亜細亜の街角
腹具合が悪く4日間停滞する
Home 亜細亜の街角 | Rawalpindi / Pakistan / Jun 2007

ラワルピンディ  (地域地図を開く)

ラワルピンディは面積108km2,人口304万人(2006年),パキスタン北部の中心となる商業都市である。ラワルピンディの北には隣接してパキスタンの首都イスラマバードがある。

イスラマバードは都市計画に基づく人工都市であるが,古くから都市化が進んでいたラワルピンディは人々のエネルギーに溢れる生活都市である。また,2009年12月10日の人質立てこもり事件により,ここには軍司令部が置かれていることが分かった。

この襲撃事件の前後にパキスタン軍は(米国の強い要請に基づき)北西部の部族地域・南ワジリスタン地区を拠点とする武装勢力の掃討を開始した。

この地域はイスラム過激派のパキスタン・タリバーン運動の根拠地となっており,司令部襲撃はその報復テロであり,さらなるテロの続発が懸念される。

パキスタン・タリバーン運動のテロに触発されたかのように,シーア派とスンニ派の宗教対立による自爆テロも頻発しており,とても旅行で訪問できるような状況ではない。

僕がパキスタンを訪れた2007年夏頃はまだそれほど危険な状況ではなかった。わずか2年の間に状況はひどく悪化してしまった。これは,武装勢力が突然力をもつようになったためではない。

長い間,パキスタン軍とイスラム武装勢力はある種の依存関係をもってきた。政治に対する国軍の影響力を維持するため,対外的な緊張を作り続けることが軍の基本戦略であり,その舞台はカシミールやアフガニスタンであった。

カシミールで展開するイスラム武装勢力は「自由の戦士」であり,決してテロリストとは呼ばれていない。アフガニスタンを追われたタリバンに対しても,少なくともムシャラフ政権は寛容であった。彼らを通じてアフガニスタンに一定の影響力を維持できると考えたからである。

しかし,アフガニスタンにおける治安の安定が至上命題となった米国の要求を受け入れ,イスラム武装勢力との対決姿勢を明らかにすると,武装勢力は反政府武装勢力となり,テロの矛先は政府や軍部に向いたということである。単にいびつな蜜月時代が終わっただけということだ。

また,多様な民族と言語をもった集団からなるパキスタンにおいては,イスラムと軍は国を統治するため最大の求心力となっており,その意向に反することはそのまま政府の崩壊につながることになる。

イスラム武装勢力の台頭はパキスタン政府の失政の結果ではなく,政府・軍部の一貫した政策によるものである。今後も過去のつけを清算するためパキスタンは国内テロという重い代償を払わなければならないだろう。

パキスタン北部にはラホールからラワルピンディを通りペシャワールに至る幹線道路がある。現在はGTロード(グランド・トランク・ロード)と呼ばれ,アジア・ハイウエィ1号線の一部となっている道路は,アレクサンダーの時代からインド世界と中央アジアを結ぶ重要なものであったことだろう。

ラワルピンディはこの地の利を生かして商業都市として発展した。街は北側の旧市街,南側の新市街からなり,僕は前回と同じように新市街に滞在することになった。

クエッタ(1350km)→ラワルピンディ 移動

クエッタからラワルピンディまでは1350km,ラホールを経由して34時間の列車移動である。列車の出発は10:45なので,ピンディ到着は翌日の20時から21時になる計算だ。

クエッタの駅に到着すると韓国人の旅行者に出合った。外国人かつ学生のため料金は通常の1/4になるという。僕があきらめた1等車が700Rp弱だという。

しばらくして列車が入線した。車両にはチョークで番号が書かれているので容易に2号車は見つかった。列車の中は大きな荷物で埋まっている。入口の一つは完全に荷物でふさがれた状態だ。

2等寝台車は3段の寝台と通路を挟んで一人掛けの座席が向かい合っている。つまり,一つのブースの定員は7人ということになる。

座席の下の空間はすでにいっぱいであり,足元にも大きな荷物が置かれている。上の寝台の上にも軽い荷物が置かれた状態である。メインザックを上の寝台に乗せ,とりあえず自分の席を確保する。

