亜細亜の街角
適当な宿が無くイラン人の家庭に泊めていただいた
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ゴム  (地域地図を開く)

ゴムはテヘランから南に約135kmのところにある人口78万人の宗教都市である。近世ペルシア語ではクム(Qum),現代ペルシア語を厳密にカタカナ化すると「ゴム」と表記される。

ここにはシーア派の主流となっている十二イマーム派の第8代イマームであるイマーム・レザー(エマーム・レザー,マシュハドに彼の霊廟がある)の妹マースーメの廟があり,シーア派の聖地の一つとなっている。

ここが宗教都市とされるのはイラクのナジャフのホウゼ(十二イマーム派特有の宗教学校)と並び称されるホウゼ・ウルミーエ・ゴム学院(1921年に創設)があるためである。1979年にパーレビ王政を打倒したホメイニ師はこの学院で学び,教鞭をとったイスラム法学者であった。

彼を理論的指導者としたイラン・イスラム革命はこの町で起きた暴動をきっかけに始まった。イスラム共和制のもとでゴムは革命を主導してきた宗教保守派の牙城となっており,イラン国内政治における重要性は首都テヘランに並ぶ。それでも,旅行者の目からすると格段に変わったところではない。

イランの正式名称は「イラン・イスラム共和国」である。シーア派イスラム教を国教としており,宗教上の最高指導者が国の最高権力をもつイスラム共和制となっている。その基本的は概念は「ヴェラーヤテ・ファギーフ(イスラム法学者の統治)」である。

通常の共和国のよううに大統領,議会,裁判所という三権分立の政体を有しているが,最高指導者,監督評議会(護憲評議会),専門家会議という宗教者による管理・監督が世俗権力の上に立つ仕組みとなっている。

憲法の規定によると最高指導者は「国家の全般的政策・方針の決定と監督について責任を負い,単独の最高指導者が不在の場合は複数の宗教指導者によって構成される合議体が最高指導者の職責を担う」とされている。

最高権力者は文字通り行政,司法,立法の三権の上に立ち,国軍の最高司令官である。初代の最高指導者はホメネイ師,現在はハメネイ師がである。

監督者評議会(日本では護憲評議会と報道されている)は12人のイスラム法学者から構成され,このうち6人を最高指導者が指名し,残りの一般法学者6人を最高司法権長が指名する。これを議会が公式に任命する。

監督者評議会は憲法解釈を行い,議会で可決された法案がシャリーア(イスラーム法)に適うものかを審議する権限をもつ。法案が憲法あるいはシャリーアに反すると判断された場合,法案は議会に差し戻されて再審議される。

監督者評議会は大統領,議会選挙の立候補者を審査し,承認がなければ立候補リストに掲載されない。この権限により,監督者評議会は議会選挙から望ましくない人物を除外することができる。

マシュハド駅周辺の風景

マシュハドから移動する日になってもカゼは完全には直っていない。昼まで横になって休養する。朝食はチャパティのような薄焼きのパンにチーズ,バター,チャイである。

あんずジャムはバターと相性が良くおいしい。パンそのものは水分が少なく,かつ密度が高いのでチャイがないとなかなか喉を通らない。

宿を出て表通りでタクシーをつかまえる。やはりマシュハド駅では通じず,ペルシャ語の表現で理解してもらった。メーターはなく値段交渉となる。運転手は2万を要求するが,来た時のメーターの値段が1.2万リヤルだったので1.5万リヤルを出してそれで行ってもらう。

建物の基本はレンガ造りである

マシュハド駅で昼食をいただく

マシュハド(900km)→テヘラン移動

マシュハド駅のインフォメーションの女性は英語不可であった。メモに必要な単語を書き並べると「少し待ってて」と告げられる。近くの座席で15分ほど待つと男性職員が現れ,2階のあの部屋に行くよう教えられた。

窓口の女性はメモを見て18時発のチケット(7.3万リヤル)を発券してくれた。テヘランから来たときは8.5万リヤルだったのでだいぶ料金が異なる。

昼食は駅の食堂でいただく。豆と羊肉のカリーとごはんの組み合わせである。カリーはちょっと口内炎にしみるけれど久しぶりのごはんはとてもおいしい。

近くのテーブルでは数人の男性がテーブルを囲んでいる。彼らのメインディッシュはごはんと肉の串焼きであったが,同時に薄いパンを食べている。彼らにとってはコメはおかずの感覚なのかもしれない。

