亜細亜の街角
イスラム色の強い近代的な街
Home 亜細亜の街角 | Teheran / Iran / May 2007

テヘラン  (地域地図を開く)

紀元前2000年以前にイラン高原には先住民族のエラム人が居住し,紀元前2000年頃には統一国家が生まれ,イラン高原南西部の全域を支配した。紀元前1500年頃,中央アジアや南ロシアの草原地帯で遊牧生活を営んでいた印欧語族に属するアーリア人がイラン高原やインド亜大陸へと移動し,イラン人およびインド人を形成する主要民族となった。

イランにおいては非アーリア系の先住民族のエラム人は次第にアーリア人に同化していった。古いギリシャ語の「ペルスィス」を語源とする「ペルシャ」はこの地域の民族の名称となり,幾多の王朝が盛衰する中で,イラン高原はいつの時代も西アジアの中心的な位置を占めてきた。

イランの首都テヘランは人口1100万人,標高1200mのイラン高原に周辺領域も含めると東西40km,南北30kmの範囲に広がっている。13世紀頃までは小さな村に過ぎなかったがガージャール朝(1796年-1925年) の首都となり,20世紀にはパフラヴィー朝のもとで近代化が推し進められ大都会に発展した。

高原にありながら夏は40℃を越え,冬は-10℃を下回ることもある。年間降水量は225mmと東京の1/8にすぎない。長い間テヘランの水源は北部のアルボルズ(エルブルズ)山脈であり,伝統的なカナートのような水路により水は供給されてきた。

しかし,人口の急増とライフスタイルの変化により水需要はまかない切れなくなり,地下水を大量に使用するようになった。その量は雨水による涵養量をはるかに上回っており,近い将来水危機が起こると予測されている。

航空券の手配

当初,フライトはウズベキスタン・イン,インイスタンブール・アウトのオープンジョーを計画していた。しかし,ウズベキスタン航空のチケットは4月初めに2ヶ月オープンのものに変わっており役に立たなくなった。

航空券を検索しガルフ・エアでテヘランイン,アンマンアウトのオープンジョー・チケットを見つけた。旅程に合わせて「イラン,パキスタン,ウズベキスタンのビザ」を取得する。

出発の直前に旅行会社から,「フライトの一部区間は7月から運休となり,復路の予約が受け付けられない状態になっている」という電話がかかってきた。ルート変更をすると,苦労して取得したビザが無駄になってしまうのでそのまま片道で(7.5万円)で出発した。

東京→テヘラン移動

出発が09:30のため04:00に起きて始発に近い電車で成田空港に向かう。東京から香港まではキャセイ・パシフィック,それ以降はガルフ・エアのフライトとなる。

成田(09:45)→香港(13:30)(19:10)→バンコク→バーレーン(03:30)までは順調に進んだ。バーレーン到着は日本時間で03:30,現地時間では21:30となる。テヘラン行きは翌日の11:00である。

空港内にはイスの無いじゅうたんの一画があり,そこではたくさんの人が横になっているので僕もそこで仮眠をとる。しかし,冷房が効きすぎておりとても寒い。冬用のフリースを着込んで寝たがのどをやられてしまった。イラン滞在の前半はのどの不調でずいぶん苦しむことになる。

周辺の人々を観察すると,中国系,インド系,ネパール人,中東系,アフリカ系と多様だ。多くの人々が収入の多い仕事を求めて中東の産油国にやって来る。

08:30にフライト情報でテヘラン便が表示され11番ゲートで待つことにする。しかし,09:30を過ぎても前のフライトの表示のままなので再度確認するとテヘラン便はキャンセルになっていた。初めての経験なのでこれには多少あわてた。

トランスファー・デスクに出向き,すでにチェック・イン済みの搭乗券を提示してドバイ行きの搭乗券とドバイ→テヘランの手書きの航空券を受け取る。ドバイ行きの出発ゲートに急ぎ,バーレーン(10:50)→ドバイ(13:00)(17:30)→テヘラン(19:30)と移動する。

テヘラン到着は日本を出発してから約40時間後であった。この間の食事は5回の機内食でまかなった。新テヘラン空港は市街地から50kmほど離れている。航空券にはテヘランではなくイマーム・ホメイニと記載されており,ここはどこなのと聞きたくなる。

