亜細亜の街角
中世がそのまま残る博物館都市
Home 亜細亜の街角 | Khiva / Uzbekistan / May 2007

ヒヴァ(ヒバ)とウルゲンチ  (参照地図を開く)

カスピ海の東側はトルクメニスタンとウズベキスタンにまたがる広大な砂漠となっている。その中央部を分断してパミールに源をもつアムダリア(ダリアは川を意味する)が流れおり,それと交錯しながらトルクメニスタンとウズベキスタンの国境線が続いている。

アムダリアの両側で砂漠の性質が異なっており,南側がカラクム(黒い砂漠),北側がキジルクム(赤い砂漠)となっている。カラ(黒)は中央アジアとその周辺で汎用的に使用されており,中国のゴビ砂漠にあるカラホト(黒水城),インドのカーリー神(黒き者)も同じ語源である。

アムダリアのデルタ地帯に位置するホラズム地方は年間300日は晴天だという砂漠の中にありながら,アムダリアにより育まれたいくつかの古いオアシスがあり,中央アジアオアシス文明の中核となった。

この地域にはもともとイラン系の住民が住んでいたが,11世紀頃から周辺のチュルク系住民との交流が進み,しだいに民族的にも言語的にもチュルク化していった。

ヒヴァはおよそ2500年の歴史をもつ古いオアシス都市である。17世紀にウズベク人のヒヴァ・ハーン国の首都となり今日見られるような街となった。当時はカラクム砂漠への出入り口として,また奴隷貿易の拠点として繁栄した。

ヒヴァは現在のアムダリアから50kmほど南に位置しているが,アムダリアのデルタ地帯に位置しているためイチャンカラの井戸からは甘い水(真水)が得られる。しかし,ヒヴァ・ハーン国を支えていた農業用水はアムダリアからの灌漑に頼らざるを得ない。周辺はかなり平坦な地形であり,アムダリア周辺都市の標高は次のようになっている。距離はウルゲンチを起点としたものである。

都市 標高(m) 距離(km)
ムイナク(アラル海沿岸)0m280km
ウルゲンチ(ヒヴァ近郊)91m-
チュルクメナバート187m370km


上流のチュルクメナバートとウルゲンチ間の平均勾配はおよそ100kmあたり50mということになる。ウルゲンチを基準とすれば20kmほど上流から取水すれば高低差10mの灌漑水路が構築できる。

水路や河川で水が流れるために必要な最小勾配は(自然流下可能勾配)は10m/100kmなので10m/20kmは十分な勾配である。ちなみに,ローマ水道の通常規格では 0.34m/1km となっている。流水抵抗の小さな人工構造物で実現できた数値であろう。

ウルゲンチ周辺ではこのようにして灌漑により農業が行われてきたようだ。ただし,アムダリヤはしばしば河道を変えることがある。現在のウルゲンチは正しくは新ウルゲンチであり,旧ウルゲンチ(クフナ・ウルゲンチ)は下流側のヌクスから南西に50kmのところに位置しており,現在はトルクメニスタンとなっている。

旧ウルゲンチは12世紀に始まるホラズム・シャー朝の首都となり大いに繁栄した。しかし,アムダリヤの河道が北に移動したため,旧ウルゲンチは水利の便が失われ,衰退していった。

ホラズムを支配したヒヴァ・ハーン国は17世紀に旧ウルゲンチからヒヴァに遷都し,水利をまったく失った旧ウルゲンチは都市としても放棄された。ヒヴァの近郊には新ウルゲンチが再建され,綿花や絹の対ロシア貿易で成長を続け貿易都市として繁栄した。

ヒヴァ・ハーン国の首都として都市は外敵の侵入を防ぐために外壁と内壁の二重の城壁で守られていた。現在,外壁はほとんど残っていないが,内壁(高さ8m,厚さ6m,総延長2km)はほぼ完全な形で残っている。

この内部を「イチャン・カラ(旧市街)」といい,モスク,神学校,宮殿,ハーレムなど54ものイスラーム様式の歴史的建造物が建ち並んでいる。1873年にロシア軍がヒヴァ・オアシスに迫ったとき,ほとんど戦闘無しにハーンが降伏したのでヒヴァの城内は無傷のまま残された。

