ウルゲンチと結ぶトロリーバス
少し先にはウルゲンチから乗ってきたトロリーバスが走っている。日本ではほとんど見ることができないので物珍しさも手伝ってしばらく観察していた。確かにパンタグラフは2ヶ所で電線に接触している。
実際に乗ったときは向きを変えるために車掌がパンタグラフの後ろにぶら下がっている紐を上げ下げしていた。でも,パンタグラフが離れている時にバスはバッテリーで動くのかな?
少し先にはウルゲンチから乗ってきたトロリーバスが走っている。日本ではほとんど見ることができないので物珍しさも手伝ってしばらく観察していた。確かにパンタグラフは2ヶ所で電線に接触している。
実際に乗ったときは向きを変えるために車掌がパンタグラフの後ろにぶら下がっている紐を上げ下げしていた。でも,パンタグラフが離れている時にバスはバッテリーで動くのかな?
さすがは世界遺産の町というべきか新市街の建物もレンガ造りのものが多く,郵便・電話局などはちゃんとアーチ型の門を備えていた。とはいえ,ほとんど見るべきものがなく,戦没者祈念碑の写真を撮って旧市街に戻る。
北門から中に入ると内側にスロープがあることに気が付いた。宿の近くの南門の内側は半分崩れて原型が分からなかったが,本来の構造は門を守るためスロープを使って城壁まで上がれるようになっていた。
イチャンカラは全体が世界遺産となっており,その中には多くの人が居住している。この人たちにとっては世界遺産の中で暮らしているという特別の意識はないであろう。
彼らにとっては自分たちの住んでいるところがある日,(自分たちのあずかり知らぬところで)世界遺産に登録されてしまっただけである。
アッラークり・ハーンのキャラバンサライの横から外に出ると,魚の露店があった。海から遥か離れた中央アジアの魚は川魚に限られる。おそらくアムダリアで捕れたものだろう,大きな鯉,雷魚,フナが並んでいる。
氷を使っていないのでその日のうちに売り切らなければならない。鯉にはもう肉食の蜂がたかり,味見を開始していた。肉に比べて魚は日持ちが悪く,すぐに鮮度が落ちてしまう。
そのため,魚を常食する地域では多様な干物の文化が生まれる。魚を開いて干すことにより表面に固い皮膜が形成され保存性が高まるとともに独特の風味をもつようになる。
さすがに魚と長い付き合いの日本では塩干し,みりん干し,丸干し,煮干しなどさまざまな方法が生み出されている。海から遠い中央アジアでは川魚が主体であり,かってのアラル海のような特別な地域を除き量は少ないのでそれほど干物の技術は磨かれなかったようだ。
それでも,ウルゲンチのバザールでは数種類の魚の干物を見ることができた。日本では干物といえどもその多くは焼いて食べる文化であるが,ウズベキスタンの魚料理は油で揚げる(から揚げ)かスープ(茹でる)文化であり,これらの干物もそのように調理されるのであろう。
宿の周辺には民家が多く,その一軒にはなぜか牡羊がつながれていた。この羊は立派な巻いた角をもち気性が荒い。見知らぬ人が近づくと攻撃態勢に入るのでちょっと怖い存在であった。
バザールの南側にもミナレットをもつ建造物がある。このミナレットには青タイルは使用されておらず,レンガの濃淡で模様を造り出している。建物の中にはアイワーンもあり,管理人のおじさんは「まあ,お茶でも飲んでいきなさい」とテーブルに坐らせてくれた。
イチャンカラの外側の建物は修復費用が出ないのか,この建物はかなり傷んでいた。おじさんは,「ミナレットにも登れるよ」と勧めてくれたが,昨日はイスラム・ホージャのミナレットに上り筋肉痛がひどく辞退した。
南門付近の城壁の内側はかなり風化している。北門でははっきり形が残っていたスロープ構造もただの土くれに変わっている。それに比べて南門は焼きレンガを使用しているので立派なたたずまいを残している。
南門から南に歩き近くの農地を見学に行く。道の左側にはドゥシャン・カラ(外城壁)が部分的に残っている。大半は元の土に戻ろうとしているが,一部は城壁がそれと分かる程度に保存されている。
その向こうにパルヴァーン運河が流れており,道路と交差する橋の横は水がたまるようになっている。そこは地元の人たちのじゅうたん洗い場になっていた。同時に子どもたちにとっては遊び場にもなっており,ずいぶんにぎやかだ。
水路の傾斜をもった土手にじゅうたんを広げ,水をかけ洗剤をまき,ブラシでこすっている。暑い時間帯なのでこの作業はとても楽しそうだ。母親と娘はじゅうたんを洗い,男の子は水遊びかたがたちょっとお手伝いといったところだ。イチャンカラの方向から一輪車にじゅうたんを乗せたおばさんがやってくる。
