亜細亜の街角
エマーム・レザー廟を中心とするシーア派の聖地
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マシュハド(マシャド)  (地域地図を開く)

ウズベキスタンとイランの間にはトルクメニスタンがある。ここを縦断することができれれば東京→中国→キルギス→ウズベキスタン→トルクメニスタン→イラン→アゼルバイジャンという理想的なルートをたどることができるが,僕の訪問した時期のトルクメニスタン入国は相当困難であったため,安全のためアフガニスタンとトルクメニスタンの外側を反時計回りに回るルートとなった。

マシュハドはトルクメニスタンとの国境近くにあり,ビザさえあれば最短で3日,のんびりしても1週間ほどでトルクメニスタンを抜けてウズベキスタンに入ることができる。

イスラム教の大預言者ムハンマド(570年頃-632年)が天に召されてから,彼の後継者は教主(カリフ)と呼ばれムスリム共同体(ウンマ)の最高指導者とされた。この正統カリフ時代は長くは続かず,656年に若手不満分子が第3代カリフのウスマーンを暗殺し,第4代カリフとしてムハンマドの従兄弟でありムハンマドの娘ファティーマと結婚したアリーを選んだ。

しかし,それはムスリム (イスラム教徒)共同体の総意でカリフを選ぶというそれまでの伝統に反していたため,ムスリム社会はアリーを正統なカリフとして認めるかどうかで二分された。簡単に区分するとアリー支持派は後のシーア派であり,アリー不支持派は後のスンニー派という図式となる。

661年にアリーが暗殺され,ウマイヤ家のムアーウィヤがカリフとなって「ウマイヤ朝」を開くと,これに対抗するアリー支持派はアリーとその子孫のみがイマームとしてムスリム共同体の指導者となる権利を持つと主張するシーア・アリー(アリーの党派)としてまとまっていく。

680年に次のカリフ候補としてアリー支持派が招聘したアリーの息子フサイン一家が途中でウマイヤ朝軍に包囲され虐殺された(戦闘で死んだという説もある)。これが「カルバラーの悲劇」であり,現在はイラクにあるカルバラーはシーア派最大の聖地となっている。この虐殺が引き金となりアリー支持派は独自の共同体を形成するようになる。

シーア派では「カルバラーの悲劇」を殉教と見なして,毎年ムハッラム月の最初の10日間にその死を悼む殉教祭 (アーシューラー) が行われる。元来はムハンマドが定めた断食潔斎の日(ユダヤ教の贖罪の日に相当する)であったが,フサインの殉教日と重なったためシーア派ではアーシュラー哀悼祭となった。

人々は黒い喪服に身を包み,鎖の束で自らの胸や背を打ち付け,声を合わせながら行進する。これは「カルバラーの悲劇」で惨殺されたフサイン一家の痛みを味わうためであり,シーア派ムスリムとしての連帯を促すものでもある。

シーアはアラビア語で「党派」を意味する一般名詞であるが,いつしかシーアだけで「アリーの派」を意味するようになった。こうしてムスリム社会はスンニー派(スンナ派,慣行の意)とシーア派に分かれることになった。

マシュハドがイラン国内ではシーア派最大の聖地となったのは以下の理由による。イランではシーア派が主流となり,代々のイマームをいただいてきたが,823年に第8代イマーム・アリー・アッ・リダーがサナーバードという寒村で没した。このあたりのいきさつについては「sarasayaやさん」のブログ「イランという国で」に詳しく書かれている。

彼女は留学生としてイランへやって来て12年目,テヘラン大学で日本語講師として働き始めて3年目と自己紹介している。イランに長い間住んでいる方しか分からないようなイラン事情が書かれており,旅行の出発前にそのいくつかを読ませていただいた。

シーア派の人々これをスンニー派による暗殺と考え,そこに墓廟を建設し,その地をマシュハド・レザー(レザーの殉教の地)と呼ぶようになった。地元の人たちは略して「ハラム」と呼んでいる。

マシュハドはいつしかシーア派の聖地となり,ガズナ朝(10-12世紀)のスルタンが建立した墓廟はマシュハドの最初期の主要建築の一つである。イマーム・レザー廟が現在の規模になったのは16世紀のサファヴィー朝の時代である。現在,聖廟とその博物館にはイラン最大規模の文化・芸術作品が収蔵されている。

「富者はメッカへ,貧者はマシュハドへ」と言われるようにマシュハドはイラン国内の最重要な巡礼地にもなっている。メッカ巡礼を果たしハーッジの称号を得た者でも,マシュハド巡礼を行いマシュティーの称号を得ようとする。現在も年間約2000万人のムスリムがマシュハドを巡礼に訪れる。

