亜細亜の街角
■シルクロードの要衝は民族の十字路
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喀什(カシュガル,カーシー)  (地域地図を開く)

中国最西端のカシュガルはシルクロードの天山南路と西域南道が交わるオアシスの町で,古くから交易の町として発展してきた。また天山山脈を越えて現在のクルグスタン(キルギス)やタジキスタンともつながっていた。

そのためこの町には人口の多数を占めるウイグル人や漢人の他に,タジク人やキルギス人など多くの少数民族が居住しており,「民族の十字路」とも呼ばれている。

民族の十字路はインドで生まれた仏教が伝来してきた道でもある。ここから北伝仏教が中国の西域そして中国本土に広がっていった。喀什は唐の時代に仏教が栄えたが,10世紀頃からイスラム化が進行したため,仏教遺跡はほとんどない。

街の中心部は漢人地区とウイグル人地区にはっきり分かれている。それは再開発が進み近代的な町並みになった地区と,古くからの迷路のような日干しレンガ造りの地区と表現することができる。

街の近代化は急速に進行しており,カシュガルのシンボル,イエティガール寺院の南西に広がる職人街やウイグル人の居住区もいつまで往時の町並みを維持できるかは不透明である。安宿も整備されており,居心地のよさのため長期滞在する旅行者も多い。


葉城→カシュガル

葉城(09:40)→沙車(10:20)→カシュガル(14:10)と250kmをバス(25元)で移動する。工事区間を除き舗装道路になっている。ホータン,カシュガル間はバスの本数が多い。

朝食を済ませ汽車站(客運站)でカシュガル行きを窓口で確認すると09:40と11:00だという。急いで宿に戻り(隣の建物だけれど),チェックアウトして15分前に乗車する。乗客はわずか5人と思っていたら,道々で乗客を拾い集め満員になる。

葉城から沙車までは道の両側にグリーンベルトが連続している。いくつかの立派な川も見かけた。川は一様に南から北へ西域南道を横切って流れている。荒地の川は好き勝手に蛇行し地面にそのしるしを残している。枯れ川の跡は意外と深くえぐられている。

水田も何ヶ所かで見かけた。この乾燥地帯に立派な水田があるとは信じられない。農家一戸当たりの農地は相当広いようで,水のあるところでは豊かな農業が営まれている。数kmもある広大な湖もある。写真にしたい風景であるが,満員バスの車内では動きが取れない。


喀什色満賓館

カシュガルの街は大きいので汽車站からタクシーに乗り,「色満賓館」をガイドブックで指差す。特徴のある建物なので,漢字が分からなくても大丈夫だろうと思ったら大間違い。ウイグル人の運転手はとんでもないホテルに行ってくれた。

同僚の運転手に聞いてようやく西の外れにある喀什色満賓館にたどり着いた。この時点では「セーマン(色満)」という読み方が分からなかったので,このような事態になってしまった。新疆のガイドブックは漢字だけではなく現地の発音を併記しておくべきだ。

ここのドミ(25元)は立派な部屋に5ベッド,T/S付き,TVもあり強くお勧めである。新疆でもっともコストパフォーマンスの良い宿であった。部屋のとりあえずの住民はヨーロピアンと中国系アメリカ人である。

30代半ばのデンマークの男性は,天山の北側にあるイーニンから72時間かけてやってきたという。これから,西チベット経由でラサを目指すということで,防寒用具一式と大きな登山靴が荷物をふくらませている。彼は大のサッカー好き,ちょうどヨーロッパ・カップの準決勝にあたり,真夜中のサッカー観戦で完全に寝不足になる。

仕事が終わり反省の訓示であろうか

カシュガルで初めての子どもの写真となる

子どもたちの顔立ちにはかなりの幅がある

イエティガーモスクの向かいにある商場

街の中心を東西に人民路,南北に解放路が走り,その交差点のあたりが繁華街になっている。立派な商場やスーパーマーケットもありとても便利な一角だ。喀什色満賓館はこの交差点から人民西路を西に1.5kmほどいったところにある。

人民路あるいは解放路の両側は近代的なビルが立ち並ぶただの都会になっている。シルクロードの香が残っている町と期待してやってきたら,この町並みにずいぶんがっかりさせられた。

とりあえず新疆最大のモスクといわれるイエティガー寺院に行ってみる。地図では解放路の西に位置するはずなのだが,周辺は工事中の鉄板が視界をふさいでいる。大規模な再開発の工事が行われており,鉄板のすきまから中に入ると,広場にはだれもいないし,モスクも閉ざされている。

