グーリ・アミール廟
道を間違えたためずいぶん遠回りをしてようやくグーリ・アミール廟にたどり着いた。タジク語でアミールの墓を意味するこの建物は,ティムールが戦死した孫のために造営したものである。
モンゴルが巨大な帝国を築いて以来,「ハーン」の尊称はチンギス・ハーンの血を引く男性にのみ許されるものとなった。16世紀あたりからその規制はいい加減なものになり,各地の太守が勝手にハーンを名乗るようになった。
しかし,モンゴルの氏族の血を引くティムール朝ではハーンは使用されず,歴代の君主は「アミール(太守)」という一段低い称号を使用していた。そのため,廟の名前もグーリ・アミールとなった。
ティムール自身は生まれ故郷のシャフリサブズに小さな自分用の墓を造っていた。しかし,中国遠征途中に病死したのが真冬であり,降雪の多いシャフリサブズには遺体を搬送できなかったのでグーリ・アミール廟に葬られた。
この廟の基軸は北北西から南南東になっている。つまり,基軸は南北に対して15-20度傾いている。イスラム世界の宗教建造物には一つの大原則がある。それはメッカの方角に向いた壁面キブラをもたなければならないことである。
ムスリムは一日5回,メッカの方角に向かって礼拝することが義務付けられている。そのためモスクや廟などの宗教施設はメッカに向いた壁面(キブラ)をもち,そこにはミフラーブという窪みが設けられ,そこがメッカの方角であることを示している。
礼拝は個人の住宅内でも行われるので,そこにはメッカの方角を示すなんらかの印がある。宿やホテルでも同様である。この制約のためイスラムの建造物はメッカの方角を一つの基軸にしなければならない。
グーリ・アミール廟の場合は北北西から南南東に向かう基軸と直交するもう一つの基軸となっており,この基軸はメッカの方角と一致している。このため,南北軸は少し傾くことになった。
この廟の敷地面積は1ha弱であり,周囲を囲む高い塀や建造物が無いため外側から全体が良く見える。入り口は北西側にあり南南東側に廟の本体があり,その間は中庭となっている。建造当時は長方形の敷地をもっていたと推測されるが,現在は周辺に家屋が立ち並び敷地はだいぶ削られてしまった。
裏側からは巨大なドームとその下部構造がよく観察できるのでありがたい。正面には巨大なイーワーンがあり,その両側は高さ2mほどの塀になっている。イーワーンに比べるとあまりにも貧弱な塀である。おそらく建設当時はもっと高くて頑丈な塀か回廊で囲われていたことであろう。
中に入るとムハンマド・スルタンの広い中庭があり,正面にイーワーン形式の門をもつ廟本体がある。その背後には縦に64本の溝が掘られた巨大なドームがサマルカンド・ブルーの美しい姿を見せている。
装飾タイル
壁面の装飾タイルはモザイク・タイルが使用されている。場所により細密さに温度差があり,地のレンガが大半でところどころにタイルを張ったシンプルな部分と,全面的にモザイクを張った部分がある。使用されている色は青,くすんだ赤,緑であり,レギスタン広場のマドラサとは趣が異なる。
上の写真のタイルは星形と多角形の絵付け装飾タイルが組み合わされている。絵付け装飾タイルの技術があると方形のタイルに図柄を分割して描き,それを組み合わせることにより,どんな複雑な絵柄も制作することができる。
にもかかわらず,多角形のタイルの組み合わせという方法が採用されている。また,アラビア文字の部分はモザイクタイルの技術が使用されている。
下の写真のタイルは完全にモザイクタイルの技術でできている。単色のタイルを焼き,それを絵柄に合わせて金槌のくぎ抜き部のような道具で割り削り,それを集めて図形を作る。
実際には大きな板の上に並べて図形を作り,それをそのままひっくりかえし漆喰でタイル地板に接着するとある大きさのタイルパネルができる。
このパネルを建造物に張り付けるという手の込んだ方法が必要になる。しかし,上の写真のように比較的大きなピースで構成できる場合は直接壁面にタイルを張り付けることもできたのであろう。
廟の内部
