ファルガナ(フェルガナ)は前漢の時代から中国に大宛国として知られていた。司馬遷の記した「史記大宛列伝」には「大宛国は田を耕し,稲作・麦作が行われ,人々はブドウ酒を醸造し,良馬が多い。大小70余りの城(オアシス集落)があり人口は数十万人,武器は弓と矛で騎射をよくする」と記されている。
大宛国の首都はフェルガナ盆地の北部,ナマンガン市近郊にあったとされ,現在はアフシケントの遺跡として発掘調査が進められている。シル・ダリアの河岸にある遺跡は7-8世紀のものとされており,漢書に記された紀元前2世紀からは1000年近く後世のものである。
紀元前からこの地域にはイラン系定住民族が居住していた。その中にザラフシャン川の流域,ペンジケント,サマルカンド,ブハラを中心とする地域を根拠地とするソグド人がいた。彼らは中国,中央アジア,イランを結ぶシルクロードを行き来して商品や文化を運ぶ国際商人として活躍した。
ソグド人は中央アジアの覇権勢力に巧みに取り入り,紀元前から8世紀にかけてシルクロードの国際商人の座を維持してきた。この時代,ソグド人の根拠地はソグディアナと呼ばれていた。
6世紀に入るとはバイカル湖周辺からチュルク(トルコ)系民族が西に拡散し,中央アジアの草原地帯はチュルク化していく。9世紀に入ると彼らは南下を開始し,パミールの東側のオアシス地帯は急速にチュルク化していった。
一方,パミール西側のオアシス地帯はこれより遅く,10世紀に入りカラ・ハーン朝に滅ぼされると,チュルク系民族は大挙して南下を始め,チュルク化が進行していった。
彼らは先住のイラン系民族と混血し,ウイグル,カザフ,ウズベクなどの民族に変化していく。その中でタジク人はイラン系の血を色濃く残しており,ソグド人に最も近い民族といえる。
ソグド人の多くはゾロアスター教を信じていた。8世紀にこの地に勢力を伸ばしてきたアラブ人によるイスラーム化に反発し,ペンジケントのソグド人は反乱を起こす。アラブ(ウマイア朝)はただちに鎮圧を開始した。
ソグド人はムグ山に立てこもるが多くの住民は殺害された。その後,ペンジケントが再建されることも,ソグド人が国際商人として活躍することもなかった。NHKのシルクロードには民族の興亡の様子が行き生きと語られている。
モンゴルの大波が去り,チムール帝国(1370年-1507年)が最後の輝きを放ったあと,中央アジアはヨーロッパ世界やイスラム世界から隔絶した暗黒の時代を迎える。
19世紀の初頭,「中央アジア」に触手を伸ばしたのは帝政ロシアであった。すでに,インドを支配下に置いていた英国も中央アジアに多大な興味を示していたが,ロシアが地政学的な優位に立つのは明らかである。
当時の中央アジアはコーカンド,ブハラ,ヒヴァのハーン国があり,シルダリアの北はカザフ族,キルギス族が,カラ・クム沙漠には剽悍なトルクメン族が徘徊していた。
18世紀始めにピュートル大帝が目指したインド洋への進出は,ロシア帝国の悲願となっていた。英国がアフガニスタンの内乱に巻き込まれ,身動きが取れない時期に,ロシアは中央アジアに着々と橋頭堡を築いていった。1881年のトルクメンのテケ族の大虐殺をもって,中央アジアはロシアの統治下に入った。
18世紀半ばにはコーカンはコーカンド・ハーン国の都になり,ロシアと清朝の貿易の中継拠点として発展したした。19世紀の前半には町の有力者が寄進したモスクやマドラサが300もあったという。
1876年にコーカンド・ハーン国はロシアに併合され,政治の中心地はファルガナに移った。ロシア革命以後はソビエトの方針に沿わないムスリム自治体の中核地となったため,1918年に赤軍の侵攻を受け,町は壊滅,住民の1/5は殺害された。
