紀元前7世紀,オリエント世界に君臨していたアッシリアが勢力を失なった後,イラン高原を支配したのはペルシャ人と同じ印欧語族に属するメディア人の王国であった。この時代のペルシャはメディア王国に服属していた。
紀元前550年,メディア人とペルシア人の混血といわれるキュロスがメディア王国に反旗をひるがえし,これを滅ぼした。これがアケメネス朝(紀元前550年 - 紀元前330年)であり,ペルシャ人が初めてこの地域の支配勢力となった。
アケメネス朝は小アジアのリディア王国,メソポタミアの新バビロニア王国を滅ぼし,エジプトを併合した。オリエントを支配下に置いた帝国は大いに繁栄し,ダレイオス1世の時代(紀元前6世紀)に帝国の都としてペルセポリスが建設された。
アケメネス朝の政治の中心地はスーサであり,ペルセポリスはもっぱら儀礼用の都,例えば重要な儀式を執り行ったり,諸民族から朝貢を受け取とったり,アケメネス朝の王権が神から与えられたことを確認する聖域であったとされている。
石で築いた総面積約13万m2の大基壇の上に複数の宮殿を建造した壮麗な都も紀元前330年に「アレクサンダー大王」の略奪にあい焼失した。
ペルセポリスの遺跡はシーラーズから北東に57km離れたところにある。そこには往時の壮大な建築物の一部が残っており,イランでもっとも有名な観光地となっている。1979年に世界遺産として登録されている。
アケメネス朝ペルシャ(BC550-330年)は古代オリエント世界を統一し古代史上初の大帝国を作り上げた。ペルセポリスは紀元前520年にダレイオス1世の時代に建設に着手されている。また,帝国の統治のため「王の道」と呼ばれる軍事道路を建設し,駅伝を整備し,通貨制度を創設した。
アケメネス朝ペルシャは全国を36の行政区画に分け,各州ごとに総督(太守)を置いて統治した。また,総督を監察するため年に一度中央から「王の耳」,「王の目」と呼ばれた監察官が派遣された。
アケメネス朝ペルシャの統治システムはその後の西アジアや地中海で覇を唱えた帝国のモデルになった。アレクサンドロス大王もダレイオス3世の娘と結婚し,帝国の統治システムをそのまま引き継ごうとした。
しかし,アレクサンドロス大王は征服した広大な領土を統治する仕組みを講じる前に若くして亡くなる,彼の領土は後継者を自認する将軍たちにより分割された。
35,000人ほどのマケドニア軍を率いて小アジアに進出したアレクサンドロス大王がどうしてペルシャ帝国の強大な軍隊を打ち破ることができたかについては多くの人たちがアレクサンドロス大王の天才的な軍事的戦術をあげている。
有名な「イッソスの会戦」ではダレイオス3世は自ら10万の軍勢で4万人のマケドニア軍と対決している。この規模の戦力差であればマケドニア軍にも勝機がある。
中央の重装歩兵がペルシャ騎兵を支えている間に,アレクサンドロス大王は自ら精鋭歩兵部隊を率いて進撃し,ペルシャ軍の中央に攻め入った。ダレイオス3世は戦場から逃走し,ペルシャ軍は総崩れとなった。
この会戦は古代史の分水嶺となり,アレクサンドロス大王は「ガウガメラの戦い」で再びペルシャ軍を撃破し,アケメネス朝は滅亡する。スーサとペルセポリスに入ったマケドニア軍はおびただしい数の財宝を略奪している。マケドニア軍が破壊しようとしたかどうかは明らかになっていないが,ペルセポリスは炎上し,その後,廃墟として現在に至っている。
パルセポリスとはギリシャ語で「ペルシャの都」を意味している。それでは,アケメネス朝時代には何と呼ばれていたかははっきりしない。誇り高いイラン人はこの呼び名を使用せず,現在のイランでは「タフテ・ジャムード(ジャムードの王座)」の呼称が一般的である。
ペルセポリス・ツアー
07:30にPTAの事務所で待機する。08:00にミニバンがやってきてそれに乗り込む。車は街を一回りして予約客をホテルからピックアップして出発する。今日の参加者は9名,それにガイドと運転手の総勢11名である。
