカーフ問題で揺れる一面でミニスカートの制服が許されるトルコは不思議なイスラム国家である。

今日の昼食

広場に面したドネル・ケバブ屋の店先には7リラとか8リラの値段が見えるので,昼食は近くのロカンタでいただく。野菜の煮込みとパンの組み合わせで4リラは屋台のサンドイッチ(1リラ),サバサンド(3リラ)を除くと,イスタンブールではもっとも安い食事であった。

シリア大使館の近くのテシヴィキエ・ジャーミィの横を通ると,大勢の高校生と大人が建物の前に集まっていた。入り口の周辺には敷物が敷かれ,男性が次々と坐っていく。女性たちはその横で立ち話をしている。

この人々は16歳の男子高校生の葬儀に集まっているという。モスクの入り口近くに置かれた,白い布にくるまれた棺は意外と小さい。さすがのこの情景の写真はない。13:30にシリア大使館に到着し,5分ほど待つとドアが開き,スタッフが出てきて僕のパスポートを出してくれた。

この日は天気が悪く,トルコでは気候が温暖なイスタンブールでも秋はかなり深まった感じを受けた。雨になることを心配して街歩きは中断して,早い時間に宿に戻る。

氷雨の中のボスポラス・クルーズに出発する

2007年9月下旬のイスタンブールは天候によりずいぶん体感温度差が大きかった。晴れているときは半袖でも問題ないが,曇りに風が重なると長袖の2枚がさねが必要になる。

今日も天気は良くないけれどイスタンブール滞在の最終日なのでボスポラス・クルーズに出かけることにする。クルーズの船はエミノニュの桟橋から出ている。

船はかなり大きいもので,船首部は屋根付きのオープンデッキになっている。後ろの2/3は船室となっており,その半分はレストラン(カフェ)が占めている。

船が動き出すとカメラを持った乗客は被写体を探して,あちらこちらと動き回ることになる。著名な建物などがあると,みんなが集まり撮影場所の取り合いとなる。

しかし,すぐに雨が吹き込むようになり,大部分の乗客は船室に避難することになる。僕は東京での冬の防寒具を着込んでいたが,それでも寒かった。船室に戻っても手がかじかんでおり,カフェで暖かいシャーイ(紅茶)を注文し,それで指先を暖めることになった。

最も狭いところでは幅700mしかないボスポラス海峡は黒海と地中海を結ぶ航路になっており,年間48,000隻もの船舶が行きかう交通過密地帯である。

特にカスピ海の油田が開発されたことにより,近年は大型タンカーの通行が増加し,かなりの渋滞が発生している。また,海峡の地形も複雑なのでジグザグ,あるいは45度近い旋回地点もある航路を通るため,15万トンクラスのタンカーが限界である。

地中海と黒海を結ぶダーダネルス海峡,マルマラ海,ボスポラス海峡は「海峡地帯」と総称され,管理主体をめぐり第一次世界大戦以後,長く国際問題となっていた。

「海峡地帯」が地政学上の要衝であるため,敗戦国の新生トルコ共和国は主権を放棄させられ国際管理下におかれることになった。

その後,1936年のモントルー条約でトルコは地域の主権を回復し,締約国は自由通航が認められるようになった。実際には締約国以外の船舶でも条約の範囲内では通行が認められている。

低い雲が垂れ込め,冬の到来を思わせる海峡には大小の船が浮かんでいる。これらの船は海峡の幅に比して十分に小さいが,15万トンクラスのタンカーは全長約300m,横幅が45mほどもあり,人工の運河と異なる複雑な航路を通るには格段の注意が必要になる。

狭い海峡で事故が発生し原油が流出すれば,黒海から地中海までの狭い海域は深刻な被害が及んでしまう。ボスポラス大橋の手前にはトルコ海軍の船舶がゆっくり動いており,乗客は一斉にカメラを向ける。

ボスポラス大橋をくぐる

ボスポラス大橋はこの天気ではまったく満足な写真にはならない。この海峡は大型船も通行するのでつり橋は海面からおよそ60m(正確な数字は不明,ちなみに第二大橋は64m)のところにあり,近くから見るとずいぶん高いところにある。

左側にルーメリヒサール見える。この城塞はメフメット2世がボスポラス海峡を支配下におくとともに,ビザンツ帝国を攻略するための足がかりとするために建設した。海峡からはとても絵になるので,ここの撮影もずいぶん混雑していた。

