雷山(レイシャン) (地域地図を開く)
凱里から南に44kmのところにある大きな町。周囲を山に囲まれており,どちらの方向に歩いてもじきに山になる。町の中心部を川が流れ,その両側に市街地が広がっている。
新しい建物が多く,比較的最近,現代化されたようだ。町自体には見どころがないが,周辺には郎徳,大塘,桃江などの村があり,苗族の伝統的な暮らしを見るには適している。
凱里から南に44kmのところにある大きな町。周囲を山に囲まれており,どちらの方向に歩いてもじきに山になる。町の中心部を川が流れ,その両側に市街地が広がっている。
新しい建物が多く,比較的最近,現代化されたようだ。町自体には見どころがないが,周辺には郎徳,大塘,桃江などの村があり,苗族の伝統的な暮らしを見るには適している。
榕江(08:40)→平永(09:18)→塔石(10:37)→永東(10:52)→桃江(11:25)→大塘(12:06)→雷山(12:30)→凱里(13:20)(13:40)→南花(14:20)→郎徳(14:34)→雷山(14:55)とバスを乗り継いで移動する。
榕江の宿には外カギが無いので,メインザックに南京錠を付けて市場に向かう。さすがに市場の朝は早く,食べ物屋も営業している。昨日,食べられなかったスイトンを注文する。本体は白玉団子かと思いきや餃子の具が入っている。スープを含めとてもいい味だ。
荷物をまとめて外に出ると小雨である。バスが出発する頃には大雨になっていた。08:40発のミニバスは35元,2段階料金の安いほうである。平永まではずっと川沿いの道を進む。川の風景は悪くないのに何故か気分がすぐれない。バスに酔った...まさか,そんなことが。幸いしばらくして回復する。
塔石,永楽のあたりには古い家屋が集落を作っておりいい雰囲気だ。永楽を過ぎると雷山の山越えになる。500mから30分ほどで1000mを越えるようになる。
標高が上がると棚田を下に見ることができるようになるので,畦の曲線がよく見えるようになる。11:15から12:05の間に何ヶ所かのビューポイントを通過した。地名が分かっているのは桃江だけなので,ここはゆっくり歩いて見ようなどと考える。
しかし,ちょっとうとうとした間に雷山を通過してしまったらしい。どうもおかしいと思ったときは凱里までの半分くらいまで来てしまった。チケットを買うとき,車掌には雷山で降ろしてくれと言っておいたのに,文句を言っても知らん顔である。さすがに頭にきた。
凱里の汽車站に着いたとき交通公安に行こうと腕をつかんで引っ張るが,彼にも言い分があるらしい。車掌とバスの写真を撮って窓口に行こうとすると,彼は雷山行きの無料のチケットを手配してくれた。
これで一件落着となり握手をしてバスに乗り込む。凱里→雷山のルートだと村の名前が表示されている標識が見える。旅行者のために村毎に標識を出しておいてくれたらずいぶん助かるのに。
雷山は大きな町だ,立派な汽車站もある。しかし,宿は招待所レベルのものしか見かけなかった。幸い汽車站の上に交通招待所がある。建物の裏側はバスが発着するための駐車場になっており,そこに面して招待所に通じる階段がある。
階段を上ると値班室(スタッフルーム)があり,部屋に案内される。部屋は8畳,2ベッド,T/HS付き,TVと机もあり十分清潔である。これで20元なのでお勧めの宿だ。
雷山の町は南東から北西に流れる川の両側に広がっている。西側がメインのようだが少し歩くともう山になる。その手前に「雷山県丹江小学校」がある。
貴州省は少数民族の子女教育に力を入れており,この小学校もとても立派だ。ある町では「子どもを9年間学校に通わせない親は犯罪者だ」という過激なスローガンを見かけた。
ちょうど帰宅時間で子どもたちが学校の門から出てくる。特に警備員もいないので中に入る。低学年の教室に生徒が残っている。なぜか,先生もいないので開いている戸口から写真を撮る。
窓が大きいのでフラッシュ無しでも何とか撮影可能だ。8割くらいの生徒がカメラ目線になっている。学校の先は一面の棚田になっているが雑草が多いのでちゃんと維持されていないのかもしれない。