マルクス・レーニン主義の軍隊も戦闘においては,モンゴルやチムールの時代となんら変わるところはない。現在のコーカンには19世紀前半の面影はほとんどない。しかし,コーカンは現在でもイスラムの伝統が根強く残っており,イスラム復興運動も盛んである。
アンディジャン(130km)→コーカン 移動
Jさんと一緒に宿の前の広場を横切り通りで33番のマルシュルートカをつかまえ,バスターミナルに向かう。この運転手はなぜか料金を受け取ろうとはしない。「外国人なのでサービスしてあげよう」といったところかな。
バスはすぐに発車した。コーカンまでは約3時間,その間はファルガナらしい畑の風景がずっと続いていた。道路わきのポプラ並木がおもしろい風景を見せてくれているのであわててカメラを取り出す。
ホテル・ファズ
コーカンの長距離BTはバザールのすぐとなりにある。そしてその斜め向かいにホテル・ファズがある。ガイドブックには「表示等は一切なし,ソ連崩壊以来一度も改装されていないという噂があるが多分事実」と記載されているので,それに引かれて覗いてみた。
部屋は12畳,4ベッド,トイレは共同,大きな机があり泊まる分にはさしたる問題はない。トイレの状態は悲惨であるが,中国を経験している僕には十分使用可である。料金は一人2000ソム(200円)と格安である。さすがに暖房などのいろんな設備は動きそうもないので,冬場に泊まるのはとても大変だろう。
この宿は立地条件がとてもよい。隣にはハマムがあり,蒸し風呂ではなく普通の風呂が楽しめる。向かいはバザール,近くには食堂もあり,観光以外は宿の100m圏でなんでもある。
ガイドブックにあるホテル・コーカンは町の北西にあるので,そちらに宿泊していたらこの町の散策内容はまったく別のものになったことだろう。旅は本当に偶然の積み重ねであり,同じ景色や人には二度と会うことは無いだろう。一期一会の気持ちと一定の緊張感を持ち続けることが大切だ。
この老朽化した宿の一部は表の露店の人々が倉庫として使用しており,夕方,遅い時間になると商品が運び込まれてくる。難点は寝苦しいことだ。蒸し暑さとかゆみのために良く寝られない。だぶん蚊だろうと思うけれど,耳をすませても羽音がしない。部屋を暗くするととたんにかゆみに襲われ,虫刺され用の薬を塗る。虫除けの薬はほとんど役に立たない。下半身防御のためトレーナーをはいて寝る。
ハマムと夕食
夕食前にハマムに行く。パスポートと現金はちゃんと持っていくことにしよう。管理人に料金を払うと個室の鍵を開けてくれた。中は脱衣場,洗い場に分かれており,バスタブにはお湯が入っている。ちょっとぬるいけれど,久しぶりのお風呂は極楽である。
二人とも交代で浴槽にはいっては「極楽,極楽」とやっていた。このハマムには蒸し風呂はなく浴槽だけである。また,営業時間(19時まで)の終了間際になるとお湯が無くなってしまうので要注意だ。
極楽気分の後は夕食となる。宿の南側にチャイハナがあり,おいしそうな串焼きの匂いに引き寄せられる。牛肉とレバーの串焼き,パン,チャーイの組みあわせで1300ソムである。牛肉とレバーはどちらもおいしい。パンも適度に歯ごたえがあり味も悪くない。
毎日,このようなものが食べられるなら言うことはない。ここのおじさんはとても仕事がていねいでサービスが良い。食事が終わり,しばらく話をしているとメロンが出てきた。おじさん,本当にありがとう。
03時頃に表をほうきで掃く音がする,肉声のアザーンも聞こえてくる,ようやく眠れたなと思ったらもう朝だ。ファズの部屋は半分が倉庫,半分が居住用になっており,ホテルとして使用されているのは2部屋しかないようだ。