内部にはティムールに関連する資料が展示してある。ティムールの遠征路を示した地図などは興味深い。ドームの内側は金箔で覆われ,ドームの頂点から吊り下げられた照明によりにぶく輝いている。
壁面の写真を撮ろうとしたが暗くていいものが撮れない。背の低いついたての内側にはティムールを始めとするティムール朝全盛期の君主の棺が並べられている。中央の黒いものがティムールのものである。棺の側面にはアラビア文字で棺の主の業績が記されている。
もっとも,ティムールの本物の棺はこの廟の地下に置かれており,そこは公開されていないし,棺の蓋が開けられることもない。しかし,1941年に一度だけこの棺がソビエトの科学アカデミーの手によって開けられたことがある。
NHKのシルクロードではそのときの映像があった。「鉄の男」と称されたティムールは頭をメッカの方向に向け,手は胸の前で組まれていた。骨の鑑定の結果,言い伝え通り右手と右足が不自由だったことが判明したという。
頭骨も詳細に調べられ,それを元に在りし日の顔を復元した彫像も作られ,現在はタシケントの博物館に保存されているという。この彫像がチムールの顔をもっとも忠実に再現したものといわれている。
黒石の棺の裏には「私がこの墓から出たとき,大きな災いが起こる」というような言葉が刻印されていた。予言通りその翌日にヒトラーは独ソ不可侵条約を破りソ連に侵攻した。棺は鉛で封印され,その後二度と開かれることはなかった。
ティムール像
グーリ・アミール廟のすぐ近くのロータリーに巨大なチィムールの像がある。旧ソ連時代はチムールもチンギス・ハーンも悪辣な侵略者として扱われ,像を建てることは認められなかった。ロシヤやソビエトだって似たようなものなのに,社会主義という看板があれば免罪符になるのかな。
独立後は一転して民族の英雄として扱われ,レーニン像に代わりチムール像が各地で建てられるようになった。このロータリーのものはイスに坐り,あたりを睥睨するチムールである。故郷のシャフリ・サブズには巨大な立像もあるという。
ここは結婚式のカップルが記念写真を撮る名所となっている。僕が見学中に大勢の人々と一緒にカップルが記念撮影をしていた。僕もそれに便乗して何枚か撮らせてもらう。
チィムール像からはすぐ近くにレギスタン広場のマドラサが見える。ずいぶん遠回りをしてきたものだなと,自分の方向音痴を嘆くやら喜ぶやらである。確かに自分の方向音痴のおかげでずいぶん思いがけないものを見ることができたことがある。旅では何が幸いするか分からない。
ティムール像近くの公園
チィムール像の反対側は公園になっており,その向こうに白亜の瀟洒な建物がある。これがオペラ・バレエ劇場であろう。ソ連の時代に中央アジアの共和国にもたくさんの劇場が建てられたので,これもその一つである。
道路わきには高さが異なる三段の池がある。そこは子どもたちの遊び場になっている。道路を挟んで反対側の広場にある噴水池も水遊びの子どもたちに占拠されている。カメラを向けると思い思いにポーズをとってくれるけれど,自然に遊んでいてくれる方がいいんだけれど。
まだ日が高いけれど宿に戻りシャワーを浴びて大休止となる。日記を書いていると日本人旅行者が集まり,いつのまにかおしゃべり会になってしまう。時間はあっという間に過ぎ,もう夕食の時間になる。
夕食は豆料理,パン,トマトサラダ,メロン,チャーイの組み合わせである。日本人のグループは朝食の時間帯も早いが,夕食も出てくるとそのタイミングでいただく。欧米人の旅行者はすべてに行動時間が1時間ほどずれている。
我々が縁台に移動しおしゃべりに花を咲かせていると,日本人女性がメロン(ハミ瓜)を買ってきてくれた。全部で7人なのでこの大きなメロンもすぐに片付けることができた。本当に中央アジアではメロン類がお勧め品である。
話の中でシャフリ・サブズのことが出てきた。二人の男性が乗り合いタクシーで行ったらしい。結論からすると「わざわざ乗り合いタクシー代と入場料を払って行く価値はない」ということであった。もちろん,他人の評価は鵜呑みにするわけにはいかないが,交通も面倒なのでパスすることにした。
