亜細亜の街角
ギョレメ・パノラマから奇岩の風景を堪能する
Home 亜細亜の街角 | Kappadokya / Turkey / Oct 2007

カッパドキア  (参照地図を開く)

アナトリアの中央に位置する標高はおよそ1000mの台地に広がるカッパドキア地域には世界にも類を見ない奇岩が林立する風景が見られる。自然の造り出した不可思議な造形にただただ驚くだけである。このような不思議な景観の形成には火山活動が大きく関わっている。

トルコのアジア側の地域を「アナトリア」という。アジア大陸から突き出たような形状をしているアナトリアは,ギリシャ語の「アナトリコン(日出る処)に由来する。それは,古代の中国と日本の関係と同じである。

歴史的にこの地域はアジアと呼ばれていたが,アジアはさらに東方に広がっていることが分かったので,識別のため「小アジア」と呼ばれるようになった。

アナトリアの標高は中央部が800mほどで,東部は2000mほどの高原となっている。アナトリア全域に火山岩の堆積が分布しており,特に東部の火山堆積物は厚く,標高を押し上げる要因にもなっている。

アナトリアの火山活動は1400万年前あたりから始まっている。その頃の地球の姿は,現在と基本的な大陸の配置は同じとはいうものの,細部はまだ異なっている。

この1400万年前の地球図は 「Paleomap Project」 から引用したものである。このサイトでは6.5億年前からダイナミックに変化する地球表面の様子を画像化しており,大陸移動の経過を画像の形で理解することができる。とても興味深く,僕のお気に入りのサイトの一つだ。

1400万年前,アナトリア周辺はほとんど海となっており,南アジアから伸びた細長い地峡のような地形の先端部がアナトリアであった。そこは,大陸移動によりアフリカ大陸とアラビア楯状地がユーラシア大陸に衝突する最前線であった。

この頃,アルプスはまだ形成されておらず,ヨーロッパの南半分は海面下にあり,アナトリアを浮かべた古地中海は大西洋とインド洋とつながっており,カスピ海の辺りまで広がる,大きな海域であった。

この頃,すでにオーストラリアプレートに乗ったインド亜大陸はアジア大陸と衝突しヒマラヤ山脈が形成されている。少し遅れてこの地域ではアルプスを始めとする山脈が形成されることになる。そのためこの最も新しい造山運動は「ヒマラヤ・アルプス造山運動」と呼ばれている。

衝突の最前線となったアナトリアは多くの火山活動が起こり,火山性岩石は広くアナトリア全域に分布している。カッパドキアの周辺にも複数の火山があり,1100万年前頃から大量の溶岩と火山性降下物を噴出させている。火山活動は現在まで続いており,その間の噴出物により100-200mほどの火山性堆積層が形成された。

大きな噴火でも火山性降下物(火山灰)はそれほど厚く降り積もるものではない。江戸時代の宝永噴火は富士山の歴史でも最大級の噴火であったが,そのときの火山性降下物の量は江戸で数cmとされている。1991年のフィリッピンのピナツボ火山でも最大50-150cm程度とされている。もちろん,火山本体の近くでは急速に量は増える。

関東平野ほどの広がりをもつカッパドキア地域に100mを越える火山性堆積層を形成するためには大小の噴火が,繰り返し発生したにちがいない。

この堆積層は時間とともに凝灰岩という火山性堆積岩に変化するが,その組成は一様ではなかった。固い玄武岩質(黒っぽい)層,鉄分の多い赤っぽい層もあれば,柔らかい火山灰質(灰白色)の層もあった。

そのような地層が風化され,雨水により浸食されると,軟らかい地層と硬い地層では侵食の速度が異なるため,独特の形状が生まれる。

カッパドキア一帯では最上部に固い溶岩層,その下が火山灰質の地層となっている。固い溶岩層は冷える時に亀裂が入り,そこから雨水が浸透し,下部の火山灰質層をより早く侵食する現象が発生する。

一度水の経路ができると,水流はその部分を選択的に削りながら流れ,小さな岩山を形成する。このため,上部に黒い帽子を被せたような灰白色の円錐形あるいはきのこ状の岩が林立する景観が生まれる。

さらに時間が経過すると,帽子の部分が脱落して灰白色の岩だけが残る。もちろん,地層の組成は一様ではないのでこれ以外も多くの特異な岩の造形が生み出されている。


特異な風景に加え,カッパドキアを世に知らしめたのは巨大な円錐形の岩山の内部に造られた岩窟住居である。3世紀半ばローマ帝国の弾圧を逃れたキリスト教の修道士たちが,この地域に移り住み,柔らかい岩をくり抜き,そこを住居や教会にしたのだ。

