パキスタンの南西部にあるバローチスタン州は面積34.7万km2と国土の40%を占めるものの,その大半が沙漠や山地となっており人口はわずか800万人に過ぎない。
州の名前は「バローチ人の土地」を意味し,南部や東部はバローチ人が主要民族であり,北部はパシュトゥーン人が多くなる。
非常に保守的な土地柄らしく,バローチスタン州では指定都市,指定道路,指定鉄道以外の全域は外国人旅行者の立ち入り禁止区域となっている。
クエッタは人口56万人,バローチスタン州の州都で唯一の都市である。クエッタという地名は「城砦」を意味するパシュトーン語に由来している。住民の最多数派はパシュトゥーン人でバローチやハザラなど多くの民族が居住している。
そのため,パキスタンの主要言語のパンジャーブ語,ウルドゥー語以外にもパシュトー語,バローチ語,ペルシア語などが使用されており,独特の多文化的雰囲気が漂っている。
クエッタは標高1676mの高地にあるため,冬は寒さが厳しいものの,夏は平地の砂漠地帯に比べるとはるかに過ごしやすい。メロンなどの豊かな産地で「パキスタンの果樹園」としても名高い。
クエッタはアフガニスタンとの国境に近く,北西のカンダハールと道路によって結ばれている。ここからカンダハールに向かった日本人旅行者2名が強盗に殺害された事件はまだ記憶に新しい。
2007年12月13日,このページを書いている時に自爆テロが発生した。治安当局の検問に爆発物を積んだ2台の車がほぼ同時に突っ込んで自爆し,地元警察は治安部隊員6人を含む少なくとも10人が死亡したと明らかにした。この地域には多くのタリバーン兵が潜伏しているとみられている。
イラン東南部,パキスタン西南部安全情報
イランの東側の国境地帯はアフガニスタンやパキスタンと接しており,治安は良くない。この地域にはアフガニスタンから越境してきた武装麻薬密売組織が活動しており,イランの麻薬汚染は相当のレベルになっている。
これを防ぐためイランの治安当局は密売組織の取締りを強化している。その度に,武装麻薬密売組織は外国人旅行者を誘拐し仲間の釈放を要求するという事件が発生している。
僕がこの国境を通過した6月初旬はまだそのような事件も発生しておらず,十分注意すれば通過可能と判断した。それにしても,あと2ヶ月遅い時期ならば,このルートは断念したことだろう。
帰国後の11月に外務省の「海外危険情報」を見ると,イランのシスターン・バルチスタン州およびケルマン州は「退避勧告,渡航延期」となっていた。誘拐事件の発生により「渡航延期勧告」から「退避勧告」に引き上げられたようだ。
バム→ザーヘダン→国境 移動
バムのバスターミナルはまだ復旧していない。宿の主人にザーヘダン行きのバスの時刻を確認し,乗車できるところの地名をメモに書いてもらう。それを白タクの運転手に見せると,大きなロータリーまで行ってくれた。
06:15に到着し15分ほど待つとにザーヘダン行きのバスがやってきた。このバスはバムが始発ではなく遠くから夜行で来たらしく,乗客はかなり疲れているようだった。
町を出るともうそこはルート沙漠である。緑のほとんど無い風景に変わる。植物を寄せ付けない茶色の山肌と石混じりの平地がずっと続いている。バスは古代の隊商路を猛スピードで走る。
地平線まで見えるような平地に小さな盛り上がりがある。盛り上がりの上には潅木の緑が見える。潅木の根が土をつかんで風喰から守っているため,小さなマウンドができているのだ。
道路の近くに円筒形でレンガ造りの建造物が見える。最初は中国西域でよく見られる狼煙台かと思った。しかし,すぐに20数年前のNHKシルクロードのワン・シーンを思い出した。そうそう,あれは狼煙台ではなくは「道しるべ」と説明があったはずだ。
砂漠では目印なるものが少ないので,このような遠くからでも見える建造物を立てて道標にしたのであろう。広大な沙漠にあって,次のオアシスまでの道標があればどんなにか心強いことであったろう。