ヒヴァは旧市街全体が蒼穹のドームをもつ巨大な博物館であるかのようなたたずまいを見せており,1990年にユネスコの世界遺産に登録された。その一方で,旧市街は現在でも人々の普通の生活が息づいている不思議な空間となっている。世界遺産の中で暮らしている人々が,その状態をどのように考えているか知りたいものだ。

コーカン(247km)→タシケント 移動

コーカンからタシケントの区間はバスが運行されていないので移動は乗り合いタクシーに頼らざるをえない。ウズベク政府にとってはファルガナでのイスラームの復興運動は反政府活動であり,政治の不安定要因となっているのでバスの運行は中止されたようだ。

乗り合いタクシーはBTの周辺にたくさん停まっている。僕はすぐに腕っ節の強そうな運転手につかまり,荷物をトランクに入れさせられた。しかし,乗客はなかなか集まらず,時間だけが過ぎていく。

ようやく人数が集まったのか09時過ぎに車は動き出した。車は街の中の家に立ち寄り,女性と子どもを乗せて出発する。後部座席の男性は彼女の夫であった。なるほど,このやり方だと時間と移動費用の節約になる。

図らずにもここで普通の民家を見学することができた。家屋と塀で囲まれた中庭はとても広く,敷地面積は1500m2はありそうだ。ぶどう棚ではもうじき食べられそうな実がたわわにぶら下がっている。家主の男性がぶどうを一房とってくれた。まだ少し早くて酸味が強い。

タシケントまでの道路は舗装されており,大宇製の1500-1600ccのセダンの乗り心地は快適だ。ウズベクでは大宇製の車が多い。この国にはスターリンの民族政策のため,極東から大勢の朝鮮民族が強制的に移住させられた。

現在も数十万人の朝鮮民族が住んでおり,その多くは母国語教育を受けていないため朝鮮語を話せない。しかし,キムチを始めとする朝鮮食材はバザールで売られているという。僕はいくつかのバザールを回ったが,残念ながらそのような場面には出会うことはできなかった。

朝鮮人が大勢居住しているという関係で韓国企業の大宇がウズベク政府との合弁で自動車会社を立ち上げ,現在では年産20万台を生産している。もっとも,親会社の韓国大宇は2000年に経営危機に陥り,GMに買収されGM大宇となっている。

乗客の男性は道路わきの露店の前で車を止めさせた。街路樹の木陰にメロンが積まれており,男性は熟れ具合を確かめて何個も買った。近くにはメロンを運んできたロバ車が何台も停まっておりいい被写体になってくれる。男性は僕にも1個プレゼントしてくれたがどうやって運べというのだ,困ったものだ。

車は100km近い速度で山道を走る。カムチク峠を越えるあたりでわずかに雪の残る山が見える。2ヶ所のトンネル付近では写真撮影禁止の標識があり,運転手もそれを指差して僕の注意を促す。

12時に昼食となる。立派なドライブインがあり,ここでパン,ケバブ(串焼き)2本,チャーイをいただく。さすがに物価は高く2000ソムであった。設備は近代的であるが,座席は伝統的な大きな寝台プラステーブルのスタイルである。

乗り合いタクシーは僕の要求通りタシケントのコイルック・バザールの近くのBTで降ろしてくれた。料金10,000ソムを運転主に渡し,通常の荷物に加え乗客の男性からいただいたメロンを手で抱えながらバスを探す。

チケット売り場があり,サービル・ラヒーモフ行きのマルシュルートカについてたずねると「10番だよ」と教えてくれた。10番のプレートを表示した車はすぐに見つかった。

サービル・ラヒーモフのバスターミナルからはヒヴァ行きのバスは出ていないので,市内バスで民営の長距離BTまで移動する。バスを降りると500m四方もある空き地に大変な数の車が駐車しており,勝手がまったく分からない。

競馬場の巨大な施設があるだけで,バスターミナルらしい建物はどこにも見えない。そもそもバスがどこにも見当たらない。周りの人に何回か聞いて,見当外れのところを歩き回りようやく場所が分かった。

バスターミナルは競馬場の裏手にあり,現在工事中のバスターミナル関連施設に完全に隠されていた。工事中の施設を通り抜けると巨大なBTが見つかった。

ヒヴァ行きのバスはすぐに見つかった。荷物をバスの荷物室に入れてもらいやっと一息つく。このBTを探すのにずいぶん歩かされて疲れていたのか,BTの写真は一枚も撮っていなかった。