昨夜は灯りを消すと蛍光灯がかすかな頼りない光で点滅する。蛍光体の残留光ではなく,その状態がずっと続いていた。不思議な現象だ。寝るときは暑かったのに,明け方には涼しくなる。着るものと毛布の取り合わせが難しい。
外に出ると子どもたちが学校に向かっているので一緒に歩く。学校の近くの駄菓子屋と食べ物屋は子どもたちでにぎわっている。
学校の時間帯は08:00-12:00および14:30-16:00(17:00)らしい。校舎の周りには子どもたちがたくさんおり,ちょうど良い被写体になってくれる。この学校には1-6年生に加え,学前班が4クラスある。日本でいうと幼稚園に相当する年齢であるがちゃんと社会や算数の授業がある。
1クラスは72名の大世帯である。学前班の子どもたちにずいぶんなつかれたけれど予鈴には勝てず,汽車站に戻り向かいの食堂で米線の朝食をとる。事前に「不要棘」とお願いしておいたので辛味は抑えられたが,豚の脂身を炒めたものがしつこくて閉口した。
汽車站からはバスと軽車両のワゴンが出ている。郎徳,桃江,永東といった近距離はワゴンの方が便利だ。しかし,ワゴンは乗客がそろわないと発車しない。結局,郎徳には凱里行きのバスに乗り途中下車した。
川沿いの下りの道をおよそ30分,近代的なアーチ橋の上にある風雨橋が見えたらその先である。標高は800m,幹線道路沿いにはコンクリートの建物が並び,支流の斜面の上には木造家屋の集落がある。このあたりが郎徳の村である。
ここから幹線道路を離れ,川沿いの舗装された道を1kmほど歩くと,斜面に階段状に密集している郎徳上塞が見える。ここは苗族の人々の村である。正面に集落,その下を川が流れ,その対岸は棚田になっている。斜面にあるため集落全体が見え,絵になる。
道路は観光用の新しい風雨橋まで続いている。この橋もコンクリートのアーチ橋の上に木造の屋根を乗せた造りになっている。観光用ではあるが対岸の農地に通じる実用的な役割も担っている。
集落の家屋は木造の2階もしくは3階建てで,板壁そして瓦屋根になっている。風雨橋の向こうは石灰岩の山になっており,川との間のわずかな平地は水田になっている。
風雨橋から見ると僕の歩いてきた道路の谷側はきれいな石積みでできていることが分かる。トン族の人々が木造建築に非凡な才能を発揮しているように,苗族の人々は石積みに優れた民族のようだ。
その道路を2台の観光バスがやってくる。バスは途中で止まりヨーロピアンの団体客が村の入口に向かっている。何かイベントが見られるかもしれないと期待しながら,僕も彼らの後を追う。
村に上る道は自然石を利用した石段になっている。大小の平たい石を敷いてみごとな石段に仕上げている。石段の上には楕円形の石(卵石)を敷き詰めた広場がある。敷き詰めた石は広場の中心から同心円を描くように配置されている。これだけでも立派な観光資源になっている。
広場から上に向かう道も楕円形の石と平たい石の組み合わせにより感じの良い石畳になっている。村の家屋は石をたくみに積み上げて斜面に平地を造り,家を建てている。「郎徳上塞民族招待所」という看板も見えるので宿泊も可能のようだ。
ヨーロピアンの一行がこの広場に到着すると土産物を手にしたおばさんたちが一斉に売り込みに来る。お土産などにはそれほど興味の無い僕は少し離れた階段の上からこの様子を撮影する。
そのうち銀の頭飾りと胸飾り,民族衣装の女性が現れたので近くから撮らせてもらう。周辺の観光客がジャマだ。ようやく撮影用のポーズを決めてくれたので満足のいく写真になる。水牛の角の形をした銀の頭飾りは初めて見たが,大変なものだ。これらの銀飾りは女性の財産として母から娘へと受け継がれるという。
その一方で昔ながらの農業も続いているようだ。家の軒先には昨年収穫されたトウモロコシがたくさん吊るされている。大事に扱われているのでこれが今年の種子になるのかもしれない。団体客が去った広場に戻ると,見事な石の紋様だけが残っている。
広場の中央には柱が1本立てられており,そこには階段のように刃を上にした刀が取り付けてある。これは若者の度胸試しのためのもので,祭りになると若者は裸足でこの刀を上っていく。村は観光化が進んでおり,土産物屋ができている。
軽車両のワゴン車で雷山に戻り,汽車站で桃江行きのものを探してみた。乗客がいない時間帯なのか,運転手はカード遊びをしており動き出す気配は無い。宿で頭を洗うことにする。意外にもホットシャワーである。髪が乾くまで一休みをして小学校に向かう。
