ケルマーン州の州都,州人口200万人の半分が農村に居住し,ごくわずかの人々が遊牧生活を送っている。州域の大部分はステップないし砂漠となっている。
わずかなオアシスではナツメヤシ,オレンジ,ピスタチオなどが生産されている。オアシスといっても水が自然に湧き出ているわけではなく,灌漑は人が造った「カナート(地下水路)」に依存している。
この地域に人が住み着いたのは紀元前4000年頃とされており,それは歴史の古いイランでももっとも早い時期である。日本人の目からするとあまりにも乾燥した環境であり,決して住みやすそうなところとは思えないのだが…。
耕作に適していない土地で生きていくためこの地域では古くから織物や刺繍などの工芸が発達してきた。絨毯づくりの歴史も古く,16世紀サファヴィー朝の時代には王宮の絨毯工房がこの地にもあったとされている。
現在でも緻密な花文様絨毯を中心に華やかな色調のものが数多く作られ,イランでも五指にはいるじゅうたんの生産地域となっている。
ケルーマンの見どころはバザールにつきる。アーチ天井に覆われた石畳の通路の両側に伝統的な手工芸品,金属加工品,スパイス,服,日用品などが並べられている。
旅行者がバザールに求める旅情もほとんど揃っておりとてもお勧めである。バザールの内部には感じのよいチャーイ・ハーネ(チャーイ=茶,ハーネ=部屋)があるので,お茶をいただきながら周辺の人々を観察するのもよい。
シーラーズ(600km)→ケルマン 移動
07時に朝食のために外に出る。月曜日なのに宿の前の通りの商店はすべて閉まっている。いつもは7時に開く商品店もシャッターが下りたままだ。大通りに出ても開いているのはジュース屋くらいだ。何か特別の日なのかもしれない。
食べ物の入った袋を下げた男性がやって来たのでそちらの方角を目指してみる。大きな交差点の向こうに人々が集まっている。豆のスープ屋が開いており,人々はその前の台をテーブルにして豆のスープと薄いパンで朝食をとっている。
大鍋に入っているスープは残り少なくなっており,僕もあわてて1000リヤルの小カップを注文する。隣の男性に「パンをどこかで買えばいいか」とたずねると一枚分けてくれた。これにチャーイを加えれば朝食としては十分だ。この台は露店のチャーイ屋が管理しており,食べ残りのパンは彼が集めていた。
宿をチェックアウトして大通りでタクシーをつかまえる。運転手に1.5万リヤルを見せ,「これでバスターミナルまで行ってくれ」と告げるとOKとなった。人の良さそうな運転手は慎重に運転してバスターミナルまで運んでくれた。
ターミナルはいくつかの建物に分かれている。ヤズド行きのブースで「ヤズド行きは07時と14時だよ」と冷たい返事が返ってくる。ヤズドまでは10時間近くかかるので,14時発に乗ると到着は夜の遅い時間になってしまう。
初めての町に夜に到着したくないので思案に暮れる。近くの呼び込みが「ケルマン,ケルマン」と叫んでいるので,ヤズドをスキップしてケルマンに行くことにする。
チケットは4.5万リヤルと高い。バスはボルボ製でまだ新しい。僕にとっては冷房が効き過ぎなので長袖を着込む。運転手は2名で交代しながらケルマンまでの8時間を走り通した。途中で停車したのは水を補給するための2回だけである。
僕は最初の停車のときトイレを済ませていたので助かった。また,バナナを持参していたので昼食も車内でとることができた。バスは2000mの高原をひたすら走る。遠くに見える山裾まで荒地の風景が続いている。
ときどき,遊牧民のキャンプや羊の群れが目に入る。しかし,バスは高速で走っているためほとんど写真にはならない。サージャンの町でかなりの乗客が降り,代わりに数人の乗客が乗ってきた。
バスは乗客が指定する場所で停車する。他の交通機関が少ないのでターミナル毎に停車とはいかないようだ。18時にケルマンに到着する。今日の教訓を生かし,次の予定地バム行きのバスの時間を確認しておく。
