亜細亜の街角
街の西側にわずかに旧市街が残っている
Home 亜細亜の街角 | Toshkent / Uzbekistan / Aug 2007

日本センター

昨夜も寝苦しかった。同室の学生さんは荷物をまとめ,朝食も取らずにさっさと出て行った。玄関の戸が閉まる音におばさんが顔を出したので,彼が出発したことを身振りで伝えるとそれでおしまい。

残された僕はゆっくり日記を書くことにする。日記が終わった頃に家の住人が起きてくる。しばらくしてから,いつものように朝食が出てくる。

今日はメールを出すためにティムール広場の北にある日本センターに出かける。地下鉄を乗り継いで日本センターの前の通りまで行く。日本センターの入っている建物は20階くらいはありそうな総ガラス張りの近代的なビルである。入口で聞くと土曜,日曜は休館だとあっさり追い返された。

タシュケント・テレビ塔

仕方が無いのでタシュケントのシンボルともなっているテレビ塔を見に行くことにする。途中にタシケントランド遊園地とアクアパーク遊園地があり,入場料はどちらも5000ソムとこの国の物価からすると高い。

テレビ塔の建物に入るにはパスポートチェックを受け,何やら証明書のようなものを書いてもらう必要がある。さらに荷物検査を受け,人間は金属探知機を通過しなければならない。この探知機は感度が良すぎて腕時計にも反応してしまうので困ったものだ。

このテレビ塔の高さは375m,100mのところに展望台があり,そこまで上がるには4200ソムが必要だ。ウズベキスタンの滞在はあと1日でソムの残高が少なくなってきたのでパスする。

下の展示室には世界の高層建築物の一覧がある。もう相当変わっているとは思うが,それではタシュケントのテレビ塔は第10位にランクされていた。ちなみに11位は東京タワーで333mと表示されていた。

ジェット・コースター

外からジェット・コースターの斜めになったレールが良く見える。ちょうど最上部に車両が引き上げられ,まさしく落下するところである。キャーというおなじみの悲鳴を残して車両は落下していった。

さすがは中央アジア最大の都会タシュケントのジェット・コースターはブハラの遊園地で見かけた素朴なものとは全く別物である。英語では「roller coaster」というが,高いところから急加速度で落下していく様子を日本ではジェットという表現にしたのだろう。いわゆる和製英語というやつだ。

リフトに乗って園内を上から眺める

遊園地の外側には園内を一周できるリフトがあるので乗ることにする。この乗り物も2000ソムとずいぶん高い。リフトはアクアパーク遊園地の上を通る。10mほどの高さから見るプールは真っ青できれいだ。おそらくプールの床面に青い塗料が塗られているのだろう。

立派なウオタースライダーもありさすがは入園料5000ソムである。来るとき見かけたジェットコースターはほとんどが池の上を走るようになっている。もっともこれ以外には過激な乗り物はなく,家族連れで楽しめるところだ。

子どもたちの服装

遊園地の前で話をしている中学生くらいの少女の服装は日本よりも露出度が高く,かなり違和感を感じる。もっともこの国のムスリムは50%程度であり,信仰心もそれほど強くはないという報告もある。

そのまま南のアライ・バザールまで歩く。バザールの向かいに「DAWOO」の表示のあるネット屋を見つける。ここでは少なくとも1台のPCは日本語環境があり,ようやくメールを出し,日本のニュースをチェックすることができた。料金も1時間で700ソムと安い。

地質学博物館

16時から宿の近くにある地質学博物館に行く。広い敷地の中に直方体の建物があり,外から見た感じでは閉館しているようだ。庭を歩いていると男性が現れて中に入れてくれた。ソムの所持金は4000しかなかったので,5$(=6000ソム)を出して4000のおつりをもらう。

客がいないので内部は照明を落としており,男性が僕が入る部屋だけ照明を入れてくれた。17時の閉館まで30-40分くらいしかない。2つのフロアには鉱物関係の標本が展示されており,ここは足早に見学する。

もう一つの部屋は恐竜関係の展示室であった。中央に骨格標本がある。後ろ足が長くて二足で立っているところを見ると肉食恐竜かなと思うが,顔はカモノハシ竜に似ている。案内の男性は「写真を撮ってもいい」というので撮らせてもらった。

