亜細亜の街角
青の都はまだ往時の雰囲気を保っていた
Home 亜細亜の街角 | Samarqand / Uzbekistan / May 2007

サマルカンド  (参照地図を開く)

紀元前10世紀頃からザラフシャーン川流域のオアシスやファルガナ地域にはイラン系定住民が住み着くようになった。彼らはオアシスを中心とするいくつかの都市国家を建設した。イラン系定住民族の一部はソグド人と呼ばれ,ザラフシャーン川流域のオアシスにあるブハラ,サマルカンド,ペンジケントなどの都市国家を根拠地としていた。

ソグド人は1000年にわたり時の覇権勢力に取り入りながら,シルクロードの国際商人として活躍し,彼らの居住地域は「ソグディアナ」あるいはアラビア語で「河の向うの土地」を意味する「マーワランナハル」と呼ばれていた。

サマルカンドはソグディアナの中心都市であり,ギリシャ史料では紀元前4世紀のアレクサンドロス3世が率いる遠征軍に最後まで抵抗した「マラカンダ」の名で知られていた。

8世紀に中央アジアオアシスはウマイヤ朝のアラブ軍に征服されイスラーム化が始まる。このイスラーム時代にもサマルカンドはブハラと並びマーワランナハルの中心都市として発展した。一方,この時期にチュル化も始まる。

11世紀にサマルカンドはホラズム・シャー王朝の首都となるが,繁栄は長くは続かなかった。13世紀にサマルカンドは「チンギス・ハーンの率いるモンゴル軍」によって徹底的に破壊され,多くの住民が殺害された。このとき,水利施設も破壊されたためサマルカンドは完全な廃墟となる。現在のサマルカンドの北東にある「アフラースィヤーブ」の丘が旧サマルカンドにあたる。

この一事により,イスラムの史家からモンゴルは無慈悲な破壊者という烙印を押されることになったが,実際はモンゴルの破壊や殺戮はそれほどひどいものではなかった。

モンゴル軍には「無敵の神話」と「恐怖の戦略」があり,実数以上に破壊や殺傷を宣伝したという事情もある。そもそも,モンゴルにしても廃墟や死体を増やしても何の得にもならないし,あの広大な帝国を築くこともできなかったはずだ。

14世紀の後半にモンゴルの有力氏族の血を引くチムールが出て中央アジアに大帝国を築いた。チムールはサマルカンドを帝国の首都とし,富と西アジアの技術職人を投入して多くの建築物を造営した。その結果,壮麗な建築物に彩られたサマルカンドは「イスラム世界の宝石」,「青の都」と呼ばれるようになった。

チムール帝国の滅亡後はテュルク系のウズベク人の国家ブハラ・ハーン国に属し,首都の地位はブハラに奪われたが中央アジアの主要都市のひとつとして機能してきた。

19世紀にはロシア軍に占領され,ロシア領トルキスタンに編入された。サマルカンドはブハラと同様イラン系タジク語を母語とする住民が多い町であったが,ソ連時代の民族的境界画定によりウズベク共和国に区分された。

ブハラ(268km)→サマルカンド 移動

06:30に起床,朝食をとり3日間お世話になったおばさんにお礼を言って30$を支払ってチェックアウトする。応接間もエアコンが入っており,時々つけて快適に過ごすことができた。昨日の夜は中庭でポロ(ポロフ,中央アジア風炊き込みご飯)をいただいてしまった。

宿を出て少し歩いたところで,宿の娘さんが走ってきた。僕が忘れたザックの南京錠を届けに来てくれたのだ。本当にありがたいことだ。また一つナズィラ&アズィスベクをほめる材料ができてしまった。

ラビ・ハウズから東に500-600m歩くとロータリーに出る。ここから70番台のマルシュルートカに乗り,公営BTまで移動する。建物の裏側に何台かのバスが停まっている。運転手か車掌のような男性がバスに案内してくれる。

バスはタシケント行きなのでサマルカンドで途中下車することになる。チケットの窓口は開いておらず,車内で直接買う仕組みのようだ。バスはどこかの観光バスのようだ。窓は開かない構造になっている。当然エアコンが動くことが前提の構造なのだが,やはりエアコンは入らない。

バスの天井に空気取り入れ口が一つあるだけなので,扉が閉まると車内は蒸し風呂状態になる。運転手は10時に発車すると言っていたけれど,全く出る気配はない。

車掌が乗客の人数を何回も数えていたので,完全に満員にならなければ出発しないようだ。11時過ぎにトイレに行ってくると,バスは動き出すところであった。しかし,再び止まり本当に動き出したのは11:30であった。

