哈密(ハミ) (地域地図を開く)
東から来ると,哈密は新疆ウイグル自治区で最初の大きな町になる。ちょうど,天山山脈の東端にあたり,町からも遠く雪山を望むことができる。古くは伊吾と呼ばれ,後漢や唐の時代には,西域経営の拠点であった。その後ウイグル人の支配下に入った。街の建物も漢字とウイグル語が併記されている。
僕は安宿に泊まれなかったが,旅行人には何件かのドミが記載されている。もしかしたら,ドミがあったのかもしれない。西安でガイドブックを紛失したのが悔やまれる。
東から来ると,哈密は新疆ウイグル自治区で最初の大きな町になる。ちょうど,天山山脈の東端にあたり,町からも遠く雪山を望むことができる。古くは伊吾と呼ばれ,後漢や唐の時代には,西域経営の拠点であった。その後ウイグル人の支配下に入った。街の建物も漢字とウイグル語が併記されている。
僕は安宿に泊まれなかったが,旅行人には何件かのドミが記載されている。もしかしたら,ドミがあったのかもしれない。西安でガイドブックを紛失したのが悔やまれる。
敦煌(08:30)→ハミ(13:30)と430kmを豪華バス(60元)で移動する。敦煌の汽車站は飛天賓館のすぐ前にある。汽車站の運行掲示板をチェックして前の日にキップを購入しておく。バスは最新型の豪華バスだ。前日にキップを買ったため一番前の席になった。
敦煌から西に向かう道路は完全舗装の高速道路仕様である。道の両側にはしばらく緑の農地になっていたが,じきに潅木の生える荒地になり,さらに緑のほとんどない荒地に変わっていく。
甘粛省に限らず中国の道路事情は急速に改善されている。高速道路も今では世界第2位の長さになっている。道路が良くなると車の速度も上がる。片側1車線の道路ではひんぱんに追越が発生する。中国の運転手には命がけで追い越しをする者が多い。
対向車が見えていても,前の車との速度差がさほどなくても,ともかく追い越しをかける。その結果,見通しのきく直線道路でも,車が横転するような事故が発生する。中国の交通事故による死者数は10万人を越えるという。車1台当たりにすると日本の10倍くらいの数値になるであろう。
標高は少しずつ上がり,1400mほどの峠を越えるとき,北の方角に天山山脈が見えた。このあたりは東西に連なる天山山脈の東の端にあたる。白い帯が蜃気楼のように空中に浮かんでいる。小型カメラのズームでは役不足ではあるがなんとか雰囲気は写し取ることができた。
山脈はじきにかすんで見えなくなり,ひとときの幻想的な風景であった。ひとときといえども天山が見られてのはラッキーだったのかもしれない。移動は快適だし,西域らしい風景にもめぐり合ってご機嫌である。
バスはどんどん高度を下げ,緑が見えたと思ったらそこが哈密の町であった。汽車站からタクシーでこの町で唯一の(歩き方の情報)ドミのある「商業賓館」に行く。
この賓館は立派なホテルであった。しかし,すでにドミは無くなっており,普通間は260元もする。それではと近くの安い賓館を訪ねると,「外国人は宿泊できない」とあっさり断られる。星の付いているホテル以外は外国人の宿泊は無理のようなので,この時点で哈密に滞在することは諦めた。
汽車站に戻り,20:30の夜行でウルムチに行くことにする。一時預かり所にザックを預け,出発までの6時間で町を見ることにする。
哈密の町は新しくとてもきれいだ。商業地区には7-8階建てのビルが立ち並んでいる。都市計画のためか,建物の高さはほぼ同じである。ロータリーの向こうに天山山脈の連なりが見える。
広大な新疆ウイグル自治区の大部分は極端に降水量が少ない。中央部には広大なタクラマカン沙漠があり,北部の天山山脈あるいは南部のコンロン山脈の雪解け水が流れるところにオアシスができる。そのオアシスを結ぶ隊商路がシルクロードの天山南路や西域南道である。