建物を出て庭の樹木を観察する。オリーブの木がたわわに実を付けている。地中海性気候で育つオリーブがこんなところにあるのはちょっと不思議な気がする。タシュケントの冬期の最低気温が-5℃位にはなるのでオリーブにとっては厳しい環境だと思うのだが。

宿の近くを走るトラム(路面電車)

サーカスの建物だという

チャールスゥ・バザールの北側を歩いてみる。サーカスの建物の横を通るとここも建物を取り囲むようにように噴水がある。大きな噴水では虹が見られたので一枚撮ってみる。

ウズベク青年劇場

道なりに北に歩いていくとウズベク青年劇場がある。このあたりは車専用の道路になっており,道路の横断は非常に危険だ。青年劇場の前の芝生には何羽ものコウノトリがいる。ここで飼育されているもので,風切り羽を切ってあるので飛ぶことはできない。

コウノトリを発見

ここで飼育されているのは東アジアのコウノトリの近縁種にあたる(同じコウノトリ科に属している)もので正式名称はシュバシコウ(朱嘴鸛)という。名前の通りクチバシが赤く,ヨーロッパを中心に数十万羽が生息している。

ヨーロッパでは家の屋根や煙突,塔に営巣する習性がある。雌雄共同で抱卵しヒナを育てるところから,「シュバシコウが赤ん坊をくちばしに下げて運んでくる」,あるいは「シュバシコウが住み着く家には幸福が訪れる」という言い伝えが広く知られている。

一方,日本でいうコウノトリは中国やロシアの極東地域に2000羽ほどしか生息しておらず,絶滅が危惧されている。日本列島にはかつて留鳥としてコウノトリが普通に生息していた。

しかし,明治期以後の乱獲や巣を架ける木の伐採などにより生息環境が悪化し,野生種は1971年に,飼育されていた最後の個体も1986年に死に,日本国内のコウノトリは絶滅した。

その後,多摩動物公園や豊橋市のコウノトリ保護増殖センターでは中国や旧ソ連からコウノトリを譲り受け,飼育下での繁殖に成功している。2005年にはコウノトリ保護増殖センター周辺地域の生息環境を整備し,5羽のコウノトリが野生に戻された。

自然博物館のユニークな建物

ここからは自然博物館のユニークな建物がよく見える。円筒形の建物で外部に螺旋階段をもっているので,まるでバベルの塔の印象を受ける。もっともこちらは二階建てであるが・・・

ティッラ・シャイフ・モスク

ウズベク青年劇場から北に向かって歩いていくと,左側には古い街並みがまだ残っている。白い壁やレンガ造りの前方にはティッラ・シャイフ・モスクの巨大なミナレットが見えてくる。

このミナレットはあまりにも背が高く,道路の反対側からでも写真に収まりきれない。近くで見るとレンガが新しく,おそらく新築のものだろう。内部は回廊形式となっており,中庭に面してイーワーン(飾り柱)で支えられた庇が張り出している。建物のレンガはそれなりに古そうである。

このモスクの背後にもいくつかの宗教施設があるけれど,それほど印象に残るものはない。それよりも,道路沿いにポプラの並木が残っており,ヨーロッパの印象が強かったタシュケントでも,この辺りには中央アジアの雰囲気が漂っている。

モスクの前の食堂からにぎやかな音楽が聞こえてくるので近寄ってみる。中では大勢の女性たちが音楽と伝統的な踊りで楽しんでいる。このような催しは結婚式に違いない。

それにしてもこの大音量はいったい何だろう。クルグスタンのジャララバードでも同じような場面に遭遇したことがある。こちらではにぎやかであればあるほど幸せがやってくるのかな。

何も無いところにミナレットがある

旧市街でも子どもの写真は問題なかった

ジュマ・モスク

前日の旧市街散策は日没時間切れになってしまったので,今日は再挑戦しよう。もっとも,バクー行きのフライトは明日の07時である。2時間前に国際空港に行ける保証はまったくないので,今日の夕方には空港に行って,夜明かしをする計画である。ということで,今日は実質的な移動日である。

宿のおばさんは昨夜の02時に巨大な買物袋を持って戻ってきた。さて,どこにお出かけだったのかな。そのため,朝食は09時近くになってしまった。同じ棟の1階にいる日本人旅行者にお別れの挨拶をして出かける。