郊外に出ると遊牧民の大きなキャンプが見えた。しかし,距離からして個人的にアクセスするのは無理そうだ。車は1時間ほどでナグシュ・ロスタムに到着する。ここは,アケメネス朝の4人の王墓が岩山に刻まれている。岩山は高さがおよそ50m,200mほどの連なりで周囲からは孤立しており,遠くからでもよく目立つことであろう。
墓室は岩山の高さ20mほどのところを削って造られている。下から見ると長方形の入口の2/3は内側からすだれを降ろしたように塞がれている。この入口を中心に十字架型に岩の表面が削られ,柱あるいは王の業績を示すレリーフが刻まれている。
王の墓の下にはいくつかの巨大なレリーフがある。様式は岩の表面を削って平らな面を造り,そこにレリーフを削り出したものである。これらはずっと後のササーン朝(AD226年-651年)時代のものであり,さすがに技術が進歩しており,立体的かつ精緻なものが何点か残されている。こちらは低いところにあるので十分近くで鑑賞できる。
王墓の岩山を見守るようにアケメネス朝時代の拝火教神殿跡がある。正式名称は「ゾロアスターの四角な墓」である。この切石を積み上げた四角い建造物の基壇は地下10mくらいのところにある。この不思議な構造も墓だと考えれば納得がいく。
ガイドの青年はまず英語で,続いてペルシャ語で遺跡の説明を長々と話してくれる。聞いたそのときは理解したつもりでも,時間が経つと記憶内容は散逸してしまう。ともあれ,この遺跡だけで1.5時間もかかってしまった。この日は天気がよく,強い日差しの中で長い説明を聞くのは苦痛だ。1.5リットル持ってきた水がどんどん無くなる。
ペルシャ語の説明が始まると外国人は思い思いにその辺りを歩き回る。周辺に生えている植物はアザミやとげの多い乾燥に耐えられる植物だけだ。僕は古代ギリシャ建築の柱頭を飾るモチーフはこの種のあざみだと思い込んでいたが,最近,それは別種の「葉あざみ(アカンサス)」であることを知り,世界にはいろんな知識の落とし穴があるものだということを認識した。
その間からトカゲが走り出してきた。オレンジと黒からなる尻尾の色がおもしろい。退屈なペルシャ語の説明をするガイドから離れ,カナダ人の青年と二人してトカゲを撮影する。
拝火教神殿跡と王墓の岩山
拝火教神殿跡がもう少し低いと良い構図になったのに…。この構図では左から2番目の王墓は完全に拝火教神殿跡に隠されてしまう。左から4番目の王墓は少し離れており,この構図には入らない。
拝火教神殿跡
この建物は「拝火教神殿跡」とされているがそれを証明するものは見つかっていない。アケメネス朝では拝火教(ゾロアスター教)を国教としており,王墓の場所に神殿があるのは当然だという理由から拝火教神殿跡とされている。
王墓の岩山
ここにはアケメネス朝の4人の王の墓が並んでいる。墓の主は左からアルタクセルクセス1世,クセルクセス,ダリウス1世,ダリウス2世のものとされているが確定されてはいない。このような王墓に都合のよい地形は簡単には見つからないのでアルタクセルクセス2世以降の墳墓はペルセポリス東側の斜面にまとめられている。
この聖地の呼び名である「ナグシュ・ロスタム」とはロスタムの絵図を意味しており,王たちはペルシャの伝説の英雄ロスタムになぞらえてここに葬られたようだ。
左から4番目の墳墓
この墳墓は少し離れており,かつ壁面が90度ずれている。特に墳墓の方角は重要な要素ではないのかもしれない。
左から3番目の墳墓
この岩山墳墓はもっとも写真写りがよい。この墳墓の左下には「騎馬戦勝図」,すぐ下には敵を突き倒す造形が描かれている。岩山の高さは50mほどあるので,墳墓の大きさが想像できる。左下と右隅には人が写っているがよく見ないと分からないほどだ。
騎馬戦勝図
後世のササン朝の「シャープール1世」がローマ皇帝「ヴァレリアヌス1世」や「フィリップ・アラブ1世」を破り,捕虜にした時の造形である。馬上の王がシャープール1世,手を縛られて立っているのがヴァレリアヌス1世,ひざまずいているのがフィリップ・アラブ1世とされている。
