亜細亜の街角
装飾タイルにイラン工芸美術の粋を見る
Home 亜細亜の街角 | Esfahan / Iran / May 2007

エスファハン(イスファハーン)  (地域地図を開く)

テヘランから南に約340km,イランの中央部に位置するエスファハーンは紀元前7世紀のメディア王国時代からの歴史をもつ古い町である。ザーヤンデ川の豊かな水に支えられ農業生産力の高いこの地域はイラン高原とバグダード,ペルシア湾岸を結ぶ交通の要衝でもあった。

7世紀になるとイスラム勢力の支配下に入るが,このときアラブ人の野営地が造られたことから「エスパハン(戦いのための野営地)」と呼ばれるようになり,それが転じてエシファハーンとなった。

11世紀後半よりセルジューク朝の根拠地として繁栄するが,13世紀にはモンゴル帝国の侵入により一時廃墟となる。16世紀末,サファビー朝(1501年 - 1736年)のアッバース1世により首都と定められ繁栄の頂点を極める。

アッバース1世の時代には計画的に多くの美しい建物が造られ,「エスファハーンは世界の半分」と讃えられた。最盛期には162のモスク,182のキャラバンサライ,173のハンマーム(公衆浴場)があったといわれている。

サファビー朝はシーア派の十二イマーム派を国教としたことによりイランにシーア派が根付き,イラン国家に繋がる民族意識の基礎が築かれた。サファビー朝が滅亡したときも街は破壊をまぬがれ,1979年に世界遺産として登録された。

カシャーン(180km)→エスファハーン 移動

移動日の朝,宿の人にカシャーンのバスターミナルの場所をたずねると,同じくチェックアウトしようとしていた宿泊客が送っていってあげると言ってくれた。この申し出をありがく受けることにした。実際,バスターミナルまでは歩いていけるような距離ではなかった。彼にお礼を言ってターミナルの建物に入る。窓口の近くからテヘラン,エスファハーンという声がかかる。

09:00時発のバスはボルボ製,道路状態も良く快適である。街を出るとすぐに荒涼とした褐色の風景になる。途中でジュースとケーキが配られる。12時少し前にエスファハーンの北バスターミナルに到着する。ここは街の中心部から5kmほど離れている。同じバスに台湾の男性が2人乗っていたので彼らとタクシーをシェアして宿に移動する。

アミール・キャビールホテル

アミール・キャビールホテルはエスファハーンでもっともバックパッカーに人気のある宿である。シングルは10万リヤル,ドミトリーは3.5万リヤルなので迷わずドミトリーを選択する。

ドミトリーは2部屋あり,僕の部屋は広さ9畳,ベッドが5個配置され,T/Sは共同である。一人当たりの広さは2畳を切っており,ちょっと窮屈な感じは否めない。それでもテヘランの宿より清潔であり,頼むと毛布も出してくれた。

ドミの部屋は満室である。まだ喉が完全には快復しておらず,ときどき咳き込むことがある。同室の4人に迷惑がかからないように,ときどき咳止めシロップを飲む。幸い寝ている間は咳が出ることはなかった。

ドミで問題になるのは起床時間である。朝の早い僕は他の4人とは生活時間が異なり,早朝は彼らを起こさないように行動しなければならない。このホテルには中庭がありそこにお茶や食事のためのテーブルがある。最初の朝はそれに気が付かず,ベッドの上で音をたてずに日記を書くことになった。

ザーヤンデ川まで歩く

街の様子を知るため南北の幹線道路を南にザーヤンデ川まで歩くことにする。もっとも宿の前の通りを真っ直ぐ南に向かうと2kmほどでザーヤンデ川にぶつかる。少し歩くと左手に時計塔のある建物が目に入る。この建物はよく目立つのでランドマークになる。

通りに沿った大きな公園がある

その先にはかなり大きな公園がある。道路に平行に長い石畳の通りが続いており,両側は芝生や庭園になっている。周囲は大きな樹木に囲まれており,なかなかの雰囲気である。

日本では見かけない珍しい花が咲いているのでさっそく写真にとる。公園にピクニックに来ている家族連れも多く,子どもたちの写真も撮らせていただく。

ハシュト・ベヘシュト宮殿

石畳の通りを歩いていくと人工の池の向こうにハシュト・ベヘシュト宮殿がある。17世紀のもので「8つの楽園」を意味するという。正面に大きな池があり,周辺には樹木も多い。砂漠の宗教であるイスラムにとって,水と緑は天国の象徴である。水と緑で2つの楽園の要素は理解できたが,残りは不明だ。