校舎の回りには学前班か低学年の子どもたちが遊んでいる。この年齢だと写真は容易だ。何人かのかわいいモデルにめぐり合い,授業が始まるついでに学前班の教室に案内してもらう。広い教室にたくさんの子どもたちが席に着いている。
机の数を数えたら72もある。このクラスを1人の女性の先生が受け持っているのだから大変だ。しかし,日本で報じられる学級崩壊のような現象はまったく見られない。子どもたちはちゃんと席に着いて教科書を読んでいる。
校舎の横では低学年の子どもたちが体育の授業を受けている。整列して先生の話を聞いてから縄跳びとバトミントンが始まる。クラスの人数が多いので,ここから先は放置状態だ。
適当なグループにモデルになってもらう。かわいいモデル8人の集合写真ができる。バトミントンにも少し付き合ってあげた。中には上手な子がおり,離してくれない。
小学校の北および西側にはもう山が迫っている。北に向かう道を歩いて棚田の風景を見に行く。小さな山の多くは棚田になっているが意外に緑が多い。水田にはだいぶ水が入っている。斜面の上に集落が見える。下の田んぼの畦はしっかりしており自由に歩けるようにようになっている。
小川を渡る橋は工事中である。小川とは不釣合いに大きな半円状のアーチ橋が造られている。木組みで支えをつくり,その上にコンクリートを流している。この部分は道路よりずいぶん高くなっているので,その間は石を積んでスロープを造っている。
すぐ手前にはバイクくらいなら渡れる道路面と高さのそろったアーチ橋がある。やはり,トラクターや車の通れる橋が必要な時代になっているようだ。右の方に谷が伸びており,一段,一段と高くなる棚田になっている。雄大な棚田の景色もいいが,このようななにげない風景にこころが和む。
集落の一番手前の家に着いたのを見計らうように雨が降り出した。あわてて家の軒先に避難する。雨はどんどん強くなり土砂降りの雷雨になる。カメラはザックの中に入れる。稲妻が光り,雷鳴がとどろく。少し巾が広いとはいえ軒先にも雨が吹き込んでくるので家の横に移る。
道路わきの小さな排水溝は水が溢れんばかりだ。村人の一人が排水溝の土手を削り,この水を下の水田に流している。僕の避難している間に水田は十分に水に浸かるようになった。雨宿りは1時間半も続いた。ようやく小ぶりになったので学校に避難しようとしたら再び雨が降り出す。かなり濡れた状態で学校に到着する。
9時を過ぎていた。日記を書き終えた頃,窓の下で大音量の音楽が流れる。窓から覗くと大道芸人が芸を披露しており,回りにはギャラリーが集まっている。階下に下りちょっと見させてもらう。
手品と体を使ったパフォーマンスである。机を積み上げバランスをとる演技はなかなかのものだ。彼らの目的は宗教的な像の販売である。一人がうやうやしく祈りを捧げてから商品を取り出すと,観客は我先にと買い求めている。
早朝6時頃雷雨があり,7時に登校する子どもたちはカサをさしている。07:30に雨は上がり軽ワゴンで桃江に向かう。榕江から雷山に移動したとき,このあたりですばらしい棚田の景色が見えたののが桃江行きの理由だ。雷山越えは雲のためほとんど何も見えない。それでも桃江に着いた頃は薄日が射すようになる。
桃江は幹線道路沿いの小さな町である。道路沿いにコンクリート製の建物が並んでいる。片側は50mくらいの谷になっており,対岸の山は一面の棚田になっている。山側は木造家屋の集落があり,周囲は棚田になっている。
永東方面に少し歩き,谷を挟んだ対岸の斜面に広がる棚田の写真を撮る。空気中の水分が多いので少し遠くの景色はかすんでしまう。町の背後から雷山側も棚田になっている。こちらの方は下から見上げる形になるので,斜面の水平線が見えるだけだ。
町に戻り道路から20mほど下がったところにある小学校を訪問する。コンクリート製,3階建ての校舎だ。1年生が外にでいたので校舎の横の石段に坐ってもらい集合写真を撮る。最初は10人,次は17人に増える。
授業開始のベルが鳴り子どもたちは教室に入る。1クラスは50人くらいの学級になっている。先生が来る前に教室の写真も撮っておく。2年生の教室では全員が大きな声で何かを復唱している。数学の時間だったので数え方もしくは掛け算九九かもしれない。
