亜細亜の街角
ヨーロッパを思わせる中央アジア最大の都会
Home 亜細亜の街角 | Toshkent / Uzbekistan / Jun 2007

タシュケント(タシケント)  (参照地図を開く)

ウズベキスタンの首都で人口は30万人である。中国と中央アジアのオアシスを結ぶ天山北路の中継地,北の草原地帯と南のオアシス地帯の境界,さらに豊かなファルガナの入口にあたる交通の要衝に位置しており,古くからの商業都市として2000年以上の歴史をもっている。

中央アジアのオアシス都市と同様に紀元前10世紀頃からイラン系の民族が定住するようになった。紀元前6世紀にはアケメネス朝ペルシア帝国の支配下に置かれた。

7世紀以降は トルコ系遊牧民(突厥)がモンゴル高原から北方の草原地帯に移動してくる。一方,オアシス地帯にはアラブ人が進出し,チュルク系民族と対峙するようになる。しかし,地域王朝のサーマーン朝が10世紀に滅亡すると,チュルク系民族はオアシス地帯に南下しチュルク化が進む。

古名はソグド語でチャチと呼ばれており,11世紀にチュルク語系のタシュ(石)とイラン系言語のケント(町)が合わさりタシュケントと呼ばれるようになった。19世紀には人口10万の都市に発展していた。

中央アジア進出をもくろむ帝政ロシアはカザクスタンを支配下に置き,1865年にはタシケントを攻略した。これによりロシアは中央アジア進出の拠点を持つことになり,その翌年,ロシア軍は4万のブハラ軍を破り,ホジャンドを陥れた。

1873年,ロシア軍はヒヴァ・ハーン国を降伏させ中央アジアのオアシス地帯はほぼ帝政ロシアの勢力化に置かれるようになった。タシュケントには帝政ロシアのトルキスタン総督府が置かれ中央アジア経営の拠点となった。

ロシア革命によりソビエト政権ができたとき,タシュケントは周辺のムスリム政権に対するソビエト勢力の拠点となった。帝政ロシア以前の伝統的な旧市街は1966年の大地震によってほとんど失われてしまった。

現在の街並みはロシア人により計画的に整備されたもので,オアシス都市時代の姿は街の西側地域にわずかに残っているのに過ぎない。1991年の独立後はウズベク化が進んでいるが,未だ街の雰囲気は多民族的であり,ロシア語が日常的に使用されている。

サマルカンド(268km)→タシュケント 移動

06:30に起床,書き残しの日記を仕上げてから朝食をいただく。昨日の夜に到着した学生のFさんと話をしていると僕の大学の後輩であることが分かった。しばらく学校の話に花が咲く。毛沢東の悪口も共通の話題であった。

居心地の良かったバハッドゥル・ゲストハウスをチェックアウトしてスィヤーブ・バザールの下の道路でマルシュルートカを待つ。ここにはずいぶんマルシュルートカがやってくるが,民営BTに行く12,45番のものは一向に現れない。

58番の運転手がウルグベク天文台に行くというので乗り込む。天文台からBTまではたいした距離ではない。この車は感じの良い裏道を通り,BTの入口まで行ってくれた。親切な運転手にお礼を言ってBTに向かう。

タシュケント行きのバスはすぐに見つかった。乗り込む前に料金を確認しておく,なるほど4000ソムか。バスはなかなか発車しない。ちょっと腹具合に自信がなかったので,運転手に断ってトイレに行く。

これでタシュケントまでは心配事は無くなった。09:30にバスは動き出し,市街地を抜けるとすぐに農地の風景となり,それはタシュケントまで続いていた。途中で列車が走っていたので写真に収める。

このバスは上部の小窓が開くので走行中は涼しくて助かる。集金にきた車掌に4000ソムを渡すと,あと1000だと言う。「乗る時に確認したら4000だと言っていたよ」と切り返すとあっさり引き下がった。

バスは15時にタシュケントのサービル・ラヒーモフBTに到着した。ここからは中心部まではメトロがある。窓口で250ソムを払いジュトン(プラスチックのメダル)を受け取る。それを自動改札機に投入すると通してくれる。