ローマ帝国がキリスト教を国教とした後も,カッパドキア地域はペルシャやイスラム勢力に包囲され,絶えず脅威にさらされていた。キリスト教徒たちは敵から一時的に身を隠す大きな避難場所を地下に建造した。

1965年に発見された地下都市は地下8階,深さ65mもある巨大なものである。外敵の侵入を防ぐため地下都市は複雑な構造をしており,その中で村人全員がしばらくの間居住できるようになっていた。

世界的にも類例のない景観と岩山や地下都市で暮らしていたキリスト教徒の生活痕は「ギョレメ国立公園およびカッパドキアの岩石遺跡群」として1985年に世界遺産の複合遺産として登録された。トルコでもっとも人気のある観光地として年間200万人近い観光客が訪れている。

ワン→カイセリ 移動

ワンから西への移動は結局バスを利用することにした。昨日のバス会社でカイセリ行きを確認すると11時しか無いと言われ,そのチケットを買う。時間があるので荷物をバス会社の事務所に預け,近くの駅舎と小学校を見学してくる。

オトガルに戻り,バスを待っている子どもたちの写真を撮る。すると,近くの大人まらも小さなこの子と撮ってとせがまれ,何枚かを撮ることになった。ここに集まっている人たちの多くは荷物を持っていないので,親族の見送りに来ているようだ。

僕の乗ったバスはエーゲ海に面したイズミールまでの直行便である。この区間は直線でも1300kmを越えており,アナトリアを完全横断する長距離バスであった。

直線距離1300kmというのは東京から奄美大島あたりまでの距離に相当する。その区間をバスで移動するのであるからこれはすごい。もっとも,僕はカッパドキアを目指しているので,途中のカイセリで途中下車することになる。

バスが動き出すとさきほど写真を撮った子どもたちの親族がバスに向かってさかんに手を振って,別れを惜しんでいる。この地域の人々の家族の結びつきはとても強いようだ。

メルセデスのバス(50リラ)の乗り心地はとても良い。ワン湖の南側のルートをたどったので,昨日と同じところからワン湖とアクダマール島を再び見ることができた。今日も好天に恵まれ,すばらしい青い湖面である。

行程中は3回飲み物のサービスもあった。アクダマール島の先は山道となり,ゆるやかに連なる山の間を道路が縫っていく。これで緑が豊であれば,日本の里山の風景になりそうだ。

牧草地が広がっており,まだ緑色をしている干草の束が一面に散らばっている。刈り取りが終わり,茶色に見える牧草地か農地では羊が放牧されている。

峠を下ると再び湖面の風景になる。湖面の青さは変わらないけれど,湖の対岸がすぐそこに迫っている。近くの農家では庭先に干草や麦わらが積み上げられており,農地にはもう緑は見えない。今年の農作業はもう終了したようだ。そのようなところでも羊の群はわずかに残る草を求めて歩き回っている。

バスは17時までは2時間おきに休憩となっていたが,その後はいっこうに停まろうとはしなかった。19時にElazig(エラズー)を通過する。このあたりがクルド人居住地域の外れにあたる。ワンからここまで来る間に4回の検問があり,その都度,僕のパスポートはチェックのため回収された。

エラズーの近くにでアナトリア東部高原に源をもつムラト川とカラ川が合流している。そこにケバン・ダムがあり,エラズーの北側には巨大な人造湖ケバン湖がある。

ケバン湖を出ると川の名前はフラト川に変わる。このフラトがユーフラテスの語源となっている。トルコ国内を流れるフラト川には1992年に世界でも6番目の規模をもつアタチュルク・ダムが完成し,発電と灌漑に利用されている。

その一方で全長2800kmのユーフラテス川はシリア,イラクを流れる国際河川であり,上流部の過度の水利用は下流地域に大きな問題を引き起こしている。水資源に乏しい中東地域においてはチグリス,ユーフラテス両河川の水源となっているトルコの動向は大きな関心事となっている。

ユーフラテス川の年間流量は約250-300億トン(818トン/秒)である。これはナイル川(800億トン/年)の1/3ほどの流量に当たる。トルコ政府はシリア政府に対してアタチュルク・ダムから年間158億トンの放水を約束している。

シリアとイラク間には,この水量のうちシリアに58%,イラクに42%を配分するという協定がある。仮に年間250億トンとすれば配分はおよそトルコ100億トン,シリア90億トン,イラク60億トンということになる。