現在バスが走っている舗装道路は古いシルクロードそのものなのだ。周囲が山がちな地形に変わったなと思ったら,09:30にザーヘダンのバスターミナルに到着した。
ここから国境まで行くミニバスは運行されていなかった。バスターミナルの一画にタクシー乗り場があり数人の男たちがベンチに坐っている。彼らはシャルワール・カミーズを着ており,今まで見たイラン人とは一見して異なっている。
シャルワール・カミーズとは,ゆったりとしたズボンと両サイドにスリットが入った膝丈まであるゆったりした長い上着を組み合わせた服装で,パキスタンやアフガニスタンではほとんどの男性が着用している。
どうやら彼らはパキスタン人もしくはパキスタン系らしい。彼らは口々に「パキスタン国境行きのバスは無い,乗り合いタクシーに乗れ,20$だ」と話す。国境までのタクシーは1台20$,4人揃えば5$で行ける計算であるが,国境を越える人はさっぱり集まらない。
1時間間っても状況は変わらず,男たちは「2時には国境が閉まるよ」とおどしにかかる。この情報は正しかった。クエッタで再会したモンスターバイクのスイス人は,「2時少し過ぎに国境に到着し,朝まで待つことになった」と話してくれた。
結局,9万リエル(10$)で手を打つことにした。運転手は2人のパキスタン人をつかまえて出発する。国境までの道路は高速道路並に整備されており,車は時速100kmを超える速度で1時間かけて到着した。単純計算ではザーヘダンから100km以上離れていることになる。
国境通過
タクシーはイミグレーションの前まで行ってくれた。イラン側の建物はそれなりに立派である。出国手続きはごく簡単で,荷物検査も無く,出国カードすら無かった。紫色の金網で仕切られた道を歩いて行くとパキスタンに入る。たぶん金網が途切れたあたりが国境なのだろう。
パキスタン側の建物は粗末で,どの建物がイミグレーションなのかも分からない。「custom」と書かれた建物の前に坐っていた男性が「あそこだよ」と教えてくれる。ここの入国手続きもごく簡単であった。
手続きが終わると両替屋がやってくる。イラン・リヤルとの交換レートは1万リヤル=50Rpである。1$=9200リヤル=60Rpなので,本来のレートは1万リヤル=65Rpである。あまりにひどいレートではあるが,15$程度の金額なので交渉して55Rpで手を打った。
これで,当座の現地通貨はできたので雑貨屋でコーラを飲む。ビンのコーラが12Rpとこちらはまともな値段である。外に出るとさきほどのカスタムの男性が手招きする。パスポートをちらっと見ただけでお終いである。
その横にクエッタ行きのバスが停まっている。発車時間は2時間後の17:00,料金は300Rp(およそ600円)である。屋根にはすでに大量の荷物が上がっており,僕の荷物も乗せられる。
荷物が積み終わるとシートがかけられるのでそれほどほこりを被ることもない。時間があるので目立たないように周囲の写真を撮り,暑いバスの中で日記を書く。
クーイ・タフタン(700km)→クエッタ 移動
このバスは窓が一部分しか開かないのでエアコンが入るかと思っていたら外れであった。定刻の17:00に出発したバスは国境近くの町クーイ・タフタンを一回りして乗客を集める。乗客の中には荷物をバスの屋根に上げて,町に出て買物をしている人もたくさんいる。
パキスタン側も見渡す限りの沙漠が広がっている。夕陽を浴びて少し赤っぽくなった荒地をバスは走る。中央部の窓が半分明くようになっており,そこから熱風が吹き込んでくる。
気温は体温を超えており,乾ききった風は体の水分を容赦なく奪っていく。ここでは水が命綱である。1.5リットルのペットボトルは半分しか残っておらず,さてどうなることか。太陽が沈んでも温度はさっぱり下がらない。薄暗くなった外を眺めただひたすらガマンするしかない。