何といってもメロンが重くてジャマなのでバスの助手の少年に頼んで切ってもらった。もちろん,希望者は多くメロンはすぐに片付き,僕の口には一切れしか入らなかった。

タシケント(1010km)→ウルゲンチ 移動

タシケントからヒヴァまでの距離は約1000km,バス代は12,000ソム(10$)なので1$あたり100kmとなる。これはインドのオンボロバス並みの値段だ。16:10にバスは出発した,助手の少年は「到着は翌日の09時だよ」と教えてくれた。

タシケントを離れると道路の周辺は一面の綿花畑となる。これが砂漠の国の風景とはとても信じられない。灌漑方法は畑に何条もの畦をつくりそこに水を流すと言う単純なものだ。横から見ると平行の畦がはるか向こうまで続き,その間に綿花が育っているのが良く分かる。

電車(電化されている)の線路も途中まで道路と平行に走っていた。ソ連時代の鉄道は国境が無かったので,タシケントからアラル海南部のヌクスまでの路線はカザフスタン,ウズベキスタンを通過するようになっていた。

独立後は国内線にもかかわらず,外国人はトランジット・ビザが必要になるという困ったものであった。現在は新しい路線ができてその心配はなくなった。ソ連時代の負の遺産はいろいろなところに現れてくる。

19:30,夕食のためドライブインに停車する。トラックからスイカやメロンを下ろすのを見ていると,先に注文した二人連れの乗客が巨大なサモサを勧めてくれた。さすがに大きく一個で満腹になり二個目には手が出なかった。

バスは冷房が無く検問などで停まると蒸し風呂状態になる。暑さに強い僕でもこれはこたえた。それでもパキスタンのタフタン→クエッタ路線よりは楽な気がする。過去のひどい体験を思い出すとまだ大丈夫という気になる。

02時に停車する。バスが停車するのは毎度のことで,1時間に1回くらいは検問所で停車させられた。そのような場合,乗客は外に出ることができない。今回の停車はちょっと違っていて,乗客は外に出て行く。これは,トイレ休憩に違いないと僕もバスから降りる。

道路は砂漠の中を通っており,明かりが届かないあたりで一列になり用を足す。ムスリムの男性は坐って用を足すことが多いが,ウズベクでは違った。これもソ連時代の文化遺産なのかな。

05:30に反対側の窓から朝日が差し込んでくる。東の空がきれいな茜色に染まっている。道路の周囲は砂漠の風景で,乾燥に強い植物がところどころに小さな群落を作っている。ヤギですらこの植物を食べるのかは疑問だ。

キジルクム(赤い砂漠)に入ったせいか,それとも朝日のせいなのか大地はずいぶん赤っぽく見える。06:30に大きな水路を渡った。幅はゆうに100mはある。周辺の景色はオアシスのものに変わっていく。

日本人はオアシスというと「砂漠の中にぽつんと水が湧き出すところ」というイメージが強い。もちろんそのようなオアシスもある。お隣のトルクメニスタンではキョペトダーク山脈の北麓に点々とオアシスの連なりがあり,古のシルクロードもそこを通っていた。

しかし,現在のオアシスは人工水路により水を確保している地域を含むので,オアシスと呼ばれているものの大半は後者に該当する。

トルクメニスタン南部のオアシス地帯も現在はアムダリアの水を引いたカラクム運河により帯状のオアシスとなっている。カラクム運河はテルメズからカスピ海まで全長1100km,世界最長の運河である。

アムダリアはウズベクとトルクメンの国境地帯を流れアラル海に注いでいるが,16世紀の末までその一部もしくは全部がウズボイ川としてカスピ海に注いでいたという。カラクム運河はそれを復活させたことになる。

ウズボイ川がどのような地点を流れていたかは資料が見つからない。河口がチュルクメンバシュ湾の少し南だという資料を手がかりにgoogle の航空写真で地形をチェックしてみた。

すると,チャルジョウ(現チュルクメナバード)の少し北西あたりから,カラクム砂漠を横断するように白い線の連なりがチュルクメンバシュ湾の南まで続いている。おそらくこれがかっての河床の形跡であろう。