ここを過ぎると風景は両側とも大差なくなる。船はヨーロッパ側にあるいくつかの船着場に立ち寄り,乗客を降ろしている。ツアー客の場合は,上陸地点に専用車が迎えに来ており,陸路で他の観光スポットに移動できるようになっている。

雨のため視界が制限されており,写真にも不向きなので,僕も終点までは行かず,サルェルと思われるところで下船した。その少し手前に時代ものの木造家屋があり,二階から女性が海峡を眺めていた。なんとなくこころ引かれて一枚撮ることにする。

ここの船着場の建物にはオスマン時代の海辺の様子を描いた絵が飾ってったので写真にする。当時はモスクや宮殿以外は大きな建造物がなかったので,現在よりもはるかにそれらの建物が目立っていたようだ。

さて,ここからどうやって市内に戻ることができるのかは皆目分からない。地元の人に助けられて,ようやくカバタシュ行きのバスに乗ることができた。雨も降っており,街を歩かなくて済んだのでこれは本当に助かった。

宿に戻るトラムの中で写真を撮ろうとしたら,制服の男性に止められた。公共交通機関の中での写真は一定の制限があるようだ。

宿に戻りホット・シャワーを楽しむ。この気温では水シャワーは厳しい。ここの温水は電熱器で温め,タンクに貯めておくタイプなので,使用頻度の低い時間帯に使用するとやけどをするくらい熱くなっている。水を適当にまぜて適温のシャワーで体温を回復させる。

天気が悪いのでこの間にネット屋に向かう。場所は分からなかったので宿泊客の女性と一緒に出かけることにした。料金は1時間20分で2リラとトルコの物価水準からすると妥当なところだ。

このネット屋でカッパドキアの宿で一緒に夕食を作った日本人女性と再会した。旅をしているとときどきこのような偶然の再会がある。時間のあるときはその後の旅の話が始まるとこであるが,ネットの使用中では挨拶だけである。

ボスポラス大橋まで歩くことにする

移動日の朝にチェックアウトしようとすると管理人さんから夜行で行くことを勧められた。次の目的地はセルチュクなので日中の移動が可能と思っていたら,夜行の方が便利らしい。

今日の自製の朝食は大失敗であった。宿の近くにスーパー・マーケットがあり,そこでチーズと思しきものを買ってきた。パンと一緒に食べるとなにやら不思議な味で,とてもチーズとは思えない。

宿泊客の男性が「それは生イーストだよ」と教えてくれた。店ではチーズに挟まれて置いてあったのに,それはひどい。ということで今日の朝食はパン,リンゴ,紅茶という質素なものになった。残ったイーストは管理人さんが使用するかもしれないということで宿の棚に残してきた。

ということで夕方までフリーになったので,ボスポラス大橋を歩いてアジア側にいけないかと考え,宿からスルタン・アフメド・ジャヤーミィ,スイルケジ駅を経由してガラタ橋を渡り海峡沿いの道を歩き出す。

途中でトラム通りとトプカプ宮殿の城壁が接するところがある。そこには小さな門と監視塔のような建物がありちょっと絵になる。トプカプ宮殿もイスタンブール観光のハイライトとなるところであるが,なんといっても入場料が高過ぎるので中には入らなかった。

イスタンブールまで行って,トプカプ宮殿,アヤソフィア,ドルマバフチェ宮殿に入らなかったのは,我ながら変わり者だと思う。その代わりオスマン建築の精緻を集めた建物の方はしっかり見ることにした。

土産物屋|アクセサリーがいっぱい

土産物屋|帆船の模型がいっぱい

鳩に餌をあげるので大変な数が集まっている

オルタキヨイ・ジャーミィ

カバタシュから海峡沿いに歩いてみる。しかし,海岸のかなりの部分は私有地となっており海にアクセスできないようになっており,これはつまらない。

橋の少し手前に海峡にせり出すように小さなオルタキヨイ・ジャーミィが立っている。この建物はグランド・バザールの東側にあるヌルオスマニエ・ジャーミィと同様にトルコ・バロック様式である。陸側からだと背景のボスポラス大橋がちょっと隠れてしまうので,海上からの写真の方が雰囲気が良いであろう。

