夕食
ドリーム・ケイブでは台所が使用できるので少し人数が集まると自炊ができる。最初の夜は日本人5人が参加して夕食会になった。もっともその前に食材を買いに行き,調理をしなければならない。
僕と日本人女性が調理を担当した。メニューはトマトサンドイッチ,目玉焼き,豆のスープ,ジャガイモとタマネギの炒め物とずいぶんたくさん作ってしまった。慣れないキッチンなので調味料やナベ,食器をそろえるのに,けっこう手間取った。
夕方になるとすぐに寒くなるので,夕食会は受付の奥にあるスペースを使うことにした。たくさんの人と一緒に食べるのはやはり楽しいもので,あれだけ作った料理はすっかり5人の腹に収まってしまった。ちなみに,今日の材料代12リラは三人で負担することになった。
このスペースは夕食時だけではなく,くつろいだり,日記を書くのに重宝させてもらった。また,ここには日本語入力のできるPCがあり,こちらもとてもありがたく使用させてもらった。
21時過ぎに個室に泊まっている日本人女性二人が腹痛と発熱を訴え,医者に行きたいと受付にやってきた。発熱と下痢の症状があるというので細菌性の食当たりの可能性が高い。すぐに宿のスタッフがタクシーを呼び,日本人の男性と一緒にネバシェヒールの病院に向かった。
救急病院なのかこの時間帯でも病院には何人かの患者が診察を待っていた。すぐに診察,点滴となり,その後に薬が出された。点滴をしている間にかなり症状は安定してきたようだ。
タクシーの運転手は病院の手続きをちゃんと分かっており,宿のスタッフと一緒に診察の申し込みから支払いまで進めてくれた。診察料と薬代は15リラで済んだけれど,往復運賃と待ち時間を含めタクシー代は80リラについた。
彼女たちは翌日の夕方にはかなり回復して,夕食会にも参加できるようになった。旅先で病気になるのはとても心細い。病院のシステムは分からないうえ,自分の症状を英語で説明するのも難しい。腹痛,頭痛,発熱,下痢など症状を表す単語は覚えるかメモしておくとよい。
就寝がおそくなったので翌日は07時に起床した。夜はけっこう冷えたので,長袖を着込み毛布で寝た。早朝の受付はだれもおらず,そこで日記を書き,2個のバッテリーをチャージした。ドミの部屋ではコンセントの競争率が高いからである。
朝は部屋の中でもとても冷える。長袖を2枚着込んで,日記を書いていると手がかじかんでくる。朝食はこの宿でいただく。円錐形の岩山の外にテーブルが並べてあり,ここが正規のダイニングテーブルになっている。この岩山は内部に部屋が造られており,そこは個室になっている。
朝食のメニューはパン,ゆで卵,バター,ジャム,リンゴである。朝食料金はスタッフに確認しても2リラか3リラかはっきりしないが,同宿者の情報を綜合して2リラにしてもらった。
昨日のツアーで回らなかったギョレメ周辺を2日かけてゆっくり歩くことにする。宿を出て中心部に向かって歩き出す。となりの農家では男性がトラクターをバックで敷地内に入れようとしている。
家屋は鉄筋なしでコンクリートブロックを積み上げて壁にしている。トルコで発生する地震の大半はアナトリア北部を東西に1200kmも延びる北アナトリア断層によるものであり,カッパドキアは断層から300kmほど離れている。
それでも,北アナトリア断層の一部が動くとM7クラスの地震が発生するのでカッパドキアもそれなりに揺れるはずである。日本の震度5程度の揺れが発生したら,まず倒壊は免れないだろう。
土産物屋の店先で
町の幹線道路沿いには多くの土産物屋が並んでいる。特に目立つのはじゅうたん屋である。かなり使い込まれたアンティークのじゅうたんや新しいものをずいぶん見かけた。
古いじゅうたんの柄は,長い間,キリスト教が信仰されてきた土地柄のせいか,具体的なモチーフが例えば孔雀,十字架というように分かるようになっている。それは,ほとんどがイスラム教徒となった現在のトルコじゅうたんに比べてずいぶん異なったものとなっている。
特に十字架の柄はこの地域のジャーミィ(イスラム教の礼拝堂)のじゅうたんにも使用されているという。残念ながら僕は岩窟ジャーミィは見つけることができなかったので,このようなじゅうたんは見ていない。