ザーヤンデ川に到着する

幹線道路に戻り少し歩くと大きな交差点があり,その向こうにザーヤンデ川が流れている。そこに架かっている橋がスィー・オ・セ・ポルである。サファビー朝の時代に建造されたもので33(スィー・オ・セ)の柱(橋脚)があることからその名が付けられた。

ザーヤンデ川は川幅が広く水量も豊富である。この川に橋を架けるため当時の技術者は,レンガを用いて得意のアーチ構造を採用した。川の中に33の橋脚用の土台を造り,土台と土台の間をアーチでつないでいる。

よくこの仕掛けを考え付いたなと感心する

橋は自動車が通れる強度をもっているが,現在では歩行者専用となっている。橋の欄干に相当するところにはレンガの壁になっており,外側には橋脚部と同様にアーチの空間が続いている。

この空間は道路とつながっており,そこから川の風景を眺めることができる。また,夕涼みにももってこいの場所でもある。川岸から近い橋脚部分の下流側は水面より少し高い石組みの土手のようになっており,その上にはテーブルとイスが並べられチャイハネになっている。

さすがにここのチャイは高い

地元の人々の人気は高い。僕もここで4000リヤル(市価の2-4倍)のチャーイをいただく。近くのテーブルの男性たちがチーズとパンを分けてくれる。酸味の強い素朴な味のチーズはいかにも遊牧民の食料という感じを受ける。

ボレ・ハージューまで川沿いの道を歩く

スィー・オ・セ・ポルを渡り対岸の土手の道路を東に歩くとフェルドスィー橋,チュービー橋を通り過ぎる。この2つの橋はどちも近代的な橋である。フェルドスィー橋は左右2つの橋からできており,中央の空間には水道管が通っている。水道管の各箇所からは水が滴り落ちており,まるで水のすだれのようになっている。

巨大な噴水

フェルドスィー橋の少し上流には中洲がありそこにチャーイ屋がある。その背後から盛大に噴水があがっている。20mほど上がった水は霧のように風下に流れていく。

ボレ・ハージュー(ハージュー橋)

さらに下流側に歩くとボレ・ハージュー(ハージュー橋)に出る。17世紀に建造されたレンガ造りの橋はアーチ式の2段構造となっており,下段も通ることができる。橋脚部分の下流側は階段になっており水辺まで下りることができる。

横から見るとたくさんの階段が並び,その間を水が流れている構図となる。家族連れの人々が階段に腰を下ろし,日陰と水辺の涼を楽しんでいる。下段は上部構造を支えるアーチが長手方向に連続しており,見通すことのことのできる空間になっている。

夕涼みにはかっこうの場所だ

ここでも人々は1mほど高くなった石段に坐り,アーチを背もたれにしてくつろいでいる。この橋もすばらしい空間を提供してくれる。エスファハーンでもっとも印象深かったところはどこと聞かれるとこの橋をあげたい。僕も階段に坐り足元を流れる川の流れを眺めていると,北バスターミナルからタクシーをシェアした台湾人の2人連れから声をかけられ,しばらく旅行の話に花が咲く。

川の水でヨーヨーを作る

水辺の階段で知り合いになった一家の子どもたちにヨーヨーを作ってあげる。プラスチックのコップは背中のザックに入っているし,水は足元を流れている。すぐに,周囲に人だかりができる。子どもを連れた父親が何組かやってきてつごう6個を作ることになった。

世界の半分の広場

8時前から朝食探しを兼ねてイマーム広場に向かう。けっこう寄り道をしながら歩いてみたがドーナッツ屋以外はさっぱり食堂が見つからない。イマーム広場の北側にあるオールド・バザールの周辺にも何も無い。

ようやく広場の東側に出たところで食堂を見つけた。メニューは薄焼きパンと豆のスープの定食しかない。出てきたものはスープというよりは豆をすりつぶしたペースト状のものであった。イラン料理ではもっとも安上がりのもので豆と一緒に野菜を煮込むことが多い。

地元の人たちはこのスープをパンですくい取って食べている。僕がぎこちなくそのマネをしていると,見かねた主人がスプーンを出してくれた。味は悪くないが単調なので2/3を食べたところでごちそうさまになる。

イマーム広場は縦510m,横163m,南北方向に長い長方形をしている。そこに噴水,石畳の道,芝生が配置されている。イラン最大の観光名所だけあってたくさんの観光用の馬車が客待ちをしている。日が高くなってくると御者は一仕事を終えた馬に飼い葉を与えるとともにホースで水をかけてあげる。