朝食は自炊,Jさんがマグカップと電熱棒を持っているので茹で卵を作る。電気棒は旅行者が勝手に付けた名称で,先端部はコイル状になっており内部にヒーターが入っている。この器具を水に浸け,プラグをコンセントに差し込むとお湯が沸く。ただし,感電に注意が必要だ。
僕は今までほとんど旅行中に自炊をしたことが無いので,そのような道具は持っていない。確かに,マグカップと電気棒があれば自炊の範囲が広がる。宿の表にはたくさんの露店が並んでおり,両者があるので購入した。
マグカップ(2300ソム)は中国製の巨大なものだ。中国ではこのカップにごはんを入れ,その上におかずを乗せて食べる。電熱棒(800ソム)はウクライナ製で,ホーローのマグカップに入れて,カップに触れても感電することはなかった。
ヒーターが絶縁されているのか,マグカップのホーローが絶縁体となっているのかは分からない。ヒーターの金属部分に直に触れる実験はやらなかった。このセットを使ってその後はスープやインスタントラーメンを食べることができた。
ということで,今日の朝食は厚いパン,蜂蜜,ゆで卵,トマト,キューリの豪華版になった。僕の持っていたお皿はこんなとき役に立つ。パンは昨日の夕方に買ったもので,ビニール袋に入れて密封しておくと十分軟らかい。
チャイハナの風景
宿はフルカット通りに面しており北にまっすぐ2kmほど行くと「ナルポタ・ピイのマドラサ」に出る。その前に,少し南にある小さなバザールに寄ってみる。トタン屋根の大きな半露天のチャイハナがある。
通常,チャイハナの席といえば寝台の上にじゅうたんを敷き,たたみのように坐るスタイルであるが,この町ではソ連時代の影響なのかイスとテーブルの組み合わせが多いようだ。もちろん,伝統的な寝台も健在である。
「チャイハナ」はペルシャ語に起源を持ち,チャイはお茶,ハナ(ハネ,ハーネ)は名詞に付く接尾語で「〜館」,「〜家」を表す。したがって,チャイハナは喫茶店ということになるが茶店といった方がイメージが合うかもしれない。
中世にはペルシャ語が中央・西アジアの国際語となっていたので,チュルク系の言語(トルコ語,ウズベク語,ウイグル語など)でも同じチャイハナが使用されている。
もっとも,ヨーロッパのカフェの原型となったのはイスタンブールの喫茶店であり,こちらはコーヒー屋だったので,「カフウェ・ハーネ」と呼ばれていた。カウフェはアラビア語のコーヒーなので,「カフウェ・ハーネ」は2つの言語が混ざった表現となっている。
僕も自分の旅行記の中で「チャイハナ」と「チャイハネ」が混在する事態となっており,世の中のHPではどうなっているのかgoogle で検索してみた。すると,ほぼ同数の件数が出てきたので,この二つの表現は同じ程度に使用されていることが分かった。
ご当地のパンは直径30cm,厚さ5cm
パン屋の店先も客が多い。ご当地のパンは直径30cm,厚さ5cmほどもあり,1枚食べると十分お腹がいっぱいになる。焼きたては軟らかく,ビニール袋に入れておくと,翌日でも風味は落ちない。それを忘れて部屋に放置すると次の日には固くなり,あまり食べる気がしなくなる。値段は100ソム(10円)か200ソム程度だったと記憶している。
おばさんたちがお菓子を売っていた
ここのおばさんたちはとても写真好きだ。お菓子のお礼というわけではないが,一枚撮って画像を見せてあげると,僕の手からカメラを取り上げ,周りのおばさんたちに見せている。イスラム圏にありながら60年間のソ連時代を経験しているので,女性の写真もほとんど問題にならないようだ。
二階がショーウインドー
花嫁の婚礼衣装が二階のショーウインドウに飾ってあった。白とピンクのウエディングドレスであり,保守的なファルガナでもこのような婚礼衣装があるんだなあと少し驚く。子ども時代は洋装,婚礼衣装も洋装,そして結婚後は伝統衣装と女性の服は変わっていく。