このメトロでチャールスゥ・バザールまで行くのがもっとも安上がりのルートであるが,情報ノートの記述がトラムで行くようになっていたので,安全を期してナヴァーイでトラム(路面電車)に乗り換え,目印となる高層建築のチャールスゥ・ホテルの近くで下車する。

「カラマッパ・アパ」の家

情報ノートの通りに歩いていくと12-13階建ての白いアパートが何棟か並んでいる。ここに「カラマッパ・アパ」の家がある。近くでタバコなどを売っている露店の人に「カラマッパ・アパを知っていますか」と訊ねると案内してくれた。

もっとも,アパの家は満室らしく彼女のネットワークで2B棟の3階の部屋に案内された。言い遅れたが「カラマッパ・アパ」の家とはカラマッパ・アパさんが斡旋してくれる民宿のことだ。彼女は60代半ばくらいに見えるが本当の年齢は分からない。

当初は自分の部屋だけでやっていたが利用者が増えたので近所の部屋と契約を結んでいるようだ。タシュケントは安宿が少なく,日本人バックパッカーはほとんどここに集まるようになっている。

しかし,ここは無許可の宿になっており,ウズベキスタンの宿泊時に必要なレギストラーツィアと呼ばれる外国人登録をやってもらえない。最近ではかなりルーズになってきているものの,原則として各訪問地で外国人登録が義務付けられており,登録証がちゃんと揃っていないとトラブルの原因になる。

僕の場合,6ヵ所の滞在のうち2ヶ所の登録証がもらえなかったけれど,幸い滞在中のパスポート・チェック時にも出国時にもほとんどチェックされず問題は発生しなかった。

僕が寝泊りする部屋は8畳ほどの広さで,じゅうたん敷きになっている。ここに布団を敷いて寝るスタイルである。おそらく,最大3人が泊まることになる居間に今日は僕一人で過ごすことになる。料金は朝夕の2食付で8000ソムと格安である。

アパートの間取りは1LDKであるが台所はずいぶん広い。家族は夫婦と子どもが二人であり,僕が居間にいる時は主寝室で4人が寝ることになる。僕には鍵 が無いので誰かが部屋にいないと入れないことになる。

宿のおばさんはほとんど英語はだめであるが,なんとか夕食は8時だということは理解できた。とりあえずシャワーと洗濯である。バスルームに入ると,昔の丸型の洗濯機がありその中には「ハリネズミ」が寝ていた。

最初はそのような動物だとは気が付かず,あぶなくつまみみ上げるところであった。口先がとがっており,首から後ろにはびっしりとトゲが生えている。名前はネズミとなっているけれどモグラ目,ハリネズミ科に属している。背中のトゲは針毛といって毛が変化したものらしい。

自然分布地域はアフリカ,中近東,ロシアがになっているので,ここでは特別に珍しい動物ではなさそうだ。日本でもペットショップでこの仲間が売られているそうだ。この家のものはほとんど一日中寝ており,バスルームの明かりがつくとモゾモゾと動き出す。

僕は洗濯機を使うことはないので,ハリネズミはそっとしておいてバスタブで洗濯をする。タライも無いのでバスタブに洗濯物を置き,水で濡らし,洗剤を振りかけて足で踏むことにする。この足踏み洗いの技術はタライなしで洗濯ができるのでなかなか重宝している。

今日の夕食はトマトスープのパスタとサラダ(トマト,キューリ),パン,メロンである。クセが無いのでおいしくいただける。メロンは完熟しており,というか腐る直前であり非常においしい。台所にはメロンがころがっており,食べる直前に冷蔵庫で冷やすらしい。

2日目には新しい客が加わった。サマルカンドの宿で会った僕の大学の後輩のFさんであった。2B棟の1階の部屋が満室のためこちらに連れられて来たという。

多民族国家

夕方,周囲をちょっと歩いてみる。似たような高層アパートが並んでいる。建物の入口付近に子どもたちがいて,コンニチワという声がかかる。日本人宿泊客が多いので教えてもらったのだろう。