ガイドブックには定時発車のように記載されているが,出発時間は乗客の集まり方しだいといったところだ。料金を集めに来た車掌は僕に10,000ソムを要求した。

僕が手を振ってとんでもないというしぐさを見せると6000に下がった。僕は「ノー」を連発しながら,4000を渡す。車掌はなおも追加の2000をしつこく要求したが,回りの乗客がなだめてくれたので一件落着となった。

このブハラ→サマルカンドの区間は外国人(日本人だけかな)にひどい料金をふっかける悪徳区間だ。サマルカンドの宿の情報ノートには6000を払わせられた,あるいは拒否したら途中で降ろされたなどという記載があった。

バスが走り出してもそうそう風が入ってくるわけではないのでかなり暑い。4時間のがまんでバスはサマルカンドの民営バススタンドに到着した。ここで遅い昼食をとろうとしたらシャクリク1本が900ソムと異常に高いのでそのまま宿に向かうことにした。

バハッドゥル・ゲストハウス

17番のマルシュルートカはスィヤーブ・バザールの下の道路で僕を降ろしてくれた。そこからビビハヌム・モスクの前を通りしばらく歩くと大きな交差点がある。ここを左に折れるとバハッドゥル・ゲストハウス,先を行くとレギスタン広場がある。

バハッドゥルの中庭に入ると主人がウエルカム・メロンを持ってきてくれた。お腹が空いていたのでこれはとてもありがたい。途中で買ってきた甘いパンと一緒にいただく。

このゲストハウスはドミトリーと個室があり,僕は運良く個室(朝夕食付きで11$)をとることができた。広さは12畳,2ベッド,T/S付き,まあまあ清潔である。部屋が広い分,涼しくて環境は良い。ドミの人たちは一様に暑すぎると話していた。

ここは日本人が多く情報を仕入れるのはとてもいいところだ。中庭には縁台が置かれ,その上に坐って旅の話をしているとすぐに夕食の時間になってしまう。ここの食事は大きなテーブルに人数分が並べられる。

今日のメニューはポロ,パン,トマトサラダ,メロン,チャーイである。味には若干難点はあるものの量は十分にある。日本人と一緒に話をしながら食事をするのは久しぶりだ。

レギスタン広場に向かう

06:30に起床し,07時少し前に日記を持って中庭のテーブルに行くと,すでに朝食が始まっていたので日記はお預けになる。ヨーロピアンの旅行者は朝寝坊で,テーブルに着いているのは日本人だけだ。

朝食はバターライス,チーズ,サラミ,コーヒー,チャーイである。バターライスは砂糖を使用しているのでちょっと甘い。久しぶりのインスタントコーヒーはとてもおいしい。

さて,サマルカンドを見に行くことにしようか。大まかな地理を頭に入れる。宿から大きな通りに出て,少し南に行き西に曲がるとレギスタン広場,そのまま道なりに行くとティムール像,その先にグーリ・アミール廟がある。

レギスタン広場の手前には広場につながる公園があり,ラクダを引いた隊商の実物大の像が展示してある。観光客はむりやりラクダによじ登り,記念写真を撮ろうとしている。

気持ちは分からないでもないがそれは止めたほうがよい。一般的に欧米の若者の旅先でのマナーはよくない。文化財や遺跡の立ち入り禁止の場所に入ったり,登ったりしてよく注意を受けていた。

幸い日本人はそのような場所では適切に行動いているようだ。落書きなどが多い場所でも日本語はほとんど見かけなかったので,海外に出る日本の若者たちはそれなりのマナーを身に付けているようだ。

レギスタン広場に子どもたちが集まっている

レギスタン広場に着くと音楽が聞こえてくる。ここには3つのマドラサが向かい合っており,開口部が広場に続いている。しかし,そこには大きな舞台が設営されており,3つのマドラサを一緒に撮ろうとするとどうしてもこの舞台がジャマをしてしまう。

この舞台は毎年夏に開催される「音と光のショー」のためのもので,現在はそのための準備と練習が行われている。今日の練習には若者から子どもたちまで多くのメンバーが参加している。

向かって右側にあるシールダール・マドラサの手前は植え込みになっており,そこで子どもたちが待機している。何やら手を頭上にあげて遊戯の練習をしているので写真を撮らせてもらう。

子どもたちは写真慣れしておりカメラにはまったく動じない,それどころかにこやかにポーズを取ってくれる。子どもたちが先生に連れられてマドラサの方に動き出したので一緒に中に入る。この時間帯はまだチケット売り場は開いていないのでそのままゲートを通過する。

子どもたちはシールダール・マドラサの前で待機する

子どもたちはシールダール・マドラサの前で待機となった。晴れの練習日ということで女の子はおめかしをしている。写真はほとんど自由状態だったのでみんなの集合写真を撮ることになった。

