亜細亜の街角
アルゲ・バムは完全に瓦礫と化していた
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バム  (地域地図を開く)

イランは国土の東半分が砂漠地帯となっており,人が居住している地域は地下水あるいは「カナート」と呼ばれる地下水路で水を引いているオアシスに限定されている。豊富な石油と現在のテクノロジーをもってしても,この地域の抱える水の問題は1000年,2000年前とそれほど変わっていない。

テヘランとパキスタン国境のタフタンを結ぶ幹線道路は,そのようなオアシス都市を結ぶものであり,その昔はペルシャと中国,インドをつなぐシルクロードの一部であった。

バムはテヘランから南東約1100kmに位置し,地域人口は約12万人。シルクロードの要衝にあるため古くから地域勢力がその支配権を争ったオアシスである。周辺の山からカナートで引かれた水により持続的な灌漑農業が行われている。

また高品質のナツメヤシやオレンジなどの生産が盛んで「砂漠のエメラルド」とも呼ばれている。水と緑に恵まれた私たち日本人にはそのような表現をイメージすることはできても,砂漠の民がもつ水と緑への強いあこがれの気持ちをそのまま理解することは難しい。

バムの街のすぐ北側には「アルゲ・バム」と呼ばれる城塞都市の廃墟がある。この都市の歴史はおよそ2000年前にさかのぼり,城塞都市の形になったのはサーサーン朝ペルシャ(3世紀−7世紀)の時代である。しかし,その後,多くの王朝による破壊,略奪あるいは征服という受難の歴史をもつ。

日干しレンガの都市は破壊されても再建は比較的容易である。破壊のつど都市は再建され,シルクロードのオアシス都市として生き残ってきた。現存の建築物のほとんどは17世紀以降のものである。

しかし,アフガン人の侵入により,城塞都市は18世紀に放棄され,人々は現在のバムに居住するようになった。放棄された「アルゲ・バム」は破壊されることなくそのままの形で残り,壮大な廃墟として,また貴重な16世紀の都市遺跡として知られるようになった。

2003年の大地震以前の写真を見ると,日干しレンガでよくもまあこのような巨大な建造物を造れたなと感心させられる。アジアの砂漠地帯には「土の文化」があり,その素晴らしい見本がアルゲ・バムであった。

2003年12月26日にバム近郊でM6.5の地震が発生した。震源はバムの東10kmのところを南北に走る断層であり,震源の深さは10kmという直下型地震であった。震源から14kmほどのところにある観測施設では水平方向最大加速度799gal,垂直方向最大加速度988gal,最大速度は124cm/sが観測されている。

同じような直下型の1995年の阪神淡路大震災はM7.4,最大加速度818gal,最大速度105cm/sであり,バム市の地震動は阪神淡路大震災に近いものと推定される。この地震によりバム市の脆弱な日干しレンガ造りの家屋の7割が倒壊し,4万人もの人々が死亡した。

町の生命線ともいうべき373本のカナートの6割ほどが被害を受けており,人々の生業である農業にも大きな影響を与えている。「アルゲ・バム」の遺跡も同様にほとんど崩壊してしまった。地震による破壊を受けて,ユネスコは2004年に「バムとその文化的景観」を文化遺産(危機遺産)に登録した。

google map の航空写真で見るとバム市とその南東側にあるオアシスの間に南北方向に走る地面の盛り上がりのような地形が読み取れる。これが,2003年の地震を引き起こした断層である。この断層は地表には現れていないものの特異な地形により知ることができる。

ケルマン(200km)→バム 移動

バム行きのバスは07:00に出発する。05時に起床して05:45に受付に行くと,管理人のおじさんはもう起きていた。初日の宿代は払ってあるので残り2日分の宿代,それにシャワー代5000リヤルを支払って出発する。シャワー代の5000はこの地域では水が貴重品であることを改めて教えてくれる。

広場のタクシー乗り場からバスターミナルまで6000リヤルと妥当な値段だ。長距離BTは通りを挟んで3つのブースがあり,その一つからバム行きが出ている。窓口のおじさんは「バムは1.8万リヤルだよ」というのでその金額を支払う。

しかし,おじさんは「しばらくそこに坐っていなさい」と言い残してどこかに行ってしまった。えっ,一体どうなっているんだ,もしかして持ち逃げなどとつまらない心配をしていると,おじさんが再び現れ,チケットを受け取ることができた。

バスはボルボ製で窓もきれいだ。バムに向かう道の両側は半砂漠の状態でときどきオアシスの緑が見える。日本人は砂漠というと文字面から砂の大地を連想するが,実際にはそのような風景はめったにお目にかからない。

