アナトリア高原にあるパムッカレ・タウンのすぐ近くにある高さ200mほどの純白の石灰棚,この幻想的な景観はパムッカレ(綿の宮殿)と呼ばれている。白い台地から綿が連想されたわけではなく,昔からこの地域が綿の産地であることによる。
ここは台地の上から石灰分を含んだ温泉が湧き出ており,長い時間をかけて石灰分を沈殿させていった。固まった石灰分は階段状の棚を造り,その内部はプールのようになっている。小規模の白い棚田のようなものを連想すればよい。
この台地の上部にはヒエラポリスと呼ばれるヘレニズム・ローマ時代の都市遺跡があり,保存状態の良い円形劇場や神殿の跡が残っている。温泉地なのでローマ人は大浴場で社交をかねて楽しんでいたであろうことは想像に難くない。この特異な自然景観と遺跡の組み合わせにより1988年に世界遺産に登録された。
セルチュク→パムッカレ 移動
今日の移動は10:48発の列車なのでのんびりと宿の部屋で朝食をとる。材料はパン,チーズ,トマト,リンゴそれにスープである。クノールのスープは熱湯の中に入れてかき混ぜただけでは溶けきらず,いくつかの固まりをつくってしまう。それをスプーンの裏でつぶしながら溶かしていく。
駅に到着するとKさん夫妻がベンチに坐っている。彼らはすでにパムッカレを訪問しており,デニズリ経由でイスタンブールに向かうという。デニズリ経由にすると少し遠回りになるが,それでもイスタンブール/セルチュク間の列車運賃は23.5リラであり,バスの45リラよりかなり安い。
しかし,トルコの鉄道は運行本数が少ないし,時間もかかる。デニズリ程度の短距離ならそれでもいいが,距離があるところはどうしても便利なバス移動に頼ってしまう。ローカル線は各駅停車であり,駅名の表示がないので特定の途中駅で下車するのはちょっと大変だ。今回の移動はデニズリが終点なのでその心配はない。
列車は二両編成,日本のローカル線と似たようなものだ。座席の指定もなく,乗車率は半分程度なので,これなら当日にチケットを買ってもよかった。車窓からはデニズリの町全体がよく見える。城塞のある丘は意外と高いところにあることが初めて分かった。
線路の周辺はほとんどが果樹園となっている。デニズリが近づくと遠くの台地のある部分だけが白い雪景色になっている。あれが,パムッカレの石灰棚だとKさんが教えてくれる。
Hotel Dort Mevsim
デニズリの駅で二人と別れ,僕はすぐ近くのオトガルからミニバスにのりパムッカレに向かう。下車したところでホテルの客引きにつかまりHotel Dort Mevsim を紹介された。
彼の言い分は「ここは日本人宿だよ」とのことであったが,特にそのようなことはないようだ。宿は幹線道路から少し入り込んだところにある。もらった名刺の地図では簡単には見つからず,結局,地元の人に聞くことになった。
部屋は12畳,4ベッド,T/S付きで清潔である。どうやら4人用のドミトリーを一人で占拠して9$のようだ。世界遺産の観光地にしてはとても安い。もっとも夕食をここの食堂でいただいたら,8$とこちらはリゾート価格であった。
周辺のランドマークを確認しておく
よく町を回ってから,さて宿はどこだったかなということになるので,用心のために近くの比較的目立つ建物の写真を撮っておく。これで保険を確保して石灰棚に向かったのは15:30を回っていた。
石灰棚の台地の地形を考察する
石灰棚は町の北東部にあり,おおよそ南北方向に1.2kmに渡り白い台地が連なっている。石灰棚の台地の西側(パムッカレの町側)は傾斜のある斜面,東側は緩い傾斜の斜面になっており,ローマ時代の遺構はそのあたりにある。
この台地を白く染めた古代の温泉は,台地中央部にある少し西に突き出したような小尾根の背後に湧き出し口はありそうだ。そこにはローマ時代の遺跡が沈んでいる温泉プールがあり,そこはローマの時代にも「聖なる泉」と呼ばれていた。
