トビリシはグルジア共和国の首都,人口は約120万人,グルジア東部のクラ川(トビリシ付近ではムトゥクヴァリ川)の河畔に広がる町で三方を山や小高い丘に囲まれている。
年間平均気温は13.2℃と温暖で,年間降水量の505mmは東京の1/3程度である。住民の4割はアルメニア人やアゼルバイジャン人が占め,民族紛争の頻発している南カフカースでは珍しい多民族構成となっている。グルジアはイラン,トルコ,ロシアと国境を接し,同時に黒海を通じて地中海世界ともつながっている。そのため,歴史の大部分を通して南にある大帝国の支配下にあった。
紀元前1世紀にローマの支配下に入り,4世紀初めには隣のアルメニアとともにキリスト教徒が多数を占めるようになる。その後アラブ勢力,ビザンツ帝国,オスマン帝国,ペルシャの支配を受けるようになるが宗教は変わることはなかった。
17世紀になるとロシア帝国はカフカス山脈を越えて南に進出し,1801年にグルジアを併合する。ロシア革命後の1918年に独立を宣言したのも束の間,赤軍は南カフカスを占領し,ソビエト連邦内の共和国に組み込まれてしまう。
トビリシには南カフカース統治の拠点として総督府が置かれ大きく発展する。現在の街並みの大半はその時期のものである。1991年にソ連の解体によりグルジア共和国として独立した。
テラヴィ(165km)→トビリシ 移動
07時に起床,今日は出発だと伝えあるのでマナナさんも早起きをしてコーヒーを入れてくれた。3日間の滞在のお礼を言ってお別れをする。この家に滞在できなければテラヴィの印象もずいぶん変わったものになったかもしれない。
宿泊事情がムチャクチャなアゼルバイジャンからグルジアにやって来たのでそのように感じる。アゼルでは宿探しに明け暮れて,ほとんど町を見たというような気がしない。トビリシ行きのワゴンは商店街から200mほど北にある広場から出ている。行き先を確認して座席に坐っていると,「窓口でチケットを買ってくれ」と言われる。窓口で料金(6リラ)を払いチケットを受けとる。
このチケットは下りるときに運転手に渡す仕組みのようだ。中央アジアでは車内で車掌に支払う仕組みだと,外国人料金をふっかけてくる人が多いので,窓口でチケットを買う仕組みはそれなりに安心できる。
道路状態は良く,フォード製のワゴンは快調に飛ばしていく。沿道は緑が多く,ぶどう畑とトウモロコシ畑が目に付く。畑に続くゆるやかな斜面に樹木の多い村落が見える。のどかな村の風景が続いており,このような平和な国が民族紛争を抱えているとは信じられない。やはり,それぞれの国には僕のような旅行者にはうかがい知れないそれぞれの事情を抱えているようだ。
ワゴンは2時間ほどでトビリシのどこかのバスターミナルに到着した。トビリシの街にはメトロが通っており,たいていのところにはメトロで行くことができる。周囲の人に「メトロの駅はどちらですか」とたずねると,「あっちだよ」と教えてくれた。
少しその方向に歩くとメトロの駅がある。入口からエスカレーターがかなり下まで続いている。メトロに乗る方式はタシュケントと同じで,窓口でプラスチックのコインを買って,自動改札機にそのコインを入れるとホームに入ることができる。
ホームは暗い,電球が何個かついているだけだ。電車の中には路線図は無く,車内アナウンスで判断するしかない。これが聞き取りづらく,トビリシ駅の一つ先まで乗り越したところでようやく駅名を確認できた。
逆方向の電車に乗り換えてようやくヴァグズリス・モエダニ駅にたどりついた。エスカレーターで地上に出ると目の前がトビリシ駅である。トビリシの街は北西から南東に流れるムトゥクヴァリ川に沿って広がっており,道路も川に平行に造られているので道路からは方角を読みづらい。
ネリ・ダリの家
駅前の広場を越えて南西側の道路沿いに200mも南東方向歩くとネリ・ダリの家が右側にある。もっとも最初にネリ・ダリの家に行ったときはそれほど簡単にはいかない。駅前は立派な建物が並んでいるが,交差点を過ぎると急になんとなく怪しげな住宅街に変わる。
だいたいこの辺りだろうと見当をつけて歩いていると鉄扉が見つかり,その左側の集合住宅の2階が民宿のネリ・ダリの家である。正式にはスルグラゼ家であるが,管理をしているのがネリさんとダリさんという老婦人なので旅行者の間ではネリ・ダリの家と呼ばれている。
二人は義理の親子であるがちょっと見では同年代に見える。ここは日本人旅行者が多く,ほとんど日本人宿になっている。日本語の情報ノートも充実しており,旅行者同士の情報交換もできる。