テヘラン行きの列車に乗り込むとコンパートメントは4人用である。2人掛けの座席の間にテーブルがあり,来たときのものより立派だ。同室の乗客は30代半ばの夫婦,夫はとても面倒見がよくいろいろな食料をいただいた。

祈りの時間には列車は駅で停車する

20時に列車は停まり,ほとんどの乗客は外に出る。駅にお祈りのための場所があり,人々はそこでお祈りをする。聖地巡礼の乗客は列車での移動中もコーランに記された1日5回のお祈りを欠かさないようだ。

テヘラン(135km)→ゴム移動

06時にテヘランに到着,同室の夫妻にお礼を言ってお別れする。インフォメーションでたずねると,ゴム行きの列車は11:30だという。だいぶ待ち時間はあるけれど,バスターミナルまで移動するのは面倒なので列車で行くことにする。

2階の窓口に行き「Tiket, Teheran to Ghom, Second Class」と書いたメモを差し出すとすぐに発券(7000リヤル)してくれた。待合室のテレビはイラン・イラク戦争を題材にした映画をやっていた。

イランの人々はあの戦争をイラン・アラブ戦争と呼んでおり,昨日もその戦争について言及する番組があった。今年は何か記念の年なのかもしれない。

ゴム行きの列車のコンパートメントには僕一人しかおらず,ゴムでちゃんと下車できるだろうか心細い。この列車は窓を下げられるタイプだったので線路周辺の農地の写真を撮ることができた。しばらくすると何人かの男性がこのコンパートメントに出入りするようになり,乗り過ごしの心配はなくなった。

ムハンマドさんの父親の家

ゴムに到着すると一緒に乗っていた男性が宿探しに付き合ってくれた。ゴムの観光名所マアスーメ廟の前の通りは水路を造るための工事が行われていた。道路の向かい側にはホテルが密集しており,そのうち何軒かを当たってみた。

しかし,設備の良いところはいずれも18万から20万リヤルと僕の予算には折り合わない。8万の宿は狭くて料金に見合うものではなかった。どこのホテルもディスカウントに応じてくれないので交渉は不成立であった。結局,同行の男性ムハンマドさんの提案で彼の父親の家に泊まることにした。

彼の父親の家はマアスーメ廟から少し離れており,タクシーで移動した。4階建ての家の3階部分が父親の家であった。間取りは日本的な表現をすると1LDKに相当する。

6畳ほどの広さのダイニングと,4.5mX6mの広い居間からなっている。3.3m2が2畳に相当するのでここの居間は15畳ほどに相当する。しかもほとんど家具が無いのでとても広く感じられる。

この空間が居間・食堂・寝室を兼ねている。畳育ちの日本人にはまったく違和感が無い。床は石敷の上に厚いじゅうたんが敷かれている。壁はコンクリートの上に漆くいが塗られている。日本と同じように玄関でクツを脱ぐようになっているのでとても清潔感がある。

寝るときは枕と毛布,1m幅のマットが敷かれる。暑い季節はこれで十分だ。一家はムハンマドさんの両親とメカニックをしている弟の4人暮らしである。弟さんにはすでに子どもがいるとのことであるが,彼もこの家で寝泊りしていた。

最初の日は両親が不在だったのでムハンマドさんがファストフードやパンを買ってきてくれた。両親が戻るとお母さんが豆のカリーを作ってくれた。食事は居間のじゅうたんの上にビニールシートと布を敷き,その上でいただく。昔の日本のように空間を多目的に使う知恵がイランではまだ生きている。

ハズラテ・マアスーメ廟

マースーメは第8代イマームであるイマーム・レザーの妹と言われている。9世紀にこの地で客死した。彼女の墓の上に廟が作られシーア派の人々が巡礼に訪れるようになった。ゴムはシーア派の聖地となったためバクダットを中心とするスンニ派のカリフとの間で幾たびかの戦乱に巻き込まれた。

またモンゴルやチムールによる侵略と破壊も受けたが,サファヴィー朝下では国教シーア派の聖地という性格から特段の配慮を受け大きく発展した。16世紀初頭にはゴムはシーア派学問の主要な中心地の一つとなり同時に巡礼地にもなっていた。

ムハンマドさんの案内でマアスーメ廟を訪れる。ここは聖マアスーメの石棺のある部屋以外は異教徒でも入ることができる。荷物は入口近くにある預かり所に預け中に入る。内部は広い中庭をいくつかの建物が取り囲む構成になっている。ありがたいことに,中庭までは写真撮影OKである。しかし,体調がすぐれず写真を撮る気力が失われていたようだ。