このあたりの地形は南北に等高線が走っているので,中央部付近から湧き出した温泉は等高線に沿って南北に広がり,それから西の斜面を下っていったことだろう。ここの温泉には石灰分はたくさん含まれており,それが沈殿し斜面に付着することにより,このような奇観が生まれた。そこには二酸化炭素と石灰岩にまつわる地球の物語がある。
二酸化炭素と石灰岩
大気中の二酸化炭素は「地球温暖化」の原因物質としてなんとなく悪玉のイメージが定着している。しかし,二酸化炭素は地球に存在する生命にとって欠かすことのできない材料物質であるとともに,地球に生命が誕生できるおだやかな環境を造り出している物質なのである。
生命の誕生には「液体の水」が必要条件となる。地球は水に恵まれた惑星であるが,もし大気中の二酸化炭素がなければ地表の平均気温は-18℃程度になる。さらに地表の氷が太陽光を反射するアルベド効果も加わり-30℃程度になってしまい,完全に凍結すると考えられている。そのような液体の水の無い環境では生命の誕生は無かったかもしれない。
米国のNASAは火星の地表探査にかなりのエネルギーを注いでおり,水の存在を確認しようとしている。そして,2008年に探査機「フェニックス」が水の存在を確認したと発表した。土壌中に氷の状態で含まれていたものを加熱して,水分を検出したものである。
また,地形や鉱物的な研究から,20億年前には液体の水があったと考えられている。調査ポイントを増やすことにより生命の痕跡が見つかるかもしれない。
火星で生命が生まれたことが分かるということは,生命が地球で特異的に生まれたものではなく,ある環境下ではごく当たり前に発生しうるということを示唆している。その発見は人類にとって計り知れないほど大きなインパクトを与えることになるだろう。
地表でドライアイスができるほど低温の火星に比べて,現在の地球の平均気温は+15℃である。この穏やかな気候を作り出しているのは大気による温室効果であり,その大半は二酸化炭素が占めている。
大気中にわずか350ppmほどしか含まれていないにもかかわらず,二酸化炭素はこのような大きな役割を果たしている。21世紀の最大の環境問題となっている地球温暖化とは,化石燃料の消費により大気中の二酸化炭素が増加し,地球の平均気温が上昇し続けている現象である。
温暖化の影響は高緯度地域ほど著しく,近い将来,夏の北極海には氷が無くなると報告されている。また,山岳氷河も急速に後退しており,温暖化の影響が目に見える程度までになっている。
地球が誕生したとき,二酸化炭素は大気の大部分を占め,およそ60気圧ほどあったと推定されている。これは現在の大気中に含まれる二酸化炭素のおよそ20万倍に相当するぼう大なものである。この二酸化炭素がそのまま大気中に存在していたら,地球は表面温度が480℃もある金星のような状態になったことであろう。さいわい,地球では海が誕生した。
海水に溶け込んだ二酸化炭素は炭酸イオンとなり,カルシウムイオンと結合し,炭酸カルシウム(CaCO3)となった。炭酸カルシウムを主成分とした岩石が石灰岩であり,石灰岩は二酸化炭素が姿を変えたものである。
こうしてぼう大な量の二酸化炭素は石灰岩として固定化され,その一部は大陸地殻に含まれるようになり,大部分は海洋地殻を経由してマントルに取り込まれた。
多くの人は中学か高校の化学の時間に砕いた石灰岩に希塩酸をかけるとあぶくが出るという化学の実験をしたことがあると思う。このとき次のような化学反応が起こり,石灰岩に変わった二酸化炭素が再び姿を現すことになる。
CaCO3+2HCl = CaCl2+H2O+CO2
現在でも二酸化炭素を石灰岩に変える営みは続けられている。それは石灰質の骨格をもつ造礁サンゴや植物性プランクトンなどの生命活動によるものである。