携帯食もビスケットだけなので心細い。道路の周辺には食堂はおろか民家もろくろく無い。しかし,夜中の12時にバスはタイヤ交換のため大停車をした。そこは小さなドライブインになっており,何台ものトラックやバスが停まっている。今まで何も無かったのだから当然といえば当然だ。
おかげでトイレ,夕食,水の問題が一挙に片付いた。もっとも,トイレは建物の裏手の荒地であり,夕食は誰かが食べているマトンカリーを一緒にいただいた。この時間帯になるとさすがに暑さは遠のき涼しくなる。
01時にバスが突然停車した。辺りには全く何もないところだ。トイレ休憩にしてはおかしい。乗客はぞろぞろと外に出るので僕も出てみる。バスのライトが消されると,途方も無い星空が見える。
周りは全く明かりのない荒地であり,空気が乾燥しているため星が非常によく見える。数え切れないほどの星々がきらめいており,あまりの多さに星座が分からない。大気が安定しているため星のまたたきも少ない。天の川はその名の通り太い川のように天空に横切っている。
旅をしているとときどき素晴らしい星空に巡り合うことがある。パキスタンのチトラール,ラオスの田舎町,中国の西域…日本ではもうほとんど見ることのできなくなった星の降る光景を楽しむことができた。
それらと比較しても今日の星空は自分の人生でもっともすごいものであった。おそらく,この先もこれほどのものにはお目にかかれないだろう。そんなすごいも星空でも,このHPを書く段になると言葉にはできても映像として鮮明には思い出せないのは悲しい。
自分ではとても星空の写真を撮ることはできないので,そのようなすごい雰囲気をもつ星空の写真を借用することにした。いろいろ調べて「星空のアルバム」から引用することにした。このサイトには息を飲むほど美しい星空の写真が多数掲載されている。僕の見た星空もこのくらいすごいものだったと申し添えておく。
光の競演は7-8分で終了し,運転手の星空サービスに感謝しながらバスに戻る。06時に太陽が顔を出す。明け方の風は涼しく,念のため長袖を着込む。しかし,2時間ほどで気温はぐんぐん上がっていく。07時に大きな峠を通過する。急勾配の道をバスは苦しそうに上っていく。峠からの下界を見下ろす景色はなかなかのものであるが,フレームが決まらず良い写真にはならない。
クエッタまでの道路はおむね良好で,少し眠ることもできた。バスは08:30にクエッタに到着した。バスにはしごが架けられ,荷物が下ろされる。15時間バスの屋根にあった僕のザックは大してほこりも被っておらず無事のようだ。
バスの周りにはタクシーやスズキの運転手が集まってくる。クエッタの鉄道駅まで100Rp と聞き少なからず驚く。せいぜい2-3kmなのにそれはひどい。たまたま荷物を運ぶスズキがいたので,50Rpの約束で乗せてもっらた。
スズキは北に向に向かう立派な道路をひたすら走る。道路の周辺には写真にしたいところがいくつかあったが,ここはバロチスターン州,非常に保守的な土地柄なので,自重した行動が必要だ。それにしてもずいぶん遠い,駅までは15kmくらいはあったようだ。
Azad Muslim Hotel
鉄道駅は南北方向の大きな通りから少し奥まったところにある。その通りに出て右に行くとすぐに東に向かうメインストリートがT字路の形で交差している。道路の両側には下水が流れており,臭いが強い。それがこの街の臭いのベースになっている。
T字路を東に行くと似たような宿が3軒あり,「Azad Muslim Hotel」に泊まることにする。門を入ると広い中庭になっており,その周囲を2階建ての部屋が囲んでいる。右側に受付があり,シングルをお願いする。
部屋は8畳,2ベッド,T/S付きである。イランに比べると清潔度は少し低い。料金は200Rpと妥当なものだ。疲れと睡眠不足を感じていたので2時間ほど仮眠をとる。
クエッタの食事