中に入るととりあえずベッドはいっぱいであった。そこにJさんがおり,今日の夜行でアルメニアのイェレバンに向かうというので彼のベッドを予約した。イェレバン行きの列車は奇数日の運行だというので,日程をそれに合わせて調整しなければならない。
この家は4LDKか5LDKの構成になっており,そのうち3部屋は旅行者が宿泊できるようになっている。とはいうものの家具の隙間に簡易ベッドが置かれているだけのものだ。
ベッド数はたしか8だったと思う。僕は幸いにもしっかりした作りのベッドに寝ることができたが,他のものはかなり古いもので寝返りを打つとギシギシ音がするようなものであった。料金は1ベッドで12ラリ(840円),どんどん高くなっており,旅行者の間でも料金に関しては評判は良くない。
トイレ・バスルームは家族の人たちと共同である。この家には何人住んでいるのかはよく分からない。少なくともネリさん,ダリさん,主人,二人の息子は住んでいる。男性たちはちゃんと働いているかどうか分からない。
家計は厳しいのか我々の部屋の電球はとても小さい,続いているとなりの部屋の明かりは人がいないとすぐに消される。その割りに居間兼食堂のテレビはいつも付けっ放しだし,二人の息子は夜遅くまでパソコンのゲームで遊んでいる。おまけに,最近はクーラーも入れた。
グルジアの安全性
旅行者の間ではグルジアの安全性に関してときどき話題になる。トビリシの旧市街でも白昼にパスポートを奪われたという情報もある。
ガイドブックにも「トビリシだけではなく地方都市でも外国人旅行者を狙った犯罪が増えている。窃盗はもとより強盗や恐喝など,暴力を伴うものが多い」と記載されている。安全のためパスポートは南京錠をかけたメインザックの奥に入れておくことにする。
しかし,実際に街を歩いてみると,少なくとも明るいうちはそれほど危険なところとは思えなかった。それでも街のいたるところにギャンブル場があり,これは治安の悪さの一因となっているようだ。
現在進められている市場経済は貧富の格差を生むと同時に拝金主義や一攫千金のすさんだ考えを助長している。日本でも小泉改革で進められた規制緩和により「Working Poor」などいう新しいタイプの貧困層が生み出された。
働くものが普通の暮らしをできない社会が日本でも広がっている。その一方で,企業は空前の利益を上げており,それがパート,バイト,派遣社員という低賃金の労働者から生み出されたものだとしたらとても悲しい社会になったものだ。
なじみの食堂
とりあえず,昼食が必要なので駅に向かって歩く。意外と食堂は少ない。駅前の交差点にある食堂でハンバーガーとコーヒーをいただく。メニューが読めないので,おばさんが見せてくれる現物で注文するしかない。このおばさんはとてもひょうきんで僕がカメラをテーブルの上に置くと,「私と同僚を一緒に撮ってよ」と注文が来る。おばさんは同僚の肩を抱いて写真に収まる。
この一件でこの食堂についつい通うことになった。この食堂の地階にはヒンカリ(グルジアの水餃子あるいは蒸し餃子)を食べさせてくれる食堂もある。ヒンカリはクルグスタンでおなじみになったマンティ(蒸し餃子)と同じ料理だ。
なぜかグルジアの名物料理としてガイドブックにまで載っている。現在の食文化から判断すると,この料理の起源は中国やモンゴルであろう。特にモンゴルは12世紀に旧大陸のほとんどを支配する大帝国を作ったので,その食文化が中央アジアや西アジアにあっても不思議はない。
しかし,小麦の食文化は西アジアの方がはるかに歴史が長い。具を小麦粉の皮でくるんで蒸したり茹でたりする料理の起源が西にあり,それが東に伝播した考えてもそれほど違和感は無い。
さて,地階の食堂ではヒンカリの注文は10個単位でしか受け付けてくれない。ここのヒンカリはとても大きくて3個も食べればお腹がいっぱいになる代物であり,これではとても一人では注文ができない。ところが上の食堂では小型のものを10個単位で出してくれる。これなら小食の僕でもなんとかなりそうだ。夕食にトライしてみたが話のタネになる程度のものである。
駅前広場
駅前には銀行や会社の立派なオフィスビルが並んでいる。その前の歩道にはたくさんの露店がある。店をやっているのはほとんど年配の人たちである。ソ連の時代に教育を受け,仕事を与えられてきたこの世代の人たちは,現在の市場経済にそう簡単には対応できない。
ロシアも一時期はそのような状態に陥った。老人の年金は物価にまったく追いついていけず,公務員の給与も滞るようになった。エリツィンの支持率は地に落ち,プーチンになんとかバトンを渡して退陣した。