カメラはまったく「ノー・プロブレム」である。子どもたちは「写真を撮って」と水の中でポーズをとるが,動きが激しくてフレームがとれない。やはり,じゅうたん洗いを手伝っている女の子の方がよい被写体になってくれる。いつもなら,ヨーヨーを作ってあげるところだが,なんといっても人数が多すぎるので止めておく。
子どもたちにむやみにモノをあげるのは決していいことではない。旧市街を歩いていても「ハロー,ペン,ボンボン」と旅行者からものをねだる子どもたちにたくさん出合った。外国人にたかることを覚えた子どもたちは将来に渡り,依存心や安易にものを要求する考えを増幅させていくことも多い。
むやみにはあげない。しかし,旅行先で仲良くなった子どもたちにささやかなプレゼントをあげるのは悪いことではないと思っている。お金はまずいし,高価なものも良くない。例えば日本のフーセンとか折り紙などはとても喜ばれる。
過去の経験で一番喜ばれるのが水ヨーヨーなので,僕はいつもこのセットをサブザックの中に入れている。1個15円でこれほど喜ばれるものは少ない。
運河の背後には広大な綿花畑が広がっている。僕はパキスタンでオクラの花を見て綿の花と思い違いした苦い経験がある。ようやく綿の花に出会うことができたのでしっかり見ることにしよう。株と株の間隔が狭く中には容易に入れそうもないので,一番外側から観察する。
私たちが日常的に使用している綿製品とその原料は綿(めん,わた,ワタ),棉(わた),木綿(もめん,わた),綿花(めんか)などと多様な名称で呼ばれている。英語ではcotton がこれらの総称になっており,いたってシンプルである。
木綿は綿製品の原料となる綿花,あるいは綿の織物を意味する。江戸時代の農学者・佐藤信渕はその著書で,「わた」と呼ぶ場合には作物,「もめん」と呼ぶ場合には織物を表わす言葉として区別している。
綿(めん,わた,ワタ)は英語のcotton に相当する言葉で一般名称として広く使用されている。ただし,「ワタ」はcotton の範ちゅうから外れる言葉で,例えば「布団のワタ」のように中の詰め物,あるいは紡績工場では綿,羊毛を含め原材料を意味する総称としても使用されている。
「ワタ」はおそらく綿よりも古い日本の言葉でハラワタのように中に詰まっているものを意味していたのであろう。綿が日本に伝来したとき,綿の実がはじけて白い綿花が出てくることから「ワタ」の呼び名が付けられたと推測する。現在でも瓜などの実で種の周りにある綿のような柔らかい部分はワタと呼んでいる。
綿はアオイ科の植物である。アオイ科には美しい花をつけるものが多く,観賞用のハイビスカス,ムクゲ,フヨウ,タチアオイなどのほか,食用のオクラ,繊維を利用する綿やケナフなどが含まれている。
ここの綿の花は白もしくは乳白色の花弁をもち中心部は淡い黄色になっている。花の形状は葵やムクゲと変わらない。さすがにアオイ科だけあって十分観賞用にもなりうる。
綿の花の寿命は1日,翌朝には色がついてしぼんでしまう。これはむくげと同じだ。白い花の周辺には赤紫色のしぼんだ花がたくさんある。
花が終わると子房が膨らみ実になる。綿の花は順次咲いていくのですでに実が成長して,ゴルフボール大になっているものもある。触ってみるととても固い。これを「さく果」という。
さく果の内部はいくつかの部屋に分かれており,内部が成熟して乾燥が進むと部屋の境界ではじけるように割れて中から白い綿毛(綿花)が現れる。昔の人はこの白い花が咲いたような状態を表現して「綿花」と呼んだのであろう。英語ではCotton Ball と呼ばれている。
一つの綿花には30粒ほどの種子が入っている。綿毛は種子の外皮細胞が変化したもので種子から生えた毛のようになっている。繊維の部分は中空になっており水分を失うと少し扁平になり自然によじれる。このため種子と分離した繊維は容易に紡いで綿糸にすることができる。
取り除いた種子は搾油機にかけて綿実油を作ることができる。繊維も食用油も供給してくれる綿は大変有用な作物である。綿花の世界生産量はおよそ2300万トン,中国,米国,インド,パキスタン,ブラジルに次いでウズベキスタンは世界第6位の生産国となっている。
ウズベキスタンは旧ソ連の計画経済において綿花の供給基地として位置づけられ,アムダリアの水を大量に使用して灌漑農地で綿花を栽培してきた。そのためアムダリアが注いでいた
「アラル海」に供給される水は大幅に減少し,まもなく地図からも消滅することになる。