女性の一人が「私は霊感が強くて怖い経験を何回もしてるの,その話をしてもいい」と言うので,話は恐怖体験に移ってしまった。僕は別にこの種の話は信じないタイプではあるが,彼女の話はなかなか真に迫っており,しっかり脳裏にインプットされてしまった。
おかげで,その夜は広い部屋に一人でいるとなんとなく不気味な感じがして,外の物音にドキッとする。いい年をして情けないものだ。朝おきてみると,その夜は宿泊客が多くて,僕の部屋の前の縁台でヨーロピアンが寝袋にくるまっていたのでその物音だったらしい。
泥に汚れた四輪駆動車
06時に起床,外からもう日本語が聞こえてくる,ここの日本人旅行者はかくも早起きだ。外に出るともう朝食の準備ができている。やはり,日本人だけで朝食を始める。メニューは正体不明のもので,会食者全員でで「これはいったい何だろうね」と首をひねる。
外に出ると泥に汚れた四輪駆動車が前の通りに並んでいる。車体には「Mongol Rally 2007」というステッカーが貼られている。モンゴルラリーに出場して戻ってきた(戻りつつある)車のようだ。
人々の生活を描いたレリーフ
今日の第一目標のビビハヌム・モスク(ビビハニム・モスク)は表の通りに出るとすぐその巨大なドームが見える。このタシュケント通りはレギスタン広場から北に向かいビビ・ハヌムの横を通り,そこから北西に向きを変えアフラスィーヤーブの丘を横断している。
通りに面した壁に人々の生活を描いたレリーフがあった。なかなかできが良いので写真に収める。このようなものが無造作に飾られているとはさすがはサマルカンドである。
ビビハヌム・モスク|ファサード
ビビ・ハヌム・モスクは非常に巨大である。東西130m,南北102mの長方形の壁面に囲まれており,その四隅にはミナレットが配されている。基本軸は西南西−東北東となっており,西南西はメッカの方角にあたる。東側が道路に面しており,正面入口に相当するイーワーンは高さは35m,幅は19mもあるという。まるで衝立のように道路からそびえている。
正面の全景を写真に収めるのは道路の反対側からでもとても無理だ。なんとか巨大なイーワーンがようやく収まる程度である。このイーワーンだけでもあまりの巨大さにただただあきれるだけだ。さすがは中央アジア最大のモスクである。
1398年,インド遠征から戻ったティムールは各地から著名な建築家を集めて,当時の建築技術の粋を集めた巨大モスクの建設を命じた。このときティムール(1336-1405年)はすでに60の坂を越している。
モスクが完成したのは1404年である。しかしティムールはそれに満足せず,やり直しを命じ,20万の大軍を率いて中国(当時は明王朝)遠征に出発した。しかし,1405年にオトラルで病没した。享年69歳であった。
モスクは1405年に再完成したけれどもティムールはそれを見ることはなかった。この巨大なモスクを6年あまりで完成させるため,かなり無理をしたせいかモスクは当初からレンガの剥離などが絶えなかったという。
時間とともにモスクは荒廃していき,1897年の大地震でミナレットは中央部で折れ,アーチは崩れてしまい廃墟となった。1980年代の初頭に放映されたNHKのシルクロードでは,修復工事中のビビ・ハヌム・モスクを写している。
そのときの映像では次のことが分かった。
● ファサードのイーワーンはまだ装飾タイルがない
● 四隅のミナレットは回廊の高さで折れている
● 中庭正面のイーワーンは半分崩れた状態である
● 南北二つのイーワーンは装飾タイルがない状態である
このときのナレーションは「サマルカンドの3つの家族がタイル張りなどの修復作業に当たっている,ある家族の長は10年かかってここまでだからあと20年もすれば完成するだろう」とのんびり話していた。さすがに20年はかからず,2007年には往時の姿を見ることができたのは幸いであった。
ビビハヌム・モスク|中庭の風景