バンダルアンザリ→テヘラン移動

カスピ海沿岸のバンダル・アンザリからバスでテヘランに戻り,タクシーと地下鉄を利用してテヘラン駅に到着する。地下鉄のシューシ駅からテヘラン駅までは1kmもない距離であるが,テヘラン滞在中にこのあたりを歩いても駅が見つからなかったのでタクシーで移動する。

テヘラン駅周辺の食事どころ

地下鉄の駅ではバイクタクシーの運転手からさかんに声がかかる。しかし,テヘランの交通事情を考えるとバイクでの移動はリスクが高すぎる。16時に駅に到着し,唯一英語の通じる案内所で一筆書いてもらい,そのメモを持って2階のツーリスト・サービスの窓口で2等寝台のチケット(8.5万リヤル)を購入する。当日売りのチケットが手に入ったのはラッキーであった。

鉄道料金は5年前の情報の4倍の価格である。列車に限らずホテル,バスなどの料金も軒並み2-4倍になっており,東南アジアやインド並みに物価の安い国という表現はもう過去のものになっている。

テヘラン駅は内部も立派だ。英語表記の案内もあり利用には問題は無い。列車の出発は20:45なので待合室の横の荷物検査台の上で日記を書く。立ったまま中腰の姿勢で文字を書くのはちょっと苦しいがなんとか1日分は終了した。

テヘラン駅の赤帽



テヘラン駅周辺で見かけたもの



テヘラン(900km)→マシュハド移動

この駅には一般待合室と乗車用待合室があり,その間は鉄格子のゲートで仕切られている。30分前に乗車用待合室に入りなさいと言われていたのでゲートの係員にチケットを提示し中に入ろうとすると制止された。

近くにある警官の詰め所に行ってチェックを受けなさいと言われる。詰め所でパスポートを提示し,チケットの裏にサインをもらいようやくゲートを通過する。

マシュハド行きの表示がありその前で待機しているとじきに改札は開いた。プラットホームには長い列車が止まっており,その中から自分の車両を見つけ出さなければならない。

ペルシャ語の表記しかないので自力で探すのはけっこう大変である。幸い各車両にはチケットをチェックする係員がいるので彼に聞いて10号車に到着する。係員はコンパートメントの番号も教えてくれたので,こちらは簡単に見つかった。

コンパートメントは3段ベッドで定員は6名である。中年の夫婦,母親をマシュハドに連れて行く壮年の男性,青年がそろい満室となる。中段のベッドを倒し,上段にある荷物袋からわりと清潔な布団と枕を取り出し寝る体制に入る。しばらくしてからシーツと枕カバーが配られる。疲れていたこともありすぐに眠りについた。やはり,寝台列車は身体が楽でいい。

05時過ぎに目を覚ますと列車は田園地帯を走っていた。通路側もコンパートメント側も窓はきれいではない。汚れの少ないところで写真をとる。赤っぽい畑のところどころに水たまりがあるので最近雨が降ったのかもしれない。

列車内を探検すると近くのコンパートメントに子どもがいたのでヨーヨーを作ってあげる。別のコンパートメントからも子どもたちが遊びにきたので5個作ることになった。

09時に列車はマシュハド駅に到着した。イラン第2の都市,イマーム・レザー廟のある聖地だけあって駅舎も立派だ。ここには多くのイラン人が巡礼のために訪れる。列車からは多くの家族連れの乗客が降りてくる。駅前からはメーターのタクシーが出ており,約2kmで1.2万リヤルの料金は今後の参考になる。

Yekta Hotel

街の中心部にあるイマーム・レザー廟の近くでタクシーから降り,Javad Hotel に行くとそこはすでに取り壊されて新しいビルが建ちつつあった。さてどうしようかと思案しているときれいな英語で話しかけられた。アフマッドさんは退職した英語教師で時間があるときはボランティアで街の案内をしているという。

どこにもでいる自称ガイドは親切そうに案内をした後にガイド料を要求するので僕も警戒して最初は断ろうと考えた。しかし,どうやら彼は本当に無償の親切で案内してくれるらしい。とりあえず,ホテルを探しにバーザーレ・レザーの横の通りを歩き,目に付いたYekta Hotel に入る。

Yekta Hotel は巡礼者用の宿である。8畳,2ベッド,T/Sは共同,なかなか清潔な部屋と朝食付きで5万リヤルは格安である。部屋の中に洗面台があるのもありがたい。部屋を見せてもらいすぐに宿泊することにする。

マネジャーにパスポートを提示するとアフマッドさんと二人して僕が1948年生まれであることを知り大げさに驚いていた。日本人はかなり若く見られるようだ。60代に見えたアフマッドさんは僕より2才若かった。それを知って僕も大笑いである。

アフマッドさんの案内で

アフマッドさんの案内でイマーム・レザー廟の入口を見せてもらう。この巨大な宗教的複合施設は街の中心部にあり,そこから四方に幹線道路が走っている。道路は廟の地下でロータリーとなっており,その上は歩行者用道路になっている。

