Home亜細亜的世界|モンゴル帝国のユーラシア支配

分裂と抗争の時代

中国の北方に広がる高原はユーラシア大陸でも最も広大で豊かな草原が広がっている。現在にいうモンゴル高原であるが12世紀末には特定の名称はなかった。はるか昔の匈奴の時代からこの草原を支配したものがユーラシアの草原世界の代表となってきた。彼らは遊牧民族であり,家畜とともに移動する生活を送っているので,草原では多くの民族の血が混じりあうとともに,部族あるいは氏族というまとまりで暮らしていた。

このような集団を統合する大勢力が生まれることもあったが,12世紀末に遡る350年ほどの間は分裂と抗争の時代が続いていた。高原を取り巻く金,西遼などの国々は高原が大勢力としてまとまることを恐れ,有力な勢力に対する対抗勢力を支援して両者を戦わせたり,ときには直接的な軍事行動により有力な勢力を駆逐することもあった。





モンゴル高原の統一

チンギス・カンがモンゴル高原を統合するまでの経緯については多くの物語の題材となっているが,いずれも作者のたくましい想像力が作り上げたもので,史実についてはほとんど残されていない。実際,彼が確かな史実として登場してくるのは,1203年にケイレイトのオノ・カンを倒してモンゴル高原の東半分の覇者になったときからである。

主筋にあたるオノ・カンを破ってからわずか2年でチンギス・カンはモンゴル高原を統合する。そこに至るには多くの幸運と彼自身の軍事的才能があったことであろう。チンギス・カンの生年については1151年,1161年,1162年などの諸説がある。いずれにしても彼が高原の権力者になったのは40代である。

草原の厳しい自然環境と遊牧生活の苦労を考えると遊牧民の老化は早い。この後も歴代の大カァンは40代で即位しており,その在位期間はそれほど長くはなく,大カァンの死去が度々歴史を変えることになる。初代のチンギス・カンがユーラシアの覇者として活躍できたのは比較的長い24年間である。

クリルタイでチンギス・カンが誕生する

1206年にオノン河の上流で開かれたクリルタイで「カン」に選ばれたテムジンはチンギス・カンと名乗った。「カン」とはチュルクあるいはモンゴル系の人々が君主を指す尊称である。チンギス・カンはすぐに高原の遊牧民の組織化にとりかかり,支配下にある人々を95個の千戸群に再編成した。チンギスの制覇に協力した族長は千戸長に任命された。

組織化が一段落するとチンギスは三人の息子,ジョチ,チャガタイ,オゴデイにはそれぞれ4つの千戸群を分け与え,高原の西方に配置して右翼の諸子ウルスとした。また,三人の実弟にも千戸群を与え,高原の東方に置いて左翼の諸弟ウルスとした。この東西の6王家ウルスの中心にチンギス・カンと末子のトルイがいる形となった。チンギスは4箇所に大オルドと呼ばれる天幕群を作り草原の宮廷とした。

国家の名前は「イェケ・モンゴル・ウルス」

国家の名前は「イェケ・モンゴル・ウルス」すなわち「大モンゴル国」とした。モンゴルとは民族を表すものではなく,この新国家の構成員は出身や言語が異なっていてもすべてモンゴルとなった。「大モンゴル国」はその草創期から多民族の集団であり,いくつもの一族ウルスを抱える多重構造の連合体であった。このような国家の構成・性格は短期間でユーラシアの大半を支配する巨大帝国を築き上げるのに大いに役立った。





金と戦い華北を手に入れる(1211-1215)

チンギス・カンは高原の国づくりを終えるとすぐに対外戦争を始める。新国家の体制を強固なものにするためには戦利品(略奪品)の分与は必要不可欠であったためである。とはいうものの新国家の規模はそれほど大きなものではなかったので,足かけ5年にわたる南の金国との戦いにはモンゴルのほぼ全軍を投入した。金国東北部のキタン系遊牧民を陣営に吸収し,多数の馬と家畜を接収した。金は黄河の南に逃げ,華北はモンゴルの支配下に入った。

ホラズム・シャーに遠征する(1218-1225)