残念ながらケバン湖は18時過ぎの夕暮れ時にちらっと見えただけですぐ通り過ぎてしまった。バスは停車することなく走り続ける。20:30にマラティアのオトガルに入ったが,どうしたことかトイレ休憩なしに動き出した。

子どもたちはトイレに行きたくて泣き出すし,車内はちょっと不穏な空気になる。23時にようやくバスは路上で停まり,臨時のトイレ休憩となった。23:30にドライブインに到着し,夕食をとることができた。この時間帯では食欲も無くなり,パンとスープで済ませる。

02時にカイセリのオトガルの前で僕は降ろされた

バスはさらに走り続け02時にカイセリのオトガルの前で僕は降ろされた。このオトガルは24時間営業なのでイスの上で仮眠をとり,朝を迎えることにした。しかし,イスの上では目を閉じてうとうとするのが精一杯で,04時からは日記作業と読書で過ごした。

Hotel Dream Cave

カイセリからカッパドキアの中心地ギョレメまでは大型バス(7リラ)が運行されている。ギョレメは通過点であり,09:30にそこで降りたのは僕一人であった。

ギョレメには数十軒の安宿があり逆に選択に苦労する。結局,ガイドブックにデータが記載されていたドリーム・ケイブにする。ドミは14畳,6ベッド,清潔である。名前の通り,奇岩に穴を開けた部屋という雰囲気を出している。料金は7リラ(600円)とトルコではもっとも安い宿代であった。

標高は1000m程度なのに夜は寒いくらいだ。おかげで,毛布を被りよく眠ることができた。この宿では台所を自由に使うことができるので,日本人旅行者が共同で夕食を作っている。

ツアーに出発する

宿に荷物を置くとスタッフから今日のツアーがじきに出発するという。カッパドキアの見どころは広範囲に渡っている。デリンクユやカイマクルの地下都市などは20-30kmも離れており,個人で回るのが困難なところも多い。

そのため,アクセスの難しいところは現地発のツアーに参加するのが効率的である。ということで,この宿に泊まっていた日本人女性3人と一緒にツアーに参加することにした。

料金は50リラとガイドブックの料金に比べてずいぶん高くなっている。もっとも,この料金はデリンクユなどの入場料や昼食代を含んでいるので,見かけほど割高ではない。

時刻はまだ10時を少し回ったところだ。迎えの車が宿までやってきて,ギョレメの中心部に移動し,そこからツアー用の車に乗り換える。今日は客が多いのか,小型バス1台とワゴン車3台の編成である。この人数が同じ時間帯に同じ場所を見学するので,地下都市など狭い場所はかなり混雑する。

今日の日程を整理しておくと,ギョレメ・パノラマ→デリンクユ地下都市→ウラフラ渓谷→洞窟教会→昼食→展望台→Selime大聖堂→鳩の谷→宝石屋で,解散時間は18時を回っていた。

ギョレメ・パノラマ

ギョレメの町から南の方向にあり,十分に歩いていくことができる。ここは崖の上にあり,ギョレメの南側にあるU字形の谷を見下ろすことができる。この谷の斜面と谷の下部に円錐形の岩が林立している。

谷がもっとも低くなっているところはほとんど平地になっており,そこにギョレメの町が広がっている。ギョレメの北10kmのところにアヴァノスの町があり,その手前にクズル川がある。ギョレメの谷もクズル川に注ぐ支流の一つが削り取ったものだろう。

ギョレメの町の中にも,あるいは町を囲むように円錐あるいはローソク状の岩が立っており,それらの多くにはたくさんの穴が穿たれている。それらは,昔の住居跡であろう。実際,チャウシンにある大きな岩山には1950年代まで人が住んでいたという。

現在は普通の住居が立ち並び,岩の住居の一部は家畜小屋や物置として使用されている。カッパドキアの風景を言葉で表現するのはとても難しい。やはり,ここに関しては「百聞は一見にしかず」である。

デリンクユ地下都市

カッパドキア地方にはこれまで40ほどの地下住居が発見されている。現在,公開されているのはデリンクユとカイマクルの地下都市である。都市という表現が使用されているのはその規模による。

デリンクユの場合,現在の地上にあるデリンクユ村(人口6000人)と同程度の規模をもっている。都市空間は地下8階,55mの深さの最下層まで続いている。

デリンクユとは「深い井戸」を意味する。その名の通り,深い井戸が何本も掘られており,いくつかは村人にも知られていた。この井戸は水の供給とともに地下空間の換気装置の役割を果たしていた。井戸は地下65mの地下水層まで真っすぐに続いている。

