亜細亜の街角
アルカリ性塩類を大量に含むワン湖の青が印象的だ
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ワン  (参照地図を開く)

西アジアは古代文明揺籃の地の一つであった。ペルシャ湾からシリア,パレスチナを経由してエジプトに至る地域は,水と肥沃な土壌に恵まれており,「肥沃な三日月地帯」と呼ばれ,紀元前4000年頃にはその東西の端で世界最古の都市文明が花開いた。

その文明は三日月地帯を伝播し,多くの古代文明が盛衰を繰り返した。同時に三日月地帯を囲む山岳地域,イランのザグロス山脈,アナトリア東部高原にも遊牧民が共通する文化をもつようになった。

紀元前6000年頃にさかのぼるハフラ文化の広がりは現在のクルド人の居住地域とほぼ重なっていた。紀元前2500年頃にはフリル人がやってきて,山岳地域にいくつかの都市国家を形成した。フリル語は系統不明の膠着語であり,周辺の言語との関連は確認されていない。

紀元前2000年頃から繰り返し,印欧語族に属するイラン系民族がアナトリア東部に到来し,山岳地域の民族地図を塗り替えていった。フリル人の都市国家は紀元前1300年頃までに異民族により征服された。

紀元前300年ころまでには地域の印欧語族化は完了し,現在のクルド人につながる民族が形成された。しかし,なぜか文化的にはアーリア化せずに,フリル文化は現在のクルド人の文化に色濃く残っている。

フリル人の末裔と思われる人々は,紀元前12世紀にすでに印欧語族化が進行したワン湖を中心にした地域でウラルトゥ王国を興している。ウラルトゥ語がフリル語と近縁関係にあることから,この王国にフリル人が関わっていたとされている。

紀元前9世紀にははっきりとした王国となり,最盛期にはザグロス山脈,アナトリア東部高原を支配しており,クルド人の居住地域をほぼ含んでいる。この時代に南方にはアッシリアが強勢を誇っていた。ウラルトゥ王国はBC6世紀にアッシリア敗れて衰退し,東からやってきたスキタイ人により滅ぼされた。

王国の名称はそれをアッシリア人が「ウラルトゥ」と呼んでいたことに起因する。ウラルトゥ語では「ビアインリ」である。この古い王国に起因すると思われる地名が二つある。一つは「アララト」であり,これは「ウラルトゥ」と関連付けられる。もう一つは「ワン(ヴァン)」であり,これは「ビアインリ」と関連付けられている。

ウラルトゥ王国以降,この山岳地域に居住するクルド人は周辺の帝国に影響されながらも独自のコミュニティを維持してきた。彼らは勇猛果敢な民族として知られているが,内部抗争も激しく,クルド民族としての意識は希薄であった。

彼らが「クルド民族」を自覚するようになったのはオスマン帝国の末期である。それまでの間,彼らはパキスタンのアフガニスタン国境に自治地域をもつパシュトゥーン人のように,トライバル・エリアを維持してきた。

話は変わるが,イスタンブールとイランのテヘランを結んでいる国際列車が運行されている。所要時間は約40時間,2泊3日の優雅な列車の旅ができるので,いつかは乗ってみたいと考えている。

ところが,地図を見ると東に向かう鉄道線路はワン湖(内陸の高地にありながらなぜかアルカリ性塩類が多い)の西岸で終わっており,そこから東岸のワンから鉄路は再び始まっている。

ワン湖の両岸はフェリーで結ばれており,列車ごとフェリーに積み込まれれるという。列車は週1回の運行なのでうまくすると列車をフェリーに積み込むという珍しい光景が見られるかもしれないと思ってここを訪れた。

なぜ,このような面倒なことになっているかは不明だ。ワン湖の南か北に線路を敷けば問題は解決すると思うのだが何か地形的な事情があるのかもしれない。あるいは,住民の大部分がクルド人なので,そのあたりも影響しているのかもしれない。

ワンでは2004年に出勤途中の知事の車列近くで爆発があり3人が死亡し,13人が負傷した。また2006年には政府系ビル,ショッピングセンター等がある中心部で,自爆テロによるものとみられる爆発事件が発生し,3人が死亡,19人が負傷する事件が発生している。