公園にあるレリーフ,横幅が10mほどある
ロータリーの北側にはフルカット公園があり,そのまま歩いていくと立派な建物のハムザ記念劇場・博物館に出る。ハムザはソ連時代初期の劇作家で,革命とソビエトの進める社会の世俗化,非イスラーム化を積極的に支持した。ソビエト体制では賞賛されたものの地域の裏切り者として殺害された。
感じのよいチャイハナ
ナヴァーイ通りとの交差点は大きなロータリーになっており,角地に感じのよいチャイハナがある。年代ものの建物の張り出した庇は凝った彫刻の施された柱で支えられており,天井部分は彩色されている。コーカンド・ハーン国時代の豪邸かモスクのように見える。
建物の周囲には寝台が並べられ,男性がお茶とおしゃべりを楽しんでいる。ここにはテーブルは無く,お茶は寝台の上に置くスタイルだ。スタイルは地域によって若干異なるが,中央アジアではチャイハナがたくさんあり,のんびりとした時間の流れを彼らと共有することができる。
金曜モスクは博物館になっていた
近くにある金曜モスクは博物館になっており,入場料1200ソムを要求された。たかだか120円程度ではあるがモスクに入場料を払うのは嫌なので中庭をちらっと見ただけで出てきてしまった。
この金曜モスクの建物はイランの形式をとっている。入口にはイーワーン(アーチ型の入口を四角く枠取りした壁で囲んだ門)があり,その背後にドームがしつらえてある。
ぶどう棚が歩道にせり出している
通りに面した家からぶどう棚が歩道にせり出して,日除けとなっている。見上げるとそろそろ茶色に色付き始めたぶどうがたわわにぶら下がっている。近くには青色のマスカットの木もある。こんなぶどう棚の下でお茶を飲むのは最高の贅沢なのだが・・・
マドラサの手前の広場ではメロンが売られている
ナルポタ・ピイのマドラサの手前には小さな広場があり,メロンが売られている。メロンは乗用車で運ばれてくるのか,トランクルームや座席にもメロンが積み込まれている。
男の子の写真を撮ってあげたら,父親が売り物のメロンを切ってくれた。すばらしい甘さとおいしさだ。暑い気候のせいもあるだろうが,日本ではこれほどの感激は味わえない。彼らはメロンの食べごろを実によく知っている。
お礼にヨーヨーを作ってあげると,大人も子どもも集まってきて今日もヨーヨー屋は大繁盛だ。その場の子どもたちが一巡すると,大人も「俺の家にはこのくらいの子どもがいるんだ」と言って要求する。
マドラサ(イスラム神学校)
マドラサの入口で英語を話す男性が現れ,丁寧な態度で内部を案内してくれた。中庭には大勢の少年がコーランを音読している。コーランはアラビア語で記されており,イスラームの学習はそれを音読することから始まる。意味が分からなくてもひたすら声を出して読み暗記する。
中庭の中心には大きな桑の木が枝を広げており,その木陰が勉強の一等地のようだ。とはいえ,遊びざかりの少年たちは外国人がやってくると,もの珍しそうに集まってくる。
さすがに宗教学校の内部なので写真は大人に見つからないようにすばやく撮る。白いイスラーム帽をかぶった少年たちが印象に残った。
ムスリムの墓地
マドラサの隣にはムスリムの墓地があり,案内の男性は鍵を開けて案内してくれた。広い墓地には一面にお墓が並んでいる。大半のものは上が少しとがった半円の断面をもち横長である。一つ一つのお墓が大きいのでそれなりの敷地面積が必要になる。
最後の審判(注参照)が教義に書かれているイスラム教にとっては遺骸を損なうことなく安置する墓は重要な意味をもつ。そのため,イスラーム圏では火葬の習慣はなく,遺体は丁重に葬られる。
