紀元前2000年以前にイラン高原にはエラム人が居住し,いくつかの国家を形成した。エラム語は印欧語とは異なりその系統はよく分かっていない。紀元前2000年頃にはエラム人の統一国家が生まれ,イラン高原南西部の全域を支配し,その後1000年にわたりオリエントの重要勢力として存続した。
紀元前1500年頃,中央アジアや南ロシアの草原地帯で遊牧生活を営んでいた印欧語族に属するアーリア人がイラン高原やインド亜大陸へと移動し,イラン人およびインド人を形成する主要民族となった。イランにおいてはメディア人とペルシャ人という2つの集団となり,非アーリア系の先住民族のエラム人は次第にアーリア人に同化していった。
紀元前1000年頃アッシリアが強大となり,エラム人の国家は消滅する。紀元前7世紀にアッシリアが勢力を失なった後にイラン高原を支配したのはメディア人の王国であった。紀元前550年,メディア人とペルシア人の混血といわれるキュロスがメディア王国を滅ぼした。これがアケメネス朝であり,ペルシャ人が初めてこの地域の支配勢力となった。
ペルシャの語源は古いギリシャ語の「ペルスィス」に由来する。かってエルム人の根拠地の一つであるアンシャンに「ファールス」というアーリア人の部族が定着するようになったので,この地域はファールスと呼ばれるようになり,それを古いギリシャ語で「ペルスィス」と呼んでいた。
一方,アーリア(アイルヤ)は「高貴な人」という彼らの自称に過ぎなかったが,サーサーン朝期以降はイラン高原を中心とする地域は「アーリア人の土地」という意味の「エーラーン」あるいは「エーラーンシャフル」の名で呼ばれるようになった。近世ペルシア語では「イーラーン」となった。
1935年3月21日、パフラヴィー朝のレザー・シャーは諸外国に対し国名として「イラン」の使用を要請した。その後イラン人研究者による抗議などがあり1959年にはペルシアおよびイランは併用できるものとされた。