ホラズム・シャーはシルダリアの下流にあるホラズム地方で成立したトルコ系イスラム国家である。12世紀初頭にその勢力は現在のアフガニスタン,イランにまで拡大していた。草原の覇者となった東のモンゴルとオアシス世界の新興国ホラズム・シャーの激突は歴史の必然であった。チンギス・カンはモンゴル軍に2年の休息をあたえ,その間に西遼およびホラズム・シャーに関する情報を収集し,作戦準備を進めている。モンゴルの戦争は十分に練られた計画にしたがい,完全な統制化で進められた。これがモンゴルの最大の強みであった。

モンゴル軍は都市や要塞に篭城するホラズム・シャー軍を包囲し陥落させていった。スルターン・ムハンマドは壊走し,ホラズム・シャーは崩壊した。この戦争において抵抗した都市はモンゴル軍により徹底的に破壊され住民の大殺戮が行われたとイスラム史書に記されているのはたぶんに誇張である。モンゴル自身が意図的にこのような破壊・殺戮による恐怖のイメージを喧伝し,戦わずに降伏させる戦略をとったと考えられる。そもそも,すべてを破壊し殺戮してしまっては帝国を拡大させる意味がなくなってしまう。

西夏攻略(1226-1227)

1225年に本拠地の大オルドに戻ったチンギス・カンは翌年から西夏攻略を開始した。表向きの理由はホラズム・シャー遠征に従軍しなかったことである。首都の興慶を包囲しているときチンギス・カンは逝去し,その三日後に興慶は開城し降伏した。こうして,チンギス・カンは征服だけでみまかり,モンゴル帝国の建設は彼の子どもと孫の世代に受け継がれた。





チンギス・カンの後継者選び(1229)

チンギス・カンの4人の息子のうち後継者にふさわしいのは末子のトルイであった。彼は101個の千戸群を擁する中央ウルスの主であり,チンギス没後の2年間は国権を代行している。にもかかわらず,クリルタイでは全会一致でオゴデイが選出された。すでに亡くなっている長子のジョチと激しいいさかいを起こしたチャガタイが有能なトルイの後継者指名を阻止し,おとなしい凡庸な弟を推したというのが真実であろう。

金国攻略(1230-1234)

オゴデイの最初の軍事行動となる金攻略には帝国の四人の有力者がこぞって参加した。チャガタイは高原の留守を預かり,トルイが右翼軍,オゴデイは中央軍,オッチギン(チンギスの末弟)は左翼軍を率いて進撃した。結果としてモンゴルは勝利し,チンギス亡き後もモンゴルは強大であることを内外に印象付けた。

この戦いの最大の功労者であるトルイはなぜかわずか8ヵ月後に謎の急死をとげる。ほとんど戦功の無かった他の三人の巨頭にとっては大変都合のよい展開となる。その後モンゴルはオゴデイとチャガタイの影響力が大きくなり,トルイの嫡男のモンケが第4代の大カァンになるのはその17年後である。

バトゥの西征(1236-1242)

チンギスの構想では西北ユーラシアは長子ジョチに与えられるはずであった。しかし,ジョチはホラズム・シャーとの戦いの帰途でみまかった。そのような背景からか今回の西征の総大将はジョチの息子のバトゥとなった。チンギスの時代の遠征は配下の千戸群がそのまま参加する「民族移動方式」であったが,この頃から千戸群から200人の若い戦士を出させるようになった。遠征軍の主力は十代の若い戦士であり,部隊の指揮官は歴戦の勇士という構成であった。

彼らは長い遠征の過程で,実際の戦闘を通して一人前の戦士に成長していった。この新しい方式により高原が空になることはなく,同時に成長した戦士にとって父母や兄弟姉妹が住む高原は,遠い異国の地にあってもこころの拠りどころとなった。帝国の拡大により異国で妻帯し,暮らすようになっても彼らはやはりモンゴル・ウルスの一員であった。

カスピ海から黒海の北側に広がるキプチャクの大草原に入ったモンゴル軍は遊牧民のキプチャク諸民族を撃破あるいは吸収していった。モンゴルという統制のとれた軍事組織に組み込まれたキプチャク族は精強な騎馬軍団となった。