2007年4月までは日本の外務省から注意喚起が出されていた。僕が訪れた2007年9月は,特に治安の問題は発生しておらず,旅行への支障はなかった。

人口40万人のワンの町は近代的で新しいものであった。これは,トルコ共和国成立時にアルメニア人勢力との激戦地になり,その後に再建されたためである。

ドウバヤズット→ワン 移動

08時少し過ぎにワン行きのミニバス乗り場に行く。宿の前の幹線道路を北西に歩き,交差点の向こう側の乗り場がある。09時発のミニバスはすでに満員で補助イスになってしまった。まあ,2時間強の移動なのでよしとするか。

町を出ると牧草地の風景となり,100頭ほどの羊の群れがあちこちで見られる。屋根が平らな家が集まっている集落なども写真に残しておきたいけれど,窓側でないのでどうにもならない。

道は上りになりカーブの度に横Gが発生し,支えのないイスが左右に動く。前の座席をつかんでなんとか体のバランスをとる。峠を越えると屋根の形状が変わった。平らな屋根はなくなり,四角錐の上部を切り落としたようなトタン屋根になる。気候が変わるせいなのか,単純に文化なのか,ちょっと不思議な感じを受ける。

道路の右側は広範囲に黒い岩で覆われている。浅間山の鬼押出し園のような風景である。やはり,同じように溶岩が流失して固まり,風化したものに見える。そういえば,アララト山も死火山である。

この地域ではカフカス山脈,アルメニア高原,ザクロス山脈,エルブルズ山脈がだいたい北西から南東方向に走っている。これは1億5000万年前に超大陸パンゲアが分裂を始めた結果であり,1500万年前にアラビア楯状地がアジア大陸に衝突して生成されたものである。

同じ頃(5000-1500万年前),インド亜大陸はアジア大陸に,アフリカ大陸はヨーロッパ大陸に衝突しており,ヒマラヤ山脈やアルプス山脈が形成された。そのため,これをヒマラヤ・アルプス造山運動と呼んでいる。

大陸移動という地球規模の変動を説明する「プレート・テクトニクス」が日本で受け入れられたのは1960年代の後半であり,僕が高校時代の地学ではたんに造山運動があったとしか教えられなかった。どうしてということが分かると退屈な造山運動も面白くなる。

ここの岩石がその時代の産物かどうかは分からない。しかし,これが1500万年前の大陸衝突の結果,噴出した溶岩かもしれないと考えるだけでも楽しくなる。

右側にワン湖が見えてきた。周囲の茶色の山肌に対して,水の青さがひときわ美しい。ワンの町が近づくと,今日2回目の検問があった。IDカードとパスポートが集められ,チェックされているようだ。顔写真と本人の照合は全く行われなかった。

アスラン・ホテル

バスは街の中心部のランドマークとなるベシュヨルという小さな広場に到着した。ここは東西の幹線道路と南北の目抜き通りのジェムフリエット通りがT字型に交差するところだ。

安宿はこの近くに多い。予定していたアスラン・ホテルも歩いて3-4分のところにあるのだが,探し方が悪くて15分ほど周辺を回ってしまった。地元の人もあっちだ,こっちだとさっぱりらちがあかず,つまらないことで疲れてしまった。

受付でドミの部屋を見せてくれと頼んだら,何か事情があるのか1時間近くも待たされた。まあ,この間に買い置きのパンとトマトで昼食を済ませたのでいいけどね。

部屋は6畳,3ベッド,T/Sは共同で清潔である。身勝手なトルコ人と相部屋という以外は問題はない。このトルコ人はあろうことか洗面台に足を乗せて洗っている。おいおい,そこは洗面台だよ,シャワー室でやってくれ。

しかも,蛇口が閉まらなくなったと水を出しっぱなしで平然とベッドに横になっている。「水が止まらないのなら宿のスタッフに連絡しなさい」と言っても,へらへらしているだけだ。

話にならないので「自分のしたことは自分で始末しなさい」と日本語で怒鳴ってしまった。感情を込めて怒るときはやはり日本語の方が相手にも通じやすい。蛇口そのものは逆回し型であり,同室のヨーロピアンと一緒に簡単に止めることができた。