大きなロータリー
長距離BTから街の中心部にあるアーザディー広場までは2kmほどあるのでタクシーで移動する。そこは大きなロータリーになっており,その中心部の緑地帯がアーザディー広場となっている。
ロータリーには5本の道路が入ってきている。どの道路も片側3車線以上の立派なものだ。道路が良いため車はこの街中でも時速80km以上の速度で走り,道路の横断はとても危険だ。そのため,ロータリーを取り囲むようにいくつかの歩道橋が設けられており,そこからロータリーや道路の写真を撮ることができる。
Milad Hotel
ロータリーから南西方向に歩くとじきに「Milad Hotel」に到着する。Milad の部屋は4.5畳,1ベッド,T/S共同,小窓と物干し台が付いておりまあま清潔である。料金は5万リヤルとイランとしては安い。同じ階では部屋の改装が進められており,シンナーの臭いが鼻につく。
イランの定番料理の一つ
旅行中に立派なレストランに入ることはないのでイラン料理についてはまったく知識は無い。僕がよくいただいたものは次の3点である。
@ナンに近い薄焼きパン+豆のペーストあるいはスープ
A串焼き肉+バターライス+焼きトマト
Bフランスパンに串焼き肉と生野菜を挟んだサンドイッチ
写真の料理では肉はごはんの下に隠されており,ごはんはバターで味付けされている。一部はサフランで色づけされている。日本ではトマトを焼くなどいう食文化はないが,こちらではしばしば焼きトマトが料理に彩りを添えており,味も悪くない。
イランの耐震建築
07時に外に出てみると通りの店は全て閉まっている。昨夜,アーザディ広場で祈りを捧げていた人に聞くと今日はホメイニ師の命日にあたるそうだ。
イランで使用されているイスラム暦は1年の長さが太陽暦とは異なる。そのためラマダーン(断食月)も毎年2週間ほどずれていく。ホメイニ師の命日も同じようにずれていくのかななどとしょうもないことを考える。
今日はケルマンの郊外35kmのところにあるマーハーンに行く予定なので,朝食を探しながら4kmほど離れたバス停まで歩いてみる。
街の南側は建築ラッシュである。死者5万人を出したバム地震の教訓から,伝統的なレンガ造りから鉄骨で骨組みを造り壁面をレンガで埋めていく方法に変わっている。出来上がった建物は鉄骨の柱や筋交いがそのまま見える。
中空タイプの軽いレンガも使用されるようになったが,壁面のレンガの総重量は相当のものであろう。また,日本のパネル工法のように地震の揺れに対して壁面が支えとして働くかも疑問だ。
イランはユーラシア・プレート,アラビアン・プレート,インド・オーストラリア・プレートの三つのプレートの境界に位置しているため,世界的に見ても地震の多い地域である。内陸部にも小さな活断層がひしめいており,プレートの動きによって活断層にひずみが生じ,地震を繰り返し発生させている。
イラン,トルコ,ペルーなどの地震多発国では家屋の建築材料として,レンガ,日干しレンガ,石,泥などが使用されている。このような家屋は地震に対して脆いうえに崩れた重い材料の下敷きになり,一度の地震で数万人もの人命が失われることになる。
しかし,これらの地域では他の建築材料は容易に入手できないので,現地で安く手に入る材料を使用し,いかにして耐震的な家屋を作るかが課題となっている。
地震大国の日本でそのような研究を進め,そのノウハウを技術援助するODAは広く世界から感謝されると思う。貧しくてもつつましく暮らしている人々の生命と財産を守る援助は,環境を守る援助と同様に重要な意味をもつ。
宿の近くの幼稚園の壁に描かれていた
宿の近くには幼稚園がある。もちろん,塀と門で囲われており中に入ることはできない。そこの壁面には子どもたちを題材にした可愛らしい壁画が描かれていた。この絵ではお人形で遊んでいる女の子が描かれており,子どもの遊びの世界は類似している。