ついでに,ウズベキスタンのホラズム地方をチェックすると,ウルゲンチを中心に大きな緑の地域がある。このあたり一帯ではアムダリアの水を利用して大規模な灌漑農業が行われていることが分かる。

その先にはアムダリアの湿地帯が広がっているが,現在の水事情は不明だ。少なくともアラル海に注ぐ水路のようなものは見つからない。アムダリアはどこかで消滅している。

ウルゲンチ(28km)→ヒヴァ 移動

バスは車掌の少年の言った通り09時に終点に到着した。ただし,行き先表示はヒヴァであったが実際に到着したのはウルゲンチであった。駅からまっすぐ北に向かうアル・ホラズミー通りの東側だったので,地図で自分のいるところが分からず,鉄道駅を探すのに手間取った。

何回か地元の人に聞いても英語が通じず,「ここはどこなの?」という状態である。ようやくアル・ホラズミー通りに出て,ウルゲンチ駅が見えたので自分の場所が分かった。

せっかくウルゲンチに来たのだから駅の二階の休憩室で泊まってみようと考え,駅舎に向かう。しかし,どうも勝手が分からない。休憩室は改札口の外側から入らなければならないようで,駅員に「部屋,ホテル」に相当するロシア語の単語を並べてみてもらちがあかない。

そのうち,英語が多少できる警官がやってきて「インター・ツーリスト・ホテル」と言いながらメモを書いてくれた。彼は「このメモをタクシーの運転手に見せなさい」と言ってくれたが,そこが安宿ではないことは確かだ。

かといって,彼の好意を目の前で無視するわけにもいかないので,少し休憩するふりをして彼がいなくなってから歩き出し,運河の手前の道を左に曲がりヒヴァ行きのトロリーバスに乗る。

田園風景の中をバスはのんびり走り,乗客がいれば停車して乗せる。絵に書いたようにのんびりした田舎のバスである。乗客も地元の人たちばかりでなごやかな挨拶が交わされている。途中で大きな綿花畑を見かけた。この辺りはヒヴァを一通り見たら訪問してみようなどと考える。

ホテル・アタベク

トロリーバスはイチャン・カラ(ヒヴァの内城)の北門にあたるバクチャ門の前に到着した。この日は日曜日だったので城壁の東側では定期市が開かれており,大変なにぎわいである。それを見学しながら,西側の門から城内に入る。

さすがにヒヴァの旧市街は入り組んでおり真っ直ぐな道が無い。階段を上って下ると売店が並んでおり,そこの売り子の女性が「5$でいい宿がありますよ」 とアタベクを紹介してくれた。

アタベクはイスラーム・ホジャのマドラサ近くの民宿であった。民宿とはいえ,この家は大きい。日本的に言うならば4LDKプラス中二階といったところだ。僕の部屋は12畳,2ベッド,エアコンが付いていて,床はじゅうたんが敷いてある。共同のトイレとシャワーもとても清潔で住環境は申し分ない。

料金は2食付で10$,食事は料金には見合うものではなかったが,城内のレストランはとても物価が高いので,この観光の町では仕方がないだろう。

とりあえず,シャワーを浴びて一泊二日のバス移動のほこりを流してさっぱりする。ついでに洗濯をしようとたらいを借りに行ったら,家の人は「自分ですることはないわよ」と言って,お手伝いさんに指示を出す。

自分でできることは自分でやる,それが僕の旅のスタイルなので洗濯を(しかも無料で)してもらうことにとても罪悪感を感じる。夕方に受け取った洗濯物は,僕の雑な洗いとは次元が異なるほどきれいになっていた。

中世の街

ヒヴァのイチャン・カラはほぼ長方形の城壁に囲まれており,南北が750m,東西が400mほどある。東西南北の各方向に一つずつ門があり,それぞれ固有の名前が付けられている。中心部には東西方向の道路沿いに歴史的建造物がところ狭しと並んでいる。

それらのすべてがレンガもしくは日干しレンガでできている。また,南と北の民家も同じようにできているので,高いところから見ると町全体が灰色がかった茶色に見える。

確かに,あまりにもたくさんの建造物が集中しているので一通り見ても何がなにやらという状態である。まあ,全ての建造物を見て回るのではなく,足の向くままに歩いてみることにする。