プーチンは特別に優れた行政手腕の持ち主ではないが,原油価格の値上がりという追い風を受けてロシア経済は立ち直ることができた。現在でもロシアの輸出の約8割はエネルギーや金属資源である。
それに対してグルジアにはこれといった資源はないので今後も厳しい経済運営が続くことだろう。政府に頼ることのできない人たちはなんとか自分で収入の道を探さなければならない。そんな人々がトビリシ駅前に集まっている。
駅前広場の北西にはバザールが集まっており,そのまわりにあきれるほどたくさんの両替屋がある。こんなにたくさんあっても商売になるとは驚きだ。僕もそこでアゼルバイジャン・マナトをグルジア・ラリに両替してもらった。
レートは国境のものよりわずか良くなった程度である。両替屋では周辺国の通貨をラリに両替するけれど,逆(ラリ→周辺国通貨)はやっていない。両替屋の手前にはお惣菜屋があり,ここで料理を仕入れて宿で食べている旅行者も多い。
日本のODAバス
通りに黄色の市内バスが停まっていた。自動ドアの新しい車両だ。そのフロントガラスには日本のODAのステッカーが貼ってあった。日本からの無償資金協力と技術協力は2005年で約11億円,米国,ドイツに次いで第3位となっている。その金額の一部がこのような目に見える形になっている。
日本のODAはとかくハコモノが多く,それも現地でメンテナンスもできないようなものを作ってしまい,壊れた機械はそのままスクラップというような批判が多かった。
また,貧困の撲滅のように本来は率先して取り組む課題に対しても,「要請主義」を楯に,相手国政府から要請のあった案件を検討するというスタイルを踏襲しており,決して前向きはいえない。
一例として熱帯林の破壊大国インドネシアは日本のODAの主要供与先であり,10億ドルを越えている。同国の受け取る政府開発援助の40-50%が日本からのものである。
国土の自然環境を再生不能に破壊しながら経済を成長させている国家にどうして日本のODAが必要なのか理解に苦しむ。何のための開発なのか,誰のための援助なのか,納税者である我々は考えなければならない。
パン屋と惣菜屋も多い
駅から南西に向かうタマル・メベ通りの左側にはパン屋が多い。30cmほどの太目のフランスパンが0.5ラリ,近くの路上でバケツに入れて売っているトマトは4個で同じく0.5ラリだ。
ダヴィト・アグマシェネベリ通り
そのまま歩くとネット屋の案内看板があり,その店では日本語入力ができるPCが少なくとも1台はある。僕はカズベキから戻った時にこの情報を知りずいぶんくやしい思いをした。というのはこの日と翌日はネット屋を探すのに何ケ所かを回ることになったからだ。
そのままタマル・メベ通りを行くと川にぶつかるが,手前のダヴィト・アグマシェネベリ通りで左に折れる。この通りには新しいオフィスビルが続いている。ここを1.5kmほど歩くと,マルジャニシュヴィリ通りとの交差点に出る。
ここはずいぶんにぎやかなところで,マクドナルドの看板も見える。しかし,こんなところにもギャンブル場の看板があり,この街がギャンブルに毒されている様子が見て取れる。この近くでもネット屋を探して時間を浪費してしまった。
グルジア正教会
マルジャニシュヴィリ通りを北東に行くとロシア正教会の門が見える。外観はあまりロシア正教会を感じさせないが,建物の中に入るとイコンに溢れた濃密な宗教空間であった。
正面のイコノスタス(聖障)の扉の両側にはイエスキリストとキリストを抱いた聖母マリアが,その外側には聖人のイコンが飾られている。他にも多くのイコンが飾られており,薄暗い会堂の中は荘厳な雰囲気が漂っている。
空き地には果物販売車が集まっていた
マルジャニシュヴィリ通りをそのまま歩き,線路の手前で駅方向に曲がる。ここから駅までの間は「強盗多発地帯」とされている。夜間は決して近づかない方がいい。
駅の少し手前の空き地は露店市場になっている。車の前にプラムの箱を並べているいる男性に値段を聞いたところ,「いいよいいよ,持っていきな」と一袋を渡された。「ありがとうございます」とお礼を言ったものの,こんなにたくさんどうやって食べればいいのだろう。
タヴィスプレバ(自由)広場
宿には日本人旅行者が多く,お話の時間が多くなり日記作業ははかどらない。朝食は昨日買ったフランスパン,蜂蜜,トマトでいただく。このパンは味もほとんどフランスパンと同じだが,表面はずっと軟らかい。
居間に行くと宿のおばあさん(どうもネリさんとダリさんの識別ができない)がスープを出してくれた。牛の足の骨を煮込んだ濃厚なスープは,僕にはちょっとしつこ過ぎる。でも,出されたものは全部いただくのが僕の旅行スタイルだ。家の人はこのスープにパンを浸して食べている。