乾燥地帯にもかかわららず豊富な野菜が市場にある。街の周辺のオアシスでとれたものだろう。名物のハミウリは残念ながらここにはなかった。キャベツ,白菜,ニンニク,トマト,キューリは日本と同じ,タマネギは外皮がむらさき色だ。
なすは丸型のものが多い。60cmはありそうな長い豆もある。その土地により異なる珍しい野菜類を見るのは楽しい。スイカの季節だったので1/8カットをいただくと2元であった。丼のヨーグルトは0.8元である。
青果市場の近くにはいろいろな商店が並んでいる。小さな雑貨店には軍手が並べられている。日本語で「軍手」と書かれたものをチェックすると,それは中国製であった。
高粱酒の壺が並べられている。番号の付いた表示板が下がっており,4-7元/公斤と書かれている。1リットル60-100円という意味であろう。
高粱(コーリャン)とは日本ではモロコシと呼ばれる雑穀で,高さ2mくらいのトウモロコシのような茎から穂が出て,稗のような実がなる。西アフリカでは主食の穀物となっており,中国では主に東北部で栽培されている。
中国映画「紅いコーリャン(紅高粱)」の中では,造酒家に嫁に来る行列が一面のコーリャン畑の中を通る場面が美しく描き出されている。
出来上がった赤いコーリャン酒を飲みながら歌う人々のシーンも記憶に残っている。映画はその後,一転して日本軍による平和な村の破壊と村人の虐殺の場面に進んでいく。一度,あの映画のように一面に広がるコーリャンの畑と見たいと思っているがまだ果たしていない。
中国の北部と西部は粉食がメインと思っていたら,商店の店先でたくさんのコメが売られていた。それもいろいろな種類がある。中には新疆産のコメもある。広い新疆でもコメが作れる自然条件の土地はない。
夏の高温と日射量は十分であるが,いかんせん天水はほとんど期待できない。オアシスの水を使ってコメを作ることは,進歩というか愚挙というのか…。この中で「秋田小町」を発見したのには少々驚いた。
中国の町ではよく壁に求人の張り紙がある。「急聘」は日本でいうと「急募」というところか。職工や従業員を募集する張り紙である。ハロー・ワークがしっかりしていない中国では張り紙が重要な手段となっている。
職種はよく分からないが,給与は600-1500元の範囲である。中には連絡先の記載されていないものもあり,どうするんだろうなどと余計な心配をする。
大きな通りでは超市(文字通りスーパーマーケット)がある。今日の夜行に備えて食料を調達しようと中に入る。ここでは万引防止の厳重さと売り場の広さに驚いた。
入口で大きなバッグ類は預け,小さなものは専用の布袋に入れてファスナーを閉める。お金を払うとレシートをくれるので,それを専用出口で係員が受け取る仕組みである。
哈密からウルムチまでは夜行寝台バスで移動した。この寝台バスは中国人の偉大な発明である。国土の広い中国では夜行バスの需要が高い。しかし,普通の座席では仮眠しかとれない。多少料金は高くなっても横になって寝られるほうがいい。そのような需要に応えて寝台バスが登場した。
僕も何回か乗ったが,寝台列車並にちゃんと眠れるのはうれしい。今日のバスは新型のようだ。頭の下は布団入れになっており,横になるときは荷物を置き,足をそこに入れることができる。荷物スペースの側面にはちゃんとクツ入れも用意されている。
僕が荷物室に足を入れるということは,後ろの人が僕の頭の下に足を入れることになる。雲南では後ろの人の足と頭が近かったためちょっと臭いに閉口したことがある。
これなら,伝説の「中国人の靴下の臭い」を少しはかがずにすむ。料金は上段が75元,下段が85元と差がある。確かに,上段は上り下りが不便であるが,10元の差は中国では大きい。