イチャン・カラの東側にある宿を出ると,手前にイスラーム・ホジャのミナレット,その背後にジャマ・マスジディ(金曜モスク)のミナレットが見える。さらに,東門の方角にもミナレットが見える

まあ,別にガイドブックを作るためではないので,適当に歩いて適当に写真を撮っても何ら問題はない。問題があるとするば,HPで何を見たのか,あるいは何の写真なのか適切に説明できないことだ。

まず,近くの東門に行く。正式名称はパルヴァーン門,その名も「奴隷門」である。ヒヴァ・ハーン国は奴隷貿易の拠点となっていた。特にロシア人は頑健で需要が高かったという。

帝政ロシアは再三にわたり奴隷の解放を要求したがハーンからの返事は梨の礫であった。また,ヒヴァはロシアの隊商を襲い,日常的に略奪を繰り返していた。このことが,ロシアの中央アジア侵攻の一つの理由ともなった。

この東門は他の3方向の門と異なり長い通路になっている。通路の床は平らな自然石を敷き詰めたもので,永年の使用により磨き上げられたようになっている。奴隷はこの通路の凹みのところにつながれて売られていたという。

東西道路(バフラヴァーン・マフムード)を歩く

歴史的建造物に入るにはチケットが必要になる。西門のところに2日間有効のチケット売り場があるので,東西の大通りにあたるパフラヴァーン・マフムード通りを寄り道しながら西に歩く。

チケットは10,000ソム,これに写真撮影量5000が必要となる。邦貨にして1500円はこの世界遺産を見るためにはしかたがないだろう。これでイチャンカラ内のほとんどの歴史的建造物に入ることができる。

マリカ・ヒヴァホテル

西門の外は広い芝生になっており,その向こうにマリカ・ヒヴァホテルがある。外観はほとんどマドラサそっくりだ。

西門(アタ・ダルヴァザ)

西門はイチャンカラの正門であり,この門の中にある案内所で入場料や写真撮影代金を払うようになっている。1920年にヒヴァが赤軍によって占拠されたときに破壊され,1975年に修復された。そのため周辺はレンガの色が新しい。門の右側はなぜか城壁が途切れており,低い塀の向こうにムハンマド・アミン・ハーンのマドラサ(神学校)が見える。

キョフネ・アルクと付属の高台

西門の左側にはキョフネ・アルクと付属の高台が威容を見せている。城壁は垂直ではなく下半分は60度くらいの傾斜をもっている。おそらく,敵の攻撃を防御するにはこの構造のほうが優れているのであろう。

アル・ホレズミの像

西門の右側に見えるムハンマド・アミン・ハーンのマドラサ(神学校)の前には,ヒヴァ出身の数学者で幾何学の基礎を作ったアル・ホレズミの像がある。紙をじっと見つめ何かを考えている表情が印象的だ。

南から見た西門,城壁の感じが良く分かる

ヒヴァ・ホテルの中庭にある半地下構造のチャイハナ

再び門をくぐりムハンマド・アイン・ハーンのマドラサを見学する。ここは改装されてヒヴァ・ホテルになっており,中庭に半地下構造のチャイハナがある。半地下のため意外と涼しく一休みするにはいい所だ。高さ30cmほどの台の上にじゅうたんを敷いた席で紅茶(500ソム)をいただく。

キョフネ・アルク(クフナ・アルク)

キョフネ・アルク17世紀に建設されたハーンの居城である。「古い宮殿」を意味しており,新しくタシュハウリ宮殿が完成したことにより,両者を区別するためにこのように呼ばれるようになった。内部にはモスク,ハーレム,兵器庫,火薬工場,造幣所などがあった。

キョフネ・アルクの扉は凝った装飾が施されている

正門の扉は木造であり,表面には凝ったイスラム紋様が彫り込まれている。

土産物として売られている装飾タイル

ムハンマド・アイン・ハーンのマドラサの建物の前には土産物屋があり,かってはモスクやマドラサを飾った「絵付けタイル」が売られていた。白,明るい青,深い青の3色で比較的単純な模様を描いている。

実際に斜め向かいのキョフネ・アルクで使用されている装飾タイルは大きな絵柄を分割して,正方形のタイルに絵付けして焼き上げたものである。この部分は比較的よく正方形のタイルピースが分かる。

