ギルギットはパキスタン北部に位置しており,地域最大の町である。ラワルピンディからは川沿いの峡谷を北上していくことになる。北から下ってきたフンザ川と西からのギルギット川がギルギットのあたりで合流し,さらに南下して東からのインダス川と合流している。
ギルギットからさらにフンザ川を遡っていくとフンザ地域に入る。渓谷の道は「カラコルム・ハイウェイ(KKH)」と呼ばれており,「ススト」,「フンジュラブ峠」を越えて中国の「カシュガル」に通じている。
ギルギットから先はカラコルム山脈の7000m級,8000m級の高峰を間近に見ることのできる風光明媚な村落が点在しており,旅行者の人気は高い。ギルギットはその入り口の町であり,近くには空港もある。また,ギルギットから少し南下し,インダス川沿いに東に向かうとスカルドゥの町があり,このルートはインダス川の峡谷とナンガパルパットの風景を楽しむことができる。
この地域には多くの民族が居住しており,宗教もイスラム教のシーア派,スンニ派,イスマーイール派(シーア派)が混在している。僕が2004年と2007年に訪問した時は北の玄関口にあたるスストからギルギットまでは平和そのものであり,美しい風景と懸命に生きる人々の営みを見ることができた。しかし,この地域はときどきシーア派とスンニ派の武力衝突が発生している。
2012年4月初旬にはパキスタン北部でイスラム教スンニ派とシーア派住民が衝突し,ギルギットと近郊のフンザで日本人観光客や旅行者77人が足止めされた。
陸路の移動は難しい状況であり,日本政府の要請によりパキスタン軍のC130輸送機が4月8日にギルギットの空港に到着した。ギルギット地域およびフンザ地域に足止めされている日本人は全員この輸送機に乗り,イスラマバードのチャクララ空軍基地に到着した。
このニュースは日本でも大きく報じられており,「平和な桃源郷」というフンザのイメージは大きく損なわれた。僕も重宝している「旅行人」というガイドブックを発行している会社の運営している「遊星旅社」の掲示板には以下のような書き込みがある。
旅人:2012/05/12(土)
2011年10月12日よりスストでのビザ・オン・アライバルは発行していませんし,その前から第3国での取得はできません。またカラッシュでは護衛のため警察がついてきます。彼らの宿代,食べ物は旅行者持ちです。
今は収まっていますが,4月にギルギットでスンニ派とシーア派の武力衝突が2005年の時以来ありました。旅行者にとって、今年も最悪のタイミングです。ギルギットの日本人宿も昨年末で14年の歴史を閉じました。同じくギルギットのマディナGHも今年は1日に2人ぐらいしか宿泊者がいないみたいで、オーナーも今後のことを考えています。
「ギルギットの日本人宿」というのは今回僕が泊まった「New Tourist Lodge」のことであろう。この居心地の良い宿が閉鎖されたのはとても寂しい。ということはフンザの宿のいくつかも同様に閉鎖された可能性がある。
シーア派とスンニ派の違いなどはそれほど大きなものではないし,イスラムの大義は「イスラム教徒は一つ」である。武力衝突に発展することなどは宗教心の薄い日本人は信じられないことである。しかし,現地では宗教が生活の多くの場面に浸透しており,外部から見るよりはるかに複雑な問題を抱えているのかもしれない。
ラワルピンディ→ギルギット 移動
下痢はようやくおさまったようなので今日は北部に移動することにする。昨夜の雷雨で宿の前は泥の海になっており,歩くルートがない。この辺りは少し低くなっているため水がたまりやすいようだ。隣の建物づたいに移動し,安全地帯にたどりつく。
近くの食堂に出かけ,ビーフシチューとナン,チャーイで朝食(65Rp)をとる。ナンをスープに浸して食べるのが地元の食べ方である。肉もナンでつまんで食べる。
この芸当はちょっと難しいので僕はスプーンでいただくことにする。肉はずいぶん煮込まれたせいかとても柔らかい。スープもよい味を出しており,久しぶりのまともな食事は充実感がある。
強い日差しは戻ってきているものの雨上がりのためとても涼しく感じられる。しかし,午後になるといつものように埃っぽい街に戻ることだろう。宿に戻り,宿の本棚にあった「アラビア夜の種族」という日本語の文庫本を読み終える。