公園で遊び乗り合いタクシーで移動する
道に迷いながら歩いていると小さな公園があった。公園で一休みしようとそちらに向かう。コンクリート製の卓球台があり,男性がゲームを楽しんでいる。ベンチに坐ってさっき買ったボロボロにくずれて食べづらいケーキとミルクで朝食をとる。
お腹もできたのでちょっと遊んでみることにする。型のしっかりした青年を相手に練習をさせてもらう。卓球にはちょっと自信があったがこの青年はとても上手だ。2:3くらいの割合で僕が押されている。
彼の父はアフガニスタン人で,彼も自分をアフガニスタン人だと言っていた。1979年から戦火が絶えないアフガニスタンからは隣国に多くの難民が移り住んでいる。
時間とともに新しい土地で根を下ろしている人々も多い。彼の家庭がその例に当てはまるかは分からないが,彼はイランには300万人ものアフガン人が暮らしているという。
この卓球が縁で英語のできるおじさんがマーハーン行きのバス停まで車で送ってくれた。バスを待っていると乗り合いタクシーの運転手から誘いがかかる。35kmほど離れたマーハーンまで1万リヤルだという。ずいぶん安いのですぐにタクシーに乗り込む。
乗客は僕で4人目となりすぐに出発した。タクシーは片側4車線の道路を時速120kmで走る。事故を起こしたら助手席の僕はシートベルトをしていても助かりそうもない。マーハーンまで25kmの標識がある地点で遊牧民の大きなキャンプがあった。帰りに立ち寄るのも面白いかもしれない。
マーハーン
マーハーンにはイスラム神秘主義の修道僧である「聖シャー・エマネットラー・ヴァリーの廟」がある。彼の墓の上に廟が建てられ聖廟として巡礼の人々が訪れるようになった。現在の建物は19世紀に増設されたものである。
マーハーンの街でタクシーから降ろされる。周りの人に「シャー・エマネットラー・ヴァリー」とカタカナ読みでたずねると,あっちだよと教えてくれた。道路に面して聖廟があり,周辺にはたくさん車が駐車している。
道路側から見ると建物から煙突のように塔が突き出している。これはイラン建築ではしばしば見られる「バードギール」,日本語では「風の塔」あるいは「風採り塔」などと呼ばれている通気塔である。この塔は煙突のような空間が部屋に直結しており,上部の開口部から入った風が部屋の中に涼しさを運んでくる仕組みになっている。
シーラーズの宿では気化熱を利用した冷気装置からダクトを経由して各部屋に冷気が運ばれてくる設備があった。日本の冷房装置はたくさんのエネルギーを使用するが,イランでは昔も今も最小限のエネルギーで生活環境を快適化する知恵が働いている。
聖廟の門は少し奥まったところにあり,その手前は庭園になっている。大きな木の向こう側に2本のミナレットをもつイーワーン型の門がある。中に入ると大きな池があり,その両側が庭園になっており,正面に廟本体の建物がある。
廟の内部は棺の部屋を囲むようにアーチとドームの連続する回廊になっている。ドームの上部は採光窓となっており中はけっこう明るい。白い漆くいで覆われた天井と柱,そしてドームの下にある鍾乳石飾りが弱い光の中でとても美しい。
家族連れがピクニックに来ている
中庭の庭園には多くの家族連れがピクニックに来ている。敷物を芝生に敷いて昼食をとっている家族からお誘いがあり,ありがたく坐らせてもらう。ここは男性2名,女性3名,子ども3名の大所帯だ。
少し厚いパン,自家製ヨーグルト,チャーイ,バナナをご馳走になる。おばあさんは「もっと食べなさい」と何回もヨーグルトのおかわりを出してくれる。すっかりご馳走になり,お礼に池の水を使ってヨーヨーを作ってあげる。
あっ,さっき写真を撮った売店の女の子がこちらを見ている。「こっちにおいで」と手招きをしても彼女はその場から動こうとしない。それではということで,ヨーヨーを作りこの家族の女の子から渡してもらう。