チャールスゥ・バザールの入口近くにコカルダシュ・マドラサがあり,その背後にタシュケントの金曜モスクといわれている「ジュマ・モスク」がある。二つの建物はそれほど離れてはいないが,間に露店が密集しており簡単にはたどり着けない。

金曜モスクは新しい建物だ。白を基調としてドームも銀色,ウズベキスタンのモスクとしては異端児の風采をもっている。旧ソ連の時代にはイスラムの信仰を禁じられており,このモスクも独立後に建てられたのであろう。

内部は白い漆くいの壁で囲まれており,天上のドームは明かり取りにもなっている。床にはじゅうたんが敷かれ,ミフラーブのある壁に平行に何本もの線が織り込まれている。この線の間隔で人々は並び礼拝を行うようになっている。僕が訪れた時は白い服を着た男性が一人だけお祈りをしていた。

チャールスゥ・バザールの本体はドーム型の近代的な建物であるが,その周辺には棒で支えられたテントの露店が密集しており,狭い通路はほとんど迷路のようになっている。人ごみも大変なもので歩くだけで疲れてしまう。

ピラフとポロフ(プロフ)

バザールの北側には食堂の一画がある。通りの両側に屋台のような調理場が並び,客はここで注文して奥のテーブルでいただく仕組みになっている。やはりメインはシャシリク(串焼き肉)とポロフ(ピラフ)である。

ポロフは中央アジアから中近東にかけての地域でよく見かけるコメ料理である。地域によってはポロ,プロフなどとも呼ばれる。簡単に言うと羊の肉とにんじんの細切りなどの入った炊き込みご飯である。

世界中で食べられているコメは二つの食文化に区分される。一つはコメを主食として食べる文化で,アジアモンスーン地域はこの文化が主流となっている。もう一つはコメを野菜の一種として食べる文化で,中央アジアからヨーロッパはこちらが主流となっている。

当然,二つの文化ではコメの調理方法が異なる。コメ主食文化ではコメは単独で水で炊くことになる。もちろん,日本の炊き込みご飯のような調理法もあるが,あくまでもコメは主食として扱われ,ごはんプラスおかずの食卓となる。

中国のチャーハン(炒飯)は余って冷めてしまったごはんをおいしく食べるために考え出された調理法であり,コメ主食文化の亜流として位置づけられる。マレーシアやインドネシアのナシ・ゴレンはその延長線にある。

一方,コメを野菜の一つをして扱うコメ野菜文化は,コメを他の食材と一緒に(ときには炒めてから)スープで炊き込むことになる。まあ,一種の油を使用した炊き込みごはんであるが,あくまでも料理の一皿として扱われる。

この文化の発祥地はインドやイラン地域であろうと考えられている。「プラオ」や「パラオ」と呼ばれていたコメ料理はトルコに伝わって「プラウ」となり,オスマン帝国の時代にバルカン半島経由でフランスに伝わり「ピラフ」となった。

一方,8世紀からイスラム勢力の支配下に置かれたスペインでは中東のコメ料理が伝えられ,東部のバレンシア地方を代表する料理であるパエリア(パエリャ)となる。これがイタリアに伝わるとリゾットとなる。

油を使用した炊き込みごはんの文化は中央アジアを経由して中国,日本にも伝わった。奈良時代の日本では「油飯(あぶらいい)」という料理があり,それは胡麻油を使用してコメを炊く料理だったという。それは現在の中華料理「油飯(ユーファン,ヨウファン)」とほぼ同じものであったことだろう。

チャールスゥ・バザールのポロフは鉄の浅い大鍋で調理されており,中にはコメ,豆,干しブドウ,ニンジン,大きな肉などが入っていた。油をかなり使用するので日本の炊き込みご飯とはかなり異質の味となる。

二種類のアーモンド

バザールの店でいくつかの堅果を見かけた。核のままのアーモンドを見せられてアーモンドだとすぐに分かる日本人はそれほど多くはないだろう。

日本でいうアーモンドとは核の内部にある仁の部分である。アーモンドは杏や梅の近縁種であり,杏と似たピンクの花をつける。ただし,果肉は薄くて食用にはならない。

私たちが食べているのは梅の実でいう「天神様」に相当する部分である。中央アジアや西アジアの市場ではこのように殻つきの状態で売られている。

今まで見たアーモンドの核は表面が滑らかで小さな穴が付いていたが,この種は表面にしわがあり,小さな穴はない。しかし,アーモンドの画像をいくつかチェックするとこのような種類のものもあることが分かった。品種の差によるものだろう。