20世紀最大級といわれる環境破壊によってもたらされたウズベキスタンの農業部門は全就業者の約40%を占めている。灌漑水路による水の損失,非効率的な灌漑方法,農薬使用量の削減などこの国の綿花栽培の抱える課題は多い。
その中でも「綿花の収穫時における子どもの強制労働」は国際的な関心を呼んでおり,国際的な不買運動を呼びかけているNGOも複数ある。新聞報道によると他の開発途上国とは異なり,ウズベキスタンの綿花セクターの児童労働は貧困が原因ではなく,中央政府の強制政策によるものである。
綿花の収穫時期の9月になると全国の学校は2カ月以上も休校となり,生徒たちは中央および地方当局の命令で綿摘みを強要される。子どもたちは毎日8時間以上の労働を強いられる。
綿花栽培には大量の農薬が使用されており,それらは粉塵となり子どもたちが吸い込むことになる。収穫前に使用された化学薬品,殺虫剤,枯れ葉剤の残留物で一杯の粉塵を吸い込むことになる。
ウズベキスタンの人権擁護団体の代表は,世界市場での綿花売買で多額の利益を得ている少数エリートのために,子どもたちの教育が中断されている。十代の若者の搾取と児童労働をなくすために綿花産業の抜本的な改革に着手すべき時だ」と述べた。
「多額の利益を得ている」企業の代表は,綿花輸出のライセンスが独占的に与えられているカリモフ大統領の一家が支配する三つの商社が含まれている。人権活動家によれば,綿摘みを拒否すれば,退学処分となってしまうという。
ウズベキスタンの綿花栽培のうち半分以上が児童労働に頼ったものであり,子どもたちへの報酬はごくわずかである。正確な統計はないが,ロンドンに本部を置く人権団体「環境正義財団」(EJF)によれば,綿花栽培地域フェルガナではおよそ20万の子どもが働いているという。
旧市街に戻りパフラヴァーン・マフード廟の写真を撮っているとき,結婚式の集団に出合った。ヒヴァでは新婚さんと親族・知人がが旧市街の東西の大通りを歩き,写真やビデオを撮影するのが流行のようだ。そのためヒヴァの旅行記にはこの様子を撮った写真がよく出てくる。
新郎新婦はもちろん関係者はみんな盛装をしているし,おめでたい日なので写真はまったくフリーとなり,旅行者には記念の写真が撮りやすい。僕も彼らと一緒に大通りを歩き,何枚か撮らせてもらう。
イスラム圏では難しい若い女性の写真もここでは問題にならない。それどころか盛装しているので,積極的に撮ってと頼まれることもある。鳴り物の中,集団は立ち止まって踊りが始まる。
昨日スキップした金曜モスク(ジュマ・マスジディ)に入ってみる。
内部には等間隔で百本(実際には212本)くらいのアイワーンと呼ばれる彫刻の施された柱が並んでいる。さながら百柱の間といったところだ。レンガと日干しレンガ造りが多い旧市街の建築物で,この金曜モスクの内部は完全な木造縁築になっている。
このたくさんの柱が工場に見えた広い屋根を支えているのだ。この地域では木は貴重品である。その木を惜しげもなく使用して,このような建造物を造るのは,地域の宗教心のなせるものだろう。
アタベクの夕食はどうも僕の口に合わない。昨日の夕食はヨーグルトスープのワンタン,ピクルス,パン,チャーイ,スイカであり,これが3$とはいかにも高い。今日の夕食は外食かパンを買って自炊にしよう。
今日はアムダリアを探検に行く。ヒヴァからウルゲンチに出て,そこからなにがしかの交通機関はあるだろうと楽観的な見通しをたてて出発する。北門の前でトロリー・バスに乗る。ここは路線の終点にあたり乗客はすべて降りる。
バスは新市街を通り向きを変えてウルゲンチに到着する。ウルゲンチの南北を通る大通りに出ると南に鉄道駅,北に運河の橋が見える。中央部が少し盛り上がったアーチ状の橋の両側は公園になっている。
運河の水はきれいそうに見えるけれど排水用のものだという。
橋の北側で西に折れ公園を一通り眺め,少し先を北に行くとウルゲンチの近郊バスターミナルに出る。そこは大変な数のワゴン車が集まる広いターミナルになっており,その向こうが露店のバザールとなっている。
アムダリアを越えてその先に(北側に)ある町まで行くバスを探そうとしたけれども誰も知らないと言う。思い切って「アムダリアが見たい」と言うとすぐにバスは見つかった。ちょっと?の気分である。
年代モノのロシア製のバスは40分かけてアムダリアのすぐ手前に到着した。ここはヒヴァから直線距離で50-60kmのところになる。僕以外の乗客はそこから乗り合いタクシーに乗って川の向こうに移動するようだ。バスがどうして川向こうまで運行しないのかどうもよく分からない。