驚いたことに大人たちはそれが「ヨーヨー」という玩具であることを知っていた。バブル経済が華やかだった頃,日本には多くのイラン人が滞在していたので,そこから日本文化が伝わったのかもしれない。
日本のテレビ番組の「おしん」は東南アジアや中央アジア,さらには中東でも放映され,日本人はどこに行っても「おしん」と言われる。自分の国の文化を相手が知っていてくれるとなんとなく親近感が湧くものである。
僕もイランでは歴代のイマームで著名な「アリー」や「フサイン」,あるいは「ムハンマド」や彼の娘「ファティーマ」の名前を口にすると,イラン人の態度が急に和らいでいくのを何回か経験した。
門の外の庭園でも家族連れが敷物を広げている。近くの水道のところに子どもたちが集まっているので,何枚か写真を撮らせてもらう。周りの大人たちはニコニコしながら見ている。子どもの写真を撮っているぶんには問題は無さそうだ。
マーハーンの周辺を散策する
日本の古い唱歌に「村の鍛冶屋」がある。最初に「尋常小学唱歌」に撮り入れられたのは1912年(大正元年)であり,そのときの歌詞は次の通りである。
暫時も止まずに槌打つ響 飛び散る火の花 はしる湯玉
鞴の風さへ息をもつがず 仕事に精出す村の鍛冶屋
あるじは名高きいつこく老爺 早起き早寝の病知らず
鐵より堅しと誇れる腕に 勝りて堅きは彼が心
刀はうたねど大鎌小鎌 馬鍬に作鍬 鋤よ鉈よ
平和の打ち物休まずうちて 日毎に戰ふ 懶惰の敵と
稼ぐにおひつく貧乏なくて 名物鍛冶屋は日日に繁昌
あたりに類なき仕事のほまれ 槌うつ響にまして高し
歌詞が当初のものから時代により書き換えられながら,長く全国の小学校で愛唱されてきた。しかし,昭和30年代頃から農林業が機械化するにつれ農作業道具の需要が激減し,野鍛冶という職業はは次第に各地の農村から消えていく。
鍛冶屋が作業場で槌音を響かせて働く光景がは児童には想像が難しくなった昭和52年には文部省の小学校学習指導要領の共通教材から削除された(wikipedia)。
日本ではもう見ることができなくなった鍛冶屋もアジアの各地ではまだ見ることができる。ここのおじさんは古くなった鉄製品を打ち直して農機具などを製造している。
イランでも都市部では古い日干しレンガ造りの家屋はどんどん新しい家屋に置き換えられている。それでもマーハーンのような田舎にいくとまだまだ古い家屋が使用されている。その中で使われなくなったハマムと思われる建物にバードギール(通気塔)が付属しているので写真にする。
ここの写真を撮っているときに地元の少年たちにイランのガイドブックを盗まれてしまった。もうすぐイランを抜けることになるもののこれはちょっと困った。近くの男性にできる限りやさしい英語で助けを求めると意味は通じたようだ。仲間の少年たちが呼ばれ,なんとかガイドブックは無事に手元に届いた。男性にお礼を言って乗り合いタクシーでケルマンに戻る。
アーザディー広場周辺のにぎわい
この円錐形の白いものは砂糖である。西アジアを旅行するとこのように円錐型の固形砂糖をよく目にする。この形状は砂糖の製造方法と密接に結びついている。
サトウキビを栽培する歴史は長く1万年前に遡る。しかし,その歴史の大部分においては甘いジュースとして飲用されていた。4000年前ごろに北インドでこの甘いジュースを煮詰めて砂糖(黒砂糖)を製造する方法が開発された。インドの砂糖とサトウキビはアラビア人によってペルシャ,エジプト,中国などへと伝えられた。
黒砂糖は含糖蜜とも呼ばれ,砂糖(正確にはショ糖)と糖蜜が含まれている。糖蜜を分離することにより白い砂糖を精製することができるが,古代においてはその方法は非常に難しいものであり,そのため砂糖は高価なぜいたく品であった。西アジアではエジプトが主要なサトウキビ生産地となり12世紀頃にはショ糖と糖蜜を分離する方法が確立している。