千夜一夜物語にナポレオンのエジプト遠征を結合させたような奇妙な物語であった。この3冊の本は4日間の停滞の暇つぶしにずいぶん役立ってくれた。
昼少し前にチェックアウトしてGTSモスクの横からスズキに乗ってフォワラーまで移動する。そこからピール・ワダイBTまではバイクの後ろに荷台(背中合わせで6人が乗れる)を付けたもので行く。これは初めてみる乗り物だ。
到着したところはタクシーとスズキの溜まり場になっており,建物の向こうは巨大なバスターミナルになっている。ギルギット行きは複数のバス会社が運行している。
前回,シャンドール越えでお世話になったNATCOのオフィスは中央付近あった。チケットを買おうとすると19時発のものしかない,しかも座席番号は35,残りわずかなところであった。
PIA(パキスタン航空)のギルギット便がもう3日間も飛んでいないのでバスは混んでいる。昼間に移動してカラコルム・ハイウエィの南側の景色を見たかったが,それは諦めるしかない。
定刻に出発したバスは夕暮れの街を北に向かって走る。じきに雨が降り出した。800Rpのバスはエアコンが入っており快適だ。しかし,道路状況は悪く,振動とくに上下動がひどい。ギルギットまでのルートにはNATCO直営の休憩所がいくつか用意されている。バスは2-3時間おきに停車してくれた。
朝食休憩
06時にダスーのNATSCO食堂で朝食休憩となる。食堂の裏手にテラスがあり,その下には灰色のインダス川が流れている。ギルギットから南に下ってきたギルギット川はギルギットの10km南で東から来たインダス川と合流する。
前回の旅行ではギルギットからシャンドール峠に抜けたのでカラコルム・ハイウエーを流れるインダス川を初めて見る。カラコルムから流れ下るギルギット川とヒマラヤに源をもつインダス川の合流点はもう近い。
周辺の山はそれほど高くはないし,雪もいただいていない。川の対岸にはわずかな平地があり,そこにも数軒の家が見える。その背後の斜面は樹木が意外と多い。
ここでは薄いナンとカリーの朝食は可能であったが,じきにギルギットに到着するのでビスケットとお茶だけで済ませた。
インダス川の風景
道路はインダス川に沿った峡谷を走り,明るくなると眼下には青緑色の水をたたえたインダス川が見える。この風景を眺めているだけでもここを移動する価値はある。
2回目の検問所
10時には2回目のパスポートチェックがあり,ギルギットのBTに到着したのは11時であった。今にして思えばこの検問所はパキスタン・タリバーン運動のメンバーが北部に浸透するのを防ごうとしていたのかもしれない。しかし,パキスタン軍とタリバーンの関係は相当不透明なところがある。
New Tourist Lodge
町までは距離があるのでスズキに乗り,なつかしの交差点で降ろしてもらい,しばらく歩いてギルギットの日本人宿New Tourist Lodge に到着する。ここのスパゲティはなかなかのものなので,朝食兼昼食としていただく。
ここはほとんど日本人宿となっており,今回の宿の顔ぶれにはAさん(女性,70代)とBさん(男性,60代)がおり,食事係としてリーダー的な存在となっていた。その他,Cさん(女性,20代),Dさん(男性,30代)と多彩な顔ぶれが揃っている。
彼らは僕と同じようにカシュガル経由キルギス行きを計画していた。カシュガル発オシュ行きの国際バスは週1便月曜日(水曜日は不定期)なので,7月2日のバスに乗ることで計画がまとまった。それまでには2週間ほど間があるので,僕はスカルドゥ,フンザ,スストを回り,カシュガルで日にちを調整することにする。
Aさんからは煮物等でしょうゆをごく少量で味付けする秘訣を教えてもらい,その技術は遠くアルメニアで役に立った。Cさんがスイトンを作りたいと言い出し,小麦粉をこねるところから始めた。しかし,さっぱりうまくいかない。日本に戻ったら粉のこね方ぐらいはマスターしておこう。
wipedia にはつぎのように記載されていた。
@小麦粉1kgに対しぬるま湯または水500-600cc を使用
Aかき混ぜてそぼろ状にし器の中で一つにでまとめる
B10分程度こねてグルテンの生成を促し粘りを出す
C練り終わった生地を1時間程度寝かせる
D生地全体に水分を行き渡らせて熟成させる
E具材として野菜や肉を煮て出汁を加える
F生地を適当な大きさに千切ってだし汁に入れ煮る
Gすいとんに火が通ったらネギ等の薬味入れる