イェニ・ジャーミィの全景を撮るのは難しい

宿のすぐ近くにはガイドブックによると「イェニ・ジャーミィ」がそびえている。しかし,側面には「オマル・ジャーミィ」と表示されている。まあ,いいや,僕としてはこの建物はイェニ・ジャーミィと呼ぶことにしよう。

このジャーミィはオスマン建築の様式である。三階建てに見える建物本体の上に大きなドームを置いている。二階の屋根の上にも四隅と四辺に大小のドームを配しており,ドームが競りあがっているような感じをもたせている。

ミナレットは二本で,建物本体に比していかにも細い。デザインのためなのだろうか,テラスが二層になっている。この建物は距離がとれないので正面の写真がうまくいかない。

全体像をとらえるなら背後からの方がよい。ミナレットを除くと建物は対称形なのでよしとしよう。ジャーミィの東側は公園になっており,いつも人々で賑わっていた。

このジャーミィの内部は見なかったが,三階建てに見える建物は天井の大ドームまで一つの空間にっており,大ドームを四本の柱とそこから伸びる四対のアーチが支える構造になっているはずだ。

このチャイ屋のイスは手作りのようだ

町における食事はほとんどこのロカンタで食べていた

同室の身勝手なトルコ人とは夕べの洗面台事件があり,あまり顔を合わせたくない。07時に出かけることにする。ワンの標高は1600m,軽井沢が950mくらいなのでずっと高いところにある。9月中旬の早朝はまだ涼しく,長袖を着る必要がある。

夕食は近くのロカンタでいただく。なぜかこの店は半地下になっており,階段を下りて中に入る。この店では料理の選択肢はあまりなかった。今日は牛肉の煮込み,サラダ,パンの組み合わせで4リラの夕食である。

僕の写真の中には料理のものは少ない。料理が出てくるとすぐ食べてしまい,映像に残す習慣がないからだ。今日も少し食べてから(あっ,写真)と気が付いて,なんとか映像に残すことができた。料理はおいしいし,パンは食べ放題である。この店はひいきにしてあげよう。

昨夜のロカンタでスープとパンの朝食をいただく。テーブルの準備ができていなくて先客との相席になった。とくに目の前の男性とは言葉も交わさなかったのに,お金を払おうとすると「さきほどの客からもらっているよ」という返事であった。(え〜,気が付かなかった)と慌てたが後の祭りである。

ホシャップ城塞に向かう

ワンの町から60kmほど離れたところにホシャップ城塞があるので午後はそこに出かけることにする。南北の目抜き通りをわき目もふらず(写真もとらず)1kmほど南に下り,バシュカレ行きのミニバス乗り場に到着した。

しかし,目的方面に向かうミニバスはさっぱり来ない。周囲の人にたずねてもさっぱり用を得ない。帰りのミニバスはこの場所からだいぶ離れた南の空き地に着いたので,ちがう場所で待っていたのかもしれない。

目の前に車が停まり,3人の男性が乗り込む。運転手が僕にも「バシュカレ」と声をかける。これは乗り合いタクシーであろうと理解し,「ホシャップに行きたい」と答えると,5リラで行くというのでお世話になる。

乗り合いタクシーはさすがに快適で1時間弱で城塞の下に到着した。城塞は17世紀にこの地域を統治していたクルド人の領主が建てたものである。城塞は正面から見ると垂直な岩山の上にある。地形をたくみに利用した堅固なものである。

ホシャップとはクルド語で「きれいな水」を意味する。名前の由来の通り,近くには川が流れており,女性たちは洗濯をし,子どもたちは水遊びをしている。城は逃げないので後回しにして,まず洗濯の風景を撮ることにする。

女性たちは川の中州で洗濯をしており,クツをはいている僕はそちらには行けない。少し離れた岸から写真を撮っていると,子どもたちがこちらに来てくれた。おそらくクルド人の子どもなのであろうが,この田舎でも服装は完全に現代化している。

ホシャップ城塞

この場所は城塞の撮影ポイントでもあった。岩山の上にそびえる城塞のイメージがよく伝わってくる。ガイドブックには反対側から撮った写真が掲載されている。どちらにしても,距離をとった方がよい。