大部分は小石の多い礫砂漠で日本語では「荒地」と表現したほうが的をえている。中国語では「沙漠」,つまり水の少ないところを意味する文字が使用されており,この方が乾燥地域をよく言い表している。

およそ2.5時間でバムに到着し,どこかの路上で降ろされた。白タクの運転手に「安宿」と告げると,意味が通じたのか「アクバル・・・」としきりに言う。Acbar Tourist GH のことだと判断し,1万リエルで行ってもらう。

Acbar Tourist GH

アクバルGHは2部屋のドミトリーだけのこじんまりとした宿だ。部屋は10畳,5ベッド,T/S共同,冷風装置付きで清潔である。料金は5万リヤルとまあまあ納得がいく。

中庭にはベッドのような縁台が置かれ,敷物が敷いてある。自炊のための設備は整っているので,ここで食事などもすることはできる。その斜め向こうに母屋があり,オーナーの家族が住んでいる。

このGHも地震により被害を受けたようだ。僕の泊まっているドミの建物もやっつけ仕事で修理あるいは立て直したような感じを受ける。中庭には「Oxfam」と記載された金属製の箱が置かれている。また,配電設備も素人が壁に取り付け,適当に配線したものだ。

オーナーはまるでネイティブのように流暢な英語を話す。彼は無神論者のようだ。神を頼まず自分で人生を切り拓くというイランでは珍しいタイプである。もっとも,金儲けに邁進しているのではなく,自分が暮らしていけるだけのものがあればそれで十分だという,「足るを知る」人物である。

仮設状態の商店

道路のガレキはきれいに撤去されている

ガレキ状態の家屋も多い

地震からの復興

朝から食事をしていないので宿から出て食堂を探してみる。宿の前の通りで見る限り全く何もない。唯一,コンテナで営業している果物屋の店先にバナナが吊るしてある。一房を買って店先でミルクと一緒にいただく。今日の朝食と昼食はそれでお終いになった。

宿からアルゲ・バムまでは約3km,街の様子を見るのを兼ねて歩くことにする。2003年の地震により家屋の7割は倒壊したという。それから3年半が経過しても町はまだ復興途上にあった。

道路はいち早く復旧したが,多くの家屋は現在も建設されている。崩れた家屋がそのまま放置されているところも随所に見られる。緊急援助物資の入っていたコンテナはそのまま事務所や商店として使用されている。あちこちで建築工事が行われており,土砂やレンガなどの工事用資材が歩道をほとんど占拠しているためとても歩きづらい。

さすがに新しく造られた家は鉄骨で骨組みを造り,壁面には筋交いを入れ,その後でレンガを積んでいる。また,鉄筋コンクリート造りの家屋も見かけた。いずれにしても耐震構造は家を造るときの必要条件になっていることはまちがいない。

イラン式の空調装置があった

アルゲ・バム

アルゲ・バムの入口に到着する。見渡す限りガレキの山である。多くの建物は原型を留めていない。地震で崩壊したアルゲ・バムを見て僕は中国西域の故城を思い浮かべた。

トルファン郊外にある日干レンガで造られた高昌故城,交河故城の遺跡は1500年を越える歳月の中で風化しており,往時の建造物はちょっとした土の塊に姿を変えていた。土から生まれたものが土に返ろうとしている風景であった。

砕けた破片をつなぎ合わせて元の姿を復元するのは考古学の常套手段であるが,バム遺跡ではつなぎ合わせる破片に相当するものが土くれになってしまっている。しかも,急速に風化が進んでいるようである。

現在の技術をもってすれば,地震前の景観を復元することは可能であろう。しかし,目の前の土くれの山を見て,これでは昔の建物を再現はできてもそれは新しい建造物を造るのに等しいという思いを強く持った。

ユネスコの危機遺産に登録されたアルゲ・バムに関する記録を世界中で共有し、破壊の苦痛を乗り越えて永遠に残していく活動をしているウェブ・サイトが「イラン・バムの城塞,危機に瀕する遺産,復興への記憶」である。ここには地震前の画像や映像が公開されている。

僕は地震前にバムを訪れたことがないので,ネット上に公開されているサイトから写真をお借りしてきた。さて,遺跡の入口からは崩れたガレキの向こうにかって城塞のあった丘が見える。城塞は城壁の右側だけを残して崩れており,昔日の姿をほとんど留めてい。