キョフネ・アルクで使用されている装飾タイル

このタイルも絵付け装飾タイルである。このサイズに縮小するとどこがピースかよく分からないけれど,よく見ると水平のラインが分かる。モスクなどの壁面を飾る装飾タイルの歴史は単純な装飾タイル→モザイク・タイル→複雑な絵付け装飾タイルと変化してきている。

素人の推測ではヒヴァでモザイクタイルを見かけないのは,モザイクタイル技法んが伝わらなかったか,単純な装飾タイルから一気に複雑な絵付け装飾タイルが使用されるようになったのであろう。

キョフネ・アルクのキルニッシュハナ

キルニッシュハナは公式の謁見の場であり,ここを飾るタイルは上記のようにすばらしく美しい。二本の飾り柱はテラスの天井を支える構図となっており,ウズベキスタン独特のイーワーン(アイヴァン)構造となっている。

音楽博物館

音楽博物館には往時の楽師の演奏の様子が人形で再現されていた。当時の楽譜も展示してあるが,ヨーロッパの五線譜とはまったく異なっており,音の高低しか読み取れない。各音のところに黒丸が表示されているので,その数が音の長さを表現しているのかもしれない。

古代のシルクロード音楽は胡楽として中国に伝わり,さらに日本の雅楽の土台にもなっている。この博物館にはソ連時代の舞踊団の写真も展示されていた。彼女たちの服装は唐の時代に胡姫と呼ばれていた舞姫の服装とほとんど差が無い。

パフラヴァーン・マフード廟の青色のドーム

音楽博物館の南側は開けた空間になっており,一部は畑になっている。そこからパフラヴァーン・マフード廟の青色のドームに並んでイスラーム・ホジャのミナレットがあるので,まるで廟に付属のミナレットのようにも見える。

日干しレンガ

現在もイチャンカラの修復は続いているようだ。世界遺産となったのでイチャンカラの修復は厳しく制限されている。マドラサ(神学校)のいくつかはホテルになっているが,少なくとも外観は往時の姿を保っている。

家屋の構造

この一画はオアシス都市の家屋の構造がよく分かる。壁はほとんどが日干しレンガであり,天井には木材などで梁を渡し,その上に細い横木を置き,さらに日干しレンガと同じ材料で屋根を造る。

ムハンマド・アミン・ハーン・マドラサ

帽子

この毛皮の円筒形の帽子の起源はコーカサス地域で広く使用されていたのパパーハとされている。ロシア軍に編入されたコサック(カザフ人)がこの帽子を使用していたため,ロシア軍の制式帽のようになっているが,ロシア軍のものは耳当てが付いている。

中央アジアを舞台にした漫画作品の「乙嫁語り」にこの帽子が描かれており,ヒヴァにはロシアの支配以前に起源地から伝わっていたようだ。

スザニ工房

手工芸工房ではスザニ用の刺繍糸を染色するための大鍋や,染め上がった糸の束が展示してある。肝心のスザニは「スザニセンターにおいで下さい」と英語で記されていた。

スザニとは「糸で刺繍をすること」を意味し,17世紀頃から中央アジアの遊牧民がテーブルクロス,ベッドカバーなどの装飾品として作ってきた美しい布地である。スザニは母から娘に代々受け継がれてきたものだ。結婚が決まった娘さんとその母親が,幸せな結婚生活を願いながら一針づつ刺繍して作り上げ,花嫁の持参品となっていたという。

この伝統的な布地はヨーロッパで評判となり,古いものは大変な高値で取引されるようになった。そのため,欧米人の旅行者はことのほか,この布地の工房に興味があるようだ。

イスラーム・ホジャのマドラサ

イスラム・ホージャのミナレットに登る

パフラヴァーン・ナスード廟の南側の路地に入ると,正面にイスラム・ホージャのミナレットの全景が見える。このミナレットはイチャンカラのチケットでは上ることができない。管理人から2000ソムを要求され,交渉の結果,二日券ということでOKを出す。

ミナレットの内部にはらせん状の急な階段があり,ところどころに明かり取りの小さな窓があるだけで,内部は暗い。懐中電灯を持っていなかったので手探り状態で,しかも天井に頭をぶつけないようにするため,中腰の姿勢で上ることになる。下りはもっと大変である。