気の遠くなるような時間をかけて小さな生物が造り出した石灰質はさんご礁のような大きな集合体となる。現在,陸上で見られる石灰岩地帯はほとんどが生物起源のものである。
生物は二酸化炭素を石灰岩に変えるだけではない。陸上植物や海の植物性プランクトンは二酸化炭素,水を材料に太陽光エネルギーを利用し,生命活動に必要な有機物を産生している。この有機物が地球上のすべての生命を支えている。
生命活動により大気中あるいは海水中の二酸化炭素や炭酸カルシウムはどんどん消費されるので,消費された分を補充する必要がある。二酸化炭素の補充源は火山活動である。海洋地殻に取り込まれた石灰岩はマントルの熱により分解され,その一部は火山活動により大気中あるいは海中に放出される。
また陸上の石灰岩は雨水などにより少しずつ溶かされ海に戻される。石灰岩地帯の独特の地形や鍾乳洞の空間はそのようにして形成されたもである。こうした物質循環が生命活動を下支えしている。
パムッカレの石灰棚は温泉に含まれる石灰質が沈殿することにより形成されている。たまたま温泉の湧き出し口が台地の上部に位置していたため,そこから流れ出る温泉が丘全体を白く染め上げている。ここは炭酸カルシウムの循環が目に見える形になっている現場である。
このような温泉起源の石灰棚は世界各地で見られる。石灰分は水に溶けるといっても,その溶解度は食塩などの水溶性物質に比べると1/1000程度である。したがって温泉水のごくわずかな変化で石灰分が飽和して沈殿することになる。石灰分の飽和溶解度は,二酸化炭素が溶け込んでいる場合は非常に大きくなる性質がある。
地中では高い圧力の環境下で大量の二酸化炭素が溶け込んでいた温泉水は,地表に出ると二酸化炭素が抜けてしまうので石灰分は飽和しやすくなる。また,温泉水が平らなところに溜まると,水分の蒸発により周囲から飽和が始まるため土手状の自然堤防を形成する。このような堤防地形が連続すると石灰棚といわれる地形が生じる。
もちろん,石灰岩地帯を流れる水流にも石灰分は含まれているので,時間はかかるけれど中国の九寨溝のように棚田状に湖沼が連なる地形が形成される。
パムッカレの石灰棚に温泉水が溜まっているとき,わずかな水深しかないにもかかわらず,非常に青みが強く見える。これは水底が白い石灰分に覆われていることに加え,水中に溶け込んでいる石灰分が光の屈折率を大きくするためと考えられている。
石灰棚を歩く
石灰棚を正面に見る道路に出る。手前に池があり,背後の斜面はみごとな白さである。台地の部分だけの写真を見せられたら雪景色と答える人も多いのではないだろうか。池から白い台地の上までの標高差は200mほどあり,その斜面全体が池の近くまで真っ白となっている。池の左側には小尾根があり,このあたりが台地の中央部にあたる。
石灰棚としての見どころは小尾根の左右にある。ただし,温泉の噴出量は限られているので,この斜面全体を輝くばかりの白さに維持するのは大変なことであろう。温泉の水はいくつかの水路の調整により斜面全体に行き渡るようにされている。そのため,ある斜面に水が流れていても,翌日は別の場所に振り当てられているということになる。
もっとも,斜面や石灰棚の白さを維持するため石灰分を効率よく沈殿させるには,一日水を流し,三日乾かすという方法が採用されている。このサイクルでは溜まった水分は完全に蒸発し,含まれていた石灰分はすべて沈殿するので,効率が良いのであろう。
このくらいのサイクルなら,水の流れている景観はどこかで見ることができ,かつ乏しくなった温泉の水で白い斜面を維持できているようだ。池の右側にはコンクリート製のプールがある。僕の訪れた時は水は入っていなかったが,ここはどうやら温泉水を引き込んで,石灰分を沈殿させようとしているようだ。