城壁の左側部分と右下では金属パイプのやぐらが組まれ,修復作業が行われている。修復作業用の車が出入りするため城壁の丘の下まで工事用道路ができている。

道路の両側には金属パイプで柵が作られており,柵の外は立ち入り禁止となっている。訪問者は工事用道路に限って通行することができる。地震前はこのような道路があったとは考えられないので,ガレキを重機で片付けて新たに造ったものであろう。

道路を歩いてみると周辺の建物は高さ1-2mの壁を残してほとんど崩壊している。中には運良く原型が分かるものもある。崩れかけた大きな壁には木材を当てて崩落を防いでいる。

しかし,そのような壁も損傷が激しく,かってはどのような姿だったのか想像することは難しい。丘の上では職人が修復作業を進めており,一部はきれいに仕上がっている。周辺の状態と修復箇所のあまりの違いに驚く。

やはり当初考えていたように,昔の姿を再現する新築工事に近い印象を強くした。もちろんそのような修復を否定するものではないが,中国で見た遺跡をテーマパーク化するため,多くの新しい遺跡や史跡が堂々と造り出されるようなことにはして欲しくない。少なくとも数百年の歳月に耐えてきたアルゲ・バムのイメージは損なって欲しくない。

水路

バムの町を支える水路の一つであろう。飲料水や生活水はともかく農業に必要な水はこのような水路から供給される。

ナツメヤシの農園

バムの町では至るところにナツメヤシの農園がある。というよりナツメヤシの林の中に町があるといった方が正しいかもしれない。ナツメヤシは北アフリカや中東で広く栽培されており,その果実(デーツ)はそれらの地域の主要な食品の一つとなっている。

ナツメヤシはヤシの仲間で非常に古くから,おそらく5000-6000年前から栽培されてたと考えられている。原産地は北アフリカかペルシャ湾沿岸と推定されている。

樹高は15-25m,単独で生長することもあるが,同じ根から数本の幹が生え,群生することも珍しくない。葉はココヤシと類似しており,長さは3メートルに達する。葉柄にはとげがあり,その両側に長さ30cm,幅2cmほどの小葉が150枚ほどつく。成長点は幹の最上部で,そこから若い葉が次々と生えてくる。同時に下の部分の葉は寿命とともに落ち,幹が縦方向に成長することになる。

ナツメヤシは雌雄異体で自然界では風によって受粉が行われる。しかし,生産性を上げるため古くはアッシリアの時代から人工授粉が行われてきた。1本の雄株で50本の雌株を受粉させることができるので,農園内では1:50の比率で多数の雌株を栽培できるからである。

5年目くらいで樹高は数mに達し,実をつけ始める。果実は多数の固体が集合した房状になっており,大きさはぶどうの房より2回り大きい。樹の寿命は100年程度である。

デーツは6ヶ月ほどで完熟する。通常は熟して軟らかくなったものや干したものをそのまま食べる。干したものは糖度が高く,干し柿を濃厚にしたような甘さがある。カロリーも高く,かつ保存もきくので非常に有用な食料にもなる。

アルゲ・バムの近くにはきれいな用水路があり,その向こうにナツメヤシ農園があった。樹高は10mほどもあり,幹は大きな葉を支えていた接合部の痕跡がそのまま残っている。そのため,幹は突起だらけであり,滑らかなココヤシとはかなり異なっている。

農園内のナツメヤシは同一時期に植えられたらしく樹高はほとんど揃っている。中にはまだ3mほどの若木が散見された。小さなものも自分のスペースがちゃんと与えられているので,何らかの理由で枯れたものの跡に植えられたようだ。

幹が途中で折れたものがある。断面を観察してみると中心部は縦方向に連なる繊維質でできており,その外側に葉を支えていた木質部の突起がびっしりと囲んでいる。

小さな実を付けているけれど,収穫までにはまだまだ時間がかかりそうだ。自然界では風で受粉するため,固体同士の花の時期が揃っていなければならない。ということは,果実の熟する時期も同じになるという原理である。

この農園の樹木は健康であり,地震による水不足の影響は見られない。しかし,別の場所で見た農園の200本以上のアブラヤシはすべて枯れかけていた。葉が茶色になって幹から垂れ下がっている。おそらく,地震によりカナートの水が減少あるいは途絶えたためであろう。

このロープの材料は?