イミグレーションを出るとすでにイラン時間で21:00を回っており,タクシー以外には街に行く交通手段は無いと言われる。とりあえず両替を済ませる。レートは1$=9250リヤルなので1万リヤルが1ドルと覚えておく。

マシャド・ホテル

タクシー・ブースで交渉し10万リヤルで行ってもらう。高速道路を使い1時間ほどでトゥープハーネに到着したが,西も東も分からない。腕時計に付いている方位計でチェックしようとしたら動かない。センサーを使用する高度や気圧測定機能も失われ,時計機能だけが動いている。

帰国後修理に出すと,メーカーから「センサー機能が故障しており,修理には○○円が必要です」という連絡が届いた。その金額は時計の購入金額の8割程度のものだったので買い換えることにした。この時計のデザインと機能はとてもお気に入りのものだったので残念だ。

親切な運転手は宿を探してそれから40分ほど一方通行の通りの周辺を回ってくれた。マシャド・ホテルの前の Amir Kabir 通りが分かれば歩いて5分のところなのに,その通りが一歩通行になっているため運転手はずいぶんてこずったようだ。

おまけに宿の看板は小さくて車からは簡単には分からない。ようやくガイドブックの地図と照合できる場所が見つかったのでタクシーから降りて,あとは歩いてホテルに到着する。タクシーの運転手からは約束の10万リヤルに2万リヤルをたした金額を要求された。

テヘランのホテルが軒並み20$を越えている中でマシャド・ホテルはシングルで72,000リヤルであった。ベッドは虫がいそうなひどさ,トイレとシャワーは共同である。

宿泊する分にはそれほど問題にはならないが,ここの設備は僕の感覚からすると金額に見合うものではない。それでもテヘランの安宿はここしかないので日本人バックパッカーがたくさん宿泊している。

イランで初めてのチャイとパン屋

7時過ぎに朝食を探して宿の周辺を歩いてみた。チャイを飲んでいる男性がいるので茶屋の場所をたずねると向かいの軒先で露店の茶屋があった。その老人は石の床の上にダンボールを敷いて商いをしている。

チャイは一杯1000リヤル,薄いプラスチックのカップにやかんのお茶を入れ,角砂糖というより砕いた砂糖の塊をいくつか放り込んだ甘い飲み物である。イラン最初のチャイの味は上々であった。

平たいパンを抱えた男性が通りかかったので彼に聞いてパン屋を訪れる。イスラムの国らしくパン屋に並んでいるのはほとんど男性である。

パンは60cmX40cmもある立派なもので表面にはゴマがまぶしてある。値段は1枚1000リヤル,焼きたてのものは香ばしくそのままでもおいしい。パン屋の斜め向かいにある食堂を教えられそこでいただくことにする。

イランで初めての朝食

チャイを注文し,となりの男性に勧められパニューと呼ばれる軟らかい白いチーズをいただいて食べてみる。このチーズをぬるとパンの風味が一層引き立つ。それでもパンはとても大きいので半分を食べるとお腹がいっぱいになる。この店ではパンを半分の単位で客に出している。

現在イランではチャイが飲み物の主役となっている。このチャイに必要な茶葉と砂糖はイランで生産されている。茶葉はテヘランの北方にあるエルブルズ山脈の北斜面で栽培されている。

そこはカスピ海からの湿った空気が適度に雨を降らせる湿潤な地域であり,山脈の南の乾燥地域とはずいぶん異なっている。ここにインドのアッサムから茶の苗木がもたらされたのは19世紀半ばのことである。

当時インドを統治していた英国は紅茶貿易の独占を狙って,茶の苗木の持ち出しを厳しく禁止していたので,秘密裏に持ち出したようだ。

一方,イラン産の砂糖は大部分がさとう大根から作られている。炎熱のイランとさとう大根はまったくイメージが合わないけれど,イラン高原の各地で生産されている。こちらは1931年にレザー・シャーが近代化政策の一環として,砂糖工場を建設したことに始まる。

