亜細亜の街角
旧市街の迷路を散策する
Home 亜細亜の街角 | Kashan / Iran / May 2007

カーシャーン  (地域地図を開く)

カーシャーンはテヘランとエスファハーンのほぼ中間に位置するオアシス都市である。古くからタイルとじゅうたんを産する工芸の町として知られてきた。じゅうたんはサファビー朝の時代から名品が作られ高い評価を受けてきた。

タイルは主としてモスクの表面を飾るために制作されるもので,カーシャーンでは12世紀にイラクから伝わったとされるラスター彩(*1)のタイルが生産され近隣諸国に輸出された。エスファハーンのモスクを飾るタイルもここで生産されたものが多い。

*1)ラスター彩は釉薬を施して一度焼成したものに再度特殊な釉薬で絵付けをして比較的低温で焼くことにより,釉薬中の金属成分が金属の形で表面にとどまるため,金属光沢をもつタイルとなる。

カーシャーンに周辺にはいくつかの名所となっている町や村が点在している。南東70kmのところにあるナタンズはイラン核開発として世界的な問題となっているウラン濃縮施設がある。この施設のためイランは米国はもとよりヨーロッパ諸国との関係が悪化している。

ガムサル村はバラの原種に近く,もっとも香がよいとされる「ダマスク・ローズ(イランではゴーレ・ムハンマドと呼ばれている)」から抽出されたエッセンシャル・オイルやローズ・ウオターの産地として著名であり,日本にも輸入されている。


ゴム→カシャーン 移動

薬のおかげで咳き込むことが少なくなり昨夜は良く眠れた。しかし,起きているときは日に何度か咳き込むことがあり,まだまだ薬のやっかいにならなければならない。

ムハンマドさんの家でお母さんが作った朝食をいただき荷物をまとめる。2日間お世話になったお礼を言って出発する。ムハンマドさんは通りに出てタクシーを拾ってくれた。これでイランで最初の友人ともお別れである。宿泊,食事,観光と彼には本当に世話になった。

タクシーはバスが停まっているところに行ってくれたが,カシャーン行きのバスは無かった。ということで乗り合いタクシーを利用することになった。料金は3万リヤル,これが適正かどうかは分からない。後部座席に3人の女性がいるので彼女たちがいくら支払うかをチェックし,差額が大きい場合は文句を言うつもりだ。

タクシーは南に向かう高速道路を時速120kmで走る。助手席の僕はシートベルトをしっかり締めて,あとは運を天に任せるしかない。イスラム的に言うならば「インシャラー(神の御心のままに)」ということだ。

右側に昨日登った「岩山のモスク」が見える。昨日の眺望はゴムの街を南から北に向かって見ていたことになる。道中の風景はほとんどが荒地である。時々,水の便のあるところでは畑や樹木が見られる。

およそ1時間でカシャーンに到着した。女性たちは2万リヤル札を含め3人分をまとめて支払ったので一人分の料金は分からなかった。まあ,仕方がないので当初の3万リヤルを払うことにする。

メフ・モンバジホテル

ゴムからのタクシーが到着したのは公園の前であった。地図は無いし宿情報も無いので,その辺の人に「安宿はありませんか」とたずねると,タクシーを呼んでメフ・モンバジホテルに行ってくれた。どうやらこのあたりが街の中心部のようだ。

メフ・モンバジの料金は朝食付きでシングルが12万リヤル(13$),ツインが16万リヤルとお高い。ディスカウントの交渉をしてみたがまったく無駄であった。一度外に出て30分ほど他のホテルはないかと探してみた。残念ながら他の安宿は見つけられなかったのでメフ・モンバジに宿泊することにする。

名刺をもらい確認すると宿の正式名称は「メフ・モンバジ・モンターズ・レジャヴァディ(カタカナ表記は怪しい)」というらしい。部屋は6畳,2ベッド,T/S付き,冷風装置付きで清潔である。