バトゥはこの軍団を率いて当時ルースィと呼ばれていたロシアに向かった。この頃のロシアは多くの公国に分裂していたためモンゴル軍の前になすすべもなかった。モンゴル軍は二手に分かれ,主力はハンガリー,別働隊はポーランドに侵攻した。戦闘方法がまったく異なり,動員力の小さなヨーロッパの国々にはモンゴルを止めるのは手立ては無かった。

もし,1242年にオゴデイ逝去の知らせが届かなかったならば,ヨーロッパは完全にモンゴルに蹂躙されたことであろう。逝去の報を聞きモンゴル諸王家の部隊は東方に引き揚げたが,バトゥ率いるジョチ家の軍団はキプチャクの草原に留まり,巨大なジョチ・ウルスを支配することになった。

混迷の10年(1242-1251)

1241年にオゴデイが逝去し,その前後にチャガタイが死去した。チンギスの子どもはいなくなり,後継者は孫の世代に移ろうとしていた。モンゴルにおいては「大カァン」は世襲制ではなく,クリルタイで選出される。チンギスの孫世代の有力者としてはジョチ家のバトゥとトルイ家のモンケであった。

しかし,バトゥはキプチャクに留まり,モンケは東方帰還の途上であった。オゴデイの六番目の皇后ドレゲネはグユクを次の大カァンにするためあらゆる手立てを尽くし,1246年のクリルタイでグユクが選出された。しかし,この選出はオゴデイの遺志を無視するものであったし,バトゥの強い反対にもあった。

バトゥとグユクの軍事衝突はグユクの死去により寸前で回避された。バトゥは盟友のモンケを推すため中央アジアでクリルタイを開催した。当然,チャガタイ家とオゴデイ家はこれに反対することになるが,東方三王家を代表するオッチギン家がこれに参加し,大勢は決した。大カァンに即位したモンケは反対派を粛清あるいは追放した。モンゴル共同体の伝統は大きく損なわれた。

フレグの西征(1253-1260)

モンケは南西アジアと宋に対する東西両面の軍事作戦を発動した。フレグは1253年にモンゴル高原を出発した。遠征軍の主力は千戸群から200人ずつ供出された若い戦士たちであった。遠征の目的はイスマイル派暗殺集団の打倒とアッパーズ朝カリフ政権が支配していたイラク地域であった。

ハサン・サッバーフがアルボズル山中にあるアラムートの山城を根拠地にした暗殺集団は,イスラムのスンニー派あるいはシーア派にとっては重大な脅威であり,その存在はヨーロッパにも知られていた。フレグはアラムート地域を封鎖して脅しをかけ,ほとんど戦闘無しでアラムートを無血開城させた。

イラン高原の敵対勢力を駆逐したフレグは大軍団を率いてバグダードを包囲した。政権内部は和戦の思惑が入り乱れ,1258年にほとんど戦うことなくバグダードは陥落し,500年におよぶ正統カリフのアッバース朝は幕を閉じた。

フレグは兵士に休養を与え,次にシリア方面に向かった。イスラム世界の二大勢力をあっけなく崩壊させたモンゴルに敵対できる勢力は存在せず,シリアの諸都市はあっさり攻略された。残るのはエジプトのマムルーク朝だけである。

しかし,フレグがエジプトに向かおうとしたときモンケ死去の知らせが届いた。次の大カァンになる野望をもつフレグは一部の兵力を残し東に向かった。しかし,途中でクビライの即位を知らせる使者が到着し,イランの地に留まった。1260年のこのときシリアからアフガニスタンにまたがるフレグ・ウルスが誕生した。





二人の大カァンの戦いとクビライの即位(1260-1264)

モンケが死去したとき後継候補としては弟のクビライ,フレグ,アリグ・ブケが有力であった。このうちフレグは遠いイランの地にあり埒外である。アリグ・ブケはトルイの末子として広大なトルイ家の所領を掌握しており,モンケ政権の旧臣やモンケの子どもたちもモンケと対宋作戦で対立したクビライを支持することはなかった。客観情勢はアリグ・ブケに傾いていた。