こうして国産の材料でチャイを楽しむことができるようになり,チャイはイランの国民的飲料になった。まあ,日本でいうとお茶のようなものだ。チャイは食堂でも飲めるが,やはり地元の人が集まるチャイ・ハーネの雰囲気がとてもよい。僕がテヘランで朝食をとっていたのはそのような店である。

水タバコ

隣の青年は水タバコをやっている。水タバコ(イランではゲリヤーンあるいはゲリユーンと呼ばれている)は中東一帯でよく見かけた。エジプトではこの水タバコのセットがお土産品としてずいぶん人気があった。

水の半分くらい入ったガラスの容器の上に炭火とタバコ,香料を乗せる。そこから金属のパイプが水の中まで伸びている。容器の上から伸びているチューブの先端を吸うと,タバコの煙が水中を通って出てくる仕掛けである。

ニコチンなどが水に溶けるため,また香料を併用しているので普通のタバコに比べるとずっと味はまろやまになると言われている。しかし,この頃から僕の喉の調子はかなり悪化しており,水タバコを味わうのは無理であった。

少しは英語が通じる

客の大半は英語ができないので簡単な会話しか成立しないが,中には英語の達者な人もおり,30分くらい話し込むこともあった。ここはとても居心地がよかったのでテヘランの朝食はいつもここでいただくことになった。

トルコのドネル・ケバブと同じ文化

鉄の棒の周りに肉を円筒状に積み上げ大きな塊を作り,それをヒーターあるいは炎であぶるケバーブと呼ばれる料理は店先で調理されることが多い。

肉が焼けると少しずつそぎ落とし,それを細長いパンに挟んだり,薄いパンでくるんで食べる。もちろん,メインディッシュの一皿とすることができる。イランではこのサンドイッチを昼食の定番としていた。

街角の風景

宿の北側にはいくつもの美術館や博物館がある。バングラデシュを旅行していたとき,イラン物産展がありその会場でイラン工芸と美術のすばらしさを知ったので,博物館はぜひ訪問したい所だ。

宿のある Amir Kabir 通りを底辺とする1.5kmX1kmの四角形の右上,上辺中央,左上,左下にはそれぞれ国立美術館,宝石博物館,ガラス&陶磁器博物館,イラン国立博物館がある。内部を見ないまでも一回りすると街の様子が分かるというものだ。

宿を出て Amir Kabir 通りを東に向かう。大きな通りとの交差点を北に向かう。交差点付近に街頭の新聞スタンドがある。そこには十数種類の新聞が並んでいる。イランの新聞は日本のように数百万部の発行部数をもつものはなく,せいぜい数千部,数万部という程度だ。

大部分はアラビア語表記のペルシャ語であるが中には英字新聞もある。スポーツ紙もあり一面のトップにはサッカーの写真が掲載されている。

もっとも日本の巨大新聞の発行部数の多さは世界的にみても突出している。日本全体の新聞の発行部数が特別に多いのかは分からないが,世界の大新聞の発行部数をまとめると次のようになる。

順位 新聞社名 推定発行部数

1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11

読売新聞 (日本)
朝日新聞 (日本)
毎日新聞 (日本)
日本経済新聞 (日本)
中日新聞 (日本)
サンケイ新聞 (日本)
USA Today (米国)
北海道新聞 (日本)
Newyork Times (米国)
Wasington Post (米国)
The Times (英国)

1020
830
400
300
270
200
167
120
107
78
73


あの米国の世論を代表するニューヨークタイムスやワシントンポスト紙が100万部とか80万部である。英国の名門紙ザ・タイムスも70万部である。日本の全国紙,あるいは地方紙の発行部数は異常に多いことがはっきり分かる。

街頭のジューススタンド

北に向かうこの通りの東側はいろいろな商店が立ち並んでいる。店員はほとんど男性で占められている。彼らは大の写真好きであちらこちらの店から「写真を撮ってくれ」という声がかかる。僕としては彼らの働いている姿を撮りたいのだけれどなかなかそうはさせてくれない。

果物屋の店先にはメロンとスイカが多い。おそらく今が旬なのであろう。しかし,1個まるごとを買うわけにはいかない。その代わりに街頭のジューススタンドも試してみた。お勧めは5000リヤルのメロンである。