毛足の長い猫

ちょっと面白いアイディアのお土産

オルタキョイには土産物屋が集まる一画があり,そこで陶器の破片に写真や絵を焼き付けたものが飾ってあった。一つずつだと「ふ〜ん」で終わるものであるが,たくさん集まると,「おっ」と気を引くものになる。

近くにはトルコ・アイスクリームの店がある。トルコのアイスクリームは一風変わっており,伸びるアイスクリームとして知られている。日本でも2005年の愛知万博(愛・地球博)の会場で販売され大人気になった。

ここのものが伸びるアイスクリームに該当するかどうかはわからない。しかも,この陽気ではとてもアイスクリームを食べようという気にはならない。

ボスポラス大橋を下から眺める

ボスポラス大橋は海沿いの道路のはるか上を走っている。海面から60mは高いので道路から見てもはるか上である。(とても取り付け道路まで登っていく元気はないなあ)と考えていると,地元の男性が「だいいち,橋の上は歩けないよ」と教えられヨーロッパ・アジア間の徒歩横断はあっさりとあきらめた。

それにしても,歩行者は通行禁止という情報は正しかったのかネット上でチェックしてみると確かに正しかった。年に一度のユーラシアマラソンの日以外は徒歩通行は禁止されている。徒歩横断を果たすにはこの行事に参加する以外に途は無い。

ベシュクタシュからユスキュダラに移動

ベシュクタシュの近くの船着場に戻り,そこから対岸のユスキュダラ行きの船(水上バス,1.3リラ)に乗る。この航路からはちょうどイスタンブールの最高級ホテルであるチュラーン・パレス・ホテルからボスポラス大橋までをフレームに入れることができる(この写真はページトップを飾っている)。

ユスキュダラの護岸

ユスキュダラの護岸には釣り人が大勢集まっている。この時期の獲物はガラタ橋と同様に鯵に似たイスタヴロットという魚である。体長は20-30cmほどあるので,十分に食用になりそうだ。

わざわざアジア側に渡ったのは,ユスキュダラからハレム(アジア側の船着場の地名である,念のために)まで移動し,そこからエミノニュ行きの船に乗ると「クズ・クレスイ」を見ることができると考えたからだ。

クズ・クレスイ

アジア側から少し離れた小島にあるクズ・クレスイは2500年前から人工的な施設が設けられていたという。海峡の入り口に位置しているので通行税を徴収するには最適なところだったのかもしれない。

現在,観光名所となっている塔は1763年に灯台として建造されたもので,別名「乙女の塔」とも呼ばれている。もちろん,すでに灯台としての役割は終えており,現在はカフェとして人気を集めている。

予想通り,船からは「クズ・クレスイ」を見ることができた。直径20-30mほどの小さな島で,灯台と付属の建物でもう敷地はいっぱいになっている。ここのカフェには船を利用するしかアクセスする手立てが無い。

スイケル駅周辺

船でエミノニュに戻りオリエント急行の終着駅として名高いスイルケジ駅の周辺を歩いてみた。1883年から1977年までパリとイスタンブールを結んで営業されたオリエント急行はまさしくヨーロッパ横断鉄道であった。

パリから到着した列車はここが終着駅となり,乗客はボスポラス海峡を船で渡り,アジア側のハイダルパシャ駅に向かったことだろう。ハイダルパシャ駅がマルマラ海に突き出すような地形のところに建設されたのは,それなりの理由がある。

スイルケジ駅は石造りの重厚なものであるが,アジア側にあるハイダルパシャ駅に比べると,立地条件の差もあり,かなり見劣りがする。これはちょっと気の毒な感じがする。

駅の近くには車両管理区域があり,そこを見学しながら先に進むと遊歩道と遊具を備えた公園になっていた。この日は前日のボスポラスクルーズに比べるとずっと暖かく,薄着の家族連れがけっこう多かった。

宿の近くのじゅうたん屋

宿の近くにはじゅうたん屋がある。西アジアではじゅうたんの産地といえばまずイランがあげられる。しかし,じゅうたん織りの起源は「チュルク系」民族にあるとされている。

「チュルク系」民族は東アジアから中央アジア,さらには小アジアまで大移動した民族であり,おそらく中央アジアでじゅうたん織りの文化と技術を発展させ,その文化が中央アジア一帯に広まったものと考えられている。イランの遊牧民族「カシュガイ」の人々に伝えられているの織り方もトルコじゅうたんと同じダブルノットとなっている。


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