仮眠から覚めてシャワーを浴び,洗濯をする。15時間のバス移動の疲れは,少なくとも気分的には解消された。荷物を開け,写真保存用のハードディスクと予備のカメラに異常がないことを確認する。
クエッタの町にはこれといった観光名所はない。のんびりと街を歩くことにする。宿の東側にバザールがあるのでそちらに歩き出す。住人の大半はパシュトゥーン系の人であり,アフガニスタンが近いことが実感できる。たぶん,アフガニスタンの町もこんな雰囲気なのであろう。
昼食はチキン・ビリヤニ,豆のスープ,スプライトで65Rpを請求された。これは高い。ビリヤニはインド圏で普通にある「炊き込みごはん」である。使用されるコメは長粒米で,具はマトン,チキン,魚介類などが使用される。
インド圏では安い食事の選択肢はそれほど広くはない。通常,カリーのオンパレードになる。パキスタンではナン,チャパティなどのパン類似品とカリーの組み合わせが多いので,ごはんが食べたくなったらビリヤニにする。
道路には野菜などを乗せた屋台を引いた男性がたくさん見かけた。皮をむいたキューリの屋台もある。1本3Rp,これで商売になるのだろうか。小さなキューリに少し赤みを帯びた塩を振っただけものであるが,乾燥気候の中ではとてもおいしく感じる。
表通りに銃器を扱う店がある。中を覗いてみるとハンドガンから自動小銃までそろっている。パキスタンの鍛冶屋でコピー生産されたものではなく,ちゃんとしたメーカー品のようだ。
小さなモスクがある。お祈りの時間になると「アザーン」が響きわたる。少し甲高い男性の声が「さあ,お祈りの時間だよ,モスクに集まりましょう」と語りかけている。
イスラムの聖典コーランを音読する時は,ただの棒読みではいけない。独特の節回しがあり,それがちゃんとできないとコーランを読んだことにはならない。アザーンにはアラビア語が使用され,その独特の節回しはコーランを読むときと類似しているが,より音楽的に聞こえる。
小さなモスクには大勢の男性が集まる。祈りの前に手足を洗い,口をすすぐことが義務付けられている。そのため,モスクには水場が用意されている。さらにトイレもあるので緊急時にはとてもありがたい。
バザールは広場に面しており,大勢の男性が集まっている。保守的な土地柄のせいか,街では女性の姿が本当に少ない。ヤギや羊を売りに来た人たちがしゃがみ込んでいる。
カメラを向けて写真の許可をもらおうとすると,にこやかにOKを出してくれた。すると周りの人たちから「俺を撮ってくれ」という申し入れが多く逆の意味で苦労をした。
親子でやっているスイカの切り身の店はとても繁盛していた。氷で直接冷やすのではなく,ビニールの下に氷を置き,その上にスイカを並べている。注文すると細かく切って皿に入れて出てくる。これもおいしい,10Rpの幸せである。同じようにハミ瓜の店もあり,帰るときにもう一皿をいただいた。
昨日,パシュトゥーンのおじさんが食べていたのを見て僕も注文してみた。これもアフガニスタン料理で「ショルバ」と呼ばれている。今回は牛であったが羊や鶏のこともあり,大きな肉とジャガイモ,ニンジンなどの野菜を煮込んだスープであり,味は期待通りのものであった。
残ったスープにナンを浸して食べるとこれもおいしい。カワチャイ(砂糖入り緑茶)とつけて夕食は55Rpであった。ちなみに,朝食はナンとチャイで10Rp,昼食はビリヤニで25Rpであり,夕食は(僕にしては)豪華であった。
これはアフガニスタン料理
この大なべ(巨大フライパン)で焼く(揚げる)ハンバーグはペシャワールで見たことがある。大なべの底は平らなので少し傾けて油の溜まったところで焼き上げる。とはいうものの,油が多いので揚げたような感じとなる。ペシャワールで注文した時は新聞紙を皿代わりにして出てきた。
材料は羊,もしくは牛と羊のあい挽きのひき肉である。アフガニスタン料理の「チェロウケバブ」あるいは「チャプリケバブ」に相当する料理であろう。少し油っぽいけれどスパイスをふんだんに使用した味は悪くない。今回の紹介でこの大なべの名称を探してみたがまったく分からなかった。