掲示板に「女子児童学資補助」の張り紙がある。受資単位は「桃江完全小学」となっており,その上には「桃江郷寄宿制民族小学」の文字も見える。このリストには学資補助を受けた児童の名前が記されている。班級3(3年生)となっているが,年齢は9才から14才までの幅がある。
民族名はすべて苗(ミャオ)族となっている。40名の名前が並んでいるが,子どもたちの姓は李,楊,余,任,金,王の6種類だけしかない。家長の姓名も表示されており,照合してみるとほとんどの子どもは父親の姓を受け継いでいる。
下の斜面の棚田にはすでに水が入っている。去年の稲の切り株がそのまま見えるのでまだ荒起しも済んでいないところも多い。棚田が近すぎていい写真にはならない。斜面の上部は畑になっており,アブラナやキャベツが植えられている。
町の雷山側にある棚田の斜面を登る。砂利道がループになって上に続いている。ここでも素晴らしい石積みの技術が生かされている。幹線道路が下になると棚田の曲線が少しずつ見えてくる。斜面を支える石垣は砕いた石をそのまま積み上げたもので,セメントは使用されていない。
小さな沢があり,そこから流れる水も樋を使ってきちんと水田に利用できるようにしている。眼下に桃江の村が見える。棚田の中にある異物のようだ。
棚田の最上部には集落がある。棚田と同じように平らな土地を造り,そこに家が並んでいる。水田の代わりに家が建っていると思えばよい。集落の中は自然石を並べた石段になっている。ここの苗族は石の民である。
家の前で子どもたちが顔を覗かせている。僕を見るとすぐに中に隠れてしまう。中に入ると昼食の支度をしている。計らずしもここで昼食をいただくことになった。鍋の中にはニラに似た菜っ葉と豚肉がはいっている。
この家では昨年の苗年(ミャオ正月)の写真を見せてもらった。民族服に銀飾りの盛装の少女たちが70人ほど一緒に写っている。2005年の苗年は11月15日の日付になっていた。
帰りに自宅で昼食をとるため集落に戻る子どもたちに出会った。一部の子どもを除き,彼らは写真に対してシャイで,足早に僕の前を通り過ぎていく。
学校に戻ると給食室のカウンターでは子どもたちがホーロー引きのカップを持って並んでいる。直径20cmほどのアルミのカップを持っている子どもも多い。
大きなカップにはごはんを,小さなカップには菜っ葉の汁が入れられる。低学年の子どもたちもどんぶり2杯くらいの分量のごはんを食べる。その食べっぷりはすごい。
昔の日本もこんな食事風景だった。しかしいつの間にか食事の主役はごはんからおかずに変わってしまった。日本の一人当たりコメ消費量は1962年度の118kgをピークに減り続け,現在では60kgにまで落ち込んでいる。その代わり輸入品の麦や酪農製品,肉類の消費が増えている。
酪農製品や肉類の元になる飼料のほとんどは輸入に頼っているため,日本のカロリーベースの食料自給率は40%程度にまで落ちている。政府は自給率を上げようとしているが,日本の農家はほとんどが高齢化した超小規模農家であり,国際的な競争力はとても望めない。
高タンパク・高脂肪の食生活は肥満や高血圧,心臓疾患,糖尿病など生活習慣病の主原因になっており,それは子どもたちでも例外ではない。カロリーはできるだけごはんから摂取する,漬物,煮物など野菜もいろいろな形で摂取する,昔ながらの日本的食生活が国民の健康を守り,国土の健康を守るキーとなっている。
昼頃から雨が降り出したので軽ワゴンで雷山に戻る。大塘は雨のためパスする。雷山は降っていないので,昨日大雨に会った北西の集落に向かう。この集落は山の中腹にあり,棚田方式でできているので等高線上に何列かになって並んでいる。
その下は棚田になっている。棚田のあちらこちらには円筒形状に積みあげられた稲ワラの山がある。下の水田はウキクサが大量に発生し,赤や緑に染めている。
集落の高さの道を歩き北東の谷を歩いてみる。道の上は斜面農業,下は棚田になっている。傾斜がゆるやかなところでは10アールくらいの広い水田もある。周囲は静かだ。ヤブウグイスとカエルの声,小さな水路を流れる水の音が耳に心地よい。時々,農作業の女性の声が響く。