床にはじゅうたんが敷いてあり,裸足で歩くことができる。朝食の他に冷蔵庫の中のレモネードを自由に飲むことができ,イランの宿ではもっとも居心地が良かった。

泥と日干しレンガでできた旧市街

宿の横の通りは南北方向の幹線道路になっており,そこに「Historical Houses」の標識がある。標識に従って東に行くと古い家屋が密集している地区があった。それらの家屋の一部は焼きレンガも使用されているが,大部分は日干しレンガと泥でできている。この地区は再開発が現在進行中であり,盛大に取り壊されているところもある。

家屋の造りは中庭型で,道路に面しているところは壁や門になっており,中庭が生活の重要部分を占めている。子どもたちは中庭で遊ぶ限りは安全であり,女性も中庭では普段着で過ごすことができる。僕のような旅行者にとっては人々の生活がほとんど見ることができないのでこの中庭型の住居はやっかいである。

カシャーンの旧市街もそのような造りになっており,家の様子が分かるポイントにたどりつくのにずいぶん苦労した。というのは旧市街の道路は両側が壁になっており,かつ真っ直ぐではないので見通しがきかない。そのうえ,途中で行き止まりになることが多く,ほとんど迷路のようになっている。

まちがえて,よそ様の庭に入ったときなどは,おばあさんに叱られて,あやまりながら引き返したこともある。それでも,取り壊した壁などに上って旧市街の雰囲気のある写真を撮ることができた。

材料が泥と日干しレンガであっても,雨の少ないこの地域ではちゃんと家ができる。もっとも,手入れをしないと時間とともに風化するのは避けられない。いくつかの家を観察すると,中庭に面した壁面は漆くいで化粧されていことが多い。たぶん,家の中も同じように漆くいが使用されているのであろう。漆くいは多少の雨なら保護コーティングの役にもたつ。

モスクを発見

ひときわ大きな建物があり,迷路を苦労して近づいてみるとモスクであった。管理人のおじさんが中を案内してくれた。お祈りの広間にはじゅたんも敷かれていないので,現役のモスクとは思われない。それでも,片隅には十数冊のコーランが積み上げてあった。

横方向に置かれた鉄棒には用途の不明な飾りが何本も垂直方向に取り付けられていた。その飾りにはシーア派のイマームたちの肖像が彫り込まれている。この飾りの背後には乗馬姿のイマーム・フセインと思われる人物の巨大な壁画がある。

ドーム型の屋根

旧市街の相当部分は現在でも住居あるいはスークとして使用されている。木材の少ないこの地域で家屋の屋根を葺くのは大変なことだ。木材が利用できる地域では壁の上に何本もの細い梁を渡し,その上を泥で固め平らな屋根を造ることができる。

しかし,木材が使用できないときは半球状のドーム構造を採用するしかない。この構造なら日干しレンガだけでも造ることができる。その結果,ここの旧市街には多くの丸屋根が並ぶことになる。スークのように細長い建物ではドームが等間隔で並んでおりおもしろい被写体になる。スークの中は人口照明がない。天井部分に明かり取りの穴が開いており,床には点々と光の輪が続いている。

織物工場

スークの近くには織物工場があった。半地下の工房ではまったく機械化されていない機が数台置かれている。職人は男性だけで(昼間なので)窓からの明かりだけで黙々と単純な黒い布を織っていた。

その速度はとてもゆったりとしたもので,品質的にも機械化された工場には遠く及ばない。工房の一画では旧式の糸車を使用して赤い糸に撚りをかけている。この空間は中世から時間が止まっているようだ。

手の空いている男性が突然訪ねてきた僕のためにチャーイを入れてくれた。甘いチャーイを飲みながら僕は織り職人のゆったりとした動作をしばらく眺めていた。

市バスに乗ってフィーン庭園に向かう

街の南北方向に縦断する幹線道路はバス道路になっており,南に8km下るとフィーン庭園がある。フィーンは豊富な水に恵まれたところで,シャー・アッバーズ朝の時代に庭園が造成され,その後も歴代のシャーが離宮として利用していた。

イランで市バスに乗るためにはあらかじめ回数券を買っておかなければならない。回数券はいくつかの停留所で売っており,回数券を持っていない乗客はその停留所でバスを停めてもらい回数券を買いに出る。3枚の回数券は1000リヤル(12円)なのでその安さに驚かされる。