この巨大なモスクは当初は「金曜モスク」と呼ばれていたが,なぜか住民は「ビビハヌム・モスク(第一婦人)」と呼ぶようになった。巨大な入り口のイーワーンをくぐって中庭に出ると正面(西側)に巨大なイーワーンとドームをもった礼拝堂がある。
また,南北にも2つのイーワーンがあり,それらは奥行きをもっているため,まるで小礼拝堂のような構造になっている。現在は緑地になっている87mX63mの中庭には,大理石が敷きつめられていたという。
3つのイーエワーンの背後にはそれぞれサマルカンドブルーと呼ばれる青色タイルで装飾されたドームがあるが,正面のものはイーワーンに隠されたしまってまったく見えない。左右のドームもイーワーンに半分くらい隠されたいるので,中庭の中心に立つと,3つのドームは全く,あるいは半分くらいしか見えないようになっている。
これは不思議が構造である。普通に考えると,モスクの一番美しい部分をそれなりに中庭から見えるようにしたいというのが人情なのに,どうもこの建築の考え方は違うようだ。
方角から考えると礼拝の時は大ドームの方向を向いていたはずである。通常の礼拝堂にあるミフラーブのように壁だけが見える構造にしようとしたのかもしれない。
中庭の中心部にはウルグベクが作ったコーランを乗せる巨大な大理石の書見台がある。この書見台で見るコーランは大きさが1mくらいないと釣り合いが取れない。確かに博物館では60cmくらいの大きさのコーランをよく見かけた。
大モスクの手前にあるファサードの装飾タイルはちょっときれい過ぎるので修復されたものにちがいない。アーチの最上部は流麗なアラビア文字で飾られ,その下の装飾はウルグベク・マドラサとほぼ同じものになっている。
ファサードの目の高さの部分にも美しいモザイクタイルが使用されている。よく観察すると絵付けタイルが部分的に組み合わされており,複雑な紋様を造り出している。腰の高さの部分は周辺に比べるとシンプルが紋様が使われており,素朴な味がある。
背後の大ドームの側面に回ると,高さ8mくらいのところまではレンガがむき出しになっており,まだ修復途上という感じを受ける。さすがに大ドームの大きさには圧倒される。NHKのシルクロードの撮影時にはドームのすぐ下にある基壇のタイル張りが進められていた。
現在,その部分はきれいに装飾タイルが張られている。ドームの側面にはどのようなタイルが使用されているのか,凹凸部分を含めて非常に細かい装飾が施されている。そして,その上にはサマルカンドブルーの巨大なドームが輝いている。
この青は空の青と水の青を写し取ったものといわれ,中央アジアの真っ青な空によく映える。焼き物の色は材料の土質,成分,焼成温度の違いなどによる変化する。
古代の職人は土地の材料でいかにして目的の色を出すかについて大変な苦労を重ねてきた。そのような特殊技術は少しずつ改善され,特定の家族の間で受け継がれてきた。
中央アジアや西アジアでは焼き物の材料には恵まれた土地ではなかった。高温で焼くことのできる粘土,高温を発生させるための油分の多い木材にも恵まれていなかった。
そのため,釉薬も低い温度で溶ける種類を利用することになり,青,黄,緑が多くなった。その中でも釉薬の原料として深い青に必要なコバルト酸化物,および明るい青緑色に使われる銅系および鉄系の釉薬がが豊富に入手できたので,この二色が多用されることになった。
そのような背景があるにせよ,サマルカンド・ブルーは地域の職人がイスラムの天国を思わせる「天上の青」を至上のものと考え,地域の材料を生かして最高の色を出すため弛みない研鑽を続けた結果だと信じたい。
深い青と明るい青緑のタイルで飾られてビビ・ハヌムの大ドームはやはりサマルカンドを代表する建造物であり,右と左を行き来しながら何回も眺めていた。
帰国後,写真を整理していると大ドームの写真が2枚しかないことに気が付いた。お気に入りの題材については何枚も写真をとる僕にしては珍しいことだ。それほど見とれていたということか。
ビビハヌム・モスク|ドームの内部空間