実は文献(イスラーム史のなかの砂糖)を読んでもどうしてこれで糖蜜が分離できるのかはよく分からない。ともあれ,マムルーク朝(1250-1517年)の知識人ヌワイリーは生まれ故郷である上エジプトでの製糖法を次のように伝えている。
圧搾所では男たちがきびの汚れを落とし,細片に刻んでから牛力を用いた石臼で圧搾した。液汁は大釜に集められ第1回目の煮沸が行われた。さとうきびの液汁を真鍮製の釜で煮沸した後の煮汁は底に穴が開いた,底部が狭く上部が広い素焼き壷(ウブルージュ)に注がれる。
ウブルージュには底に三つの穴が開けてありきびの茎で塞いである。これらのウブルージュは「滴りの家」と呼ばれる場所に置かれている。そこには飼い葉桶に似た細長いベンチがあり,各ウブルージュの下には受け壷が置かれていてそこに煮汁のエッセンス,つまり黒褐色の「糖蜜」が滴り落ちてくる(『学芸の究極の目的』第8巻270頁)。
サトウキビの搾り汁を煮沸した後,円錐形の素焼き壷(ウブルージュ)を用いて粗糖と糖蜜とを分離していたということである。おそらくショ糖と糖蜜の結晶温度の差を利用したと考えられる。熱い煮汁は素焼き壺の中で冷えていき,ショ糖はゆっくりと結晶し,結晶しない糖蜜はサトウキビの茎を通過して下に滴るということである。
ヌワイリーの記述には続きがあり,素焼き壺は「滴りの家」から「覆土の家」に移され,上部表面を土で覆われ,水をかけられる。水はゆっくりと糖蜜を洗い流し,最後に覆土が取り除かれると円錐型の固形砂糖ができあがる。同時代のエジプトでは搾り汁に木灰を添加する方法も確立していた。
こうして分離された砂糖はまだ糖蜜を含むため薄茶色をしており,現代用語では「粗糖(原料糖)」と呼ばれている。この粗糖を再び水を加えて煮沸し,素焼き壺を使用して糖蜜を分離すると上質の白砂糖に近くなる。この円錐形の素焼き壺の形状が砂糖の塊の形状となっている。
現在の西アジアでは遠心分離機を使用して糖蜜を分離し,さらにタンクの中で再結晶させることも可能である。そのようにしてできた細かい粒状の砂糖は西アジアのある種の砂糖文化とはなじまないのかもしれない。そのため,現在のイランでは普通の砂糖,角砂糖に混じって円錐状の砂糖も売られている。
スイカとメロン
アーザディー広場周辺では果物もたくさん売られている。目立つものはスイカとメロンである。ハミ瓜,メロン,スイカは中央アジアを代表する果物(実際は野菜)であり,古くから栽培されていた。乾燥した気候で陽光に恵まれている中央アジアはメロンの栽培適地である。
メロンの原産地はアフリカから中近東にかけての地域であり,中央アジアも候補地の一つとなっている。新疆ウイグル自治区では西からやってきた品種を改良してハミ瓜を作り出したと考えられている。大きなものは長手方向で30cmほどもなる。果皮は黄色,緑,縞模様など多彩で,マスクメロンのように網目のあるものもある。
水分が豊富で,糖度はメロンより少ないため,スイカとともに乾燥地域における水分補給には最適な果物である。夏に中国西域,中央アジア,西アジアを旅行するなら,このメロン類を食べない手はない。ただし,ハミ瓜はとても大きいので一人で全部食べるのちょっと無理だ。
イランのメロンはカボチャのような表皮で見てくれは悪いけれど味は一級品だ。日差しが強く雨の少ない気候はメロンの糖度を上げているのかもしれない。
スイカ原産地は熱帯アフリカのサバンナ地帯や砂漠地帯である。 カラハリ砂漠の先住民族は野生のスイカを貴重な水分供給源としており,同時に数千年前から栽培もしている。現在では世界中で栽培されておりおそらく中国が世界最大の生産地であろう。
アーザディー広場の近くのジュース屋でメロンジュースを飲んでいると声をかけられた。エスファハーンで出合った香港の旅行者が横に立っている。シーラーズで睡眠薬強盗に会い一晩病院で過ごしたという。睡眠薬強盗とは旅行者に睡眠薬入りの食べ物や飲み物を勧め,旅行者が意識を失うと金品を奪う手口である。