個人的には世界遺産ということもあり,このような大きな人工的な構造物は造るべきではないと考える。水の青さと白いテラスを対比させるのであれば,池だけで十分である。
チケット売り場があり,そこから上に登る道は二つある。一つは石灰棚の中央を横切っていくもので,このルートは石灰棚の景観保護のため裸足にならなければならない。もう一つは石灰棚の右端から回り込んでいくルートで,こちらは道路になっており,クツのまま歩くことができる。
まず,横断ルートで登ることにする。一口に石灰棚といっても土手に囲まれた白いプールが形成されるためにはある程度平らな地形と時間が必要になる。そのようなところはそれほど多くは無い。
台地に続く斜面は元の地形がそのまま雪が降ったように白くなっている。沈殿物の種類が異なるのか,はたまた土砂が流れ出したのか,部分的には汚れた雪景色になっている。石灰質が沈殿し固化した表面は細かい凹凸があり足の裏を刺激する。まあ,水が流れていることもあり,普通に歩いている分には痛いほどではない。
遊歩道沿いでは台地は二段構造になっており,二段目の急斜面はみごとな白さに輝いている。光の具合もあり,パムッカレでもっとも白が強調されていた。
傾斜の緩い斜面は連続したマイクロ・プールが形成されており,このようなところに断続して温泉水が供給されると(時間をかければ)土手が成長することだろう。
少し傾斜のある斜面では細かい浪痕のように石灰分が沈殿している。流れていた水が途切れると小さな小さな面に取り残された水分が蒸発してこのような景観を作り出す。
自然のままの地形では大きなプールは形成されづらいので,遊歩道と二段目の急斜面の間には,人工的に土手を造り,効率的に棚を形成しようとしている一画もある。プールには水が張られ,ここは中に入ることができる。
パムッカレのような世界遺産では観光客へのサービスと景観の保全を両立させるためにはこのような方法も必要なのかもしれない。現在は人工的なプールに見えていても,時間が経つと自然のプールに近づいていくことだろう。
二段目の急斜面の下に人工の最も大きなプールがあり,この日はそこに水が張られていた。白い壁と青みがかった水面の対比はなかなかのものだ。この辺りは,上部の温泉プールからそのままやってきた水着姿の人たちも多い。
台地の上に出ると…
台地の上に出ると東側にはローマ時代の遺構が広がっており,白い世界と遺跡の世界を分けるように道路が走っている。この道はさきほど料金所のところから分岐した道路につながっている。
この道路から東側は源泉より高い位置にあるため温泉の水が流れず,普通の台地となっている。もっとも台地の上にただ一つ残っている温泉プールは道路から300mほど東に位置しているので,そこから流れ出る温泉水は地下の水路で引かれているようだ。
道路を挟んでまったく異なる世界が同居していることがパムッカレが世界遺産(複合遺産)に登録された大きな理由である。遺跡の一部は道路から西側に250mほど張り出しており,そこだけは白い氷原に突き出した半島のように見える。
地形的には温泉水が流れ込むところであるが,人工的に水路を造ってそれを防いでいる。この半島状の地形の南側に現在もっとも美しい石灰棚が連なっている。
現在もっとも美しい石灰棚
自然に形成された見事な石灰棚が小尾根の南側にある。その中でも小尾根にもっとも近い部分の石灰棚にはちょうど水が流れていたのでまさしく白い棚田の景色を楽しむことができた。
このような絵に描いたような景色は一ヶ所しかなかった。ここだけはいくつかの角度から写真を撮っておく。深さは50cmもないのに深い青色に染まっており,周囲や水底の白とのコントラストもあり感動的である。
この石灰棚のビューポイントには大勢の人が集まっている。景観を保全するため,周辺は立ち入り禁止になっている。大勢の人が石灰棚の中に入ると予期されない影響が出るかもしれない。