広場を囲むように建っているモスクに付属する建物も工事中である。シルクロードの十字路の風物はどこに行ったら見られるんだろうと若干途方に暮れた時間帯であった。

しかし,その15分後に問題は解決した。イエティガー寺院から解放路を少し南側行くと,右側に商場があり,ここから枝道を西に向かうとカシュガルの昔の姿が残っていた。

表通りの近代化にもかかわらず,周辺のウイグル人地区はまだ健在であった。小さな店がたくさんあり,シルクロードの商品が溢れている。乾燥した果物,ナッツ,くるみ,干しぶどう...おいしそうなものが並んでいる。水晶のように見える結晶化した砂糖の固まりもある。

スパイスの道

シルクロードの別名はスパイス・ロードである。東南アジアや南アジアで産出されるスパイスは,パミール高原を越えて中国の西域にもたらされた。

悪路,高度,氷雪,寒気,盗...長安や洛陽に行くにはさらに砂漠を越えなければならない。こうして中国本土にもたらされたスパイスは,漢方薬の一部としても使用された。そのなごりか,カシュガルの市場では驚くほど多様なスパイスが売られていた。

カシュガルは民族の十字路である

夕涼みとおしゃべりは人生の楽しみである

華やかな服装は乾燥気候によく似合う

街中でもこのような光景が見られる

職人街を歩く

職人の街を見て回るのはとても楽しい。金属加工,木工,縫製,じゅうた...すべて手工業である。ウイグル人の男性の写真をとるのはほとんど問題はない。

子どもたちのある集団は,大人たちに言い含められているのか,カメラから逃げ出す。しかし,かなりの子どもたちは写真賛成派になっている。通りを進むに連れて写真の枚数は増えていく。

職人街でもっとも華やかなのは金属加工の店であろう。3畳ほどの店の中に棚があり,真ちゅうあるいは銅製の容器や皿が飾ってある。裸電球で照らされきれいに輝いていいる。

同じ金属加工でもブリキを材料とするものは派手さに欠ける。縦型の水差しのデコレーションは高さ2mほどもあり,大きさを比較するためにご主人にとなりに並んでもらった。

この職人街の通りも工事中で敷石ははがされおり,この風景もいつまで残っていりのかわからない状況だ。少し先の道にはなぜか藁が敷いてあり,水がまかれていた。理由は分からないが埃を防ぐためなのかもしれない。

この道具はいったい何だろう

ポプラの白い材料を使って,大きな円形の蒸篭のようなものを作っている。簡単な道具と熟練の手作業で仕上げていく。

民俗楽器のラワープを演奏する

羊の毛をすく道具

ベビーベッド(もしくはゆりかご)と付属品

帽子屋

じゅうたん屋

お茶を楽しむ

茹でたジャガイモを売る

子どものじゃがいも売りもいる。皮ごとふかした小芋を売っている。値段は1毛か2毛だったと記憶している。1毛(角)は1元の1/10にあたる単位だ。僕も何度か彼らからじゃがいもを買った。若干の塩味が効いているので,少年の用意したタレは必要なかった。

彼は今にも分解しそうなナイフを使用していもの皮をむこうとしている。そのとき僕は2本のナイフを持っていた。失くしたと思ってホータンで買ったら,古いものが出てきたからだ。僕には1本で十分なので,2元で買ったナイフを彼にプレゼントする。少年はうれしそうに胸のポケットにしまった。

なにやら不思議なポーズである

砂まじりの突風に慌てる

小さなT字の交差点付近を歩いていたら突然強い風が吹き出した。嵐の前触れに近くの建物に避難する。埃が舞い上がり視界が悪くなる。雨が降りだし,人々が大慌てになる。30分ほどで嵐は止み,人々はいつものように商売に精を出す。この辺りは果物の露店が多い。今は杏が旬のようだ。その他スイカ,メロンが並んでいる。

30分後には普通の営業に戻る

スイカ風の模様のメロン

立派な衣装箱

布団綿の販売所

地元の歌舞団にそのまま出演できる素敵な衣装だね

おそろいの黄色の民族衣装と帽子を被った2人の少女に出会った。膝より少し長いワンピースに足首のところがしまったゆったりとした同色のズボンである。とてもかわいらしいので写真を撮らせてと申し込むと,二つ返事で撮らせてくれた。

スカートを広げるポーズは印象に残る

ほらリンゴだよ

なんとなく信仰か哲学を感じさせる

うちの坊やを見て

この通りはなぜか家の前で坐っている人が多い。かわいいウイグル人の女の子も多く,写真の枚数はさらに増える。それほど写真慣れしているわけではないのに,自然な表情が多い。

彼女たちをまとめると,「カシュガル美少女集」ができそうである。。さすがに女性をとるときは許可を得なければならない。孫のお守りをしている女性には,身振りで一枚撮らせてくださいと伝え,この一枚を撮る。