イランのメロンはカボチャのような表皮で見てくれは悪いけれど味は一級品だ。日差しが強く雨の少ない気候はメロンの糖度を上げているのかもしれない。

歩道橋のある大きな交差点

バカレスターン広場で西に向きを変える。この広場の北側には国立美術館があるけれど今日は博物館を優先する。西に向かう通りを10分ほど歩くと歩道橋のある大きな交差点に出る。ここで南に向かうとトゥープハーネに戻ることができる。

ここの歩道橋は交差点を一周できるようになっている。歩道橋の上から通りの写真を撮る。さすがにオイルダラーで整備された道路と街並みは整然としている。交差点では信号が変わると車に先立ちバイクが動き出す。

テヘランの交通事情というか交通マナーはひどいものだ。速度制限は無きに等しい,割り込みは自由自在,わずかな隙間があれば車線などおかまいなしに入っていく。イランを旅した人たちの旅行記にもずいぶん交通マナーの悪さが書かれていた。その記述にはそれほど誇張はない。道路を渡る時にも日本のように車両が止まってくれるだろうなどと期待してはいけない。

魚屋ではちゃんと氷を使用している

この交差点の周辺にはイスタンブール・バザールや商店が多い。イスタンブール・バザールはガラス製品が並びきらびやかではあるが,写真の材料にはならない。魚屋ではニジマス似の魚を扱っており,ちゃんと氷を使用している。

円錐形の巨大な砂糖の塊

路地ではおじさんがカナヅチを使って円錐形の巨大な砂糖の塊を砕いていた。これがチャイ屋で見た砂糖の正体である。この砂糖はとても固く,チャイに入れてもなかなか溶けてくれない。

チャイ屋で一緒になったおじさんは砂糖のかけらをチャイに浸し色が着いたあたりで引き上げそのまま口に入れる方法を教えてくれた。こうすると砂糖は口の中でさらりと溶け,その甘みが残っているうちに砂糖無しのチャイを飲むとよい。

ペルシャじゅうたん

イランはペルシャ絨毯でつとに有名である。街角にはたくさんの絨毯を扱う店があり,ショーウインドウには店の一番良い品物が展示されている。価格は天文学的なものなのでウインドウ・ショッピングできれいな柄のものを写真にとる。

中心部に大きな模様(メダリオン)をもつものは写真写りがとてもよい。材料はウールもしくはシルク,高級品は1m2あたりの結び目(ノット)が100万を越え,一枚を製作するのに熟練した織り子でも6ヶ月から18ヶ月かかるといわれている。

ガラス&陶磁器博物館の収蔵品

ガラス&陶磁器博物館は入場料が5000リヤル,4000年の歴史をもつイランのガラス工芸の変遷がたどれて興味深い。陶磁器もイスラムらしい絵柄のものが目についた。館内にはぼう大なコレクションが展示されており,悲しいことに僕の記憶容量はそれよりはるかに小さい。

国立博物館

国立博物館のイスラム文化館は改装中のため旧館の博物館だけが開いていた。ここの入場料も5000リヤルと安い。ここはフラッシュ無しの撮影が許可されており,いくつかのものを撮ることができた。やはり,アケメネス朝(紀元前5世紀)のものは興味深い。

女性の服装

女性たちの服装はおおむね黒のチャドルである。イランでは体を覆うものをへジャーブといい,その中でチャドルとは全身を覆う布を意味する。簡単にいうとフードのついたゆったりとした前合わせのマントを想像すればよい。

布を頭から被っているだけなのでそのままではずりおちてしまう。女性たちは端を口にくわえたり,チャドルの裏にゴムやマジックテープを付けて頭に引っ掛けるようにしたりしている。

チャドルは決して行動しやすい服装とはいえず,若い女性たちはジーンズの上にハーフコートを着込みスカーフを被っている。こちらの方は活動的ではあるがイランの夏の暑さは半端ではない。

イスラムの教えの根幹にある聖典コーランの中には女性がこのような服装をしなさいとという直接の記述はなく,コーランを規範にしたイスラム法(シャリーア)が生活全般について細かく規定している。