当時,南宋作戦に従事していたクビライはモンケの訃報後も作戦を続行し軍団を南に向けた。クビライは長江を渡り,中流域の要衝である鄂州(武昌)を包囲した。中国各地に展開していたムカリ国や東方三王家のモンゴル部隊はクビライの軍団に合流しした。これを境に情勢は一転し,モンゴルの諸勢力はクビライ支持に回るようになった。

この「鄂州の役」は歴史の大きな転換点となった。クビライは軍団の一部を残して北上し,中都において支持者を集め1260年にクリルタイを開き大カァンに即位した。これに対抗するためアリグ・ブケ支持勢力はカラコルムでクリルタイを開きアリグ・ブケも大カァンになった。

ここにモンゴル史上で初めて二人の大カァンが並び立つことになり,軍事力で決着する事態となった。モンゴル同士が戦うのも史上初めてである。大カァンとしての正当性は明らかにアリグ・ブケにあった。ジョチ・ウルスの当主ベルケ,フレグ・ウルスのフレグ,さらにはチャガタイ家の女性当主もアリグ・ブケ支持を鮮明にしている。

しかし,クビライには高原東側の強大な軍事力がついており,戦況は最初からクビライに傾いていた。チャガタイ家ではアルグが女性当主からその地位を簒奪し,チャガタイ家の復権のためアリグ・ブケに反旗をひるがえした。アリグ・ブケはクビライの軍門に下り1264年に4年におよぶ内戦が終結した。

クビライの新世界国家構想

モンゴル成立から60年,ユーラシアの東西に広がる帝国を運営するためクビライ政権は軍事力と通商を柱とする世界国家を作ろうとした。そのためには三つの要素を必要とした。第一は草原の軍事力で,モンゴル騎馬軍団を中核にさまざまな人種からなる軍隊をモンゴルの名のもとに再編成することである。

第二に広大な二重構造の帝国を統治するための国家行政機構と財政基盤の確立である。そのためにはユーラシアで最大の富を産する中国を手に入れる必要があった。第三はユーラシア全土にわたる物流を作り出し,そこから得られる税収を国家財政に組み込む戦略である。このような新世界国家を目指し,南宋接収後,クビライは大陸の帝国の外側に海洋の帝国を付加しようとした。

大都の造営(1266-1293)

クビライは華北に巨大な帝都を造営する号令を発した。現在の北京にあたるこの計画都市は1293年に完成をみる。かってない規模と計画性を有する都市はヨーロッパからの旅人を驚かせ圧倒するのに十分なものであった。にもかかわらずクビライ自身と宮廷のメンバーは草原の民らしく,よほどの厳寒期でもなければ郊外の野営地に壮大な天幕の宮殿をしつらえそこで過ごしていた。

彼にとって大都は官僚が行政を行い,経済・物流の拠点となるところであった。当然,モンゴルの軍事力は大都の外にあり,中国の従来の都市のように守りという概念はなかった。クビライは1271年に新しい国号を「大元」とし,「大元イェケ・モンゴル・ウルス」が正式名称となった。

南宋の滅亡(1268-1276)

クビライのモンゴルにとって南宋は最重要攻略目標ではあったが,南宋の川と湖沼が多い地理,暑く湿った気候はモンゴルの騎馬軍団にとってはその真価の発揮しづらい所であった。クビライの参謀はモンゴル騎兵を最小限にとどめ,漢人の歩兵を主体とした軍団を組織した。漢水の要衝をめぐる攻城戦で南宋水軍を撃滅し,6年間の篭城後に降伏開城した呂文煥を厚遇した。

呂文煥とその兵団はモンゴルに忠誠を誓い,新たな南宋作戦の先兵になろうと申し出たため,戦局は一気に最終段階に突入した。モンゴルは破壊も殺戮も起こさないという風説が広まり,長江中流域の諸都市が雪崩をうって開城していった。首都臨安も無血開城し,南宋はほとんど大きな戦闘も無くモンゴルに接収された。こうしてクビライの新世界国家建設は新しい段階に移行していった。

引用文献:以上の説明文については杉山正明氏の「モンゴル帝国の興亡」,講談社現代新書から引用させていただきました。





チンギス・カン家系図(数字は大カァン即位順序)