城塞の背後から回り込むようにして坂道を登ると入り口に出る。この城塞の門の装飾はユニークと記されているので中には入らなくても,ここまでは来た方がよい。

城塞の壁面はすべて石造り,レンガを一回り大きくした石材をていねいに積み上げている。石材は城塞の立っている岩山と同じものなのか,色彩感覚では城塞が岩山と一体化している。

確かに入り口近くの城壁を飾るレリーフはおもしろい。でも,陽射しの具合が良くない。装飾面の下部は影になってしまい,よい写真にはならない。

丘の上からの眺望

ふむふむとうなずいて坂を下りることにする。

ホシャップ城塞の裏側を歩く

この坂の下からの景観もなかなかのものだ。青空を背景に優美な城塞が立ち上がっている。全体像をとらえるためにはもう少し距離をとったほうがよいが,周辺の余計な建造物がフレームの中に入ってしまう。

近所の子どもたちは喜んで写真に入ってくれる。しかし,少し大きくなると「マネー,マネー」が始まる。中にはしつけが良いのか,何もねだらない感じの良い子どもたちもいる。記念写真を撮って人数分のヨーヨーを作ってあげる。この家の女性たちも出てきて,盛大に見送られることになった。

オアシスの風景だね

ホシャップのいわれがよく分かる

オアシスの風景を一回りして幹線道路に出る。城塞の下には小さな商店が並び,そこからワン行きのミニバスが出ている。

ホジャップ城塞からの帰り道

帰りのミニバスの料金は乗り合いタクシーと同じ5リラであった。視界が高くなったのでミニバスの車窓からの眺めはよい。荒涼たる山肌と緑豊かな平地のコントラストが印象的だ。羊の群れがところどころにおり,短い草を食んでいる。

あと2ヶ月もしたら,この地域は厳しい冬となる。羊たちは懸命に草を食べ,脂肪をつけておかなければならない。夏に刈り取られて短くなった毛も増やさなければならない。

ジュムフリエット通り

南北に走るジュムフリエット通りはこの町の目抜き通りだ。ミニバスはこの通りに面した空き地で僕を降ろしてくれた。宿までは1.5kmほどだ。のんびり街を眺めながら帰るとしよう。

Bayram ホテルのある大きな交差点の中央にはおもしろいモニュメントが立っている。時計塔の形をしているが,時計部分は形だけで時を刻まないし,台の部分が温度計になっている。う〜ん,これは何だろう。

通りにはロープが張られ,たくさんの国旗が取り付けられている。トルコの国旗は赤地に白い三日月と星が描かれたシンプルなものだ。この国旗はオスマン帝国時代からのもので,第一次大戦直後のトルコ革命のシンボルとして重要な役割を果たした。

赤はオスマンの時代,あるいはトルコ革命時に流された多くの血の色とされている。三日月と星はイスラムのシンボルとなっており,他のイスラム教国の国旗にも採用されているがいるが,その由来ははっきりしない。

小アジアではビザンツ帝国の時代にさかのぼるモチーフであったという説もある。実際,三日月はコンスタンチノープルの紋章であったとされている。

余談ではあるが「赤十字」のシンボルは国際赤十字を提唱したスイスの国旗の色を反転し,白地に赤い十字になっている。イスラム教国とっては十字はキリスト教のシンボルと映るので,オスマン帝国の提唱で白地に赤い三日月の「赤新月」を作った。

そのため,赤新月を採用している国では赤十字とはいわずに赤新月社と呼んでいる。しかし,世の中の宗教観は複雑で,このどちらもだめだとしている国がある。ユダヤ教の国イスラエルである。

こうなってくると何か宗教を連想させないシンボルが必要になる。そうなると,「赤十字」ではなくなるので呼称の問題も出てくる。

現在のイスラムでは月と星がシンボルになっているが,その理由ははっきりしていない。やはり,14世紀から20世紀にかけてイスラム世界の盟主,イスラムの守護者を自認していたオスマン帝国の国旗が大きく影響しているようだ。