土産物屋には色鮮やかな布地を使用した丈の長いワンピースがつるされている。袖口,胸元は鮮やかな刺繍が施されており,銀貨のようなコインが縫い付けられている。腰の辺りからはビーズなどのついた飾り紐が下がっている。
さすがにこれはキリスト教徒のものであろう。もっとも,イスラムの国でも女性たちは黒い上着(外套)の下に目も覚めるような鮮やかな色彩の服を着ていることがあるのでキリスト教徒のものと断言することはできない。
ギョレメの中心部
オトガルは2本の道路と川に挟まれた三角地帯となっている。周辺には土産物屋と旅行社が集まっており,ギョレメからの移動はここが基点となる。この三角地帯の周囲はもう山がと円錐形の岩が迫っており,そのような斜面地形をそのまま生かした建物が見られる。
近くの銀行に寄りドルとの両替レートを確認すると1$=1.22リラと告げられる。エルズルムでのレートが1.3だったのでずいぶん低い。実はこの頃トルコリラは絶好調でかなりリラ高になっていた。そのあたりの事情が分からなかったので,ATMからリラを引き出すことにした。
国際金融危機が深刻化した2008年10月にはリラの対ドルレートは1.65まで急落している。国際的な資金がリスク回避のため新興経済国から一斉に引き上げた結果である。インド・ルピー,パキスタン・ルピー,タイ・バーツ,ベトナム・ドンなども軒並み最安値を更新している。
それに対して金融危機の程度が相対的に低いとされる円を買う動きは強く,円は一気に92円まで買い進められた。1$=1.65リラ=92円で計算すると,1リラ=56円である。トルコリラは対円レートで6割に下落したことになる。
特徴的な三連の岩山
幹線道路に沿ってそのまま進むと東に向かう分岐があり500mほどでギョレメ屋外展示場に出る。その手前にはいろいろな形状をした岩山が現れる。ギョレメの町自体が岩山地帯の中にあるので,岩山の中に客室をもつ●●ケーブという名前の付いた宿が多い。
必ずしもきれいな円錐形にはならない
一口に円錐状といってもそれぞれの岩の形状は二つとして同じものはない。それらの岩を丹念に見ていたのでなかなか先に進まない。
セメントのような砂の土壌でも植物は育つ
凝灰岩は火山灰(火山性降下物)が堆積したものなのでもろく,砕けると元の火山灰の状態に戻り,まるでセメントのような砂状のものになる。そんな土壌でも水さえあれば緑がちゃんと育っている。
一般的に火山灰性土壌はミネラル分に富んでおり,植物が成育して有機物が増えると豊かな土壌になる。インドネシアのジャワ島は世界でももっとも人口が稠密な島であり,それは火山性土壌の高い生産性に支えられている。
しかし,カッパドキアでは降水量が少なく植物が生育しづらい環境のため,土壌が育たない。人々はセメントをまいたような土地で細々と農業を営んできた。
分岐点のすぐ先からはローズバレーが良く見える
少し高いところに登ると周辺を見渡すことができる。近くの崖はほぼ垂直に削られており,地層の様子がよくわかる。上部は灰白色,下部は赤っぽい地層になっており,それぞれの地層にも水平方向に筋が入っている。
それは火山活動が何回も起こり,そのたびに少しずつ火山性降下物や溶岩が堆積していったことを示している。谷の底はほぼ平になっており,そこには塔状の岩は立っていない。そのわずかばかりの「平地」には牧草地か農地になっている。すでに収穫は終わっており,茶色の広がりが寂しい。
少し進むとローズバレーの灰白色の小さな尾根が現れる
崖から平地までの間の斜面は白っぽい岩山の連なり,表面が黒っぽくなった独立型の岩の塔と続いている。その構図は堆積層が水の浸食を受けている時間的な経過に他ならない。それにしても岩山の白さと,岩の塔の黒っぽさはずいぶん色彩的落差が大きい。
周辺の岩の塔はほとんどが円錐型の形状をしており,それぞれに小窓のように穴が開けられている。このあたりを歩くのも面白そうだが,時間が限られているので先に進まなければならない。
左側に小さな岩塔の連なりが現れる
この道を真っすぐ行くと,右に「トカルキリセ」や「屋外博物館」があり,その先でネヴェシェヒールからユルギャップを結ぶ道路に出るはずだ。その道路をユルギャップ方面に1-2km歩くとウチ・ギュゼルのキノコ岩が見えるはずだ。