NHKの「地球に好奇心」という番組でこのデリンクユを紹介している。それによると,最下層の地下8階には小部屋があり,水を汲み上げるとともに,地上と地下のわずかな気圧の差を利用して地下空間に新鮮な空気を送り込むようになっていたという。

「気圧の差を利用して…」というところはちょっとうなずけない。水平な地面にあけたU字形の穴の場合,地上に出ている二つの穴の大気圧は同じなので,中の空気は動かないからだ。

おそらく空気を自然循環させるため,空気の出入り口の穴の高さを違えるなどのもう一工夫があったと推測する。また地上に通じる換気用の穴はたくさんあったとされている。

この地域で地下住居が造られるようになったのは,ヒッタイト時代(紀元前1900年から1200年)とされている。ヒッタイトのものと考えられるライオン像がここから発掘され,ネヴェシェヒール博物館に保管されている。

ヒッタイト人はトンネルの掘削技術をもっていたので,一種の避難所として使用された規模の小さな地下住居は容易に造営できたと考えられている。この地域の火山性堆積岩は柔らかく,青銅器程度の道具でも容易に削ることができる。

ヒッタイトの滅亡後も人々は危険をやり過ごす手段として,必要により地下住居を拡大していった。紀元前4世紀のアナバシスという書物にはクセノフォンというペルシャ人青年がこの地域を訪れた時の様子が次のように記されている。

ここでは家が地下に造られている。入り口は井戸の口のように狭いが,下に行くと広い。人間は井戸の口からはしごで降りていく。家畜用の入り口は別にある。地下には山羊,羊,牛やニワトリとそれらの仔や雛がいた。

また麦や豆類もあり,さらに大麦酒も大きな鉢に蓄えてあった。大麦酒の鉢には葦の茎が差し込んである。のどが渇くとこの葦の茎を口にくわえてすするのである。この酒はすこぶる強い。だが一度この酒の味に慣れると実に美味であった。

この地域にキリスト教が伝わってきてから,地下住居はローマ帝国,ササン朝ペルシャ,イスラム帝国などの異教徒の迫害を逃れるため,キリスト教徒の避難所としてさらに大きくなっていた。キリスト教の帝国であるビザンツの時代にも,異民族との戦乱が続き,地下住居は重要な意味をもっていた。

地下都市がもっとも大きくなったのは5-9世紀とされている。11世紀にアナトリア全域がイスラム化すると,一定の信仰の自由は認められるようになったが,しだいにこの地域からキリスト教徒は姿を消していった。

NHKの番組では地下都市の構造を次のように説明している。地下1階には家畜小屋,台所,ワインの製造所,神学校があった。ワイン用のぶどうは地上の穴から投げ入れられ,足で踏まれ,その汁は貯蔵穴に溜まるようになっていた。

身の危険がない時期には,人々は地上の家で暮らしていた。しかし,地下1階は日常的に使用されていたと考えられる。温度の一定している地下はワインの製造には適しているし,寒暖の差の激しい内陸地にあっても家畜は快適な空間で過ごすことができた。

人々は地下の人目につかないところで神への祈りを捧げ,次の世代に自分たちの信仰を連綿と伝えてきた。ミサのときに欠かせないワインは大きなかめの中に保存されていた。

2-4階は物資の貯蔵庫,居住区になっていた。3階と5階を結ぶ通路には巨大な円盤型の石の扉があり,これを転がして通路を封鎖することができた。この扉は内側からではないと開けられない(転がせない)構造になっていた。

5階は上下の層をむすぶ都市のターミナル機能をもっており,ここから下は急勾配の通路で7階に通じていた。7階の部屋は十字型の形状をしており,教会となっていた。この部屋が人々の最後の拠り所になっていたのであろう。

さて,今日のツアー一行はデリンクユ地下都市の入り口にある駐車場に到着した。車ごとにガイドが一人ついており,メンバーはその後をついて説明を聞くことになる。

しかし,英語の説明は聞いた時はなんとなく分かったような気持ちになるが,少し時間が経つと何も残っていない自分に気が付くことになる。

地下都市の中はだいたい照明があり,ガイドのあとをついていくのは問題ない。これがワイン用のブドウを踏むための場所,これが8層まで続く井戸…とガイドの説明が続く。どこもかしこも,石の空間であり,さして面白いところではなく,それほど写真の気分にもならない。