日本の国旗は太陽がそのままあしらわれている。太陽は光と暖かさをもたらす恵みの象徴である。しかし,砂漠の国ではどうであろう。太陽は耐えられないような熱射をもたらすものである。その反面,太陽が隠れると,気温は急速に下がる。

人々は中庭で夜空を眺めながら,昼間の熱気から解放された時間を過ごしたことであろう。そこから,三日月と星が恵みのシンボルとなったという説は僕には説得力があるように感じられる。

宿の近くに小さな商店が密集している。さすがに新しい町なのでバザールの雰囲気はない。何人かの男性が路上にテーブルとイスを出して大きなアイスクリームのパックをつついている。

写真をとると「まあ,食べていきなよ」と誘われ,いただくことにする。さすがはEU加盟を申請している国である。日本のものと変わらないちゃんとしたアイスクリームである。ごちそうさまとお礼を言って宿で一休みする。

トルコ風ピザだね

夕食の前に近くを歩いてみる。ジェムフリエット通りと異なり,この辺りには人々の生活をいくつか見ることができる。パン屋では生地の上に肉と野菜を刻んだものを乗せている。そのまま焼くとピザのようなものになるだろう。

これはおそらくメロンであろう

古さを演出している噴水

鉄道駅に向かって歩く

鉄道駅を探検に行く。T字の幹線道路を西に進み大きな交差点を北に折れる。このあたりには集合住宅が多い。日本のように巨大なものではなく一棟あたり14-30室程度の規模である。

感じはヨーロッパの集合住宅に近い。ここは冬が厳しいので暖房は欠かせない。建物の屋根にはたくさんの集合煙突が見える。建物のデザインもそれぞれ個性があり,それでいて全体としては調和がとれている。

ちょっとした公園があり,中央には石臼を回し粉を作っている巨大な女性像がある。全体がしっくいで白く化粧されており,青空を背景になかなかいい感じだ。

しばらく歩くと右側に近代的なオトガルが見える。カイセリ行きは11時と13時の2本で,所要時間は20時間,料金は50リラということである。

オトガルから東にしばらく歩くと鉄道駅がある。手前の貨物駅の写真を撮ったところでカメラが動かなくなる。レンズが引っ込まなくなり,エラーメッセージが表示される。2006年の旅行でも同じモードでこのカメラは故障した。そのときはまだ保証期間内であったので,帰国後に修理してもらった。

いずれも旅行を始めてから3-4ヶ月のあたり,撮影枚数にして1万枚というところである。どうも寿命的な要因があるようだ。前回の轍を踏まないため,今回の旅行には同じカメラをもう一台用意してきた。

もちろん,変化の激しいデジタル・カメラの世界ではもう販売されていない。ヤフーのオークションでも,まったく同じモデルという条件では出品台数が少なくけっこう苦労した。

長い旅行の画像データを保存するためにはどうしても,パソコン本体を持ち歩くか,画像ストレージを利用しなければならない。僕はストレージを使用しており,その関係でコンパクトフラッシュを使用せざるを得ない。また,バッテリー・チャージャーの共用ということもあり,同一モデルを選択した。

ともあれ,予備として持参してきたものが役に立つことになった。幸い,残り2ヶ月間,このカメラはしっかり動作してくれた。駅でカイセリ行きについて情報を確認する。

ワン湖の西岸にあるタトワン駅から07:20発で所要時間は20時間,21リラ(2等座席)とことであった。この料金は魅力的であるが,タトワンの宿泊をどうするかという問題がでてくる。バスか鉄道かはあとでゆっくり考えることにして,まずは宿に戻ってカメラを交換することにしよう。

ワン湖とアクダマール島

午後はワン湖の中島であるアクダマール島に出かけることにする。ワン湖の湖面標高はおよそ1718m,面積3320km2,周囲500kmという巨大な淡水湖である。琵琶湖の面積が670km2なので,その大きさが想像できるであろう。

淡水湖とはいうもののアルカリ性は強い。これは炭酸ナトリウム(Na2CO3,炭酸ソーダ),炭酸カリウム(CaCO3)などのアルカリ性塩類を大量に含んでいるからである。