駅横からメトロに乗り旧市街に向かう。トビリシの旧市街はスィオニ大聖堂を中心にした半径1kmの地域で,19世紀の街並みが保存されている歴史地区となっている。グルジア王国時代には,現在のイラクリ2世広場が行政の中心地であり,バラタシュヴィリ通りあたりに城壁があったという。
メトロのモエダニ駅で降り,地上に出ると広場が見える。ここはタヴィスプレバ(自由)広場である。テラヴィにもやはり自由広場があり,旧ソ連から独立した国には「独立,自由,共和国」と名付けられた地名が多い。それは旧ソ連時代の抑圧体制の対極にある価値観である。
広場はロータリーになっており,その中央には巨大な円柱が立っており,その上に金色の騎馬像がある。鎧を着込み十字架の錫をもったこの人物が誰なのか調べてみたが分からなかった。
自由広場の南側にはソ連時代の建物と思われる重厚な石造りの市庁舎がある。この広場は王国時代の城壁のすぐ外側にあたり,ここから西側はソ連時代に整備された街並みになっている。
絵になる街並み
自由広場から時計回りに旧市街を一周してみることにする。バラタシュヴィリ通りにはヨーロッパを思わせる素晴らしい建物がいくつもあり,見事な景観を保っている。景観保全のためであろうか電線はほとんど見当たらず,当然電柱もない。
城壁の一部であろうか
道路の右側には19世紀の城壁がわずかに残っているところがある。それは幅にして10mにも満たないもので,周辺の家屋のなかに溶け込んでいる。もう少し幅のある城壁が残っているところには聖人の像が立っている。歩道がきれいな石畳になっている一画もあり,写真の題材の多い所だ。
アンチスハティ教会
橋の手前を南に下ると5世紀に建てられた,市内で最も古いバシリカ型のアンチスハティ教会がある。グルジアの教会を上面から見ると基本部の建物が十字架型をしているもの(十字架プラン)が多い。
それに対してバシリカ型はローマに起源をもち,長方形あるいはその両脇に幅の狭い側廊が張り出した形式(長方形プラン)になっている。
アンチスハティ教会も道路から奥に向かって建物が伸びている。道路に面した門は閉まっており中には入れなかった。右側面に回ると一部にユニークなデザインの彩色レンガが使用されていた。
ムトゥクバリ川にかかる橋からの眺望
ムトゥクバリ川にかかる橋の上に出る。旧市街のビューポイントとしては南側の丘にあるナリカラ城塞が有名であるが,ここからの景色もなかなかのものだ。ゆるやかに左に蛇行する川面の背後に旧市街が広がり,その後ろの丘にはナリカラ城塞が見える構図だ。
プラタナス(鈴懸の木)の実
街路樹になっているプラタナス(鈴懸の木)にはくるみ大のイガイガの実がついている。プラタナスは日本でも街路樹になっているのに,この実は見かけたことがない。種類が違うのか,僕の観察不足なのかは分からない。
橋を渡って川沿いの道を南に歩く。このあたりは遊園地の残骸と空き地になっており,再開発地のようだ。その先は大きなロータリーになっており,ヨーロッパ広場と名付けられている。この名前にグルジアのEU志向がはっきり見て取れる。
メテヒ教会からナリカラ城塞が一望できる
広場の向こうにはメテヒ(聖母)教会,イベリア王ヴァフタングの騎馬像,ナリカラ城塞が並んでおり,丘の上からとは一味違った景観となっている。広場からメテヒ教会の横をアヴラバリ広場に上っていく道は自然石を使用したもので,旧市街らしい趣きを演出している。
メテヒ(聖母)教会
メテヒ教会は旧市街を見下ろす小さな丘の上に建てられている。ここは戦略的な要地として昔は砦があったところだ。教会は13世紀に造られたもので,帝政ロシアやソ連時代には牢獄や劇場として使用されたという。
中ではミサが行われていた。人々は正面のイコノスタス(聖障)に向かって祈っていた。ここでもミサに参列している女性はスカーフ姿である。明り取りの窓はあるとはいえ,内部は暗く,僕のカメラでは写真は難しい。
もちろんフラッシュなどは論外である。こういう光景はじっくりと見ていたいけれど欧米人(おそらくロシア人)の団体がやってきたので外に出る。川沿いの崖の上にはヴァフタング王の騎馬像が旧市街を見下ろすように立っている。
ヴァフタングの視線の先には
正面(南側)には斜面に沿って上っていくナリカラ城塞の城壁があり,そこにも教会の建物がある。視線を少し右にずらすと教会の円錐屋根がいくつも立ち並ぶ旧市街中心部があり,その背後の丘にはカルトゥリス・デダ(グルジアの母)の白い像が青空を背景に浮かんでいる。