僕もパキスタンでこの被害にあった日本人と一緒の宿になったことがある。金品の被害もさることながら,薬物の量が多いと早急に胃洗浄をしないと命にかかわることがある。幸い香港の旅行者は病院で一晩過ごして回復し,金品の被害は100$程度ですんだそうだ。そういえば,アフガニスタンやパキスタンが近づくと,何となく危なげな人が増えてきている。今まで以上に安全への注意が必要だ。
バザーレ・ヴァキール
ケルマーンの見どころの一つはサファビー朝時代に開かれたバザーレ・ヴァキールである。「バザーレ・ヴァキール」という名前のバザールはシーラーズにもあったので固有名詞ではないのかもしれない。
このバザールは中庭を挟んで2つの建物が並行しており,その長さは400mほどはあるそうだ。扱っている商品は衣類,雑貨,金属製品,乾物など多彩であり,中には銀行もある。また,モスクや神学校のような建物もあるが現在は使用されていない。
バザールとなっているがこの並びの建物にはモスクや神学校も含まれている。往時は町の中心の複合施設だったのではと推測する。そのため,二列の建物の間は広い中庭になっており,噴水等も配されている。この建物にもバードギール(通気塔)が付属している。
バザーレ・ヴァキールには小さな店が密集している
金属の装飾皿が目に付いた。直径は30-40cm,皿の中央には鳥をあしらった細かい装飾が入っている。タガネのような道具を使い熟練した職人が一つ一つ素晴らしい形にしていったものであろう。
自分用のお土産として是非欲しい手作りの一品であるが,今回の旅行はまだ5ヶ月以上残っているので重いものを持ち歩くわけにはいかない。涙を呑んであきらめるしかない。
イラン遊牧民の織物文化の代表は「ギャッペ」と「キリム」である。ギャッペは毛足の長いパイルじゅうたんであり,キリムは毛織物ということができる。どちらも羊毛を利用した染織であり,歴史的にはキリムがずっと先行しているとされている。
代表的な織り方は平織(つづれ織り)であり横糸を縦糸に交互に通す織り方である。現代の織物と同じものであり,じゅうたんと同様に通した横糸を上からぎゅっと押しつけ,比較的厚手で丈夫な布にする。表面・裏面とも横糸が表面に出て縦糸は完全に隠れ,同じような仕上がりとなる。
起源はおそらく中央アジアに展開した頃のチュルク系民族とされている。現在では「キリム」という言葉はトルコとイランで使用されており,コーカサスや中央アジアでは「パラス」と呼ばれている。また,ヨーロッパに伝わりタペストリとなっている。
イランのキリムは遊牧民の女性たちの手で作られた素朴な実用品であり,ペルシャじゅうたんに比べて評価は格段に低かったが,近年,ギャッペとともにその素朴さが再評価されている。
チャーイハーネ・イェ・ヴァキール
バザール内の有名なチャーイハーネ・イェ・ヴァキールは東から西に歩いているとあまり目立たない。昨日は完全に見過ごしてしまった。入口で外国人は2000リヤルの入場料を支払う。チャーイを含めると5000リヤルとなる。
間口は狭いけれど内部はずっと広い。イスラム風の柱とアーチ,ドームの組み合わさった雰囲気の良い空間である。壁面やアーチの面は長方形の色タイルを組み合わせて単純な模様で飾ってある。
中央には泉水盤があり,その周りにイスとテーブルが配置されている。僕はイスではなく縁台の方を選択し,クツを脱いでくつろぐ。ポットに入ったチャーイが運ばれてくる。30分ばかり硬い砂糖をかじりお茶を飲みのんびりと優雅な時間を過ごす。
コイン博物館
かってのコイン鋳造所跡は歴代の王朝のコインが展示された博物館になっている。中でも金貨はやはり目につく。この金貨には歴代の王の肖像が刻印されている。1979年のイラン革命以前にはパーレビ国王の金貨が発行されており,革命後はホメイイニ師の肖像をもつ「Bahar-e Azadi (Spring of Liberty) 」に変わっている。