ドームの内部は何の装飾も無い空間であった。文献には「完成当時から大ドームの天上からタイルが崩落していた」とあるので,本来の姿はタイルで覆われた空間であったにちがいない。それを物語るように壁面にはタイルパネルをはがしたような痕跡が認められる。
それにしてもドーム本体および基壇の損傷が激しい。左側面の入口や明かり取りのところには大きな亀裂が入っているし,右側面の入口の装飾レンガも半分が剥がれ落ちている。
ユネスコが主導した修復の結果なのでとりあえず問題はないということだろうが,地震でも発生したら一体どうなるのかと心配する。両側にある小モスクのファサードはまだ装飾がなく,修復半ばというところだ。
あるいは,修復前の姿をある程度残すためこのような状態で止めたのかもしれない。遺跡の修復にはある範囲の節度が必要なのは言うまでもない。小モスクのドームは高さが低い分写真写りはよい。幸い今日は雲一つ無い晴天であり,二つの青がすばらしい対比を見せている。
スィーヤーブ・バザール|パン屋
ビビ・ハヌムにお別れして,その北側に広がるスィーヤーブ・バザールを見学に行く。お祝い用なのであろうか,赤や黄色の模様を付けた大きなパンが売られている。驚いたことに半開放空間となっているこのバザールを支えている柱はあのイーワーンであった。しかもかなり古いものである。
バザールの売り子はほとんどが女性だ。路上ではホウキを売る露天がある。草を束にして先端を広げたものは,日本の昔の室内ホウキに似ている。通りには果物や野菜の店もあり,見て歩くのは楽しい。
スィーヤーブ・バザール|ハミウリ屋とヨーグルト屋
メロンとスイカは広い場所を使ってたくさん売られている。昨日は宿の日本人会でメロンをご馳走になったので,一つ買う交渉してみた。どうやら値段は1個1000ソムが相場のようだ。ここから持ち帰るのは大変なので,値段を確認して宿の近くの行商人から買うことにする。
帰り道にメロンの行商を見つけて1個買うことにした。英語は通じないので彼らは1000ソムと500ソム札を提示した。言い値は1500ソムということだ,それはちょっと高いでしょう。
僕が1000ソム札を指差すと1200に下がる。まだだめだね,もう一度1000と指を1本立てて英語で伝えると,「しょうがないなあ」という表情でOKが出た。
2kgを越えるのメロン(ハミ瓜)を片手に抱えて500mを歩くとさすがに手が疲れる。赤ん坊を抱いている母親の苦労が偲ばれる(赤ん坊はもっと重いよという声が聞こえてきそうだ)。
自家製のチーズを売っている一画もある。商品はビニール袋やバケツに入っており,買う方もkgの単位で買っていく。でも,ここでの商売は違法のようだ。どこからか声がかかると,おばさんたちはすぐに店じまいを始める。
スィーヤーブ・バザール|パン屋
立派な屋根の付いたバザールの本体ではパンや穀物が売られており,肉類は壁のある部屋で売られている。これは衛生上の措置であろう。
スィーヤーブ・バザール|出入口
今日も暑い,気温は40℃くらいはありそうだ。出歩くのは2-3時間が限界だ。シャワーを浴びて1時間昼寝(まだ午前中だけれど)をする。この昼寝は暑いところでは最高の贅沢だ。
道路を挟んだ向かいの丘
午後はアフラースィヤーブ方面に出かける。バザールの北側は大きな通りが走っており,その向こうにアフラスィヤーブの丘が広がっている。ここはモンゴルに破壊された古代のサマルカンドが埋まっている場所だ。
その入口のところの斜面にハズラット・ヒルズ・モスクがある。ここは現役のモスクではないようだ。外から眺めていたら男性が出てきて「入場料を払え」と言い出す。非常に感じが悪かったのですぐそこを離れる。
向かいの丘から眺めるビビハヌム方面
この斜面からビビハヌム・モスクが遠望できる。さすがに正門の大きさは周辺の建物を圧倒している。緑地帯を挟んで向かい合っているビビ・ハヌム廟の青いドームも見える。この廟はビビハヌム・モスクとほぼ同時期の建造物であり,常識的にはチムールの妃の一人が葬られているのであろう。
シャーヒ・ズンダ廟群の入り口付近