カワチャーイ屋のポットは緑と決まっているようだ
近くのチャーイ屋に逃げ込んで甘い緑茶のカワ・チャーイをいただく。カワ・チャーイは緑茶に砂糖を入れたもので普通ポットで出てくる。一つ一つのポットに茶葉と砂糖を入れて火にかける。カルダモンを使用することもあり,個人的にはそちらの方が好みだ。
この店ではその部分を省略して,大きなヤカンからポットにお茶を入れていた。僕が注文するとそのプロセスも省略され,直接カップに入れてくれた。カワ・チャーイはアフガニスタンあるいはパシュトゥーンの文化のようだ。パキスタンでもアフガニスタンとの国境地帯でとくによく見かけた。
スイカはおいしそうだが・・・
日本と同様にスイカに季節があるかどうかは分からないが,クエッタの街ではいくつものスイカ露店を見かけた。スイカを氷で冷やすサービスも現在では当たり前になっている。
問題はその氷の衛生状態である。氷の元なる水の清潔さ,氷の扱い時の衛生管理のどちらかが怪しいと旅人にとっては危険なものとなる。通常,僕は冷やしていないものを選択することになる。旅を続けるためには健康がすべてに優先する。
駅の前は何もないコンクリートの広場になっており,スイカの屋台があった。ここのスイカは氷で直接冷やしてあり,ちょっと危なげではあったが,冷たい誘惑には勝てずいただいてしまった。後の腹具合は「インシャラー(神のみぞ知る,神の御心のままに)」である。
アンズとザクロのジュース
小さな台の上に氷で冷やしたジュースを並べている露店もある。色から判断すると赤いものはザクロ,オレンジ色のものはアンズのようだ。さすがに氷を直接使用したこのジュースは遠慮する。
さとうきびジュース屋は電動化されている
代わりにサトウキビのジュースをいただく。こちらは15Rpで宿の近くにもたくさん営業していた。暑さと乾燥のため冷たいものをいただく回数が増える。この飲み物も何も指示しないと氷で冷やしてくれるので,氷を使用しないようにとあらかじめ伝えておく必要がある。
露店・移動販売・固定家屋販売
南アジアのキューリは日本のような細いものではない。直径は日本のもののゆうに2倍はあり,食べごたえは十分だ。露店ではキューリの皮をむいて,赤っぽい色のついた塩を振りかけてくれることが多い。
市内の足は派手な装飾のミニバスと三輪タクシーである
ロバ車が荷物運搬に活躍している
自動車が増えているとはいえ,ロバ車はまだまだこの地域の重要な運搬手段である。
市場は男性の姿が多い
これも保守的なムスリムの土地柄のため,市場にいるのはほとんど男性である。売り手も男性ならば,買い手も男性である。おそらく,女性が買い物をするときは男性のエスコートが必要なのだろう。
キルトは良いお土産になりそうだ
よく分からないがこのような布を「パッチワーク・キルト」というのであろう。きれいな布を縫い合わせたパッチワーク・キルトはタール砂漠周辺でよくみかける。特にインド側の遊牧民は小さな鏡を利用したすばらしい布を作る文化をもっている。
山がけっこう近くまで迫っている
クエッタの夜は暑い,気温だけなら日本の熱帯夜以上である。ファンを弱にして寝ることにする。砂漠気候なので明け方は気温が下がり,ファンを止めてポロシャツを着こんで気持ちよく眠れた。
06時に起きて日記を書こうとすると停電である。この街では日に2-3回は停電が起きる。切りの良い時間に発生するので計画停電なのかもしれない。
朝食は宿の近くの食堂でいただく。その前にパン屋に寄って焼きたてのナンを買う。チャーイとナンの組み合わせはごく標準的な朝食メニューである。ナンはとてもおいしいけれど,せいぜい半分しか食べられない。
必要なカロリーがちゃんと摂れているか心配だ。旅行に出ると,毎日よく歩くこともあり体重は確実に落ちる。それでも,あるところで下げ止まりになるので,そのあたりが摂取カロリーとの平衡点らしい。