写真を撮ろうとすると6人の女の子が集まってきた。みんな顔立ちに特徴があり,モンゴル系,チュルク系,ロシア系とこの国を構成する主要民族が揃っているようだ。

ウズベキスタンの主要民族はチュルク系のウズベキスタン人で全人口の79%を占めている。うまい具合に3民族が揃ったものである。この他,タジク系の人がいるけれど僕には識別がつかないだろう。

子どもたちの案内で,僕の泊まっている2B棟の1階部屋を紹介される。このフロアの2つの部屋には日本人がたくさん泊まっており,なつかしい顔に出会うこともできるし,最新の情報も仕入れることができる。

とりあえず緊急に必要な情報はタシケントからアゼルバイジャンのバクーへの航空券に関するものである。ウズベキスタンからバクーに陸路+海路で移動するためにはトルクメニスタンを通過しなければならない。

しかし,旅行者の間ではこのところアゼルバイジャンへのトランジットビザが発給されていないという情報が広まっていた。おまけに,トルクメニスタンのチュルクメンバシュ港からバクーに向かう船が不定期で何日も待たされることがあるという情報も日本人の多い宿の情報ノートに書かれている。

これは空路に頼るしかなさそうだ。ところが,旅行者の情報ではこの路線は意外と混雑しており,ある人は1週間後までは満席と言われたという。それは日程上とてもまずいので明日は早速,旅行会社に行ってみよう。

バクーへの航空券を購入

昨夜は暑さ,蚊の攻撃,明るさのため寝心地は悪かった。特に玄関の明かりが入ってくるののには閉口した。蚊の攻撃はすぐに始まり,かゆい箇所が増えていく。薬箱を出して夜中に何回か虫刺され薬を塗る。

この家族は朝が遅い。朝食が出てきたのが08時を大分回っている。目玉焼き2個,パン,サラダ,チャーイでお腹が一杯になる。すぐに,航空券を求めに出発することにする。

でも旅行会社はどこにあるんだろう。中心部のアミール・ティムール広場のすぐ近くにウズベク・ツーリズムがあるのでとりあえずそこに行ってみよう。

チャールスゥ・バザールからメトロに乗る。メトロは乗換えを含めて250ソムで全区間が利用できる。上下の移動はエスカレーターが利用でき,ホームの手前には行き先駅の名前がラテン文字で表示してあるので,左右どちらの電車に乗ったらよいかが判断できる。

問題は駅名の確認である。車内のアナウンスはとても聞き取りづらいので神経を集中して聞いていなければならない。「神田〜,神田〜,次の停車駅は東京」というように停車駅のアナウンスの後に次の駅のアナウンスがあるので間違えやすい。昨日はこのため一つ前の駅で下車してしまった。

地下鉄駅内にはたくさん警官がいる。タシュケントの警官の悪評は旅行者の間では有名である。とくにバックパックをかついでいるとよくパスポートの提示を求められるという。

それは,ワイロの請求につながるので,「警官にはパスポートのコピーを見せろ」というのはこの国を旅する旅行者の常識になっている。一般的に若い人の方が,また服装がラフなほどパスポートの提示を求められる確率は高いようだ。

幸いなことに,僕は何回もメトロを利用したが警官にからまれることはなかった。タシュケントは地下鉄とトラム(路面電車)が充実しているので,路線図があれば移動には苦労しない。僕の持っている「旅行人」は白黒印刷ながら地図はとてもしっかりしており,一人旅の強い味方になってくれる。

ナヴァーイで乗り換え,アミール・ティムールで下車する。地下鉄の駅を出ると目の前にホテル・ウズベキスタンが巨大な姿を見せている。外部からの侵入防止のためなのか転落防止のためなのか,全面に四角を組み合わせた鉄格子が取り付けられており,とても奇異な印象を受ける。

広場の中心にあるアミール・ティムールの騎馬像は,公園の樹木にさえぎられて見えない。ウズベク・ツーリズムに行ってみると,そこは観光案内所ではなく政府の観光省のようなところであった。