少しどきどきしながら監視所を通り抜け,川に到着してそのわけが分かった。橋は平たい鋼鉄船(台船)をつないだ浮橋であった。ここを通るのはちょっと大変なのだ。
ここではアムダリアの川幅は500mを越えており,水深もそれなりにありそうで,大河のおもむきがある。水は茶色くにごり透明度はほとんどゼロである。
連結された平船は川の流れに揺れることも無く,大型トラックの運行も支えている。橋の両側には手すりがあり,歩行者用の通路になっている。川の中央まで歩きアムダリアの流れをただ眺める。
この巨大な水の流れが,この先400-500kmで消滅するとはとても信じられない。この大量の水が綿花畑に吸収されアムダリアはわずかな湿地を残し,その先は小さな新しい湖で終わってしまうという。
橋の南側に戻り周辺を歩いてみる。タマリスクが紅色の花をつけている。沙漠の周辺に生える植物を,川岸で見るのはちょっと変な気分だ。タマリスクは水の無いところでは地中深くまで根を下ろして水脈を探そうとするが,川岸のような水の豊富な環境でも十分生きていけるということが分かった。
川岸近くのヤナギの木はちょうど綿毛をつけていた。綿花と同じように綿毛にくるまれて種子が入っており,こちらは風に乗って種を遠くに移動させる働きをもっている。同じヤナギ科に属するポプラの仲間もおなじように綿毛を飛ばす。
干上がった川岸にはところどころに白い塩の結晶が見える。砂漠地帯を流れてきたためアムダリアの水にはそれなりの塩分が含まれているのかもしれない。あるいは,地中の塩分が地表の冠水,乾燥のサイクルにより毛管現象で吸い上げられたのかもしれない。このあたりは地質時代には海底であったため,土壌の塩分は多い。
現在,消滅しつつあるアラル海でも同じ現象が発生している。もともと1%程度の塩分を含む湖であった。2つの川が運び込む水量が湖面からの蒸発量と均衡し,湖の姿を保っていた時期にも少しずつ塩分は濃くなっていたはずだ。
それが,流入する水量が蒸発量を大きく下回るようになったので,塩分は何倍にも濃くなり,干上がった広大な湖岸には塩混じりの砂が残る。
おまけに,綿花栽培で大量に使用された農薬がアラル海に流れ込んでいたので,塩と農薬の混じった劣悪な環境だけが残された。
十分にアムダリヤを見学して戻ろうとすると,これから橋を渡ろうとする人たちに出会った。カメラを向けると笑顔で応えてくれる。この笑顔がウズベキスタンの最大の収穫である。
アムダリアからウルゲンチに戻るバスはなかなかやってこない。ちょうどマルシュルートカが現れ乗せてくれた。定期便ではなくこの近所に荷物を届けに来たついでのようだ。料金は500ソムとバスより少し高いだけである。
ウルゲンチのBTに到着し昼食を探す。ドネルケバブを削って薄いパンで挟んだ一種のサンドイッチは1個250ソムである。僕が値段を聞くと隣の兄ちゃんが2000ソムなどと言い出すので話がややこしくなる。ケバブ・サンドは2個で満腹になる。
露店のメロン屋を覗いていたら切り身をいただき,ついつい1個を買ってしまった。露店のじゅうたんに坐らせてもらい努力して半分を食べたが,残りは露店のおばさんに任せることにした。ちなみに値段は1000ソム(100円),中央アジアではメロンがかくも安い。
ウルゲンチの駅まで歩き,駅の二階の宿をチェックしようとしたら,キップがないと改札は通れないようになっていた。宿の入口は改札の向こう側にあるので諦めざるをえない。駅舎の二階の壁には大きなモザイク画がある。これはなかなかのもので一見の価値はある。
駅の少し北側にはウルゲンチの長距離BTがあり,そこでブハラ行きのバスをチェックする。バスは到着が深夜になってしまい,明るい時間帯に到着するには10$のマルシュルートカ(乗り合いワゴン)しかないことが分かった。
ヒヴァに戻るトロリーバスの中では幼児がぐずっていたので風船を作ってあげる。彼の機嫌はすぐに直り,母親と一緒にいたおばあさんがそのお礼にとキャンディーをくれるのでありがたくいただく。
さらに彼女は直径30cmほどのパンを手提げ袋から取り出して差し出す。これは辞退したいところだが彼女が強く勧めるのでお礼を言って受け取る。まあ,今晩は外食か自炊にしようとしていたので夕食にいただくことにしよう。たぶんその日に焼かれたパンは十分においしくいただけた。
乾燥地なのでヒヴァでは日が落ちるとどんどん涼しくなる。ただし,家の中は熱気がこもっているのでイチャンカラに居住している人々は,夕方になると家の前の縁台でのんびりと夕涼みを楽しんでいる。