イラン中央銀行により製造される「Bahar-e Azadi金貨」は1枚当たり8.133グラムであり,国際市況の高騰および核開発にからんむ国際的な制裁によるイラン通貨リヤルの急速な下落により天井知らずに高騰している。イランでは例えば金貨300枚というように婚資を金貨で支払う慣習があり,金貨の需要は大きい。これにレヤルの下落が資産のレヤル離れを加速してイランの金輸入量は急拡大している。
早朝の金曜モスク
ヴァザーレ・ヴァキールの西側の出入口の近くにはマスジェド・ジャーメ(金曜モスク)がある。この配置からすると往時の町の中心はこのあたりだと推測される。道路から入口までは100mほどあり,両側は文具などを扱う店が並んでいる。
あいにくこの取り付け道路は工事中で外からはイーワーンの上に時計塔を配したユニークな入口はきれいな写真にはならない。
道路から降りる階段のところで子どもたちが遊んでいたので一枚撮らせてもらう。ケルマンは保守的な土地柄であるが,子どもたちの写真を撮る分にはほとんど制約はなかった。
早朝の金曜モスク|装飾タイル
イーワーンの壁面の装飾タイルは,「モザイクタイル」と「絵付けタイル」の両方が使用されておりなかなか見ごたえがる。これらの見事な装飾タイルはサファビー朝時代に増改築されたときのものであろう。イーワーンのアーチの上部を飾る鍾乳石装飾の細かな面もしっかりタイルで飾られている。
モザイクタイルは単色のタイルを焼き,それを絵柄に合わせて砕き,たくさんのピースを大きなパネルに張り付けて制作する。手間と根気のかかる作業であるが,アラベスクの複雑な紋様を表現することができ,ドームの半球天井など平面以外のタイル装飾には重要な手段となる。
早朝の金曜モスク|装飾タイル
これは装飾タイル,よく見ると正方形に区画されていることが分かる。大きな絵を正方形で分割して絵付けし,出来上がったタイルを元の絵に合わせて配置するとこのようになる。大きな平面を飾るときには「モザイクタイル」よりずっと低コストで実現できる。
マスジェド・ジャーメ(金曜モスク)
宿で昼寝をして夕方からバザールの入口の近くにあるマスジェド・ジャーメに向かう。中に入ると正面にもう一つのイーワーンがある。アーチの内側の壁にへこみがあるのでたぶんこちらがメッカの方角であろう。
このイーワーンのタイル装飾も見事である。イーワーンの壁面は「絵付けタイル」が使用され,アーチの内側の壁面には「モザイクタイル」も使用されている。
金曜モスク|中庭が礼拝空間となっている
後ろを振り返ると入口のイーワーンとその上の時計塔がちゃんと見える。この日は広い中庭にお祈り用のじゅうたんが敷かれていた。まだ全部は敷き終わってはおらず,右半分は石畳のままだ。
ここでは男性と女性が一緒に礼拝できるようになっている。とはいうもののお互いが見えるようになっていてはまずいので,広い中庭の一部が大きなカーテンで仕切られ,その内部が女性の礼拝空間となる。
金曜モスク|じゅうたんを敷く
二人の男性が一輪車で幅1mほどの巻いたじゅうたんを運んでくる。じゅうたんを下ろし,前のじゅうたんに合わせて広げていく。特にメッカの方向に対して模様がずれないようにしなければならない。
というのは集団礼拝があるとき,人々はじゅうたんの模様で一人一人の配置を決めるからである。ここのじゅうたんは色合いといい,厚さといい一級品だ。そういえばケルマーン州はイランでも五指にはいるじゅうたんの生産地域なのだ。
金曜モスク|コーランを読む
女性用の仕切りの内側はまだじゅうたんが敷かれていないので,おばあさんは広い方の空間に敷かれたじゅうたんのところで一心にコーラン(クルアーン)を読んでいる。
宿の近くの路上で
概して男の子は自分だけが目立とうとするのでフレームが難しい。宿の近くの路上で遊んでいたこの子たちは珍しく並んでくれた。