生地は塩は使用しないでもできそうなのでどうしてうまくできなかったのか不明だ。もしかしたか小麦粉そのものに理由があるのかもしれない。
小麦粉にはグリアジンとグルテニンというたんぱく質が含まれており,水を加えてしっかりこねることによりグルテンというたんぱく質に変わる。このグルテンが粘りの元になる。しかし,我々が試行した時はまとまった生地ができなかったのでこねる工程以前のような気もするが…。
パキスタンの北部山岳地帯ではリンゴの木をよく見かけた。しかし,摘果はまったく行われておらず,実はほとんど自然にまかされている。そのため,数は多いものの小さなものが多い。この木も日本に比べて3-4倍の実がたわわに付いている。
ギルギット川の吊り橋
この吊り橋は地域で唯一の自動車が通行可能なものであり,地域交通の要となっている。現在のものは鉄骨の支柱で支えられているが,2004年に訪問した時は,画像で現在の橋の向こう側にある石造りの支柱のところに橋はあった。
個人的には昔の橋の方が風情があり好みであるが,時代の流れはいかんともしがたい。写真を撮っているとき,大型バスが通行していった。吊り橋はたいして揺れることもなく安定している。
ギルギット川の風景
ギルギット川の水源は氷河をもつ周辺の山々からの融雪である。今年はまだ6月なのに水量はずいぶん多い。氷河を水源としているため,灰色に濁っている。これは,氷河が移動中に下部の岩盤を削った細かい土砂を含んでいるためである。
実際には氷が岩盤を削るわけではない。氷河に含まれている岩石が下の岩盤を擦りながら移動していくためである。氷河の融雪水(融氷水)をそのまま使用しているフンザの水は,薄い灰色をしており,そのままにしておくと非常に細かい岩石(雲母)のかけらが沈殿する。
見事な石垣
毎度のことながら,パキスタン北部の人々の石組みの技術には驚くばかりだ。自然石を組み合わせてきれいな石垣の面を造り出す。
ギルギットの吊り橋を渡る
新しいつり橋はさすがにしっかりしており,これなら大型バスが通行しても問題ないだろう。
この男性用帽子はよく見かける
ギルギットから西のチトラルにかけてこの「パルコ」と呼ばれるフェルトの帽子を被った男性が多い。アフガニスタンからパキスタン西部にかけて居住するパシュトゥーン人はタジク人とともにかってロシア南部から移動を繰り返してきた「原アーリア人」の特徴をもっとも色濃く残している民族とされており,どうもこの帽子は彼らのお気に入りのようだ。
もっともパキスタン北部のパシュトゥーン人でも例えばペシャワールのように低地に居住している人はこの帽子を着用せず,円筒型の白い帽子が主流である。そのペシャワールにもこの「パルコ」が売られていた。おそらく,「パルコ」は山岳パシュトゥーン人の文化なのだろう。もっとも,山岳パシュトゥーン人ではなく特別な呼び名があるのかもしれない。
パーク・ロードの街並み
ここは2004年に訪問した時とほとんど変わっていない。この地域では5年くらいではほとんど風景が変わらないところがいいね。
長い棒をもった天秤ばかりではなく,近代的な上皿天秤が使用されている。棒型の天秤ばかりでは基本的に基準重りが固定されているのでモーメント計算により重さを算出しなければならない。
それに対して上皿天秤なら基準重りが複数用意されており,被測定物(スイカ)と基準重りのつり合いによりそのまま重さが算出できる。そういえば,二人の男性は「パルコ」というフェルトの帽子を被っている。
小麦畑で収穫が行われている
麦の刈取りというよりは引き抜くことが多いようだ。日本では稲わらで束ねるが,ここでは引き抜いた麦で縛って束を作る。束どうしを支え合わせて立てて乾燥させる文化は日本のチガヤや葦を乾燥させるのと同じ方法である。
ジャマ・マスジド(モスク)
ギルギットのあたりではギルギット川は西から東方向に流れ,川沿いに町は広がっている。ジャマ・マスジドは西の外れにあり,道路が微妙にカーブしているため,「NLIロード」の先にモスクが立っているような構図となる。
コーラン(クルアーン)には1日5回の礼拝と礼拝の前に身を浄めなければならないことが記されている。そのためモスクには必ず水で洗う設備が付属している。このモスクで礼拝するのは男性だけであり,彼らは身を浄めてから礼拝堂に入る。それでは,女性はどうするのという質問がきそうであるが,多くの場合,自宅で礼拝するようである。