旧市街の迷路で会った子どもたち

茹でたジャガイモを売る

通りの一部はロバ車の駐車場になっている

玉子はバスケットに入れられて売られている

背後の壁は給水塔のものである

再び旧市街の迷路を歩く

商店や職人街を表通りとすれば,その裏手には居住区がある。ここは日干しレンガもしくはレンガでできた迷路である。道幅は3mほどしかなく,行き止まりの連続である。

家の通りに面した部分は窓のない壁と門しかない。この土壁の迷路にはなぜか通りに人が多い。ここでも子どもたちの写真を撮り,十分に楽しんで迷路を脱出し人民路に出た。

人民路からウイグル人の居住区を見ると,通りからある距離にある家は取り壊されている。半分だけ壊され,2階部分の壁がまだできていない家もある。

華やかな衣装

赤ちゃんがびっくりして目を見開いている

ソフトクリームも好きだけど写真も好きなの

スイカとメロン

旧市街の子どもたち

ウイグル人のお母さん

茹でたジャガイモを売る

主役は中央の小さな子である

ここの杏はおいしそうだった

旧市街表通りの子どもたち

大きな通りに面した旧市街は取り壊されつつある

中国将棋ではなくチェスが普及している

喀什国際汽車站(国際バスターミナル)

開放路の東側は近代的な街になっている

新市街の食堂

こんなとろにライチがあるとは

女性のためのチャイハナなのかな

はこのような現代化を望んではいないだろう

お使いの帰りであろう

これからみんなで夕食なの

沙漠の月は赤く見えるというのは本当だ

月の砂漠を〜は〜る〜ばると〜旅の〜ラクダが〜い〜き〜ました。多くの日本人は砂漠というとこの歌をイメージするという。残念ながらタクラマカン砂漠には宿泊施設がないので,砂漠で月見とはいかない。

薄暗くなったカシュガルの夜空に満月が輝いている。砂漠の色を反映したのか,今日の月は赤っぽい。写真ではこのときの幻想的な雰囲気がお伝えできなくて残念だ。色満賓館でも窓から見て日本人女性が「あっ,すごい」と叫んでいた。

風選

宿から吐曼河をめざして北の方に歩いていく。じきに三叉路になり,そこから東北方向にポプラ並木の道がある。この道を詰めていくと吐曼河に出るはずだ。

道の両側には用水路とポプラ並木,その向こうには立派な農地が広がっている。西域のオアシスでは定番の風景で,何回か撮ったものではあるが,そのみごとさにやはりカメラを向けてしまう。

畑では麦の風選をしている。作業場は麦を刈り取った畑である。すでに脱穀を済ませた小麦の山がある。その中には麦の茎,穂,小石,土くれなどの異物が入っており,これを取り除く作業をしている。畑まで電線コードを伸ばし,大きなファンを回す。

麦の山から女性がたらいで運び,男性の持つふるいに空ける。男性がふるいを動かすと麦とそれより小さな異物は下に落ちる。ファンの風で軽い異物は吹き飛ばされる。

大きな異物はふるいに残り,下には麦だけが残る。しかし,この段階でも彼らは下にシートも敷かない。再び麦に異物が入り込むことになる。この後はどうするのだろう。

吐曼河までは意外に遠かった。ウイグルのおじさんに声をかけられ,彼の畑にある杏をごちそうになる。ようやく見通しのきくところに出た。川のこちら側は低地になっており,そこは一面の水田になっている。トンボもおり乾燥地帯とは思えない風景である。直播ではなく田植えをしているようだ。土地が広いせいか,苗の間隔は40cmほどもある。

吐曼河は幅50mほど,茶色の水が土手を削っている。地域の土壌は細かい砂地なので水の力で簡単に浸食されてしまう。対岸では崩れかけた土手に潅木が必死にしがみついている。

綿花かオクラの仲間だと思うが不明だ

香妃墓

街の北東5kmのところにある,17-18世紀にこの地域を支配していたホージャ一族の墓である。老城の前の道でようやく20路のバスを見つけた。このバスの終点が香妃墓である。

廟は4本のミナレット(尖塔)とドームからできている。モスクのような建物はこの地域を統治していたアバク・ホージャ一族の墓として1640年建設された。一族の香妃が26才で清の乾隆帝に嫁ぎ,56才で亡くなる。遺体がここに埋葬されたとされるため,ここは香妃墓とも呼ばれている。

しっくいの壁に一面に20cm角の色タイルが貼られたきれいな建物だ。補修が行われていないためか,ドームの下部や,ミナレットの一部のタイルは剥がれ落ちている。色タイルを詳細に見ると,なかなか面白い紋様に出会える。内部には大小さまざまの72の棺がある。棺の大小は生前の身分や地位によるものであろう。

近くにはポプラ並木もある

日干しレンガは管理が悪いと崩れてしまう


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