廟全体はレンガの壁もしくは金網で囲われており,入口の横には荷物預かり所がある。廟に入るときは原則として手ぶらでなければならない。もちろん写真は撮れない。

道路工事の土を出す

近くで道路工事が行われていた。深い穴を掘っており,土砂を引き上げるため人力で回転させる巻き上げ機が使用されていた。荷重がかかっているため男性は手と足を使って巻き上げ機を回転させていた。この穴掘り技術はおそらく「カナート」で培われたものであろう。

地面に掘った穴から土砂を持ち上げる簡単な道具である。おそらくロープの先端には土砂の入ったバケツがあるはずだ。このような引き上げ用具は井戸から水を汲み出すときにも使用される。

ハマム

彼は「Mahdi Gholi Beik Hamam」に案内してくれた。この建物は450年前のもので,建設当初からハマム(中東でよく使用されている蒸し風呂)として造られた。しかも20年前まではまだ現役であったという。現在は博物館となっており入場料(3000リヤル)が必要だ。

入口はイラン式のイーワーン(アーチ型の入口を四角く枠取りした壁で囲み,アーチの裏側に ドームを配した門)がある。この様式はイランから中東各地に広まったものらしい。イーワーンとたった一本のミナレットは精緻な紋様の色タイルで飾られている。

ハマムの床も色タイルで飾られており,アーチを組み合わせた天井には素朴なフレスコ画が描かれている。湿気の多いハマムの中でよく傷まずに残っているものだと感心する。

じゅたんバザール

アフマッドさんはじゅたんバザールにも案内してくれた。その名の通りたくさんのじゅうたん屋が並んでおり,高級品から汎用品まで多くの品物が並べられている。ここに展示されているメダリオン(中心部に大きな模様をもつ柄)もとても写真写りがよい。

伝統的な柄ほかにも絵画のように絵を織り上げた作品もある。とはいうものの,まだ旅行は始まったばかりなので,かさばるお土産を買うわけにはいかない。

このじゅうたんの柄は遊牧民由来のものであろう。ペルシャには精密工芸品のペルシャじゅうたんとギャッペと呼ばれる遊牧民の女性が日用品として織る素朴なじゅうたんもある。このじゅうたんは遊牧民の伝統的な題材をペルシャじゅうたんに取り込んだもののようだ。

親切なアフマッドさんはその後の時間帯も案内をしてくれそうな雰囲気であったが僕の体調が良くないので,宿に戻り休むことにした。

体調がさらに悪化

マシュハドに着いてから体調はさらに悪化した。風邪気味のところに寝台列車で体を冷やしたのがいけなかったようだ。熱は37.5度,のどが痛いし喘息のように咳き込むようになった。

口内炎の状態もひどく,ものを食べるのが苦痛だ。夜は早めに寝て,次の日の午前中はベッドの中で過ごす。午後になって症状は改善されてきたのでお出かけする。

バーザーレ・レザー

宿の前の通りの向かい側がバーザーレ・レザーになっている。バーザーレ・レザーは大きなバザールでアーケードの商店が数百mにわたって続いている。ここではお土産から生活用品まであらゆるものが売られている。

堅果と乾燥果物の店

デジタル合成写真

マシュハドは巡礼地のためイラン各地から年間2000万人もの巡礼者が訪れる。彼らをターゲットにしたお土産,衣類,写真の店が繁盛しているようだ。写真はデジタル化されており背景画像を自由に選択し,そこに自分の画像を置くことが出来る。この種の写真屋はイランでよく見かけた。

山盛りのサフラン

マシュハドのあるホラサーン州は良質のサフランの産地である。サフランはとても高価なものと思っていたが,ここでは大きな容器に山盛りに積み上げられて売られていた。乾燥させたサフランの色は赤だというのも新らしい発見である。

イスラム世界にも数珠はある

額から血を流しているフサインの絵

巡礼者用のお土産として人気の高いものにフサイン(アリーの息子,カルバラで殺害された)の絵がある。額から血を流しているフサインの絵はイランの至る所で見かけた。食堂に入りこの絵を指差して「フサイン?」と聞いてみると,多くの人々が「おお,そうだよ,あんたはよく知っているね」と打ち解けてくれる。

ペルシャンブルー?