騎馬叙任式図
左側の騎乗の人がササン朝を建国した「アルデシール1世」,右側の騎乗のオールムズド神より王冠(権威の象徴)を受け取っているところである。このようなレリーフをアケメネス朝の王墓と同じ岩に刻んだのは自分たちがアケメネス朝の後継者であることを自認していたからとされている。
ナグシュ・ロスタムは僕にとっては価値ある遺跡であった
ペルセポリス
ペルセポリス遺跡は不思議な構造をしている。ゆるやかな山の斜面を削り,周辺より一段高い平らな面を造り出し,その上に建造されている。高さを強調するため低い部分は切り落としてその前面に巨大な切り石を積み上げて大基壇を構築している。
背後の山側が東にあたり,謁見の間に上がる階段は北側と東側に設けられている。古代文明では太陽の上る東側を聖なる方向とすることが多いが,ペルセポリスは西側に開けた地形を利用している。
大基壇の大きさは455m X 300m,正面の高さは18m ある。この構造物を正面から見るとピラミッドのように切り石を積み上げて基壇を構築したようにも見える。しかし,実際は大基壇の大半は自然の岩盤からできている。
ペルセポリスを描いた想像図
現在の遺跡から往時の姿を想像するのはまったく困難である。ペルセポリスの様子を描いた絵(想像図)がネット上に掲載されていたので引用してみる。原典は「"PARSA PERSEPOLIS" by Werner Felix Dutz & Sylvia A. Matheson, YASSAVOLI」であり,掲載サイトは「えだるまの世界旅行」である。建物の名称は私が勝手に入れたものである。
これを見ると多数の柱に支えられた平面的な屋根をもつ大きな建造物が大基壇の上にいくつも立ち並んでいたようになっている。石造建築に見えるが,屋根は木造,壁面は焼成レンガとされている。大基壇の上は門,建物,それを結ぶ通路だけの構成になっている。
入り口の大階段
我々一行の前には巨大な石の壁とクセルクセス門に通じる左右に分かれた階段が現れた。左右の階段は対称形であり階段→踊り場→折り返し階段により基壇の上に立つことができる。左右に分かれた階段は基壇のところで合流し,その前にはクセルクセス門がある。
遺跡保護のため,この階段は木製の階段に覆われている。石造建築とはいえ大勢の観光客が上り下りすれば,無視できない傷みが発生するかもしれない。
西から見たクセルクセス門
この踊り場付きの階段を上ると「クセルクセス門」がある。この門はほぼ方形をしており,往時は屋根のついた門となっていた。門の開口部は西と東にあり,訪問者は西から入り東から出て控えの間などに案内されたようだ。
クセルクセス門の西側には左右に巨大な「牡牛像」が彫られた直方体の壁石が置かれており,石の廊下のような構造になっている。像の頭部は立体像であり,胴体部分は壁石に立体的なレリーフとして彫り込まれている。
クセルクセス門の東側にも1対の「人面有翼獣」がある
クセルクセス門の東側には左右に巨大な「人面有翼獣」のが彫られた直方体の壁石が置かれており,東西合わせて4個の壁石と間の石柱で屋根を支えていたようだ。像の頭部は立体像であり,胴体部分は壁石に立体的なレリーフとして彫り込まれている。
東に向かう長い通り
想像図によるとクセルクセス門の東側は石柱で支えられた屋根をもつ開放型の通路(回廊)になっており,おそらくその両側には儀仗兵が配されていたのであろう。この通路の右側に謁見の間を見通すことができる。
現在はクセルクセス門の東西の門壁の間に数本の柱頭をもつ石柱が立っており,これらは門の一部として屋根を支えていたものであろう。おそらく長い回廊もこのようにして屋根を支えていたと想像する。
ホマの柱頭
東に向かう通路の途中に鳥の顔とライオンの足を持った「ホマの像」がある。古代メソポタミアでは人間と動物,あるいは動物と動物を合体させたキメラのような空想の怪獣の像が飾られている。アケメネス朝ペルシアでは有角有翼のグリフィンは特に好まれていた。