ピスタチオ・ナッツ

ピスタチオ(Pistacia vera)はウルシ科・カイノキ属の樹木であり,その果実はピスタチオ・ナッツと呼ばれている。果実であるから核の周囲には果皮や果肉がついているはずであるがどうもそうではないようだ。

wikipedia には「長径3cmほどの楕円形の殻果は成熟すると裂開果と呼ばれる一辺が裂けた独特の形状となり,熟すと落木する」と記されている。つまり,木から落ちた状態のものがこの市場で売られているようだ。

熟すと木から自然落下するので動物に運んでもらう必要はないということなのだろうか…。最大の生産国はちょっと前に旅してきたイランである。

旧市街が残っている

ウズベク青年劇場の前の噴水のところで再度コウノトリ(シュハシコウ)の写真を撮る。今日は一本足のポーズをみせてくれる。ここから少し北側の路地に入り歩いてみる。この辺りは古い家並みが多く,ロシア人の街タシュケントではかなり異質の地域である。

路地に入ってみると,土壁,中庭の伝統的な家屋が並んでいる。通りにはあまり人影はない。送水管と思われる黄色のパイプが家々の前をつないでいる。二人の男性が荷車にメロンを積んで行商に来ている。

子どもたちの写真を撮る

子どもが3人遊んでいたので写真を撮る。一人の子どもの家におじゃまし,水をもらってヨーヨーを作ってあげる。もちろん大人気である。お母さんがメロンを切ってくれたのでありがたくいただく。この地域は近代的な都会タシュケントのエアポケットのようなところである。

鉄道駅に荷物を預けて

昼少し前に宿に戻りお世話になったおばさんにお礼を言ってチェックアウトする。バザールからメトロに乗り,終点のタシュケント駅で下車する。荷物を持って移動しているのもかかわらず,警官から職務質問を受けることも無かった。タシュケントの警官のひどさはかなり改善されているようだ。

タシュケント駅は立派で周辺の道路もよく整備されている。中には英語の案内板もあるので助かる。地下1階に荷物の一時預かりがあり,そこに荷物を預ける。料金は500ソム,これで夕方まで周辺を見学できる。駅舎のすぐ横にはバスターミナルがあり,ここから空港に向かうバスが出ている。

聖ウスペンスキー主教座大聖堂

駅の前にはトラムが走っており,その通り沿いに歩くと聖ウスペンスキー主教座大聖堂がある。主教座とはロシア正教とかグルジア正教などほとんど国単位に分かれている東方正教会の本山に相当するところだ。この教会はどの正教の主教座なのだろう。

ロシアには帝政時代の主教座であったウスペンスキー大聖堂(聖母昇天総主教座大聖堂)がある。同じ名前の主教座教会があるということは,タシュケントのものはロシア正教におけるこの地域の主教座という意味なのかもしれない。

タシュケントの聖ウスペンスキー主教座大聖堂は芝生の庭の向こうにあるので全景の写真は撮りやすい。屋根の上には独特の形状の小ドームと十字架があり,いかにもロシア正教の建物という感じがする。

この屋根の形状を表す適当な言葉がないので一般的に「ねぎ坊主」という品の無い表現が使用されている。もっとも,ねぎの花芽あるいは花房はほとんど球形であり,屋根のドームとは形状が異なる。

真っ直ぐに伸びたねぎの花茎の上に球形の花が付いているところが似ているのかなと考えるのだがよく分からない。ドームの上に取り付けられている十字架もカソリックのそれとは形状は異なる。

カソリックの十字架はその名の通り縦1本,横1本の構成である。しかし,ここの十字架は縦1本,横2本である。この様式はロシア正教ではすでに16世紀の改革で禁止されたと文献にはあったのだが・・・。

教会に入ると正面にアーチ形の扉をもつ壁がある。これは「イコノスタス(聖障)」と呼ばれ正教会に共通のものである。壁面にはイコン(聖人画)が飾られ,来世と現世を分けるものとされている。壁の向こう側は至聖所であり,そこには聖職者以外は入れない。