台地上の温泉プールにはから流れ出る水は栄養分が含まれているのか,下の水路には藻が繁殖するようになっている。人の入ることのできる石灰棚プールは人工のものに限定しているのは正しい措置である。
僕の訪問した2007年には斜面に水が流され,連続した石灰棚にも青い水が張られており,とても絵になる状態であった。しかし,ひところは台地の上にホテルができて,温泉を利用したため温泉の枯渇と石灰棚の汚染という問題が発生した。
世界遺産(1988年登録)効果なのか,台地の上のホテルは撤去され,現在は温泉プールだけが営業している。それでも,排水浄化施設等をしっかりさせなければ汚染は防げない。なんといっても,保全の対象は真っ白い斜面なのだから。
また,かっては最高の景観をもつ連続した石灰棚にも入ることができたという。これも景観の保全からは避けなければならない行為だ。
その代わり遊歩道の周りに人工プールを造り,そこで水の感触を楽しんでもらうようにしたのは,しかたがないことであった。自然景観の保全と観光客へのサービスは世界中どこでも難しい課題となっている。
ヘレニズム世界とヒエラポリス概観
石灰棚の東側はゆるやかな斜面となっており,そこには古代遺跡が点在している。主要部分は直径1kmほどの城塞に囲まれた地域にあるが,その北西側にもヘレニズム時代やローマ時代の遺構が残されている。
この地域は「ヒエラポリスとパムッカレ」として複合の世界遺産に登録されているが,その多くはヒエラポリスの重要性によるものである。
BC333年,マケドニアのアレクサンダー大王はアジア世界の覇権勢力であるアケメネス朝ペルシャを破り(イッソスの戦い),その余勢をかってヨーロッパ,アフリカ,アジアにまたがる大帝国を築いた。
これがヘレニズム時代の始まりである。「ヘレニズム」とは「ギリシア語を話す」「ギリシア人を真似る」ことを意味するへレニゼインを語源とし,19世紀ドイツの歴史家ドロイゼンが時代概念として用いたのに始まる。
この大帝国はBC323年にアレクサンダー大王が死去すると部下の武将によりエジプト,シリア,マケドニア,リシマコス(小アジア)の後継国に分裂した。この後継国の支配地域であるヘレニズム世界では地中海世界とオリエント世界が経済的に一体化するようになった。
もちろん,それぞれの地域には固有の文化があり,後継国ではギリシャと現地の文化が混交していた。このようにギリシャ文化は広く東方に伝播したが,逆にギリシャ本土はヘレニズム世界の外れに位置するようになり,政治的にも経済的にも没落していった。
ヘレニズムはローマが地中海地域の覇権勢力になり,プトレマイオス王朝最後の女王クレオパトラが自害したBC30年に終焉する。ローマの時代にもヘレニズム精神や文化は受け継がれ,ヨーロッパの精神的主柱の一つになっている。
ヘレニズムの時代の小アジアではBC4世紀半ばに成立したペルガモン王国が現在のベルガマ(イズミールの北約100km)を中心に繁栄した。この王国の都ベルガマには壮大なヘレニズムの都市遺跡が残されている。
ヘレニズム都市らしくアレクサンドリアの大図書館に匹敵するほどの図書館も残されている。当時の書物はエジプト産のパピルス紙を使用した巻物になっていたが,需要の増加により輸入が滞るようになった。
その代替品として使用されるようになったのが羊皮紙である。ヨーロッパでは紙の語源はパピルスであり,羊皮紙の語源はペルガモンとなっている。
ペルガモン王国はBC190年にパムッカレの地にヒエラポリスを建設した。ここは温泉保養地としてローマ,ビザンツ帝国時代にも引き続き繁栄し,ギリシャ時代の神殿,アゴラ(ギリシャ都市国家の公共広場),ローマ時代の教会,大浴場(現在は博物館になっている)などの遺構が残されている。
中心部にある温泉プールは温泉の湧き出る「聖なる泉」とされていたところにあり,地震で崩れた遺跡がプールに沈んでいる。このためヨーロピアンの観光客の人気は非常に高いようだ。