この「ホマの像」は2頭が逆向きにくっついた形をしており,その背中の部分は平らとなっている。これは建物の梁を置くためのものであり,現在の位置が往時の場所であるかどうかは不明だ。
アーパータナー(謁見の間)
アーパータナー(謁見の間)は大基壇よりもさらに一段高くなっており,6列X6列の石柱で屋根を支えていたとされている。しかし,現在では巨大な岩の残骸の向こうに数本の石柱が立っているだけだ。
石柱の最上部はライオンや牡牛を題材とした柱頭となっており,これでどのように屋根を支えたかは興味のあるところだ。地面近くに置かれている「スマの柱頭」や「獅子の柱頭」のように梁を支える構造とはなっていない。
ここは朝貢使節を迎えるための建物であり,王の権力をよりはっきりさせるため大基壇より一段高い構造となっており,東と北に階段がある。
階段は大基壇に上る大階段のように左右のものが中央で合流する構造となっている。この二方向から上る構造はどのような意味があったのであろうか。この階段の側面には有名な23ヶ国朝貢図のレリーフがある。
謁見の間|東階段レリーフ
見どころは東の階段の側面に彫られたレリーフである。これは23ケ国の属州の朝貢の様子を描いたもので,当時の各民族の服装などが読み解ける。我々が訪れた時はここでビデオの撮影が行われていた。ここでも説明が長く,ツアー客は暑さでかなり消耗していた。
「牛を襲うライオン」のレリーフはもっとも著名なものの一つである。ペルシャでは「牡牛」は豊穣の象徴であり,ライオンは高貴さや力の象徴である。そのためこのレリーフの構図については複数の解釈が提案されているが確定はしていない。
23ヶ国朝貢図のレリーフは服装や朝貢品によりどの地域からのものであるかが分かるようになっている。壮麗な建造物と精緻なレリーフは人類史上初めての大帝国を築き,200年にわたり繁栄したアケメネス朝ペルシャの偉大さを訪問者に知らしめる効果は絶大であったと推定される。
「アッシリア人」のレリーフ は羊を伴っているので分かりやすい。現在のイラク北部地方であり,アケメネス朝ペルシャに先立つ500年ほど前には強大な国家であり,いわゆる肥沃な三日月地帯を支配下に置いている。
アッシリアが滅亡後の古代オリエント世界はリディア,新バビロニア,メディナに分かれており,ある意味ではアッシリアこそが世界最初の帝国であったともいえる。栄枯盛衰の習い通り,帝国も永続するものではなく歴史上の役割を果たし,アケメネス朝の時代は帝国の一地方となっている。
ワインなどを捧げたフェニキア使節団,レリーフの一部は黒っぽくなっており写真写りはよい。おそらく,多くの人々が触れることにより皮膚の油脂が付着したものであろう。これは石にとっては汚れであり,遺跡保存の観点からは好ましいものではない。
謁見の間|北階段レリーフ
北階段のレリーフは傷みが大きく東階段のものほど著名ではない。ネット上にもあまり画像が掲載されておらず,自分の撮った写真でも説明ができない。この頃にはずいぶん疲れ果てており,注意力はかなり散漫になり,どこで撮った写真か自分でも分からないほどだ。
ダリウス大王の宮殿
この後の百柱の間やダリウス大王の宮殿などはただ通り過ぎただけである。博物館は中に入らずベンチで腰を下ろしていた。博物館の裏手には浄水器があったので持参のペットボトルに入れてようやく喉の渇きを抑えることができた。
遺跡は自分で歩くのが一番だ
ツアーの感想はと聞かれると,やはり自分の感性で自由に歩き回るのが一番だということだ。長い説明で疲れ果て,遺跡の東側にあるクーヘ・ラフマト(慈悲の山)にあるアルタクセルクセス2世の墓にも行けなかった。そこからは遺跡の全景が眺められるのに!
駐車場に戻る途中でエスファハーンの「ノマドツアー」で一緒だった香港からの三人組に出会い挨拶を交わす。