さてどうしたものかと思案していると,受付の女性が日本に留学したことのあるという職員を紹介してくれた。「航空券を購入するため旅行会社を探している」と話すと,日本語の通じる旅行会社に電話してくれた。

キャラバン・サラーイという名前の旅行会社の女性は流暢な日本語を話し,僕はこちらの男性と結婚した日本人女性かと思ったほどだ。「2-3日後のバクーへの航空券が欲しい」と用件を伝えると,「30分後にこちらからお電話します」ということであった。

彼の事務所に30分ほど滞在し,電話で3日後の8月13日に空席があることを確認し,さっそく事務所に出向くことにした。1kmほど歩いて彼女の教えてくれたビルに到着したが「キャラバン・サラーイ」については誰も知らないと言う。

5人くらいの人に聞いてようやく事務所が分かった。事務所の中は冷房が効いていて外の炎暑に比べると天国である。まずは近くのスーパーで買った冷たい水を飲ませてもらう。

彼女に料金を確認すると航空券代(220$)に手数料の15%が上乗せされるということである。手数料の30$はさすがに大きいので,彼女にあやまって自分でウズベキスタン航空の窓口で購入することにする。

メトロに乗ってアイベックで下車,そのまま南西に歩くと事務所はすぐ分かった。昼休みのため,カウンターの窓口は4つした開いておらず,何人かがその前に並んでいる。

14時から開くと表示してあるカウンターで待っていると,おばさんたちが平気で割り込んでくる。窓口業務も遅く,迅速なサービスに慣れてしまっている日本人にはとてもいらいらさせられる。

ようやく僕の番になり,「13日,07時,Baki,oneway」と書いたメモ,パスポート,パスポートのコピーを窓口のおばさんに差し出す。彼女は僕のチケットを作成し,それの代わりに請求書のような紙を見せて「あちらの窓口で料金を払ってきて」と言っているようだ。

支払い窓口はウズベク・ソムでしか受け取ってくれない。反対側に両替窓口があるので250$を両替する。それはかなりの厚さの札束になる。円で説明すると100円札で3万円に相当する枚数だ。航空券の料金分を数えるのはとても大変なので,料金分を分けてもらった。

支払い窓口に戻り端数をプラスして渡し,レシートをもらう。それを最初の窓口にもっていくとようやくチケットがもらえた。普段の買物は1000スム(100円)札で十分であるが高額の買物はそれではつらい。こうして,タシュケントの2日目は航空券の購入だけで終わった。

ホテルの北側には噴水のある大きな池がある

昨日はほとんど見られなかったのでティムール広場に再び出かける。ウズベキスタンホテルをのんびり眺める。

ホテルの北側には噴水のある大きな池があり,周囲には物価の高そうなカフェが営業している。道路はティムール広場から放射状に出ており,方位計があれば容易に歩くことができる。しかし,僕の腕時計の電子方位計は故障しており,今回の旅行は太陽の位置で方位を推計していた。

広場の北側にはアミール・ティムール博物館がある

広場の北側にはアミール・ティムール博物館がある。円筒形の建物本体を円形の庇が囲み,上にはドームが乗っているという伝統を意識した建物である。独立後はこのような建物が増えている。

新しい博物館にはさほど興味がなかったので入らなかったが,帰国後にテレビを見ていたら謁見中のティムールの大きな壁画があることが分かり,惜しいことをしたなと少し悔やむ。

アミール・ティムール広場

ティムール広場はよく整備された公園となっている。樹木は大きく成長しており植物園の雰囲気をもっている。その中央部に騎馬姿のティムール像がある。正面から撮ろうとすると逆光になるので,横からの一枚となる。この場所にかってはレーニン像があったという。