中には「へそ出しルック」の子どもまでいるのには驚いた。まあ,この国にはロシア系の人も大勢いるので,一概にイスラムの国で・・・というわけにはいかない。グローバリゼーションにより先進(?)のファッションは中央アジアのオアシスまですぐに伝播してくる。もう一世代もしたら,この国でも女性の洋装化が始まるのではと心配する。

それにしてもサマルカンドはかわいい子どもが多い。イラン系民族の血を色濃く持っているのでそうなるのだろうか。ウズベキスタンではあまり子どもの写真が撮れなかったのでこの機会にたくさん撮らせてもらった。

広場ではイベントの踊りの練習が行われている(その1)

正面のティッラカーリー・マドラサから2mほど低い中庭に向かって大きな仮設スロープができている。そこを女性たちが行進している。二階のテラスにも女性が立ち,踊りに参加している。

この他にも男女のグループがいくつもあり,大変な数の人々が「音と光のショー」に参加するらしい。広場周辺は立ち入り禁止となっており,観光客はマドラサの壁のあたりから練習風景を眺めている。

広場ではイベントの踊りの練習が行われている(その2)

3つのマドラサに囲まれた広場では大勢の人々が踊りの練習に集まっており,子どもたちもそこに下りて行った。隣では,男性の集団がロープを使った縄跳びをしている。

ロープは一人の人が地面を掃くように回し,もう一人の男性がそれに合わせて跳ぶというものだ。この遊びは失敗すると鞭打ちの刑になってしまう。 3つのマドラサに面したレギスタン広場は踊りの練習に解放されているため,しばらくは建物のファサードの写真はおあずけ状態である。まあ,マスゲームのような踊りを見ているのも楽しいので問題はない。

若い女性も大勢参加しており,やはり日焼けが気になるのかけっこう重装備で顔を覆ている人も多い。美人の条件は色白であることは世界共通のようである。踊りの練習が続いているけれど時間がないのでマドラサの内部をまず見学し,ファサードは練習が終わってから撮ることにしよう。

シールダール・マドラサ(向かって右側)

右側のシールダール・マドラサは正面のイーワーンにライオンと人の顔が描き出されていることで有名である。偶像崇拝が禁止されているイスラムにおいては,このような宗教関連の建造物に具体的な人や動物のイメージを描くことはありえないことだ。

このような表現をした理由はよく分からない。いずれにしても,この建物ができたとき相当の非難があったのは確かであろう。にもかかわらず,ウズベキスタンの200ソム札にはこの絵柄がそのまま使用されている。異端のデザインを紙幣に採用することには個人的にかなりの違和感がある。

まあ,ライオンの絵柄はさておいてマドラサそのものは均整がとれた美しさがある。イーワーンと両側のミナレットとのバランスもすばらしい。入口はアーチというよりは五角形に支えられたハーフドームのようになっており,全面が細かいモザイクタイルで飾られている。

黄色と緑を基調とするサマルカンド・タイルの水準の高さがうかがわれる。上部は人間の背丈に比べてかなり高いところにあるので,上部の写真は非常に細かい紋様になってしまう。その下側の五角形の部分もみごとなモザイクタイルで飾られており,イランとの関係がうかがわれる。

中庭は何も無い空間になっており,かって学生が生活していた部屋は土産物屋になっている。それでも,ブハラに比べるとずっと控えめである。装飾タイルの技術を生かした15cmほどの大きさの焼き物が目に付いた。僕は荷物を増やさないため買わなかったが,これは良いお土産になるだろう。

ティッラカーリ・マドラサ(正面)

正面のティッラカーリー・マドラサは踊りのメンバーの控え室のようになっていて中には入れなかった。ここのアーチの上部の装飾の稠密さにも驚かされる。写真ではそのすごさの何分の一しか分からないので,やはり実物を見ないとそのすばらしさは実感できない。

レギスタン広場に面した2つのマドラサのうち正面のティッラカーリと右側のシールダールには青色のドームが付属している。シールダールはイーワーンの両側にドームとミナレットを配した対称形であるが,ティッラカーリのものは南にイーワーン,西に1つのドームをもっている。

ティラカーリは正面が南側なので,キブラ(メッカの方向を向く壁面,ここでは西側)を確保するためこのような構造になったのであろう。ドームの中庭側はイーワーン構造になっている。

下から見上げてドームを隠すほどの高さをもっていないものの,午前中の日ざしでは正面西側からが写真のポイントである。マドラサの内部は踊りの練習に来ていた子どもたちの休憩所となっており,ここでも新しい子どもたちの写真を撮ることになる。

ウルグベク・マドラサ(左側)

左側のウルグベク・マドラサは3つのものの中で最も古い15世紀のものだ。チムールの孫のウルグベクは文人としても知られており,自らここで講義を行ったという。また,彼は一流の天文学者でもあり,彼が現地の科学者と一緒に開発した天文台がアフラスィーヤーブの丘の北東に残っている。