駅で列車のチケットを入手
クエッタからラホールを経由してラーワルピンディまでの列車のチケットを買うため駅に行く。駅舎はかなり立派なものである。建物には英語で「RAILWAY STATION QUETTA」と表記されおり,その上部にアラビア文字表記,さらには屋根の上に大きなアラビア文字の看板が掲げられている。
内部の壁には1935年の地震で殉職した職員の名前が刻まれたプレートがあった。イラン高原からインドの西海岸に至る地域も地震の多発地帯である。2005年に発生したパキスタン北部地震はまだ記憶に新しい。
この地域では比較的浅いところにある活断層が動くことにより発生する地震が多い。そのため,地震の規模はそれほど大きくなくても地表の揺れが大きい。
レンガ造りの脆弱な建物は簡単に崩壊し,瓦礫の下敷きになって大勢の死者が出ることになる。1935年にクエッタで起きたマグニチュード7.5の地震では5万人が死亡している。
ラーワルピンディまでの移動距離は1350km,所要時間34時間の大移動である。パキスタン国有鉄道には1等と2等の車両がある。1等車の料金は3000Rp近いのに2等車は685Rpとおよそ1/4である。僕は知らなかったがパキスタンには外国人料金があり,半額で乗ることができたようだ。
この界隈は門扉を扱う鉄工所が集まっている
今日は宿の南側を歩いてみる。南に向かう市内バスに乗って適当なところで降ろしてもらう。この地域には金属加工の小さな工場が集まっている。
材料や完成品を運ぶロバ車が待機している
道端にはロバ車が停まっており,注文が来ると重い金属製品を運ぶことになる。ここではロバ車が運送の重要な役割を担っている。南北の大通りでも自動車に交じりたくさんのロバ車を見かけた。ロバ車の写真を撮ると,子どもも大人も集まってきてちょっとやりづらい。
モスクを発見する
建物の2階に小さなモスクがある。アザーンが始まると男たちが集まり,指導者の動作に合わせ集団で祈りを捧げる。僕が入口で写真を撮っていたら,「中に入りなさい」とお誘いがかかった。しかし,ここは宗教的に保守的な地域なので辞退する。すると,「大丈夫だから」と再度,促され中に入ることにする。
中に入るといっても礼拝の時間なので礼拝のジャマにならないように入り口付近で写真を撮ることにする。クエッタの住民の多数を占めるのはパシュトゥーン人であり,パキスタン・アフガニスタン国境近くに独自の社会制度をもっている。
ロシア南部から中央アジアを経由して移動してきた原アーリア人の血を比較的よく残している民族とされており,体格はとてもよい。
勇猛な民族であり英国がグレートゲームの時代にアフガニスタンに歩を進めたときは彼らの激しい抵抗にあい断念した。敬虔なイスラム教徒である彼らはほおひげを生やし,いかつい印象を受けるが旅人にはとても親切であり,この町でもまったくいやな思いはしていない。
女性の服装は華やかになる
イランでは外出時の女性は黒いチャードルを着用しているが,パキスタンに入ると華やかな色彩になる。それでもクエッタは保守的な土地柄であり,肌を露出したり,髪を見せることはない。
水を運ぶ
宿の入り口近くで子どもたちが大きなペットボトルに入れて水を運んでいた。感じの良い写真のお礼にヨーヨーを作ってあげようと部屋までついていく。
すると,なんと合わせて6人の子どもたちが両親と一緒に現れた。ということで6個を作り,集合写真を撮る。年齢を考えるとほとんど年子に近い。これでは人口増加が社会問題となるわけがよく分かる。
パキスタンの2000年の人口増加率は2.3%,2010年でも1.8%である。人口増加率1.8%という値は32年間で人口が1.76倍(1.01832= 1.76)になる計算である。1986年に1億人であった人口は2010年には1.7億人に達し,2013年度中には2億人に達すると予測される。