南側の時計台はよいランドマークになっている

広場の南側には時計台があり,よいランドマークになっている。この塔の上部は独特の形状をしており,イランで見かけたバードギール(通気塔)と類似している。

重厚な建物が多い

周辺の通りは広く,ヨーロッパを思わせる重厚な建物が多い。さすがはロシア人が造った街である。

ロマノフスキー通りにはレンガ造りの建物が並ぶ

広場の西側にあたるロマノフスキー通りにはレンガ造りの建物が並んでおりなかなかいい感じだ。壁にはエアコンの室外機が取り付けられており,韓国のLG製のロゴが目立つ。

サユルガーフ通り

広場から西に伸びるサユルガーフ通りは「ブロードウェイ」と呼ばれており,タシュケントで最も活気のある歩行者専用の通りだそうだ。両側に街路樹が並ぶ真っ直ぐな道が700mほど続いており,散歩するにはいい所だ。

通りの北側はいくつもの公園になっており,そこにはいろいろなスタイルの噴水がある。さすがに首都の公園だけあって噴水もよく整備されて水の芸術作品となっている。暑い時期にはこの清涼感が市民のオアシスとして人気がある。

絵画の集まる一画

通りには似顔絵屋がイーゼルを立てて店を開いている。客がいないときは写真から似顔絵を作っている。通りの反対側の広場では百枚単位で売り物の絵が並べられている。風景画が多いけれど,現在のものではなく,有名な写真や絵画の複製品に近いものも多い。

おしゃれなカフェ

その先にはおしゃれなカフェが並んでおり,客の服装もずいぶん垢抜けている。そのぶん物価も高くなっている。その反対側も噴水公園になっており,木陰に坐って休憩方々しばらく眺めていた。

ナヴァーイ記念オペラ・バレエ劇場

第二次世界大戦後,旧満州から強制連行された日本人抑留者が建設に参加したことで知られているナヴァーイ記念オペラ・バレエ劇場は重厚かつ美しい建物だ。

やはりこのような建物を見ていると街づくりに対する考え方が日本とは根本的に違うことを考えさせられる。同時に50数年前の建物が現役でしっかり機能していることも驚きである。

劇場の前は広場になっており,ここの噴水もみごとだ。劇場を背景とする噴水の構図はやはりヨーロッパの感性であり,そのまま絵になる構成である。周辺にも個性的でそのまま芸術品になりそうな建物がたくさんある。

中世のオアシス都市を代表する中央アジアの三つの真珠(ブハラ,ヒヴァ,サマルカンド)でイスラムの宗教建築をずっと見てきた僕にとっては,この街は別の意味で鮮烈な印象を残した。

個性的でそのまま芸術品になりそうな建物

独立広場周辺

サユルガーフ通りは大きな通りにぶつかって終わりとなる。この大きな通りの西側にはムスタキルリック・メイダス(独立広場)の公園,コンサート・ホールなどがあり,広い空間を使った芸術作品のようになっている。

僕と独立広場を隔てている大きな通りは完全な自動車専用道路で,見たところ横断歩道や歩道橋はない。歩道との境になっている鉄柵を乗り越え,車に注意しながら横断する。

コンサート・ホールの手前には涼しげな感じのする一列に並んだ長い噴水があり,その向こうに横に長い白亜のホールが控えている。ここを少し北に行くとさきほど僕が違法に横断した道路をくぐる地下道があった。なるほど,そういう構造になっていたのか。

通りの反対側には白い美しい建物が見える。これがロマノフ宮殿である。なんだか写真が建物のコレクションばかりになってしまう。独立広場の入口には大きな噴水池があり,その向こうに一列に並んだ石柱に支えられたゲート風の建造物がある。

中心部は一段高くなっており,その上には巨大な球体とコウノトリと思われるオブジェがある。旧ソ連らしくないのでおそらく独立後に造られたものであろう。

ここは「独立広場」となっているが,旧ソ連時代は南側が「レーニン広場」,北側が「赤の広場」と呼ばれており,中心部にはレーニン像が建てれていたという。

現在,その場所には地球儀の形はしているが,ウズベキスタンだけが表示された巨大なモニュメントがある。これはウズベク・ナショナリズムを表現したものであろう。

その北側には第二次世界大戦のメモリアル・モニュメントと戦没者の名前を記したモニュメントからなる,「無名戦士の墓」がある。旧ソ連は第二次世界大戦を「大祖国戦争」と呼び,祖国の名の下に各共和国からも多くの人民を徴兵した。