テヘランからアリーの泉に行った時に市バスを初めて利用した。そのときはこのルールが分からなくて,乗客の女性に回数券を2枚いただいた。今回はちゃんと自分で6枚の回数券を買って乗車する。

水の豊かな土地

およそ30分で正面にフィーンの城壁が見える。ここは観光地になっており,両側には土産物屋やチャイハネが並んでいる。道路の両側には水路があり,庭園から流れてきたきれいな水が流れている。

チャイハネ

チャイハネには2畳ほどの大きさの寝台のような台が並べられており,その上にじゅうたんが敷かれている。人々はこの上で,あるいは台に腰をかけてお茶を楽しむことができる。

バラの花びらを売る

家族連れから写真の注文が来る

水の豊かなフィーン庭園

さて肝心のフィーン庭園は水と森の美しい庭園であった。大きな人工の池があちらこちらにあり,それらを大きな木が取り囲んでいる。周辺は半砂漠地帯なのでこの庭園の水と緑は歴代のシャーから深く愛されたにちがいない。内部の建物はとくにコメントするようなことはない。

訪れた人々は水路に足を浸したりして思い思いに楽しんでいる。子どもたちは服が濡れるのもかまわず水路で遊んでいる。チャドルを着た女性たちに「写真を撮ってもいいですか」とたずねると簡単にお許しが出た。

それにしてもフィーンの泉の水はどこから来るのであろうか。周囲は砂漠といってよい荒地である。地図で見るとカシャーンはイラン南部を走るザグロス山脈とその支脈に挟まれたところに位置している。

山に降った雪や雨が地下水となりここで湧き出ているようだ。イランの水源は南部のザグロス山脈,北部のエルズルブ山脈にあり,高い山の無い東部は広大な砂漠となっている。

チャーイはどうだいと声がかかる

もっとも,イランの人々はピクニックに行く時は敷物を持参しているので,平らな地面があればそこに敷物を敷いてチャーイや食事をとることができる。僕のような外国人がそこらを歩いているとよく「チャーイはどうだい」という声がかかる。今日も庭園はそっちのけでお茶をいただく。

このようなとき,あるいは子どもたちの写真を撮ったときのお礼にヨーヨーやフーセンを背中のザックに入れている。ヨーヨーは水をもらってその場でふくらませることになる。子どもたちだけではなく親たちも何ができるのかと興味深そうに僕の作業を眺めている。ヨーヨーを手にしたときの子どもたちの笑顔は何回見ても飽きない。

ガムサル村に向かう

カシャーンからバスで1時間と少しのところに位置するガムサル村はローズ・ウオターの里として知られている。ローズ・ウオターは5月中旬から6月初旬のほんの短い間,それも早朝に収穫されたバラのつぼみを大きな釜で蒸留して抽出される。

通常のローズウォーターには花びらが利用されるが,ガムサル村ではその日咲くつぼみを朝摘みしている。その理由はつぼみにはオイルや香りの成分が外に逃げずに凝縮されているからである。

抽出液は自然にローズ・ウォーターとローズ・オイルに分離していく。現地ではローズ・ウオターは1リットルで1万から2万リヤル程度であるが,ローズ・オイル(エッセンス)は1トンのつぼみから50-60ccしかとれないので5ccで7万リアルとても高価だ。

使用される品種は日本では「ダマスク・ローズ」とされているが,現地では「ゴーレ・ムハンマド(ムハンマドのバラ)」と呼ばれている。ムハンマドはイスラム教の預言者であり,彼の名前をいただくとはバラにとっては大変名誉なことであろう。

2007年11月のニュースではスーダンで熊のぬいぐるみに「ムハンマド」という名前を付けたイギリス人女性教師がイスラムを冒涜したしたとして有罪判決を受けている。ムハンマドはイスラム世界ではかくも神聖な名前なのである。

せっかく5月末にカシャーンに滞在しているのであるからガムサル村に行かない手は無い。宿から東に10分ほど歩いた噴水のある広場でガムサル行きのバスを探す。タクシーとかなり年代物のミニバスが停まっている。