広場の南側にマスジェデ・ジャーメ(王のモスク)の入口にあたる美しいイーワーン(アーチ型の入口を四角く枠取りした壁で囲んだ門)がある。王のモスクの本体は入口から45度回転した位置にあるので,上部のドームはイーワーンにジャマされず見ることができる。

広場の北側は古いバザールになっており,地元の人々の食料品,生活雑貨から貴金属にいたるまであらゆるものが売られている。この一画は複雑に入り組んでおり,ちょっとした迷路のようになっている。

広場周辺の単調な構成にアクセントをつけるように東側にはマスジェデ・シェイフ・ロフト・オッラー(王族の礼拝用モスク),西側には大きなテラスをもつアーリー・ガープー宮殿が向かい合っている。

広場は地元の人々のピクニック・スポットにもなっており,芝生に敷物を敷いて家族連れがくつろいでいる。子どもたちは芝生を走り回ったり,涼を求めて噴水の池に入っている。広場も大きいのでそれに合わせてこの噴水の池も大きい。

精緻なタイル装飾には驚くばかりだ

マスジェデ・イマーム(旧王のモスク)は入場料5万リヤル,まず中に入る前にイーワーンのタイル装飾をじっくり見学させてもらう。イーワーンの枠の部分は装飾体のアラビア文字と幾何学的な紋様で飾られている。

コーランに記載されているアラビア文字は流麗である。その一節をモスクの装飾に使ったのは偶像崇拝を厳しく禁じたイスラムの革命的なアイディアであった。イランに限らず多くのモスクではこの装飾が用いられている。

通常アラビア文字は左から右に読むようになっている。しかし,門の装飾に使用される時は上下方向になるときもある。ここのものも縦書きでありどのように読まれるのか興味深い。さすがに,この文字装飾では絵付けタイルが使用されている。

モスクの門や壁を飾るタイル装飾はイスラム建築ともに発展し,「モザイクタイル」と「絵付けタイル」の2つの技法が用いられている。歴史的にみると11世紀のセルジューク朝の時代,素焼き煉瓦と釉薬をかけた煉瓦および簡単な模様のタイルを組み合わせた幾何学模様により建物を装飾していた。

しかし,この技法では複雑な紋様は作り出せないので13世紀頃には「モザイクタイル」の技法が発明された。「モザイクタイル」は単色で正方形のタイルを焼き,それを目的の絵柄に合わせて削り,たくさんの断片を組み合わせて大きな絵柄パネルに仕上げるものである。

この技法を使用するとどんな複雑な模様も表現することができる。また,この技法は曲面にも適用することができるので,ドームやイーワーンのアーチの天井部分を飾るスタラクタイト(蜂の巣状になった装飾要素,鍾乳石装飾とも呼ばれる)をタイルで覆うことができるようになった。

「絵付けタイル」は大きな絵柄を分割して正方形のタイルに絵付けして焼き上げたものである。タイルを張り合わせると目的の絵柄ができる。「絵付けタイル」はモザイクに比べてずっと簡単に作ることができるので,この技法が確立された以降は場所を選んで使用されるようになった。

「モザイクタイル」は美しいがコストがかかり,たとえばマスジェデ・イマームのようにモスク全体を装飾しようとすると大変な手間がかかる。サファビー朝の時代にはすでに両方の手法が使用されていた。

ところがマスジェデ・イマームのイーワーンの壁面はすべて「絵付けタイル」で飾られていた。さきほどのアラビア文字装飾の部分も細かく見ると正方形のタイルの輪郭が見てとれる。

「モザイク・タイル」を使用するとつなぎ目無しの大きな面ができるので,文字装飾にはそちらの技法が使われることが多い。一方,イーワーンの横の壁面は美しい「モザイク・タイル」で飾られていた。

イーワーンのアーチの天井部分はイラン独特の「鍾乳石飾り」が施されており,その部分もタイルで覆われている。高いところで分からないが,曲面の連続なのでおそらく「モザイク・タイル」が使用されているのであろう。

マスジェデ・イマーム(旧王のモスク)

中に入るとモスク本体は45度右に折れたところに配置されている。これは建物の南西部分をメッカの方角に合わせるためである。広場の奥にはタイルで飾られた中央礼拝堂がある。

外部および内部の壁面はおろかドーム構造になっている天井も精緻で色鮮やかな紋様で埋め尽くされており,ただただ驚くばかりである。とくにドーム天井の精緻な紋様を下から見上げると夜空の天球を感じさせてくれる。

偶像崇拝の禁止されているイスラム教では偶像を思い起こさせるものは徹底的に排除される。ムスリムの人々はただメッカに向かってお祈りをする。

マスジェデ・イマームににおいてもメッカの方角の壁面ににアーチ型のくぼみがあるだけだ。ただし,その壁面は青を基調とする細かい模様のタイルで覆われており,イランの芸術的レベルの高さがうかがわれる。