次の日の早朝にもう一度上ろうと考えていたが,太ももの裏側の筋肉痛がひどくて,断念することになる。ミナレットの最上部からの眺望は2000ソムと筋肉痛を足した価値は十分にある。四方向に鉄格子入りの窓が開いているが360度を見渡せるわけではない。

直下にはおそらく旧市街で唯一の青色のドームをもつパフラヴァーン・マフード廟の全容が見える。その北側には金曜モスクの広い屋根があり,その横からミナレットが立ち上がっている。まるで失礼ながら平屋の工場と煙突の風景だ。

遠くには青いタイルで飾られたカルタ・ミナールやキョフネ・アルクの高台が見える。緑の少ないイチャンカラとは対照的に,その外側には緑の多い新市街が広がっている。

南側は南門の両側に半分風化した城壁が続いている。その向こうはすぐ農地になっており,歩いて見学に行けそうだ。旧市街の内側はほとんど建物に占拠され,灰色がかった茶色の風景となっている。その中で青いタイルを使用したドームやミナレットはよく目立つ。

古いヒヴァの写真

どこかに古いイチャンカランの写真が展示してあった。イスラム・ホージャのミナレットから見た写真と比較しても,ほとんど変わっていないことが分かる。イチャンカラはまさに中世がそのまま残る博物館都市である。

子どもたち

宿の部屋はクーラーがあるため窓が開かないようになっている。そのため昼間の熱気がこもり耐えられない暑さだ。クーラーは嫌いなので扇風機を貸してもらい,気持ちよく眠ることができた。

06時に起きるとまだ家の中は薄暗い。食堂で日記を書いているとお母さんが早くも朝食を運んできた。パン,蜂蜜,ゆで卵,チャーイ,この組み合わせは僕のいつもの朝食とそれほど違いはない。

タシュ・ハウリ宮殿の北側の通りで昨日会った日本人の男性に再会する。今日はメンバーが揃ったのでブハラに移動するという。乗り合いタクシーをチャーターし,4人で55$とのことだ。僕もウルゲンチでブハラ行きのバスの情報を集めておかなければならない。

もっとも彼は腹具合が悪く,今朝も何回もトイレに通っているそうだ。本当に腹具合の悪いときの移動は大変だ。まあ,乗り合いタクシーならば緊急時に止まってもらえるだろう。

一般的にイスラム圏では女性の写真は難しい。しかし,旧ソ連圏ではほとんどそのような制約は感じなかった。きれいなウズベク風の民族衣装の女性にカメラを向けてもほとんど笑顔で応じてくれた。このような文化は旧ソ連時代の遺産の一つであろう。

子どもたちに関してはまったく写真は自由であった。ヒヴァのような観光地では写真を撮られる機会が多いのでけっこう写真慣れしているようだ。ただし,こうして写真を並べてみると直立不動型が多い。

今日のイスラム・ホージャのミナレット

さすがに年に300日は晴天となるというホラズム地域である。今日も青空にイスラム・ホージャのミナレットがきっきりと立ち上がっている。

東門から出る

東門の正式名称はパルヴァーン門,その名も「奴隷門」である。この東門は他の3方向の門と異なり長い通路になっている。昨日はこの通路まで見て,城内に戻ってしまった。東門の外ではたくさんの露店が出ていることは分かっていたが,まずは城内見学を優先してしてしまった。

東門近くの露店

昨日は多くの露店が出ていたのでその写真を撮ろうとしたが,それは日曜日だけのもので,今日はわずかなメロンの露店が出ているだけだ。旅行中に見かけた光景は「一期一会」であり,明日などと考えると残念なことになってしまう。

東門を出て城壁に沿って歩いてみる。今日はメロンの露店だけが開いている。お母さんと一緒に店にいた女の子の写真を撮り,お礼のヨーヨーを作ってあげる。

これでもメロンである

日本ではメロンといえばマスクメロンとなるが,中央アジアではメロンはとても多様である。このスイカのような模様の入ったものも立派なメロンである。その他にも黄色系など色も形も大きさもさまざまなものが売られている。

一休みする

斜めになった城壁の末端のところで一休みしている人がいる。なんとなくいい絵に感じられて一枚撮ることにする。このおじさんと比べることにより城壁の高さが分かる。

ロバ車と城壁の風景

城壁の北東の角にはロバ車が止まっており,こちらは城壁を背景にするといい構図になる。


コーカン   亜細亜の街角   ヒヴァ 2