丘の南側を大きな通りに沿って歩くとシャーヒ・ズンダ廟群が現れる。ここはペルシャ語で「生ける王(シャーヒ・ズンダ)」の異名をもつ伝説上の人物クサム・イブン・アッバースの墓があり,その後ティムールの一族の廟が造られた。
入口は道路沿いにあり,そこから丘の斜面を上る道の両側に廟が建ち並び,さながら死者の町である。ガイドブックによると2005年に大規模な改修が行われていたという。
僕は改修以前の状態は分からない。入口の門など付属施設は新しくなったが,廟そのものは古いたたずまいは保存されている感じを受けた。入口の左側に休憩所なのかイスと縁台が用意してあり,そこはなぜかおばさんたちの溜まり場になっている。
そこから急な階段があり,登りきると踊り場のような所に出る。ここは一休みをするには良いところで,入口の門を裏から眺めたり,ガーズィザーデ・ルーミー廟の2つのドームを見るにもいい場所だ。
青を基調とした色鮮やかな装飾タイルの宝石箱
ここから上がいくつもの霊廟が並んでいるハイライト部分になる。ここの建造物の素晴らしさは,建物の前面に当たるアーチ型の入口とそれを囲む四角い枠組みを青を基調とした色鮮やかな装飾タイルで埋め尽くしたことである。
もちろん建造物ごとに装飾紋様は異なっており,「まるでタイルの宝石箱が並んでいるようだ」という感想を書き残した人もいる。この表現は然りで僕もこれほど多種多様の装飾タイルを見たことがない。
廟の内部は装飾タイルが使用されているものと,単に漆くいの白壁になっているのがある。これは修復の程度によるものだろう。床にはレプリカと思われる漆くいで作られた直方体の棺が並べられている。
装飾タイルコレクション(その1)
廟を飾っているタイル,彩釉レンガを整理してみると次のようになる。
(1) 絵付け装飾タイル
(2) 単純な長方形の色彩タイルもしくは彩釉レンガ
(3) 花の形をした凹凸をもった焼き物
(4) 絵付けタイルを組み合わせたモザイク・タイル
(5) 細かいモザイク・タイル
装飾タイルコレクション(その2)
内部にも素晴らしいタイル装飾があるけれど,暗すぎて写真はうまくいかない。フラッシュを使用すると反射光のため部分的なハレーションを引き起こし,その割には周囲もきれいには撮れない。このあたりがコンパクトカメラの限界のようだ。
クサム・イブン・アッバース・モスクはこの廟の目玉なのか,訪れる人は多い。中に入ると一番奥の部屋が巡礼者の間になっており,その奥にアッバースの墓がある。ここは外から覗くだけでよく分からない。
巡礼者の間の周囲も精緻なタイルで飾られていると思いきや,これは一種の絵であった。一通り写真を撮ってからそれに気が付きがっかりした。
まるで死者の丘となっている
シャーヒ・ズィンダ廟の道を登りきり,左に少し行くと庶民の墓地になる。そこは丘の最上部であり,反対側の丘まで一面に墓地が広がっている。
ロシア文化の影響なのか多くの墓には故人の写真が焼き付けられている。なぜかシャーヒ・ズィンダ廟の近くには立派なものが,離れるとシンプルなものが多くなる。
アフラースィヤーブの丘
タシュケント通りを歩いてみる。道路の両側はアフラースィヤーブの丘が広がっている。アレクサンドロスが征服し,モンゴルが破壊した旧サマルカンドの都市がこの下に眠っているという。残念ながら道路の両脇は塀で囲われており中には入れない。
塀の隙間から覗いてみると,まばらに樹木と潅木の生えた荒地しかない。地表に出ている遺跡は何も無いといってよい。ときどき,放牧の家畜が見える。遺跡に指定される前まで,この丘は放牧場であったという。塀で囲われた道路はどこまでも続いており,これではあきらめるしかない。
ハミウリはさすがに大きかった
夕食のあとで買ってきたハミウリを出す。今日は日本人会のメンバーが4人しかいないのでさすがにもてあまし気味となる。我々の縁台に坐っているフランス人にもおすそ分けする。
この夜は60代半ばの日本人男性がおり,彼はこのフランス人が自分と同年代と考えており,そのことを確かめたという。しかし,真実は彼の予想を覆すものであった。このフランス人はまだ40代だということが分かりみんなで大笑いである。