僕のブースには10人の男性がおり,これでどうやって寝るのかと不安がよぎる。出発前に車掌は窓を閉め,日除けを下ろすよう指示する。車内にはファンがあるだけなので窓を閉め切ったら大変なことになるのは容易に想像がつく。

車掌が窓を閉めるように指示したのは埃と熱気のせいであろう。道路ならいざしらず,列車の窓から砂埃が吹き込んでくるのはちょっとした驚きである。

また,イラン国境からクエッタまでのバスでも経験したが,外気温が体温くらいにまで上がると,風は熱風となリ,風が当たるとかえって暑さを感じる。また,体から水分が奪われるので水の補給が欠かせない。

車掌がいなくなるとみんな窓を開ける。列車は定刻に出発した。クエッタを離れるとアドベの壁に囲われたところにテントを張っている住居をいくつか見かけた。「囲う」ということは安全を確保するための必要条件になっているようだ。

荒地にまばらに草が生えているところでは,羊の群れを何回も見かけた。走行中の列車から写真を撮るのは容易ではない。「あっ,いいな」と思っても,景色はすぐに通り過ぎてしまうからだ。フレームを調整する時間は全くない。

12時,15時に大きな駅で停車する。温度は40℃,今年のバロチスタンの猛暑は一段と厳しい。窓から吹き込んでくる風は乾いた熱風である。ほこりもひどく,座席のシートに手をやるとざらざらしている。

線路の周辺には歩いてみたい村をたくさん見かけた。列車が通ると手を振ってくれる子どもも多い。しかし,ここバロチスタンでは外国人は鉄道線路と幹線道路以外は立ち入り禁止となっている。

この路線の問題は食事である。車内販売は全く無いので大きな駅に停車したとき買いに出なければならない。停車時間はまったく不明なので,他の乗客の動向を横目で確認しながらの買物になる。

同じブースの乗客はときどき外に出て飲み物を買ってきたり,ペットボトルに水を汲んでくる。氷を入れたクーラーボックスを持っている男性がおり,水を中にいれ皆で飲む。さすがに僕はその水を飲むことはできない。小さな氷のかけらをもらい額を冷やすと気持ちがいい。

昼食として朝のナンを食べようとすると,向かいの男性がランチボックスをあけて,ビリヤニをふるまってくれた。同席の人々はチャパティで昼食をとる。僕も1.5リットルの清涼飲料水とケーキを買ってきてみんなでいただく。

22時になると上の固定寝台から荷物が下ろされる。中段の可動寝台も固定され,寝る体勢に入る。みんなでチケットを確認しあって寝台の場所を決める。僕は上段となった。

横になってみると裸電球がすぐ頭上にありまぶしい。転落防止のための金具は付いていない。頭を通路側にしてハンドルを握って寝る姿勢を確認する。03時に目を覚ますと腹具合がおかしい。トイレに行くと完全な下痢状態である。

下痢が始まる

昼までに2時間おきにトイレに行くことになった。脱水症状を防ぐため30分おきに一口づつ水を飲む。下痢の症状は比較的安定していたのでその点は助かった。また,列車ではいつでもトイレに行けるので精神的にも楽である。

昼を過ぎても症状は良くならない。食事はとれずジュースと清涼飲料水を何回か口にする。列車はパンジャブ州に入り風景は緑豊かな農地に変わる。しかし,下痢のことが気になり写真を撮る気力がすっかり減退する。

大きな川を3回渡った。インダス川とその支流に違いない。水をどこから調達するのか水田もある。緑が一段と濃いところは苗床で,これからの雨を頼りに田植えを行うのであろう。

半分眠っているような状態なので時間の経過は速い。午後になると僕のブースのメンバーも一人,また一人と下車していった。荷物も少なくなりスペースに余裕が生まれる。

30時間も一緒にいると,会話はそれほど交わさなくても情がうつる。軽く抱き合って彼らとお別れする。こういうのって何だかとてもいいね。腹具合は午後になっていくぶん安定してきて,トイレに通う回数も減ってきた。

パンジャブ州に入る

パンジャブ州は肥沃な農地に恵まれ,パキスタンでもっとも豊かな地域である。それでも線路の周辺には多くの粗末なテントが並び,人々はそこで生活している。どうしようもない貧しさ,それもパキスタンの一部である。