「屋外博物館」の少し手前の左側に奇岩が一列に並んでいる。けっこう面白い造形なのにガイドブックでは特別の名称は記載されていない。確かにこのくらいの造形に名前を付けていたら,この周辺は名所だらけになってしまう。
屋外博物館を道のあたりから眺める
「ギョレメ屋外博物館」はカッパドキア観光のハイライトの一つである。しかし,天邪鬼気味の性格の僕は近くの大きな駐車場を見ただけで訪問する気が著しく減退してしまった。
フレスコ画ならグルジアやアルメニアで飽きるほど見てきたことを理由にこの一帯はパスすることにした。道路から屋外博物館とトカルキリセと思しき岩山の写真を撮って先に進む。明日,気が変わったら見ることにしよう。
屋外博物館をスキップしてローズバレーへ
大きな道路に出ると北に赤っぽい岩肌の崖が遠望される。あのあたりがローズバレーなのかな。ともかく,ユルギャップに向けて歩いてみよう。
途中で日本人女性の二人連れに出会った。ローズバレーに行こうとして急斜面の細い道に入り込んでしまったという。「ローズバレーのビューポイントはもう少し先で左に分岐する道があるはずだよ」と地図で説明する。
もっとも谷を女性だけで縦断するのは決して安全なことではないので,一緒に行動することにした。分岐点の位置を確認し,近くのレストランで昼食をとろうとしたら閉まっている。隣の商店で水とビスケットを買ってレストランの外のテーブルでいただく。
ウチ・ギュゼレルの「3人の美女岩」は道路から見えそうであるが,どこまで歩いていっても見つからなかった。たまたま,反対方向に向かう車と出会ったので,分岐点まで乗せてもらった。この道路は交通量が多いのであまり歩きたくはないので助かった。
確かにピンクがかった岩が見えてくる
分岐点からローズバレーを目指して歩き出す。最初はブドウ畑の中を通る感じのよい田舎道である。ところどころにワイン用にするのかブドウが干してある。ブドウ畑はじきに終わり,荒涼とした台地の道となる。
谷の上のビューポイントには土産物屋が数軒ある
ビューポイントは谷の上にあり,近くには土産物屋が数軒店を出している。特にお土産を買う気はないが,連れの女性たちと一緒なので見学することになった。鮮やかな色彩の民族服を身に付けた人形が目に付いた。彼女たちはイスラム教徒にもキリスト教徒にも見えるのでちょっと不思議だ。
夕日の時間帯にはいっそう赤く染まる
ローズバレーは南北に開いており,西斜面は夕日の時間帯には赤く染まるので,バラの谷という名前がついているそうだ。もっとも昼下がりの時間帯でも谷の岩はかなり赤味を帯びている。
ここは見る場所によりずいぶん風景の感じが変わる。谷が落ち込むまでなだらかな灰白色の斜面になっているところもあれば,ソフトクリームのような小さな丸い岩が林立しているところもある。背景の崖の地層と相まって良い構図の写真となる。
まるでカルスト地形のようだ
この辺りの岩はあまり高さ方向には成長しない。帽子に相当する固い岩が無かったのか,それとも脱落してしまったのか,ずんぐりとした2mくらいのものが多く,まるでカルスト地形の風景のようだ。
鋭くとがった白っぽい岩の列などは石灰岩地帯に見られるピナクルスに類似している。石灰岩の大地も雨水により浸食されやすいので似たような地形ができるのかもしれない。とにかく,ここの風景は飽きることがない。
谷に下る道は見つけられず…
土産物屋で道を確認しいよいよ谷の中の道を目指す。茶色く枯れた草地に人が歩いた跡が白い線になっているのでまず大丈夫であろう。先に進むと岩の形状と風景がどんどん変わるので,写真の枚数は増えていく。
しかし,谷に下る道は見つからず,結局,ヨーロピアンのツアーの後をついていくことになった。このグループにはスペイン人がたくさんおり,連れの女性たちはスペイン語で会話を楽しんでいた。おかげで,ローズバレーの見どころも,彼らと一緒に見学することができた。
岸壁をくりぬいた大きな聖堂
ガイドのトルコ人も途中から飛び入りした我々を暖かく歓迎してくれた。ここにも岸壁をくりぬいて造った大聖堂ともいうべき大きな教会がある。内部は空間だけでまったく装飾は無い。
青い空に灰白色の岩塔がよく映える
円錐の一部をスパッと切り落としたような岩塔があった。この写真は深い青空を背景となっておりきれいに撮れた。デジカメの特性なのか,灰白色の岩塔に焦点を合わせると空の青が深みを増すようである。それにしてもこの岩塔の出入口はどこにあるのだろうか。