温泉プール
博物館となっている建物の横を北東に向かう道路の突き当たりに温泉プールがある。入り口には「Antique Pool」と大きく表示されている。この意味はローマ時代の「聖なる泉」の貯水施設がそのままプールとして使用されていたことにようものであろう。
「聖なる泉」を囲む建物は1331年の地震により崩壊し,プールの中に沈んでおり。この遺跡が眠るプールにつかることができるというのが人気の理由なのであろう。
ここは入場料はないので気軽に中に入ることができる。しかし,温泉プールの料金は18リラと異常に高い。それでもヨーロピアンには人気があり,大勢の観光客が利用している。
プールの周囲は歩いて回ることができ,中央部には橋がかかっている。このあたりが沈んでいる遺跡を見るのに良いところだ。確かにプールの周囲は古い石造りとなっており,ローマあるいはヘレニズムの時代に遡れるような感じがする。
水深は50-100cmほどしかないので泳ぐのはちょっと無理だ。水温は35℃ほどなので温泉ともいえず,水遊び場という表現が適切である。おそらく,古代の時代も現在の観光客と同様にここで沐浴していたのではと想像する。
目の前には巨大な石柱が倒れており,水中にも石材が見える。水着姿の観光客はそのような石材に腰を下ろしたり,上半身を預けてうつぶせに水に浸かっている。
ヒエラポリスを歩く
温泉プールの横を通り少し歩くとローマ円形劇場が見える。その手前にはアポロ神殿があるが修復作業のため立ち入り禁止になっていた。道は半円状の円形劇場の直線部分にまっすぐ通じている。
ここは役者のための控え室や音響効果を高めるための構造物があるところだ。復元図によると,地面から3mほど高いところに舞台があり,その背後には三段の石柱で支えられたこの種の施設としては非常に高いテラス状の壁面があったようだ。
舞台には4つの台座があり,現在はそのうち2つに人物の像が立てられている。しかし,復元図ではこの台座は三角形のギリシャ風神殿の屋根を支えるための石柱が立てられており,はっきりしない。台座はかなり大きなものなので,少し前に二本の石柱,石柱の間の少し後ろに像を立てるスペースはありそうだ。
観客席は半円状のすり鉢形をしており,1万人が収容できたという。通常,このような劇場は斜面を利用して観客席を造る。非常に保存状態はよく,舞台背後の壁以外はほとんど残っている。
入り口は舞台の左右および観客席の中段に出る通路がある。観客席の中央には特別に囲われた区画があり,ここは身分の高い人のための専用席だったようだ。
観客席の最上部にからは閉鎖されていたアポロ神殿の全景が見える。神殿の中心部と思われるところに数本の石柱が立っており,あとは石積みの低い壁が残っているだけである。もう少し修復が進まないと建造物の姿を想像することもできない。
また,最上部からは北側にあるネクロポリス(墓地)と思われる遺構が見え,そこまでは道が続いていた。そろそろ夕暮れの時間帯になってきたので,ネクロポリスは省略して石灰棚に戻る。
夕暮れ時の石灰棚
連続した石灰棚はすでに日陰となっており,日の入っているときとは異なり,白色と青色が溶け合い,ちょっと幻想的な色彩となっている。
この時間帯になると人々は夕日を眺めるため,博物館から少し東にあるビューポイントを目指す。このポイントは人工的な円形の連続した棚状になっており,パムッカレらしいものになっている。
残念ながら夕日はそれほどきれいなものではなく,小尾根から赤く染まった夕日ポイントを眺めたほうが感じが出ている。
この町で唯一の子どもの写真
帰りはやはり道に迷ってしまった。そのおかげで路地で遊んでいた子どもたちの写真を撮ることができた。これがこの町では唯一の子どもの写真となった。
9ラリの夕食