イスラム革命後のイランではシャーリアがより厳密に適用されるようになり,女性に対する厳しいドレスコードとなっている。国内の異教徒や外国人といえどもそれが適用される。

イランを旅行する女性にはチャドルあるいは膝丈のコートとスカーフは必需品である。保守派のアフマド・ネジャブ大統領のもとではへジャーブを被らない女性は宗教警察により多数逮捕されている。

テヘラン駅が見つからない

テヘラン以後の行程はカスピ海沿岸のバンダル・アンザリに行き,テヘランに戻りそのまま東にあるマシュハドに行く計画であった。できれば寝台列車のチケットを事前に入手しようとトゥープハーネからメトロに乗りスースで降りる。ここからテヘラン駅まではせいぜい2kmである。

西に向かって歩き出すとモスクがある。中の女性が「入れるよ」という合図をくれたので入ることにする。モスクの中は土足厳禁である。入口でクツを預けて中に入る。

内部は「鏡の間」になっている。そこは,大きな鏡があるわけではない。壁面全体に小さな鏡を貼り合わされており,光の乱反射により不思議な空間となっている。

この鏡の間はマシュハドのレザー廟やゴムの聖マースーメ廟の内部装飾にも使われていた。もちろん,聖地の廟の写真は論外なので,鏡の間の写真はこの一枚きりである。

鏡の間の左側に女性用の祈りの部屋,奥には男性用の大きな部屋がある。床には大きなじゅうたんが何枚も敷かれており,集団礼拝のときに場所を決めるための印しは無い。

メッカの方角にあるミフラーブという壁の窪みは,イランらしいデザインの彩釉タイルで飾られている。これはちょっと珍しい。その横にはミンバルという説教台が置かれている。

通りに面して照明とガラスや陶器の置物を扱う店がたくさんある。イラン人はシャンデリアや立派な置物が好きなようだ。デーツ(ナツメヤシを半生に乾燥させたもの)の店があり,バム産の高級品を一箱いただく。これが1.2万リヤル(130円)である。

床屋があったので入ってみる。僕は旅先でよく散髪をしてもらう。しかし,かみそりは(エイズが怖いので)すべてお断りしている。おりよく中に英語のできる客がいたので,彼を通じて希望のカット長さを伝えることができた。料金は洗髪無しで2.5万リヤルである。

さて肝心なテヘラン駅はまったく見つからなかった。これはちょっと信じられない。おそらく,駅の北側からはアクセスできないようになっていると推測する。バンダル・アンザリから戻った時に,タクシーは南から駅前広場に入った。

地下鉄に乗って

テヘランの南にレイという町がある。テヘランの膨張により現在ではテヘランの一部のようになっており,この町までは地下鉄で行くことができる。

地下鉄のレイの駅から市バスに乗ってしばらく行くと「アリーの泉(チェシュメ・アリー)」がある。ここは少し前までは春先の絨毯洗いで知られていたが,現在では水源の汚染を招くとして当局により禁止されている。

アリーの泉

このようにローカルな地域を訪れる時は現地での呼び名を知らないと苦労する。「spring of Ali」では現地の人はまったく分からないからだ。幸い旅行人には現地語の発音が記載されていたので無事に市バスに乗ってアリの泉にたどりつくことができた。

泉は岩山の下にあり,岩の割れ目からきれいな水が流れ出している。水路の手前はコンクリートの広いスペースがあり,そこは絨毯洗いに使われていた場所であろう。ここは子どもたちにとってかっこうの遊び場所となっており,何人もの子どもたちが水路に入って遊んでいる。

まあ坐ってお茶でも飲みなさい

泉の近くには芝生の丘や傾斜の急な岩山があり地元の人がピクニックに訪れている。両親と5人の子どもたちが芝生にじゅうたんを敷いてくつろいでいる。写真を撮るとまあ坐ってお茶でも飲みなさいということになった。

イランではよくこの手のお誘いを受け,いつもありがたくいただいている。お礼にヨーヨーを作ってあげる。年長の男の子はすぐにヨーヨーを自由に操れるようになる。

アリーの泉から見る街

桑の実がそろそろ食べ頃となっている

スークを歩く


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