このようなアルカリ性の水を日本では鹹水(かんすい)と呼んでおり,ラーメンの麺を練るのに使用されている。食品衛生法ではカン水には炭酸ナトリウム(Na2C3),炭酸カリウム(K2CO3),重合リン酸塩(リン酸とカリウム,カルシウムの化合物の重合体)だけが含まれることを許されている。

その昔,中国では麺(小麦粉を利用した食品全般,ギョーザなども含まれる)のコシを出すために天然の塩化ナトリウム(NaCl,塩)を含む鹹湖という湖の水を使ったことが鹹水の由来とされている。

鹹湖とは特定の湖の固有名詞ではなく,中国内陸部にある塩分,アルカリ性塩類,重合リン酸塩などを含む湖水全般に使用されてきた一般名称と考えられる。中国には「鹹」と「鹸」という二種類の概念があり,本来は「鹹」は塩分,「鹸」はアルカリ性塩類と使い分けられていた。

鹹湖が干上がったり,飽和状態になるとアルカリ性塩類の結晶ができる。昔の中国ではその固まりを鹹石あるいは鹸石と呼んでいた。おそらく,地元の人たちは「鹹」と「鹸」をそれほど厳密に区別していなかったようだ。

そのため,日本では天然のアルカリ性塩類を溶いた水を鹹水というようになったと推測する。一方,鹸石は洗濯にも使用されており,そこから石鹸という言葉が生まれた。

おそらく,ワン湖の水を使用すれば,石鹸なしでも十分に洗濯はできるはずだ。しかし,アルカリ性は繊維を傷めるので,すすぎはちゃんと真水を使用する必要がある。現在の石鹸をどのように製造しているかについては 「シリア・アレッポ」 のページを参照していただきたい。

宿から少し西に歩きゲバシュ行きのバス乗り場に向かう。ミニバスはすぐに見つかった。島に向かう船の船着場はゲバシュの町から7kmほど離れているが,そこまで行く乗客が5人いたので,ミニバスは本来の3リラに加え0.5リラの追加料金で行ってくれた。全行程は1時間ほどである。

船着場では乗客が集まるまでしばらく待たされる。船着場の周辺は拡張工事のため茶色になっているが,沖合いは見事なコバルトブルーになっている。1-2km先にアクダマール島が見える。島と結ぶ連絡船の運賃は往復で4リラ,帰りは2時間後と決まっている。

船が岸から離れると水の色がすごい青色になる。太陽との位置関係で微妙にその色が変わる。島が近づいてくるとその形状が「ひょっこりひょうたん島」に似ていることに気が付く。まあ,こちらの島は波をかきわけて動き回るわけでもないし,植生もわずかな潅木だけのようだ。

中央部にはお目当てのアルメニア教会も見える。島の石を利用したものであろうか,背景となる島の色にすっかり溶け込んでいる。船はコンクリートで固めた船着場に到着し,乗客はこれから2時間の自由時間を楽しむことができる。

湖水の透明度は高い

湖水の透明度は高い。浅い岩場では底まで見通すことができ,波の作り出す陰影が岩の表面に複雑な紋様を見せている。手を浸してみるとアルカリ性のためか少しぬるぬる状態になり,乾くのが遅い。

聖十字架教会の外壁

湖の対岸の山は,なだらかではあるが植物の乏しい半砂漠状態である。空の青,灰褐色の大地,コバルトブルーの湖面が水平方向に広がっている。船着場から少し上ると聖十字架教会がある。

この島の建造物は10世紀のはじめ,この地域を支配いていたアルメニア系の小王国により建てられた。9世紀の中頃から10世紀の終わりにかけて,アルメニアにはバグラト朝が支配する独立国であった。その勢力化にあった小さな王国がこの島に宗教施設を遺したということである。

10世紀後半になるとバグラト朝はセルジュク朝,チムール朝,ビザンツ帝国といった東西の勢力の侵入を受け,国土は荒廃して多くのアルメニア人が離散(ディアスポラ)することになった。

アルメニアのバグラト朝が滅亡した100年後にグルジアでは東西の統一王朝が生まれている。この王朝がやはりバグラトとなっているのは興味深い。

バグラト朝の時代はアルメニア宗教建築が最後の輝きを放つ時期であった。この島にもたくさんの宗教施設が建設されたが,現存するものは聖十字架教会だけである。

現在のトルコはイスラムの国であり,アルメニアとは歴史認識の差などにより経済封鎖を行っている状態である。この建物は単なる博物館として扱われており,2007年3月に修復が終わっている。修復費用はトルコ政府が負担している。