町で見かけたちょっと変わったロープである。けばの多いこのロープの材料に興味が湧いた。繊維の様子からこれはナツメヤシの幹からとったものではと推定した。3つ上の写真のようにナツメヤシの幹の外側は繊維質になっている。南アジアでは同様にココヤシの幹の繊維からロープを作っている。

街で出会った人々

乾燥地でも命をつないでいる植物と家畜

珍しい雨の日

その夜は珍しく(この地域でまとまった雨が降るのはきっと珍しいに違いない)雨が降り,ドミトリーの部屋も雨漏りがした。外に出ている縁台もすっかり濡れてしまい,敷物は乾かさなくてはならない。

この日は少し腹具合がよくない。一過性のものであることを祈りながら縁台の乾いたところでバナナをいただく。このくらいの雨が降ると崩れた遺跡はどんどん溶けてしまうのだろうと,昨日の遺跡の風景を思い出しながら心配する。

表面の状態が滑らかであればある程度日干しレンガも雨に耐えられる。それだからこそ,アルゲ・バムは数百年の歳月に耐えられたのだ。しかし,いったん崩れてしまうと雨喰の影響は格段に大きくなる。雨は午前中も断続的に降り,街の中心部にお出かけするのに2回雨宿りをすることになった。

まずい,急にトイレに行きたくなった。どうしよう,宿に戻るかと思案していると,近くに大きな工事現場があった。たくさんの人たちが働いているので仮設トイレが用意されているであろうと考え,そちらに向かう。現場監督に場所を教えてもらいことなきを得た。

喜捨を求める

中心部にあるロータリーの近くで再び雨宿りをしていると,10才くらいのパキスタン人の女の子が喜捨を求めて停車中の車に手を差し出していた。周りの人々は「あの子たちはパキスタン人なんだ」とわざわざ教えてくれた。

レンガ運びにトラクターが活躍する

学校にて

地元の人の家にお呼ばれする

午後は宿の近くの地区を歩いてみる。地震の爪あとは至る所に見られる。鉄骨だけの家,ようやく屋根と壁ができて仕上げを待つ家,崩れたまま放置されている家も多い。

昨日,サンドイッチ屋を教えてくれた男性の家に偶然たどりついた。というより,道路を歩いていると外にいたその男性が声をかけてくれた。サンドイッチの情報を店でチェックしてくれた利発そうな少年も近くにいる。

男性の家に招かれる。新居は建設中で,その後ろに仮の住居がある。冷たい水が出てくるので迷わずいただく。ここと向かいの住居には何世帯かが暮らしているらしく,子どもが5人部屋に集まっている。水をもらってヨーヨーを作ってあげる。

ところが,女性たちが次から次へと新しい子どもを連れてきて,合計10個を作ることになった。この珍しい日本の玩具はどこに行っても人気は高かった。その間にメロン,デーツ,オムレツが出てきてとても恐縮してしまった。

この家庭であまりにもごちそうになったので,お返しとして夕方にスイカとバナナを持ってこの家を再び訪ねた。家の青年が車で別の住居に連れて行ってくれた。そこで顔見知りの子どもたちが遊んでいる。

ここでは親戚同士の絆が強く,お互いに訪問しあっているようだ。ここも居心地がよく,何人かの新しい子どもたちにヨーヨーを作ってあげる。日本の折り紙も子どもたちには大人気であった。楽しいひとときも夕食の心配をしなければならない時刻になったので宿に送ってもらう。

モンスター・バイクで旅するスイス人

宿に戻ると同じドミに泊まっているスイス人が夕食の支度をしている。今日のメニューはスパゲティである。彼は僕ともう一人の欧米人に夕食を一緒に食べないかと誘ってくれた。

我々はありがたくその申し出を受けることにした。彼はBMWの1500ccというモンスターバイクに乗ってヨーロッパからやって来たという。彼は僕と同じようにイランからパキスタンに抜けるルートを行こうとしていた。スポンサーが付いているのか複数のバイク・グッズのメーカー名がバイクに張られている。

彼は現地食をほとんど食べないようだ。今日はスパゲティを茹で,缶詰のトマトソースをベースに特製ソースに仕上げるつもりだと話してくれた。我々は全く手伝えることはなく縁台でのんびりしていた。

隣のドミにいる4人のジンバブエ人も同じようにスパゲティを調理している。彼らの方が少し早く出来上がり,味見をさせてくれた。まあまあの味だ。これならばジンバブエの食事は食べられそうだ。

スイス人は大きな皿いっぱいのスパゲティを運んできた。ジンバブエ人からコーラをもらい,宿の宿泊客全員のにぎやかなスパゲティ・パーティとなる。我々の食事が一段落した時に日本人旅行者が到着した。パキスタンから来た彼は今朝から何も食べていないという。危なく捨ててしまうところだったスパゲティの残りは彼の腹にすべて収まった。


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