主要な3つの建物の入口はいずれもイーワーン(アーチ型の入口を四角く枠取りした壁で囲み,アーチの裏側に ドームを配した門)の形式となっている。聖マアスーメの石棺のある建物は少し構造が異なり,本来はアーチの裏側に配置されるドームが中庭からも見えるようになっている。

石棺のある部屋は異教徒の立ち入りは認められていないが,イラン人のムハンマドさんと一緒に行動しているとくに問題はなかった。棺の間はマシュハドのイマーム・レザー廟と同じように鏡張りになっておりとてもきれいだ。やはり,石棺を納めた石造りの内部屋は厚手の幕で仕切られており,女性も内部屋に触れることができる。

イラン・イラク戦争の戦没者記念行事

ハズラテ・マアスーメ廟の近くにはイラン・イラク戦争で亡くなった兵士を祀る催しが開かれていた。大きな建物の内部に野戦テントを張り,その中にはホメイニ師とともにゴム出身の戦没者(イスラム教的に表現すると聖戦の殉教者)の写真や背嚢などの持ち物が飾られていた。

イラン・イラク戦争はイランのイスラム革命の波及を恐れるイラク・フセイン政権により引き起こされた。イラクは民族,宗教により北部(クルド人が多数派),中部(イスラム教スンニー派が多数派),南部(イスラム教シーア派が多数派)に色分けされる。

人口比でみるとクルド人は約20%,シーア派アラブ人が50%,スンニー派アラブ人30%ととなっている。イラン・イスラム革命が自国のシーア派住民に波及することはスンニー派優先のフセイン政権の基盤を危うくするものであった。

もう一つの問題はシャトル・アラブ川の領有権を巡る争いである。西アジアの大河チグリス川とユーフラテス川はバグダッドの南で合流し,そこからシャトル・アラブ川となりペルシャ湾に流れ出ている。この川の下流側約100kmはイランとイラクの国境線となっている。

この川はイラクにとって唯一のペルシャ湾への出口となっており,原油積み出しの生命線になっている。また,この川の両岸には両国の油田地帯もあり,経済的,軍事的に非常に重要な地域である。

川が国境線になる場合,通常は水路の中央線が国境となるが,イラクは川の対岸までの領有を主張し,1970年以来,武力衝突を繰り返してきた。イランはイラク北部の反政府クルド人武装勢力に武器を供給し,イラク軍は北部と南部の戦いで窮地に立たされた。

1975年に両国はアルジェリアで国境紛争について和解し,シャトル・アラブ川の国境線は水路の中央線と定められた。さらに,両国の船舶はシャトル・アラブ川の境界線にかかわらず自由に航行できると定められた。これはイラクにとって大幅な譲歩であった。

アルジェ協定の締結により,イランはクルド人勢力に対する武器供与を中止し,イラク軍はクルド人武装勢力への大攻勢を開始してその大部分は壊滅させた。アルジェ協定のイラク代表はフセイン副大統領であり,彼が大統領になり独裁的な権力をもつと,この屈辱的な協定を武力で覆す機会をうかがっていた。

1979年にイラン・イスラム革命が成功し,イラン国軍が粛清により弱体化したとみたフセイン大統領は1980年9月にイラン革命の波及阻止を大義に掲げ,アルジェ協定を一方的に破棄してイランに侵攻した。フセイン大統領の目的はシャトル・アラブ川の奪還とあわよくばイラン南部のアラブ人居住地域フーゼスターンの併合であったと考えられる。

冷戦時代,イランはパーレビ国王のもとで大量の米国製の武器を購入しており,一方のイラクはソ連製の武器供与を受け,ともに地域の軍事大国となっていた。

しかし,この戦争はイラン側にとって分の悪いものであった。米国はイランと敵対関係にあり,ソ連はもとより親イラクであった。湾岸諸国はイラン革命の波及を恐れイラク支援に回った。イランを支持したのはシリア,リビアくらいであった。

イランの兵器体制はバーレビ国王時代の米国製であったが,調達は不可能であった。イランはリビア,シリアそしてなんとイスラレルから兵器を購入している。戦争は当初はイラク軍が優勢であったが,1981年3月頃から革命防衛隊を中心としたイラン軍は反撃し,国境線までイラク軍を押し戻した。