ロシア正教の会堂には信者のためのイスはない。そのため,信者は礼拝の間ずっとこのイコノスタスに向かって立つことになる。イコノスタスの扉は礼拝中に何回か聖職者により開かれる。それは信仰の深いものに対して天国の門が開かれることを象徴的に表しているという。

結婚式の儀式が執り行われていた

僕が中に入ると中央の祭壇の前に冠の付いた帽子を被っている男性と女性が並んで立っていた。二人の前には聖書を掲げた司祭がおり,聖なる言葉(と思われる)を独特の調子で話している。

この声は教会内部のおごそかな雰囲気を2倍くらいに高める効果がある。二人とも若くはないがこれはやはり結婚式の儀式なのであろう。周囲ではビデオ撮影をする女性もいる。

教会内部には様々なイコンが飾られており,さながらイコンの教会である。イコンとは平板にテンペラ絵具でキリストや聖母マリア,聖者たちの像を描いた「聖像画」をである。僕は分かりやすく「聖人画」という表現を使っている。

カソリックにおいては十字架のキリスト,聖母マリアの彫像などが教会内部に置かれることが多い。しかし,東方教会ではカソリックの偶像崇拝を非難した経緯もあり平面的なイコンに具体的な信仰の対象を求めた。

ロシア革命前,各家庭にはイコンが飾られ人々は灯明をともして熱心に祈ったという。ロシア正教ではイコノスタスの扉と同様に,イコンは地上と天国の間の窓であり,イコンを通して神の国をのぞくことができると考えられていた。

「BONAQUA」の巨大な看板

日本大使館が2kmほど離れたところにあるので散歩方々見学に行く。道路の反対側に僕がウズベキスタンで愛飲していた「BONAQUA」の巨大な看板があったので写真にする。

ロシア文化の影響が残る中央アジアでは水といえばミネラルウオターではなく炭酸水のことになる。店員に「ノーギャス」と言って注文するのだが,かなりの確率で炭酸水を買わされた。「BONAQUA」はこの国で覚えた唯一のブランドだ。

大使館通り

カザクススタン大使館は大きくかなり立派だ。警備の兵士が詰めており,当然写真撮影は禁止されているので前を通り過ぎるしかない。少し先でトラムの線路を横切る。

タシュケントの街にはトラム(路面電車)が縦横に走っており,街の景観ともよく合っている。車社会がまだそれほど進展していないのでじゃまもの扱いされることなく市民の足となっている。

通りに面して駐車場があり,その向こうに普通の民家のように見える日本大使館があった。ここもちらっと見ただけで通り過ぎる。

ルーテル派教会

その先にもトラムの線路があるのでそこで右に曲がる。突然大きな教会が見えた。たくさんの小塔をもつ立派な石造建築で,西ヨーロッパ風の教会に見える。

中にはルーテル派教会のプレートがあり,ここがプロテスタント教会であることが分かった。見学していると韓国人のボランティアが現れた。韓国からはるか離れたこの教会でボランティア活動をする宗教的バイタリティはたいしたものだ。

韓国ではキリスト教徒が人口の3割を占めており,海外での宣教活動もさかんだ。もっとも,イスラム教国でも積極的な布教活動をするため,トラブルに巻き込まれることも多い。

信号機

鉄道技術博物館

駅に戻る途中に鉄道技術博物館がある。ここにはもう使用されなくなった蒸気機関車が展示されており鉄道ファンにとっては必見のところであろう。中に入ると入場料をとられそうな雰囲気なので門のところから写真を撮る。

トロリーバスとトラムの両方を見ることができる

博物館の前は大きな交差点になっており,トロリーバスとトラム(路面電車)の両方を見ることができる。17時を回ったのでそろそろ駅に戻らなければならない。荷物を受け取り,駅横の小さなバスターミナルで空港行きのバスを待つ。

国際空港はこのとなりにあった

他の路線はたくさん来るのに空港行きは1時間ほど待たされた。バスを降りると人気の無い空港ビルがあり,こんなところで一晩を過ごすことができるのだろうかと心配になる。幸いそれは国内線のターミナルで国際線の方は24時間オープンであった。


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