ツアーのメンバーがそれぞれのガイドに率いられてほとんど一緒に移動するので,すれちがう時などは混乱する。ガイドがお互いに声を掛け合い先に通るグループを決めている。

3階から5階に通じる通路をふさぐ石の円盤は運良く見つけることができた。井戸とこの円盤だけは写真に残しておきたかったので,あとはおまけである。僕のグループにはヨーロピアンが多く,彼らはキリスト教徒の地下生活について興味深げに聞き入っていた。

ウラフラ渓谷

次の訪問地はウラフラ渓谷である。ここはメレンディズ川により刻まれた高さ100mほどの切り立った断崖になっている。峡谷の下は緑が豊かで,周辺とはずいぶん異なる景色となっている。

川沿いの道はかっこうのハイキングコースとなっており,ガイドは入り口近くの教会を見学した後,「私は車で先回りして昼食のレストランで待っています,ちゃんと○○レストランに来てください」と言い残して,我々を送り出した。

谷川の水はきれいだし,緑も多く,確かになかなかのハイキングコースである。断崖にはずいぶんたくさんの大小の穴が穿たれている。この峡谷には修道僧の暮らしていた岩窟教会が数多く残されているので,彼らが一人で神と向かい合う時間を過ごすときに使用されたのかもしれない。

レストランで昼食をいただく

昼食はしゃれた屋外レストランで肉料理をいただく。この昼食もツアー代金に含まれている。一緒に回っている二人の日本人女性はちょっと元気が無い。

峡谷の出口に展望台がある

峡谷の出口にある展望台からは緑豊かな谷と,荒々しい岩山の景色を眺めることができる。谷の上部はほとんど平らな大地になっており,そこから谷に向かって,火山堆積層がどのように削られていったかがよく分かる。

太古の時代,この地域は谷の上部と同じレベルの平らな地形であった。そこに水が流れるようになり,その周辺はどんどん削られて谷が形成された。谷の上部からは現在も水が流れ落ち,斜面を少しずつ削っている。

水で少し削られた斜面の襞に水流が集中するため,その部分だけ侵食作用が強くなる。襞は次第に深くなり,ついには隣の岩と切り離され,円錐形の独立岩となる。斜面の上から下にかけて,そのような独立岩の成長過程を見ることができるので興味深い。

ウラフラ渓谷の続きの谷はほとんど垂直の崖になっており,独立岩は形成されていない。堆積層の組成の差が大きな地形的な変化となっているようだ。崖にはたくさんの穴が開けられており,その直近まで家屋が立ち並んでいる。屋根瓦の色は一様に赤みの強い茶色で風景によく調和している。

セリメ大聖堂

ウフララ渓谷の終点にはセリメ村があり,近くには岩窟教会のある岩山がある。ここもツアーの訪問場所になっている。岩山の下には新しい料金所のような木造の建物があり,そこには「セリメ・カテドラル(大聖堂)」と記された案内板がある。

確かに大小の円錐形の独立岩を従えた巨大な岩山がひときわ高くそびえており,その威容は大聖堂と呼ぶのにふさわしい。このあたりは映画スターウォーズのロケが行われたといううわさが,まことしとやかにささやかれている。

NHKの番組に「探検ロマン世界遺産」という番組がある。その中でカッパドキアを扱った番組があり,その公式HPには次のように記されている。

東京23区ほどの広さに,幻想的な風景が延々と続くこの地は,世界遺産の中でも数少ない「自然遺産」と「文化遺産」双方を併せ持つ「複合遺産」です。ダイナミックな地球の営みのなかで生まれた奇岩地帯は,映画「スターウォーズ・ジェダイの復讐」の舞台のモチーフになったともいわれています。

そんなものかなと映画のビデオを見直してみた。おそらく惑星タトウィーンにおけるジャバとの戦いが行われた砂漠の風景のことをいっているのだと思うが,このシーンは米国のアリゾナ砂漠でロケされている。あの砂漠の風景と奇岩のカッパドキアはどうにも結びつかない。

ちなみに,次の舞台であるイウォークの活躍するエンドア星はカリフォルニア州の巨木の森である。米国にはメタセコイアとレッドウッドという巨木の森がいくつもあるのでそのうちの一つであろう。

ということで,僕としてはカッパドキアとスターウォーズのはっきりした関係は見つけることができなかった。さて,セリメ大聖堂は岩山を少し登らなければならない。柔らかい岩が砕けて小さな砂利のようになっており,油断しているとすべってしまう。