その後,戦線はこう着状態となり,タンカー攻撃(1984年),都市部へのミサイル攻撃(1988年)などとエスカレートしていった。イラク軍は国際法に違反して多くの毒ガス兵器を使用している。それに対して米国もソ連もイラクを非難することはなかった。

1988年8月,国連の即時停戦決議を両国が受け入れ8年間におよんだ大義なき戦争はようやく終結した。戦争がここまで長引いた原因は冷戦時代の調停役となるべき米国とソ連がどちらもイラク支援に回ったことがあげられる。

この戦争における死者は双方で100万人と推計されている。そのうち多数を占めているのは革命防衛隊として戦地に赴いたイランの若者である。いくら殉教者と扱われても母親をはじめとする遺族の悲しみは癒されることはないだろう。

現在でも自爆テロの実行犯が「殉教者」とされているように,宗教を人殺しの免罪符に利用する愚かな考え方は続いている。イスラム教は決してそのような行為を容認していない。

イスラム教の極端なあるいは誤った解釈に基づく事件だけが報道され,イスラム教に対する偏見が大きくなっていくのを見ることはつらい。全世界に12億人といわれるイスラム教徒の大部分は宗教的な対立より平和的な共存を望んでいる。彼らは神の教えのもとにつつましく暮らしており,旅人にもとてもやさしい人たちである。

建築方法は日本とはまったく異なる

ムハンマドさんの家の近くでは建物を増設しているところがあり,イランの建築方法を見ることができた。増設と表現したのは隣の壁面とぴったりくっついており,建物ができると壁どうしは完全に一体化してしまいそうだからだ。

建築資材は基本的にレンガである。レンガはそのままでは重いので,最近のものはいくつかの穴が開いている。強度は落とさないで軽くする工夫である。

しかし,イランは地震の多い国であり,レンガを積んだだけではすぐに崩壊する危険性がある。そのため,鉄骨で骨組みを造り,それを支えとしてレンガを積んでいく。

こうすると耐震強度ははるかに上がるが,日本の耐震基準と比較すればまったく不十分なものだろう。ともあれ,鉄骨が入ることにより地震に対してある程度の強さは期待できる。

ついに病院に行く

喉の状態がひどくのど飴をいくら舐めても良くならない。微熱があり,せきがひどくてときどき喘息状態になる。日本にいても冬場はときどきこのように状態になるが,こんなに長引いたのは初めてだ。思い余ってムハンマドさんに病院に連れて行ってもらう。

まず,受付で1.5万リヤルを支払うと診察券がもらえる。順番が来ると診察室に入る。症状を説明したあと喉をチェックされ,血圧測定を受ける。「注射は必要か」とたずねられ,「Yes」と答えると医師が処方箋を書いてくれた。

これを持って近くの薬局に行き薬(3.5万リヤル)をもらう。袋の中にはずいぶんいろいろなものが入っており,中には注射器もある。病院に戻り,処置室でお尻に,それも左右に1本ずつ注射を打たれる。50年ぶりのお尻の注射に筋肉が硬直してしまう。最後に受付で1.5万リヤルを支払い終了である。

咳止めシロップは良く効いた。味は苦味をより強い甘みで抑えようとしているようでひどくまずい。それでも飲みなれると何でもなくなるから不思議だ。3種類の錠剤は抗生物質が含まれているので2日間だけ食後に飲んでいた。

咳はその後も続き,10日間くらいで咳止めシロップが切れたので,別の町の薬局に空びんをもって行き,同じものを注文しもう1本買うことになった。

岩山のモスク

ムハンマドさんの家からシェアタクシーで「岩山のモスク(正式名称は確認しなかった)」に向かう。道路のそばに高さ100mほどの半球状の岩山があり,その頂上にモスクがある。麓には大きな駐車場もあるのでゴムの街の人々にとってはなじみの場所のようだ。

岩山を上りきるとゴムの街が一望できるが,マアスーメ廟や近くの大きな建物は確認できなかった。街の反対側は緑の乏しい茶色の岩山が続いており,街は下の道路のところで終わっている。モスクの窓はなぜか緑になっており,内部はくすんだ緑色の空間になっている。

イラン・イラク戦争の記念廟

この丘は日が暮れるとここはちょっとした夜景のビューポイントになる。しかし,三脚無しで夜景をきれいに撮るのは容易ではない。下の駐車場に下りると,そこにはイラン・イラク戦争の記念廟があり,たくさんの男性が石畳に敷物を敷いて祈っていた。


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