EU加盟を目指しているトルコにとってはギリシャとの関係改善とアルメニアとの歴史認識の差異は頭の痛い問題である。トルコ政府にとってはギリシャもアルメニアも第一次世界大戦後の混乱とイスタンブール政府の蒙昧さに乗じて領土を掠め取ろうとしたした国である。

共和国成立時の戦争に敗れていたら,現在のトルコの国土はかなり削られていたはずである。また,アルメニアとは第一次世界大戦時の住民虐殺がからんでおり,双方が非難をしてきた経緯もある。

それでも,トルコ政府は両国との関係修復のため努力しており,この聖十字架教会の修復もその一環である。国民感情からしてアルメニア教会としては保存できないので10世紀の建築物として「博物館」としたようだ。本来なら中央の円錐形の屋根の上には十字架が掲げられているはずであるが,残されていない。

建物は長方形十字プランとなっている。ギリシャ起源の長方形のバシリカ様式(切妻屋根の長方形建造物の両脇に幅の狭い側廊が張り出した形式)の中央部に短い切妻屋根の建物を交差させたもので平面図は十字架形になる。

十字架の交点の部分に円筒型の胴と円錐形の屋根を置くものだ。この様式はグルジア,アルメニアの宗教建築の基本プランとなっている。この教会堂が中世アルメニア宗教建築の傑作といわれる所以は外壁に刻まれた精緻なレリーフによるものであろう。

僕には四列に並んだレリーフのスペースを確保するために,本体部分をこんなに高くしたように感じられる。入り口のアーチの高さまでの壁面は何の装飾もなく,その上に最下段のレーリーフの列があるのは,見るものの視覚的効果を狙ったものではないだろうか。

目の高さではなく見上げることにより,神の世界を実感できるのではなかろうか。実際,僕にはよく分からないがレリーフは聖書の内容を題材にしているという。聖書の物語ということならば多くの人物が登場するのはよく分かる。しかし,それらに混じっている,多くの実在しない異形の動物たちはなにを意味するのであろうか。

聖十字架教会の内部装飾

教会の内部のある高さ以上の壁面は天井の大ドームまでフレスコ画で埋め尽くされている。かなり色は落ちているものの保存状態も良い。一部のものは線描画のようになっており,これは修復の跡なのかもしれない。

斜面の上からの眺望

島の片側は山になっており,その上まで行くと対岸の山と青い湖面を背景にした教会の写真を撮れそうである。斜面を上っていくと,柵が回してあり,それより先は立ち入り禁止となっていた。不十分ではあるが一枚撮っておいた。

アルメニア教会らしい十字架石がたくさんある

島の逆側の突端はちょっとした見晴台になっている。しかし,何やら頭上で音がする。頭を上げてみるとずいぶんたくさんの羽虫が飛び回っており,早々に退散した。小さな羽虫でも集団になると羽音が聞こえることを初めて知った。

僕の見たいものの一つにオオカバマダラという大型のチョウの集団越冬がある。メキシコのミチョアカン州の10箇所ほどの越冬地にはそれぞれ数千万頭のチョウが集まり,チョウの羽音が聞こえるという。世界には見てみたいものがたくさんある。

この島には聖十字教会以外にも多くの宗教的施設があったようだ。それらはすでにガレキとなっており,原型は想像もつかない。十字架を刻んだ石板が敷きつめられたように集まっている一画もある。アルメニア特有のハチュカルと思しき十字架石もいくつか並べられていた。

ハチュカルはアルメニア特有のもので,十字架とある種の意匠を彫りこんだ高さ1-3mほどの石板である。主に墓石として使用され,重要な出来事を記念する場合にも制作された。

聖十字架教会の最後の一枚

船着き場に下りていくとき聖十字架教会の最後の一枚を撮る。

湖岸の農地

湖岸に戻り周辺を歩いてみる。平地の部分はほとんど農地になっており,葉物野菜の畑のそばにトラクターが停まっている。トラクターの運転席で遊んでいる子どもの写真を撮ったら,大人たちが集まってきて集合写真になる。