この墓地では古いものはレンガ造り,新しいものはコンクリートを使用している。何ヶ所かに青色のドームをもった建物があり,それらはコーカンド・ハーン国の王族や有力者のものである。アーチ型の入口は青を基調とするモザイクタイルで飾られており,素朴な味わいがある。
注)最後の審判とは世界の終末にアラーが下す審判である。アラーは全ての死者を甦えらせ,生前の全ての行為の記録を読み上げて審判を下す。いかなる善行も見落とされることはなく,どのような悪行も見逃されることはない。人々はそれぞれの善行,悪行により天国と地獄に振り分けられる。
案内の男性は墓地を出るときにバクシーシを要求した。僕はこのような場所でガイドを雇うことはないし,自称ガイドにもお金を出すこともしない。しかし,今日のガイドはけっこう良かったので奮発して1000ソムを渡した。
中庭から銀色のドームが見えたので,裏手に回ってみる。横から見るとイワーンの背後にあるドームのようだ。裏側も刑務所の壁のように立派なレンガ造りの塀で囲まれている。その向こうにムスリム墓地の第二の入口がある。こちらは鍵がかかっていないので出入り自由である。
デフカン・バザール
宿の前の大きなバザールは「デフカン・バザール」というらしい。商品ごとに区画が決まっており,入口近くにはスイカ,メロン,カボチャなどの大物が並んでいる。
スイカの外観は日本と同じ,メロンはハミ瓜を含めて種類はとても多い。薄茶色もしくは黄色味がかったオレンジ色のものはほぼ丸型,ほとんど灰色に見えるものはラグビーボール型,いずれもスイカのように縦の筋模様が入っている。
スイカなどは日本では最大級のものがゴロゴロしており,ファルガナの気候はメロン・スイカには非常に適しているようだ。ここでも写真は大歓迎された。スイカ売り場では若者たちがスイカを抱えてポーズをとってくれたし,メロン売り場のおばさんたちも笑顔で写真におさまってくれた。
朝食の食材を買う
奥の野菜,果物売り場でもおばさんたちの歓迎を受けた。ここの売り手はほとんどがおばさんたちだ。大きなトマトは4個で200ソム,リンゴは0.5kgで800ソムである。これで明日の朝食の材料もそろった。
タマネギの山
タマネギは中央アジアではもっとも重要な野菜の一つだ。建物の裏手に山のように積まれている。女性たちが選別をしており,らっきょうのように小さなものも一山できている。日本ではまったく商品にならないものだが,ここではちゃんと売り物になる。それにしてもこの大量のタマネギは何日分の商品なのだろう。
トラックの荷台でジャガイモを売る
ジャガイモも山積みになっている。7月はあらゆる野菜の収穫時期なのだろうか。中2階の荷台でジャガイモを売っている一家にカメラを向けたらにこやかに応じてくれた。一枚撮り終えてると少年が荷台に上がり,「僕も一緒に撮ってよ」と注文が来る。
穀物も扱われていた
近くの建物では穀物が売られていた。コメは1500ソム/kg と中央アジアの水準からすると高い。もしかしたらKg あたりの値段ではないのかもしれない。
ゴマ
珍しいところではゴマがある。白いものと黒いものが混ざっており,ここでは両者は識別されていないようだ。クルグスでは丸い大きなパンの表面にまぶしてあり,なかなか香ばしくておいしかった。
緑豆
緑豆もある。日本ではモヤシの材料として輸入されているが,本体はめったにお目にかからない。中央アジアではスープなどに入れて利用される。また,中国では日本の小豆のように餡を作るのにも使用されていた。
スカーフを被ってウズベキスタンらしい雰囲気の女性を撮ったら,もう一人の女性から「私も撮ってよ」と声がかかり,2枚撮ることになった。
ファルガナ経由でクヴァに向かう