中央礼拝堂のドームの中心部直下にはあまり目立たない印がある。そこに立って石畳をドンと踏むと素晴らしい反響音が聞こえてくる。このモスクに限らず多くのモスクは音響効果をよく計算している。現在のようにスピーカーが無かった時代には,肉声を広いホールに響かせるのは非常に重要なことであった。

イマーム・モスクの中央礼拝堂の上部はドーム構造となっている。ドームの外観および天井装飾はイランでもっとも美しいものの一つである。それと同時に音響効果を高めるためドームを二重構造にしている。下のドームと上のドームの間には12mの空間があり,これが音響効果を高めている。

子どもたちがやってきて甲高い声で反射音を確認している。今まで静かだった礼拝堂の静寂がいっとき破られる。礼拝堂の外では建築学を学ぶ学生が思い思いに建物の外部や内部をスケッチしている。たくさんの女子学生がおり,彼女たちの服装はハーフコートと髪をすべて覆うヘジャーブである。

周囲を囲むアーケードの内部

広場の周囲はアーケードになっており,土産物屋やじゅうたん屋が並んでいる。中は電球に照らされとても雰囲気がある。じゅうたんは単価が高いのでよい商売になるようだ。日本人を相手にするまじめなじゅうたん屋に混じり,日本人を食い物にする悪徳業者も多いので要注意である。

絵付け装飾タイル

この絵付け装飾タイルはどこで撮ったものかは分からなくなってしまった。美しい花々と小鳥が描かれているので宗教的施設ではないだろう。絵付け装飾タイルは大きな図柄を複数の正方形のタイルに分割して絵付けし,それらを組み合わせることにより一つの元の図柄を作ることができる。このタイルの図柄は大きく少なくとも400枚ほどのタイルが使用されている。

昼食

煙突のようなミナレット

エスファハーンの金曜モスクは宿の東側,2kmほどのところにある。市バスが走っていたら乗るつもりであったが,なぜかバス停が見つからず行きは歩くことになった。途中で煙突のようなミナレットを見かけたので寄り道する。

大きな通りから路地に入ると,かなり雰囲気が変わる。小さな商店が並び,空き地には露店が出ている。ミナレットのあるモスクは近すぎていい写真にはならない。モスクの中庭の壁には聖職者らしい2人の男性の絵があった。これは珍しいことだ。偶像崇拝の規定には抵触しないのであろうか。

金曜モスクの周辺は商店が密集している

金曜モスクの周辺は商店が密集しており門前市のようになっている。モスクが運営するとは思われないが広い駐車場もあり,買い物客の車で混雑している。モスクの入口近くにある街頭のソフトクリーム屋が繁盛していたので僕もいただく。2000リヤルのソフトは十分においしかった。

マスジェデ・ジャーメ(金曜モスク)

マスジェデ・ジャーメは特別な名前ではなくイスラムの町に行ったらごく普通にある。金曜日はイスラム教の大礼拝の日である。大勢の人々が一緒に祈ることのできる町でもっとも大きなモスクが金曜モスクと名付けられることが多い。

モスクの入口にはバイクがたくさん駐車しており,イーワーンもさほど立派ではない。もしかしたらそこは裏門だったのかもしれない。中に入ると広い中庭があり,それを囲むようにタイル装飾の建物がある。中庭から見るイーワーンは2本のミナレットを従えておりとても立派だ。

モスクの壁面の一部には凹凸のある見事なモザイクタイルが使用されている。おそらくモザイクで一部に隙間のあるパネルを作り,その部分に小さなモザイクパネルを張ったものであろう。イランの工芸技術の奥の深さにただ脱帽する。

中庭は50m四方はありそうだ。明日は金曜日なので広い中庭いっぱいにじゅうたんが敷かれており,見事な幾何学模様を作っている。このじゅうたんの幅は約1m,ロール状に巻かれて保管され,必要なときはそれを何十枚も平行に並べて広場を埋め尽くしていく。

日本には「起きて半畳,寝て一畳」という諺がある。その意味するところは,人が必要なスペースはたかだか一畳でこと足りるのだから,栄耀栄華を求めあくせすして暮らすことは愚かなことだと戒めるものである。

それはモスクにおいても同様である。神と対話し祈る時に必要なスペースは1畳の1/3ほどらしい。中庭のじゅうたんの模様は1人分の祈りのスペースがちゃんと示している。大礼拝のとき大勢の人々はこの模様に合わせて整列し,一斉に祈りを捧げる。


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