雰囲気からしてこの人たちはクルド人であろう。英語がまったく通じないので会話は成立しない。「ありがとう」と言って湖に戻ることにする。途中でおばさんが敷物を広げ昼食の支度をしていた。

僕が会釈するとおいでと手招きされる。彼女は少し英語が話せる。「お昼を食べていきなさい」と言われ,肉と野菜の煮込みとナンのようなパンを家族と一緒にありがたくいただいた。

おばさんは,背後の家を指差し,「家の修理にお金がたくさんかかるのさ」とこぼしていた。おそらく,このあたりでは家の修理は自分であるいは近所の人の協力でやるので,材料費のことを話しているのだと理解した。

人々はトルコ国旗を振りながら周辺に集まっている

ワンの街に戻ると交通規制が敷かれており,かなりの渋滞になっていた。ベショヨルの近くの市庁舎にはだれか政治的指導者が来るのか,人々はトルコ国旗を振りながら周辺に集まっている。

トルコの国会議員選挙は各県ごとの比例代表制である。ただし,政党として国会に議席を得るためには,全国投票数の10%を上回っている必要がある。これは少数党が乱立して政治が不安定になることへの対策である。

実際,トルコには10を越える政党が乱立しており,政治的安定には一定の役割を果たしている。2007年の総選挙ではイスラム系の公正発展党(AKP)が47%,野党の共和人民党(CHP)は20%,極右の民族主義行動党(MHP)が14%を獲得したと報じられている。

結果的にこの3党の総得票は71%であり,残りの29%は死票となる。おそらくその中には地域政党的な性格をもつクルド人政党も含まれているのであろう。逆に極右政党が票を伸ばした背景には,イラク北部からのクルド反乱勢力の潜入が治安問題となっていることがあげられている。

ハマムを体験する

宿の前にはハマムがある。トルコに来たら一度は経験してみたいのでこの機会に訪ねてみた。ちょっとドキドキしながらドアを開ける。いかにもトルコ人という肉付きのよいおじさんがあそこで着替えてもらえと痩せた従業員に指示を出す。

そこはただのマッサージ室である。脱いだ服をマットの上に置き,貸し出された大きなバスタオルを腰に巻いて浴室に入る。マッサージ室にはとくにカギがあるわけではないので,貴重品は宿に置いてくるほうがよい。

浴室内は蒸気の熱気が充満している。室内は壁も床もタイル張りになっている。中央は一段と高くなった大理石の台になっており,この部分は下から熱せられている。

壁の一面は個室の洗い場になっており,浴室との間はカーテンで仕切れるようになっている。ここで体を洗い大理石の台の上に寝そべる。これはけっこう熱く,汗がふき出してくる。

ここで汗をかき,洗い場で水をかぶり,再び横になるということを3回繰り返して浴室から出る。希望があれば浴室であかすりもやってくれそうだ。まあ,話のタネにトルコに行ったら一度は経験しておくとよい。

駅周辺を歩く

移動日にはバスの待ち時間があったので,カメラの故障で撮れなかった駅の周辺を歩いてみる。ワンの駅はこじんまりとしている。ここからイラン側へは週に1本の国際列車しか運行されていないので駅員はひまそうだ。

西に進むと数kmほどでワン湖畔にあるVan Iskele 駅で列車ごとフェリーに積み込まれる。この列車にはワン駅からも乗車できるようだが何分にも週1便では利便性は良くない。

ワン湖の対岸のTatvan からは国内線があるようだが,早朝に間に合わせるにはTatvan で一泊せざるを得ない。ということで西への移動はやはりバスにすることにした。

小学校の入学式かな

駅舎から出ると子どもの手を引いた女性が歩いているので,後をついていくと小学校があった。校舎の前では大勢の父兄と先生が集まっており,なんとなく入学受付けようなような感じだ。

子どもたちの写真の要求が多い

先生たちが校舎に入ってもかなりの数の生徒はグランドで遊んでおり,写真の要求がたくさんきた。

オトガルにて


ドウバヤズット   亜細亜の街角   カッパドキア 1