昨夜も蚊(と思われる)の攻撃がひどくてなかなか寝付かれなかった。夜中に何回も虫刺され薬を塗ることなり,睡眠の質はひどく悪い。ここの虫に刺されるとかゆみが長い間断続的に残るのでやっかいだ。ダニや南京虫のように跡が残るわけではない。Jさんと二人で寝返りを打つので,ベッドのきしむ音もうるさい。
今日,Jさんはタジキスタンに向かい,僕はもう一泊してクヴァの仏教遺跡へ行くつもりだ。09時に二人で宿を出てすぐ前のバスターミナルに行く。タジクの国境行きのバスはすぐに見つかり,Jさんと再会を約し,メールアドレスを交換して別れる。
クヴァはマルギランとアンディジャンの間にあるのでかなり行程的には損をすることになる。マルギランに宿泊できなかったことが痛手になっている。僕はアンディジャン行きのバスがマルギランかクヴァを通るとふんでいたが大間違い。バスは南にゆるやかな弧を描く昔からの道ではなく,コーカンとアンディジャンをほぼ一直線に結ぶ新しい道路を通るという。
仕方が無いので,まずファルガナ市に出てそこからクヴァに移動することにする。バスはないのでマルシュルートカ(1500ソム)でファルガナ市に行く。水に恵まれたファルガナ盆地はずっと畑の風景が続く。来るとき,ジャガイモかなと思っていた作物は綿花であった。写真にしたかったがその機会はなかった。
車はバザールの近くに止まった。ロシア語でバスターミナルを意味する「アフタヴァグザール」と訊ねると,バザールの向こう側だと教えてくれた。中央アジアを旅行するためには,バス,バスターミナル,宿,などの必須単語は覚えなければならない。年とともに記憶力が減退しており,これはつらい。
バザールにはたくさんの警官がおり,なるべく視線が合わないようにして,足早に通り過ぎる。旅人の間ではクルグスとウズベクの警官の評価はひどく悪いからだ。ファルガナの町はロシアの造った計画都市なので緑が多く,他のファルガナ盆地の町と雰囲気が異なる。
クヴァのバザールにて
バスターミナルからクヴァ行きのバス(300ソム)に乗り,13時にようやく到着した。近くにチャイハナスタイルで食事のできるところがあったのでマントゥ3個とチャーイをいただく。マントゥの個数は客が任意に指示できるのはありがたい。となりのテーブルのおばさんたちは平均6個は食べており,その差は彼我の体重差になっている。
このバザールでは乾燥チーズが売られていた。色と大きさ,重さはゴルフボールくらいのものだ。チーズは優れた栄養食品であるが移動を繰り返す遊牧民はより持ち運びを楽にするため乾燥チーズを作りだした。
仏教遺跡はBTから歩いて5分のところにある
目的の仏教遺跡はBTから歩いて5分のところにある。道路の右側に立派な城壁がと天蓋をもった巨大なアル・ファルガーニ像が見える。アル・ファルガーニとはいかなる人物かと調べてみたが,まったく手がかりはつかめなかった。そして,なぜこの像が4-7世紀の仏教遺跡に建てられているかも分からない。
遺跡を屋根で覆う計画があるのかカマボコ型の屋根の骨格だけができている。その下には日干しレンガか泥でできた壁のような構造が残っているだけで,往時にどのような建造物があったのか推測することもできない。
遺跡の状態に比べるとレンガ造りの城壁はあまりにも立派で,修復(復元)というよりは新築というような気がしてならない。ほとんど見る価値の無いものなので早々にコーカンに戻った。なにかとても損をした気分だ。
バスターミナルにて
コーカンのBTに戻ると,地面に敷物を敷いて坐っている男性のグループに声をかけられた。一人がスイカを買ってきて切り出す。僕も3切れをいただくことになる。そのうちの一人が僕のカメラをえらく気に入ったようで売ってくれと言い出す。200ソムが100枚の束を3個(6万ソム=6000円)出されてたが,即座にお断りした。