ただいま形成中の岩塔
ほとんど平らな台地状の地形の端では水の流れにより少しずつ削られ,そこはますます水が流れやすくなりしだいに斜面から切り離され,円錐状の岩塔が形成される。
円錐形の帽子を載せた岩もある
地形の表層に相対的に固い地層がある場合は,下の地層に対して水の浸食速度が遅くなるので上部に帽子を載せたような形状の岩塔ができあがる。固い地層は黒っぽいことが多く,そんなときはキノコのような岩塔になる。
谷を抜けて少し歩くとチャウシンに出た
谷を抜けて少し歩くとチャウシンに出た。ここで欧米人のグループとお別れする。集合住宅のようにたくさんの部屋が掘られ,そのためか崩れてしまった岩山の写真を撮って,ギョレメに戻ることにする。
ギョレメまでは3kmほどの道のりである。ここにはギョレメとアヴァノスを結ぶ幹線道路が通っているが,チャウシンの町から舗装の無い道を歩いていると馬車に乗った女性と子どもに声をかけられ,1kmほどの距離を乗ることになった。
さすがにお礼をしなければと僕が代表して3リラを渡すと,おばさんは不満そうな顔を見せ,さらに女性たちから2リラを受け取った。やれやれ,合計5リラがあればタクシーでギョレメまで移動できるのに。
再び大夕食会
夕食は6人が参加してやはり自炊となった。今日のメニューはパン,サラダ,野菜炒め,チーズ,スープで食材費は一人2.8リラである。さすがに,二日目となると台所にも慣れ,短時間で料理はできあがった。昨日,病院に行った女性たちも元気になって夕食会に参加しており,一安心だ。
抜けるような青い空を背景に2個の気球が浮かんでいる
07時に起床,今朝も寒い。長袖を3枚重ね着して受付のテーブルで日記を書く。昨日と同じ朝食をとり,ウチヒサールを目指して歩き出す。
宿の前の道を右に行くとギョレメ・パノラマを経由してウチサヒールに行けるが,すでにツアーでパノラマからの風景は眺めてしまったので谷を北から南に抜け,谷の上に出ようと考えた。
宿を出ると気球が浮かんでいるのに気が付いた。抜けるような青い空を背景に2個の気球が浮かんでいる。気球ツアーはカッパドキアの名物となっており,だいたい1時間で120-240ユーロの料金となっている。
確かに気球から奇岩の大地を眺めるのはすばらしい体験になることは想像に難くない。でも,さすがに料金が高すぎる。当時のユーロ・レートは160円くらいもしており,25,000円くらいの出費になりそうなので,とてもその気にはならなかった。
早朝は気流が安定しているので気球の時間帯なのだろう。翌日,バスを待っているときには10数個の気球が上がってくるのを見かけた。
オトガルの三角広場から南に向かって歩き出す。この辺りの住居は岩山に対して不思議な調和を保っており,風景に溶け込んでいる。岩山を家屋の一部としていることと,家の石壁が岩山と同じ素材を使用しているためかもしれない。
上に向かう感じのよい石段があるのでそちらの道を行くことにしよう。このようなとき,僕はごく適当に歩き回るので,再び同じルートをたどるのはまず困難だ。
ここではカボチャは人間の食料ではない
女性たちの服装はエプロンとスカーフ姿が多い。この地域のスカーフは大きなもので,頭部はもちろん,肩や胸まで覆っている。このスカーフで顔を覆い,覆面のようにしている人も見られる。
一軒の家の前で二人の女性がカボチャを割り,中の種だけを取り出している。カボチャを食料としている日本人の目からすると,ずいぶんもったいないことをしている。
おそらく,このカボチャは家畜の飼料にでもされるので,この地域の人々にとっては当たり前のことなのだろう。幅の広い道はすぐに途切れ,あとは家屋の間を抜ける狭い道を通り,上を目指す。
岩山を削り出す文化と切石を積み上げる文化
このあたりでは,岩山を削り出す文化と,切石を積み上げる文化が混ざり合っている。一部の修道僧を除くと,キリスト教徒といえどもふだんは地上の家で暮らしていたので,その時代はこのような集落の風景であったのかもしれない。
新しい家は同じ切石の壁面といっても,表面が平に磨かれているのでなんとなく違和感を感じる。集落の上に出るとローズバレーの台地を背景にしたギョレメの町を俯瞰することができる。