香水屋

イスラム圏では女性が買い物に出かけることは少ない。この香水屋は店主も客も男性であり,日本の感覚からすると相当の違和感を覚える。

母親か親族の男性を待つ

サブズ廟

バザールから出てレザー廟に向かう途中でイラン式のハンバーガー屋を見つけた。フランスパンにミンチ肉のハンバーグ,ピクルス,トマトを挟んだものでちょうど一食分になる。僕の写真には食べ物を写したものは多くはない。写すことより食べることにまず考えが行ってしまうからだ。ときどき,食べている最中に写真のことを思い出し写すことがある。

ハラムの周囲を時計回りで北に向かっているとき,北西門の通りの向かいにADSLと文字が見えたので中に入ってみた。そこには日本語入力のできるPCがあり,この旅行で初めてメールを出すことができた。

ネット屋から出て適当に歩いているとサブズ廟のある交差点に出た。そこはロータリーになっており,中央に廟がある。正方形の建物の上にペルシャンブルーの大きなドームが置かれている。廟の内部は比較的小さく,中央に仕切りがあり男女の礼拝の場所を分けている。床は何枚かのじゅうたんが敷かれており,墓の上にはコーランを刻んだ石碑が置かれている。男性がお祈りをしていたのでフラッシュ無しで写真を撮る。デジカメのカシャッという操作音もまずそうなので,このようなときは音無しの設定に切り替える。

宿に戻るためハラムの方向に歩いていると普通の建物の壁にペルシャ語の書かれた布が張られていた。中に入るとモスクのような造りになっており,お葬式が行われていた。

正面には話し手が,その両側と対面にイスが置かれ参列者の男性が坐っている。僕は参列者用のイスに案内され,テーブルにはお菓子とチャイが出された。

何やら紙が回ってきたがイラン語ではどうにもならない。式典の内容から推測すると故人の徳を記したものであろう。話し手はコーランの聖句の合間に故人の徳を切々と語っている。モスクでの儀式は死後2-3日後に行われ,7日後にはレストランで会食が行われるという。

エマーム・レザー廟(ハラム)

ハラムはエマーム・レザー廟と中心とする複合宗教施設で,2つのモスク,2つの博物館,6つの神学校,12の門から構成されている。

エマーム・レザー通りからハラムに近づくと出入り口(別々にある)以外は金網で囲われている。出口の左右にはイラン様式の門となるイーワーン(アーチ型の入口を四角く枠取りした壁で囲んだ門)の小さなものが90度回転した位置に2連で置かれている。

つまり,アーチをくぐって外に出るのではなく,アーチ門を左右に見ながら外に出るという奇妙なスタイルになっている。出口の手前からは写真を撮ることはできるが,内部はすべて写真禁止である。

そもそも荷物は入口の近くにある一時預かり所に預けなければならない。入口にはゲート型の金属探知機があり,必要によりボディ・チェックを受けなければならない。当然,男性と女性は別々の入口から入らなければならない。

中に入ると大きな広場がある。この施設は24時間開かれているので照明設備もしっかりしている。広場の左右には2本のミナレットをもつ巨大なイーワーンが建設中である。ミナレットは鉄筋コンクリート,イーワーンは鉄骨の骨組みの上にタイルブロックを貼って組み立てていく。

南西方向の門の上には半月がかかっている。この施設は聖地らしく静謐で厳粛な雰囲気に満ち満ちている。午後8時を過ぎても大勢の人々が行き交い,じゅうたんの敷かれた広場の一画では男性が思い思いに祈りを捧げている。

お祈りのとき人々は5cmほどの平たい小さな石をじゅうたんの上に置き,そこに額をつける。イスラムにおける祈りのスタイルはほぼ同じであるが,この石を使うのはイラン独自のもののようだ。

エマーム・レザー廟は四方に門が配置されているが,内部の建物は基本的にメッカの方向を向いている。広場の向こうにある次の門をくぐると黄金屋根の泉水があり,その背後にはペルシャン・ブルーのドームをもつ大モスクがある。

モスクの中では宗教指導者が説教をしており,内部は男性で超満員である。ここに巡礼に来る人々の宗教的高揚感が伝わってくるようで,しばらく近くに坐って人々の様子を観察していた。

周辺にはいくつかの同じような施設があり,いずれも多くの人で溢れている。女性たちが専用の施設あるいは,柵で仕切られた一画に集まっている。

大ドームを抜けるとエマーム・レザー廟がある。本来ここは異教徒の立ち入りは禁止されているが,他の巡礼者と一緒に中に入っても特に注意されることはなかった。

廟の内部には5m四方の内部屋のような建造物があり,その内部にエマーム・レザーの墓が納められている。石棺が二重になっており,その外側がこの建造物となっていると考えると分かりやすい。

この建造物はカーテンで半分づつに仕切られており,男性と女性が分かれてお参りすることができるようになっている。人々はこの外側の石棺に触れ,願い事をつぶやいているように見える。

廟の内部の壁面は小さな鏡が張り合わされており,照明の光が反射して目がくらむような美しさだ。人々はこの天国を思い起こさせる空間で自分がイスラム教シーア派のムスリムであることを再認識しているにちがいない。

宿の朝食

現在のレンガは穴あき型で軽量化している


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