第二次世界大戦における戦死者(軍人のみ)数は旧ソ連が1450万人と群を抜いている。ちなみにドイツは285万人,日本は230万人となっている。ここの戦没者名簿には50万人の氏名が刻まれているという。

中央には出征した息子を待ちわびる,あるいは息子の死を悲しむような母親の銅像が立っている。このような戦争を否定する母親の感情を表現した像は旧ソ連時代には考えられないものであり,やはり独立後のものであろう。

この広場からコンサート・ホールを見ると,白い布がたくさん立てられており,まるで芝生の海に浮かべたヨットのような光景が広がっている。近づいてみるとそれは強い夏場の太陽から木を守るための保護布であった。ここの陽光の強さは小さな針葉樹にとっては過酷なのかもしれない。

チャールスゥ・バザール周辺

メトロでチャールスゥ・バザールに戻り,宿で一休みとしようと歩き出すと日本語で名前を呼ばれた。カシュガルで夕食を一緒に食べたカップルが立っている。

男性のGさんに「カザフスタンからまっすぐここまで来たけれど,まだ両替もできないんです,カラマット・アパの家に行こうとしているんですがどこですか」と訊ねられる。

「僕もこれから戻るところなので一緒に行きましょう」と歩き出す。確かに詳細情報がないとアパの家にたどり着くのは難しい。アパの家に案内すると,案内人のおばさんは2Bの1階に連れて行ってくれた。メロンが出てきたので一緒にいただきながらカシュガル以降の旅の話で1時間ほどを過ごす。

チャールスゥ・バザール周辺(その2)

夕方は日本語可のネット屋に行く。宿から少し歩くとナヴァーイ大通りに出る。近くにはスーパーマーケットがあり,飲み物などはそこで仕入れることができる。

大通りの北側はチャールスゥ・バザールがあり,その左側にランドマークとなっている両側にミナレットを配したような背の高いチャールスゥ・ホテルが見える。バザールの北側はオアシス時代の旧市街がまだ残っている。

帰りに懸案となっていたジーンズを買いに行く。3週間前にクルグスタンのジャララバードにいたとき,お尻の部分が擦り切れ,当て布と一緒に縫ってもらい,だましだましの状態で今日まで過ごしてきたがそろそろ限界のようだ。ウエストも伸びており,しばしば持ち上げなければならず,それも厄介だ。

チャールスゥ・バザールの迷路のよう露店に入り込み,ようやくジーンズ屋を見つける。僕は旅をしていると痩せる性質なのでウエスト28インチで探してもらう。これがなかなか見つからない,ようやく希望のものが見つかり値段交渉が始まる。

20,000ソムが店の男性の言い値である。僕はおおよその値段は知っていたので10,000ソムから始める。結局,15,000ソム(1500円)で折り合いをつける。10$くらいが適正価格なので,当然裾上げ代は入っていると解釈した。

ところが売り手の男性は裁縫店に僕を連れて行き,さらに3000ソムをそこで払えと言う。それでは余りにも高過ぎるので「裾上げ代はズボンの代金に入っているでしょう」と強く言うと彼が払うことになった。

裾上げ代は1000ソム程度なので,油断ができないところだ。これでようやく新しいジーンズが手に入り,ズボンを持ち上げる必要も無くなった。このジーンズは帰国後も愛用している。

ネット屋は見つからなかった

チャールスゥ・バザールを軽く覗いてからナヴァーイ大通りを東に少し歩くと北側にサーカスの立派な建物が見える。青い丸屋根のドームは独立後の建物の特徴になっている。サーカスそのものは旧ソ連の遺産であろう。

ここから南に折れ,フルカット通りを真っ直ぐ行くとハルクラル・ドスリギ広場がある。広場の周辺には人民友愛宮殿とか結婚宮殿といった旧ソ連時代に中央アジアの各地に造られた大きな建物がある。

目指すネット屋は広場の東側にあるはずだが,どこにも見つからなかった。近くには大きなアパートがいくつもあり,正面から見るとちょっとおもしろい幾何学模様になっている。


サマルカンド 2   亜細亜の街角   タシケント 2