夕食はトリ肉と野菜の炒め物にごはんが乗せられたものとパンの組み合わせで9リラと驚くほど高い。東部のロカンタ料理の2倍の価格であり,やはりここは観光の町であった。
翌日の午前中に石灰棚を再訪する
次の目的地は国境を越えたシリアのアレッポである。国境を越える時間帯を考慮してデニズリから夜行で行くことにする。そうすると,午前中はフリーになるのでもう一度石灰棚やヒエラポリスを歩くことができる。
自炊の朝食をとりチェックアウトして荷物は宿に預け出発する。今朝は時間があるのでパムッカレの町をのんびり歩きながら石灰棚を目指す。今日も上天気だ。この好天がイスタンブールでも欲しかった。
今回もクツを脱いで石灰棚を歩くルートにする。夜の間は水を流さないのか,遊歩道脇の人工プールの水はだいぶ少なくなっている。プールの周辺は乾いており,表面の凹凸の具合がよく観察できる。
石灰棚は水が無くなると凹凸のある灰白色の斜面になり,干上がった土手が空しく囲いを作っている。パムッカレで最大の天然石灰棚も水無しではまったく様にならない。
昨日,水が流されもっとも美しかった石灰棚も水が止まると昼行灯のような風景に変わってしまう。僕はたまたま昨日のすばらしい風景を見ることができたけれど,もし今日のこの景色しか見ることができない人は大いに幻滅を感じることだろう。
今日は小尾根の北側の斜面に水が流されていた。ここにも立派な石灰棚があるが,一つ一つが大き過ぎて写真には適さない。水が流れると湯の花のような石灰分が浮き上がり,次の段に流れていく。
再びヒエラポリスを歩く
ここからドミティアヌス帝の門に向かう道沿いの斜面も白くなっており,かなり北側の斜面も部分的に白くなっている。斜面の一部にはかなり風化の進んだ城壁の遺構も見られる。城壁の材質は分からないが,風化の具合は石灰岩が雨水に溶かされていく様子に類似している。
石灰分が付着した地面を割るように生えているオレンジがかったピンク色の見たこともない植物がある。すでに秋枯れの様相を呈しており,ランに似た花茎の先から種子は飛び出てしまっていた。
ドミティアヌス帝の門とそこから町の中心部に続く舗装道路はよく目立つ建造物である。三連アーチのローマ門とその両側に監視塔のような円筒形の建物が残っているが,城壁の痕跡はなかった。
道路は加工された大理石の板で舗装されており,その両側には列柱と大きな建物が並んでいたようだ。近くの案内板に往時の建物の復元図があった。
道路から一段高いところに水路があり,その後ろに二段の石柱で支えられたテラスをもった建物が道路に沿って続いていた。内陸の地方都市にこれほどの巨大建造物を造り上げたローマの建築に対する執念を感じることができる。
ドミティアヌス帝の門の西側には巨大な石造りの「北大浴場」がある。かなり厚い壁をもった大きな建物であったようだ。ローマの浴場は市民の社交場でもあったので,このように立派なものになっている。
北大浴場の西側にはネクロポリスがかなり広い範囲に広がっている。現在では一般的にネクロポリスは墓地と同義語になり,世界中で汎用的に使用されている。
ネクロポリスの語源となるギリシャの都市国家ではアクロポリス(聖なる丘)とネクロポリスは(死者の都)は都市の主要機能として無くてはならないものであった。
丘の頂きのように土地の高いところには都市の守護神やその他の神々の神殿を造り,谷のように低いところには墓地が造られた。これは古代ギリシャ人の死生観によるものである。
古代ギリシャでは霊魂の存在が信じられていた。死後に霊魂は地下で生き続け,墓をもたない霊魂は安住の地がなく,怨霊となってさまようと考えられていた。
そのため,手順を踏んだ埋葬の儀式を執り行い,遺体は墓地に埋葬する必要があった。このような死生観からアクロポリスは必要不可欠の場所であり,そこで死者の霊魂は生き続けることになる。