タクシーの運転手から「ガムサルかい,さあ乗りなさい」と声がかかる。値段を聞くと4万リヤルであった。バスの運転手にたずねるとガムサルに行くことが分かった。もっともバスの料金も2万リヤルといい値段だ。

バスは街を一回りして乗客を集めてから出発した。道中は荒地の景色が続く。村が近くなるとバラが目に付くようになり,乗客が「あれがゴーレ・モハンマディだよ」と教えてくれた。

バスは蒸留釜のある店の前を通ったのでそこで降ろしてもらう。店の前にはバラの花びらは一山置かれていた。つぼみの状態で朝摘みされたものがこの時間にはもう花びらが開いている。バラ固有の甘い香はたしかに強い。

ローズウオター

店の前にはローズ・ウオターの入った500ccのペットボトルがたくさん並べられている。通りにはほかにも何軒かの同じような店があり,やはりたくさんのボトルが並べられている。

この店の裏手には5台の蒸留釜が稼動しており,欧米の団体客はそこに案内される。収穫されたバラのつぼみは直径1mほどの蒸留釜に入れられ,蒸し煮にされる。釜の上部からは2本の金属パイプが出ており,逆側は水に浸された金属容器につながっている。

蒸留釜が開けられたところを見ると,中には茶色いバラの残骸が残っていた。残骸は捨てられ,翌日には次の製造が開始される。金属容器の中身はペットボトルに移し替えられ放置される。ローズ・オイルが上に浮いてくると,注意深くスポイトで吸い上げ小さなビンに入れる。

ヨーヨーは3人分作ることになった

店で遊んでいる少女の写真を撮らせてもらい,お礼にヨーヨーを作ってあげる。彼女はすぐに近所の友だちを呼んできて3人分を作ることになった。イランの女の子は小学校に入る頃からスカーフを被るようになる。彼女たちのスカーフ姿は見るとここが敬虔なイスラム圏なんだなと感慨深い。

ゴーレ・ムハンマドのバラ園

村を歩いてみたがゴーレ・ムハンマドのバラ園はなかなか見つからない。ようやく小さなものが見つかった。今日咲く花はすでに収穫されてしまったため,咲いている花はどこにもない。現在ピンクのつぼみも花が咲く前に摘み取られてしまうのだ。次のバラ園でようやく数個の咲いている花を見ることができた。

村の中を歩く

学校帰り

イランでは小学生でもしっかりしたムスリムの服装となっている。特に髪を隠すためのスカーフは印象的だ。

これは遊牧民の文化かな

この薄くて大きなパンは「ナン・ラヴァッシュ」と呼ばれており,町のパン屋さんでも作っているとのことである。しかし,私がイランの各地でパン屋を覗いてみた範囲ではこのようなものは見かけなかった。イランのパン屋は土釜あるいはオーブンで焼く形態であり,このような大きな薄いパンを焼くには適していない。

おそらく,この文化は遊牧民由来のものと推定する。彼らは大きな中華鍋をひっくり返したようなドーム型の鉄板で薄くて大きなパンを焼く文化をもっている。遊牧民は土釜を持ち歩くことはできないので,このようなスタイルになったと考える。生地は薄く延ばされ鉄板と同じサイズにしてからその上に乗せて焼く。このようにドーム型の鉄板でパンを焼く文化は西アジアだけではなく,エチオピアのインジュラにも見られる。

果物の木

町の中で杏の木を見つけた。もうすぐ食べられるほどに実が大きくなっていたので杏と分かった。原産地はフェルガナ盆地から中国の北西部にかけての地域とされている。バラ科サクラ属に分類されており,このグループにはスモモ,モモ,サクラ,ウメが含まれており,アンズはプルーン,ウメ,スモモと同じ「スモモ亜属」に属している。

杏は花がすばらしい。日本人はサクラを第一としているが個人的にはソメイヨシノの白よりも淡紅色のはっきりした杏の方が好みだ。パキスタン北部のフンザは杏の里として知られており,春にはフンザの斜面がピンクに染まる。この時期のフンザに入ることは大変であり,僕はフンザの杏は実しか見たことがない。杏は花も実も楽しめる優れものだ。

帰りに再びカシャーンに立ち寄る


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