少し視線を巡らすと灰白色の台地の上にそびえるウチヒサールの岩山が見える。この角度から見ると,岩山が二つに分かれていることに気が付いた。ここから見る限りではウチヒサールの台地までは十分に登れそうな感じなので,先に進むことにした。
この谷の奇岩はそれぞれが個性を主張して
谷の底は果樹園や農地,あるいは放牧地のようになっている。果樹の背後には一つ一つ個性的な岩の塔が立っており,大きなものはほとんど人手が入っている。
昨日回ったローズバレーはコブのような岩の集合体や巨大な崖のような岩山が多かったけれど,この谷の奇岩はそれぞれが個性を主張しており,飽きることはない。
カッパドキアの風土病
カッパドキア地域は悪性中皮腫の発生率が非常に高いことでも知られている。悪性中皮腫は日本でもアスベスト(石綿)を扱っている人々の職業病として知られている。吸入から発症までの期間は30年以上もなることがあり,日本では2020年くらいに疾患のピークがくるとされている。
中皮腫は胸膜の中皮細胞に由来する悪性腫瘍であり,肺がんとは異なる疾患でり,喫煙との関連はない。中皮腫は診断時にすでに広範囲に進展していることが多く,治療後の2年生存率は20%と低い。
アスベストに限らず天然鉱物繊維を吸入すると同じような病気が発症する。カッパドキア地域でもエリオン繊維が含まれている岩石があり,それらは家屋,貯蔵室,化粧漆喰などに使用されている。
また,細かく砕けた破片にも含まれており,日常的に発生する気中粉塵により鉱物繊維に暴露されている。世界に類例の無い奇岩地帯で暮らしていくのは,旅行者が考えているほどロマンチックなものではない。
人工的に開けられたトンネル
谷の奥に入ると崖の上までは20-30mほどになっている。しかし,斜面は荒削りながら磨いたようになっており,足場がなくて登ることはできない。これはちょっと計算外であった。別のルートがあるかもしれないと考え,狭い道を先に進む。
岩山をくりぬいたトンネルがある。その先にルートがあるにちがいない。周囲はブドウ,リンゴ,ナシ,アプリコットなどの果樹園になっており,その気になれば取り放題である。
行き止まりのため引き返す
道はだんだん怪しくなり,ついに崖の斜面のところで終わっていた。上に登る道はありそうで無い。あと20mくらいの高さをどうしてもクリアできずに,引き返すことにした。ウチヒサールには出られなかったが,この谷はすばらしい散歩道であった。
ギョレメの崖の上の道を歩く
結局,宿の前の道に出てギョレメパノラマのある崖に沿って歩くことになった。崖の下にはギョレメの町が広がり,はるか台地の後方には成層火山特有の優美なシルエットをもつエルジェスと思われる山がかすんで見える。改めて見てみると,ギョレメの谷は奇岩で満ち溢れており,その中に町が仮住まいしているような感じを受ける。
ウチヒサールに向かう
ウチヒサールのヒサールはトルコ語で砦を意味している。外敵が来た場合はこの岩山の内部に立てこもって戦ったとされているが,岩山自体は大きなものではないので,それほど効果的だったとは思われない。
ギョレメ・パノラマからやってきたら,ウチヒサールの感じはずいぶん異なっている。ツアーで訪れた鳩の谷からの遠景は素晴らしかったのに,北東からの眺めは岩山の周囲を新しい家が囲んでいるだけである。
風景は見る位置によりずいぶん感じが変わるものだ。岩山の形状から鳩の谷からはちょうど反対側から見た風景のようだ。午後はパシャバーに行きたかったので,手前からの写真であきらめたが,岩山の取り付きあたりまで登れば,また違った風景を楽しめたのかもしれない。
宿に帰る道で黄色いカボチャの畑を見かけた。今朝,二人のおばさんが種をとっていたものと同じ品種である。火山灰地なので畑はセメントをまいたようだ。周辺の植生を見ても,痩せた土地であることは一目瞭然である。
一般的に火山灰地はミネラルは多いが,リンの成分が乏しい。窒素分も植生がこれだけ貧弱であると土壌中のバクテリアの働きもあまり期待できないので乏しいことだろう。この地域で農業をすることは大変であろう。
このような土地でもブドウの栽培は可能であった。ブドウはもともと肥沃な土壌を好まないので,生育時(夏)には雨が少なく充分な日照があること,水はけの良い土地であれば,半乾燥地帯や荒地でもよく育つ。