大聖堂の岩山は途中から水の浸食により深い襞が刻まれており,黒っぽい(内部は赤みがかった灰色)表面とあいまって,いかにもそれらしい外観をもっている。下から見上げた雰囲気は映画「未知との遭遇」の一場面を思い出した。

米国ワイオミング州にある「デビルスタワー」はマグマが地中で固まったもので,高さ386mの上部を切り取れたような円錐形をしている。映画に登場したことより一躍有名となったという。

周辺の独立した円錐形の岩にも多くの穴が造られており,かなりのものは表面が崩れて内部がむき出しになっている。円錐形の上部には小さな穴があり,これは明り取りの窓のように見える。

大聖堂本体の岩山は周辺の岩に比べるとはるかに巨大だ。これだけ大きければ相当の空間を削り出すことができる。とりあえず,入り口の手前でセリメ村の写真を撮っておくことにしよう。

周辺の褐色の台地に比べて村の周辺はずいぶん緑が多い。枝が横に広がらない細身の樹木は林になっている。周辺には農地は見当たらないので,この村の人々は何で生計を立てているのかという疑問が湧いてくる。

カッパドキアはセルジュー朝の時代にはイラン高原とヨーロッパを結ぶ隊商ルートになっており,いくつものキャラバン・サライ(隊商宿)があったという。古の隊商の人々もこの地域の風景には目を見張ったことであろう。

セリメ大聖堂の内部

大聖堂の入り口付近はかなり崩れている。内部を削り過ぎると,柔らかい岩石は簡単に崩れてしまうようだ。内部の空間の床は必ずしも平坦ではない。ちょっとした道具があれば簡単に平にすることができるので,このような凹凸はなにか意味があったのかもしれない。

床に比して壁面はきれいに削られており,のみの跡が一つ一つ見て取れる。内部はいくつかの空間に分かれており,空間を隔てている柱とアーチの組み合わせも見事だ。このような造形はすべて岩を削り出して造ったものだ。アーチ部分にはわずかに往時の彩色の跡が見られる。

大聖堂の中心は横幅10m,奥行き20m,高さ10mほどの礼拝堂になっている。天井はアーチ型になっており,壁面には一部しっくいの跡が残っている。ギリシャ正教の影響であろう。礼拝堂の奥には至聖所が設けられている。

大聖堂の岩山を出て,足元に注意しながら周囲の小さな岩山を回ってみる。壁面の一部が崩落したところがあり,円形の穴から外を眺める女性の姿がおもしろい構図になっている。

鳩の谷とオルタヒサール

ツアー最後の訪問地は「鳩の谷」であった。場所は谷に向かい左手にウチヒサールが見えたのでおそらくウチヒサールの少し南側にこのビューポイントがあり,そこから西側をを眺めているようだ。

谷の西側の斜面はもう半分日が陰っている。ウチヒサールの斜面に広がる町も同じように日陰になっているが,城塞となっていた最上部の岩山だけは西日に照らされ明るく輝いている。この風景も個人的にはカッパドキアの絶景に入れておきたいところだ。

鳩の谷の最初の写真を撮ると,ちょうどのタイミングで構図の中を鳩が横切ったので,鳩の谷らしい写真になった。それにしてもこの風景のどこが鳩の谷と呼ばれる所以なのだろう。

日の当たっている谷の東斜面は少し赤みがかった灰白色の岩がこれから円錐形の独立岩に成長しようとしている。西日を浴びているので斜面の赤みが強くなっているようだ。この東斜面には岩山に開けられた鳩用の小さな穴は見当たらない。

やはり,ウチヒサールの西斜面の下にあるいくつもの岩山に穿たれた穴が鳩小屋のようだ。この地域では岩山に鳩の住処を提供し,その代わりふんをぶどう畑用の肥料として回収していたという。

通常の肥料なら牛や羊など家畜のふんの方がずっと容易に集められる。とすると,わざわざ鳩のふんを集めたのはリン成分が必要だったのかななどと想像を膨らませたくなる風景である。

鳩の谷のビュー・ポイントは観光客がよく集まるところなので,いくつかの土産物屋が店を出している。その土産物の一つに青と白の目玉のようなセラミックかガラスの飾り物があり,近くの枯れ木にたくさん取り付けられていた。

これは「ナザール・ボンジュー」と呼ばれているトルコではごく一般的な魔よけのお守りである。ナザールは邪視,ポンジューは玉を意味しており,他人からの悪意のある視線から守ってくれると信じられている。


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