農村には水牛が多い。機械化が進んでいるとはいえ,広大な田畑を耕すのは彼らの仕事だ。水牛のためかどうかは分からないけれど多くのため池があり,そこは水牛の天国になっている。その名の通り彼らは水に入ることが大好きなのだ。大きな川の浅瀬は子どもたちと水牛でにぎわっている。

猛暑のパンジャブ州では大人も水に入る

列車はラワルピンディまであと10分というところで(時間調整のためか)1時間近く停車した。20:30にようやく終点に到着し,残った3人は肩を抱き合ってお別れする。

Hotel Al-Azam

宿は駅からさほど遠くない「Al-Azam」にする。旧市街の三叉路の角地に立っており,とてもよく目立つ。ここは2004年に宿泊したところだ。当時でもかなり老朽化していたがなんだか一段とひどくなったような気がする。

僕の部屋は6畳,2ベッド,トイレ・シャワー付き,清潔度は良くない。取り得は大きな窓とベランダに出ることのできるドアがあることくらいだ。2004年はネズミが出てきて食料の管理に苦労したことがある。今回も外出する時は食料を袋に入れ,壁につるしておいた。

さすがに腹具合がひどかったのでほとんど外出せず,近くの店で食料を買い込んで,部屋の中で過ごすことになった。4日目の朝には下痢はかなり改善されたが,用心のためもう一日滞在することにする。結局,4日間も滞在したのに気合が入らず,街の写真はほとんど撮らなかった。

そのため,僕の旅行記としては珍しく写真が不足することになったので,2003年に訪問した時の写真を流用することにする。

ラワルピンディで停滞する

下痢の症状が快復するまでラワルピンディには4日間滞在した。下痢と同時に発熱,嘔吐,ひどい腹痛がある場合は細菌性なので病院に行ったほうがよい。

それらの症状が無い場合は,出すものを出して胃腸のバランスが戻ると自然に下痢は回復する。下痢止めの薬は体が必要としている排泄を妨げるので避けた方がよい。今回の下痢はなかなか根性があり,直るまで4日間も必要であった。

だいたい,旅行を始めて1月くらいのところで下痢をすることが多い。長期旅行における一種の通過儀礼のようなものだ。この下痢により僕の胃腸は旅行モードに切り替わり,その後の5ヶ月はほとんど腹具合が悪くなることはなかった。

旅先でひどい下痢(非細菌性)になると僕はヨーグルト,リンゴジュースで胃腸のバランスを回復させる。今回も発症の2日目と3日目は1リットルのジュースを飲みと500ccのヨーグルトを食べていた。

ORS(経口補水塩,Oral Rehydration Salt)も試してみた。ORSは薬局で扱っており1袋7Rpである。この1袋を1リットルの水に溶かして,決められた時間間隔で飲用する。

粉末状のORSには食塩とブドウ糖が一定比率で入っている。小腸でナトリウムイオンとブドウ糖が吸収されるときに水も一緒に吸収されるので,水を単独で飲んだときよりも吸収効率が良い。

発展途上国では感染性の下痢等による脱水症状で多くの子どもたちの命が失なわれている。それらの国では点滴等の治療は困難な場合が多く,ORSは手軽な治療方法として普及している。

発展途上国では重宝されているORSではあるが,ぬるい水で溶かしたこともあり,それほど飲みやすいものではない。1袋分を飲んで終了し,あとはリンゴジュースをいただくことにする。

ラワルピンディでビーチサンダルを購入した。イランのシャワー室は清潔なので裸足で入ることができたが,パキスタンになるとちょっと躊躇することがある。そんなときビーチサンダルがあるとそのままシャワーを浴びることができるし,室内履きとしても使用できる。

雷雨

4日間の滞在中,雷雨が2回発生した。雷雨の前触れとして風が吹く。雷鳴が聞こえて夜空が明るくなる。10秒に1回は光が走る。じきに雨がやって来て土砂降りとなる。

通りが騒がしくなり,それは雨を喜んでいるようにも聞こえる。雨が吹く込んでくるのでベランダの戸を閉めて,窓越しに自然のスペタクルを眺める。翌朝,宿の前の通りは泥の海になっている。このあたりは土地が少し低いため泥がたまるようだ。そういえば,4年前にも同じ光景を見たような気がする。


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