そしてフランス人の言を借りれば「土壌こそがぶどうの質を決定する」ということになる。これがフランスのAOC(原産地統制名称ワイン)の考え方につながっていく。
カッパドキア地域は特異な火山灰地なので,独特の風味がブドウが収穫でき,それがワインの味に影響する。キリスト教徒にとってはワインはキリストの血を象徴するものであり,ミサに欠かせないものである。この地域でブドウが栽培できたのは,キリスト教徒にとっては幸いであった。
パシャバーに向かう
カッパドキアに来たらキノコ状の岩を見ておきたいので,午後は4kmほど離れたパシャバーに向かった。
岩山を利用した土産物屋
チャウシンの少し手前に岩山があり,その下に土産物の陶器の店がある。店の壁面やアーチ型の窪みにはたくさんの絵皿や壺が飾ってある。
その多くはイスタンブールのモスクの彩釉タイルに見られるような花柄のものが多い。しかし,店の中にあるものは群青と空の青を組み合わせた色彩のものが多い。これがカッパドキア特有の焼き物なのであろう。
カッパドキアのような火山岩性土壌がどのくらい陶磁器に適しているのかは分からない。それでも,ギョレメの北に位置するアヴァノスは陶磁器の町として知られている。
この町の近くにはクズルウルマク(赤い川)が流れており,そこの赤土が材料となっている。カッパドキア地域には粘土はないかと思っていたが,上流から運ばれてくる可能性は十分にある。
この地域に隠れ住んでいたキリスト教徒は自給自足体制であったはずなので,地域の材料を使用して生活用の雑器を製造していたにちがいない。
チャウシンの廃墟は少し距離をおいて見ると不思議な感じを受ける。なぜか,一つの大きな岩にだけ住居空間が掘られており,まるで,アパート状の岩窟住居になっている。
穴を開けすぎたせいか,盛大に崩れており,内部の様子がよく分かる状態になっている。周辺の崖の色と比べると廃墟の岩山は異なっており,住居用の空間を造りやすい岩は限られているのかもしれない。
現在は岩窟住居に居住することは禁止されており,廃墟の岩山の手前に新しい町が広がっている。背後の台地,穴だらけの岩山,点在する新しい家屋の組み合わせもこの地域らしい風景となっている。
パシャバーかと思ったら
幹線道路からキノコ状の岩が見えたのでパシャバーはそれに違いないと考えたが,どうも違ったらしい。本物は谷の奥にあったようだ。帰国後,他の人のサイトを訪れてそのことに気が付いた。
まあ,ここでも,崖の周辺にキノコのような形状をした岩塔が何本も立っているのを見ることができたのでよしとしよう。上部は鉄分を含んでいるのか赤みがかった固い溶岩が帽子のように被さっており,それにより下部の柔らかい灰白色の岩が水の浸食から守られたようだ。
もとの岩山から分離された岩塔と分離前のまだつながった状態のきのこ岩を見ることができる。つながった状態でも岩の帽子の部分はかなり分離状態になっており,あとは下部の岩が削られると独立した岩塔になりそうだ。
出来上がった岩塔も安定的なものではなく,時間とともに帽子の部分が脱落し,小さな岩になっていく。雨と風を道具に使う自然という彫刻家は,休み無くこの地表の表情を変えていく。
ギョレメとアヴァノスを結ぶ道路の向こう側は,比較的岩塔の少ないなだらかな起伏の土地になっている。そこには大きな岩山があり,何かの事情で人々が集まればウチヒサールのような砦になったかもしれない。
カッパドキアの周辺にはエルジイェス,ハサン,ギュルルという3つの活火山があり,数千万年前から数万年までにかけて大きな噴火を繰り返し,溶岩,火砕流堆積物,火山性降下物(火山灰)が重なった厚い地層を形成した。
火山活動が一段落すると水による浸食が始まり,独特の円錐形の地形が形成された。柔らかい凝灰岩層の上に固い溶岩層がある場合は浸食速度が異なるため上部に黒っぽい帽子を載せたようなキノコ状の岩塔も形成される。
火山性降下物や溶岩はかなり一様にこの地域を覆ったと考えられるが,わずかな岩石の組成,水の流れ方により,きまぐれな自然は気の遠くなるような時間をかけて,まったく異なった風景を造り出している。しかし,このような景観は刻々と変化しており100万年後の風景は現在とはまったく異なったものになっていることだろう。