それを象徴するようにマドラサの内部には天球儀もしくは地球儀を囲んでいるウルグベクと科学者の像がある。このような像もイスラムの宗教施設では珍しい。ともあれ,踊りの練習の人ごみがすごくて,写真はちょっと消化不良のままレギスタン広場を後にした。

ウルグベク・マドラサを飾るタイル

踊りの練習は僕が広場を離れるまで続いている

子どもたちは向かいの公園に戻っていた

横から見るとこのようになっている

現代的なウズベク絣の女の子

レギスタン広場から南西にあるチムール像の方角に行こうとして南に歩いてしまった。ウズベク絣の服を着た女の子の写真を撮る。服地の柄は伝統的なものでも,デザインは新しいものになっている。もう一人の女の子はノースリーブであり,保守的な中央アジアでも変化の風は確実に吹いてきている。

しかし,中央アジアにはなかなか民主主義の風は吹いてこない。ウズベキスタンでは1991年のソ連解体とともに独立したが,ソ連時代の大統領であったカリモフが新国家の大統領にスライドし,そのまま現在に至っている。議会はオール与党の状態でチェック機能は全く働いていない。

イスラム急進派の活動は禁止されており,政府は国境付近にのイスラム武装勢力の動きを警戒している。その関係で2001年の米国テロを機に米軍の駐留を認めてきた。

しかし,2005年5月のアンディジャン騒擾事件後は事件に批判的な欧米各国との関係が決定的に悪化し,ロシア,中国との関係強化を図っている。2006年にはCIS集団安全保障条約機構(CSTO)への復帰を決定した。

通りから少し奥まったところにきれいな池があった

通りから少し奥まったところにきれいな池があった。サマルカンド版のラビ・ハウズといったところである。枝を茂らせた桑の木の下にはテーブルとイスが並んでいるので,夕方ともなれば夕涼みの人々で賑わうことだろう。

これはおそらく桑の木であろう

通りに面した家は白壁のものが多く,桑の老木とよくマッチしている。通りに面して現役のモスクがある。このときまだ道を間違えていることに気が付かず,地図にはモスクなどないなあとぼやいていた。

ペルシャのグリフォンに似た石の像

歩道にニワトリと四足動物が合体したような石の像がある。トサカが皿のようになっており水が出るようだ。男性が通りかかり,首の後ろのハンドルを操作して水を飲んでいった。ただの街角の給水器にこのようなデザインを施すとは,この国の不思議な一面を見たような気がする。

みごとなブドウ棚

入口の横には老人たちが坐っている

このモスクはホジャ・スバダル・モスクであった。入口の横には老人たちが坐っている。この暑い時期に長い上着を着て,ウズベク帽を被っている。このコートのような上着が男性の伝統的な服装なのかな。

「写真を撮ってもいいですか」と訊ねると,「ああ,いいよ」と気軽に応じてくれた。モスクの入口にはイーワーン(彫刻のある飾り柱)が張り出した天井を支えている。

ややこしいことにレギスタン広場にあるマドラサの入口に相当するアーチ型の入口を四角く枠取りした壁で囲んだ門もイーワーンという。イランで覚えたこの言葉がウズベクに来ると別の意味で使用されているので区別が大変だ。

二つの異なったものに同じ名前が付けられたのは偶然ではない。イーワーンの由来は「ペルセポリスの百柱の間」のように多数の柱で屋根を支え広い空間を造り出した建築物を意味していたらしい。

預言者ムハンマドの時代でもモスクは壁が無くナツメヤシの柱を多数並べ,屋根を支える簡単なもの(多柱式モスク)であったという。おそらく,この様式がイーワーンであり,ウズベキスタンのモスク前面の屋根付き開放空間を支える柱をイーワーンというのはその流れにある。

一方,12世紀のセルジューク朝時代に古代ペルシャの建築要素であったイーワーンがドームとともにモスク建築に取り入れられ,チャハール・イーワーン様式が生み出された。

それは,四方を建物で囲み中庭をもつ空間を造る,その四方向にイーワーンを配置する,大イーワーンの背後にドームを配置するとともにその両側に一対のミナレットを付属させるもので,その後のモスクおよびマドラサ建築の標準となった。

割礼の儀式

歩いていると急にトイレに行きたくなった。うまい具合にホテルのような建物が目に入ったので,中に入り従業員に頼んでトイレを使用させてもらう。

ここはレストランで,大広間では10ほどのテーブルに地元の人たちが集まって食事をしていた。その8割くらいは女性である。この催しの主役は着飾った一人の4-5才の男の子である。おそらく割礼の儀式があり,この場はそのお祝いのためのものだろうと推測した。


ブハラ 2   亜細亜の街角   サマルカンド 2