亜細亜の街角
■沙漠の大画廊は特別料金なしでは見られない
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敦煌(トゥンファン)  (地域地図を開く)

敦煌は河西四郡の最西端にあり「沙州」と呼ばれていた。漢民族はここから西を西域と呼ぶ。この地に軍事拠点としての敦煌郡が置かれたのは紀元前1世紀,前漢の武帝の時代とされている。

武帝は何回かの遠征により北方騎馬民族の匈奴を北に追いやり,河西回廊の支配権を確立した。敦煌は漢の西域経営の中心地,東西交易の中継地として大いに繁栄した。

中国の王朝が変わり,敦煌は異民族や中央から独立した勢力の支配を繰り返し受けるようになっても,西域に対する重要拠点として繁栄は続いた。仏教が広まった北魏の時代(4世紀)には西域から入ってきた経典の収集と翻訳がさかんに行われるようになった。莫高窟の造営が始まったのもこの頃である。

東西交易が盛んであった唐の時代も敦煌は最盛期を迎える。しかし,唐と対立する吐蕃の支配を受けるようになって衰退が始まった。それは漢人の勢力が節度使に任じられ,支配を回復しても戻らなかった。

北栄時代には西夏が河西回廊を支配するようになり,敦煌のぼう大な文書や経典は莫高窟の一つの隠し部屋に納められ,入り口は塗り固められた。この時代の様子は井上靖の小説を原作にした映画「敦煌」に生き生きと描かれている。

モンゴル帝国がユーラシアの大半を支配するようになると中国の東西交易は海のシルクロードが主要ルートとなリ敦煌は歴史から姿を消していった。20世紀に入り,隠し部屋に納められていたぼう大な文書が発見され,敦煌はいちやく国際的に脚光を浴びるようになった。莫高窟も保護されるようになり,1987年に世界遺産に登録され,中国を代表する観光名所となった。

酒泉→敦煌移動

酒泉汽車站(08:00)→敦煌汽車站(13:00)と447kmをデラックスバス(80元)で移動する。酒泉の汽車站は宿から少し離れているので料金3元の軽自動車のミニタクシーを利用する。

旅遊保険を提示して敦煌行きのキップを買う。バスは全席座席指定,車高の高い新型で乗務員が付いている。メインザックは車体下の荷物室に入れる。

嘉谷関を過ぎたあたりから雪を頂いた祁連山脈が左手に見える。道路は山脈に沿って続いているため,この眺望を30分ほど楽しむことができる。

道路は全線舗装されており,周囲は石の多いれき沙漠もしくは土漠である。水のあるところでは緑の農地と林が見える。しかし,その割合は広大な地域のほんの一部である。圧倒的な茶色の風景が道中を支配している。珍しく雨が降り出し,右手に風力発電用の風車群がかすんで見える。

飛天賓館

バスは敦煌汽車站に到着した。その前に敦煌の有名安宿の飛天賓館があるので,ここのドミに宿泊する。入口を入ると正面に新館があり,ドミは右手前の旧館にある。

部屋(30元)8畳,3ベッド,T/Sは共同でとても清潔である。部屋に入る時には服務員に部屋番号を告げて,カギを開けてもらわなければならない。僕は3日間,3人部屋をぜいたくに一人で占拠していた。

宿の向かいが汽車站になっている

外に出ると半袖では少し寒さを感じる気温も,晴れると暑さに変わる。宿の前を右に行くと日本語の通じる食堂がある。ここでインターネット屋の情報を聞いて行ってみる。日本語IMEはインストールされておらず,変換は「南極」という中国製ソフトに頼っている。この変換の操作性はとても悪く,結局ひらかなでメールを送ることになった。

北京時間と実時間の差が大きくなり,夕食は8時,暗くなるのは9時というように生活時間が変わってくる。この広い国土で単一時間を,それも東の外れの時間を強要するのは無理がある。バスターミナルが近いせいか,車のクラクションと人の声がうるさい。

ドミノを楽しむ人たちが大勢集まっている

綿とトウモロコシ

敦煌の町は小さい。少し歩くと用水路があり,勢いよく水が流れている。この水は人々の生活を支えているはずだ。しかしそれにしては周囲にゴミが散乱している。用水路に引っかかっているビニール袋などを見ると,これだから漢人は...という気になる。

水路の先は枝分かれし,畑を潤している。地域の主要作物は小麦,トウモロコシ,綿花である。小麦の収穫が終わったのか,ある畑ではトウモロコシと綿花が一緒に栽培されている。キャベツやチンゲンサイも育っている。

雨が少ないこの地域では用水路の水が頼りだ。月に2-3回,近くの用水路の土手を崩して畑を水浸しにする。水効率は悪いが特別の施設は不要のためこの方法が普及している。農地の境界にはポプラが植えられ,防風林のような風景になっている。

中国では土葬も認められている

レンガ工場

農地の向こう側にレンガ工場の煙突が見える。中国の西域では家の主要建材はレンガである。耐久性のため,ちょっとした建物には焼きレンガが使用される。地下で粘土が掘られ,ベルトコンベアーに乗せられる。

コンクリート・ミキサーのような機械で練られ,1m強の直方体となって出てくる。それをワイヤに押し付けてレンガサイズに切る。それをリヤカーに乗せて乾燥場に積み上げる。乾燥したものを釜に入れ焼くと赤いレンガができる。中国のレンガ造りは,それなりに機械化が進んでいる。

水さえあれば沙漠でも立派な野菜が栽培できる

日本でいうハウス栽培である

ポプラの葉の裏表

畑の横を水路が通っている

防風林というよりは防砂林であろう

フィリピンのジープニーだね

莫高窟

6時に起床,外はまだ少し薄暗いが朝食に出かける。汽車站の隣に(宿の向かいに)食堂があり,豆のおかゆと油条をいただく。ついでに汽車站に行ってハミ行きのバスの時間を見る。ふむふむ,400kmで08:00発か,了解。08:00に莫高窟と鳴砂山のツアーに出発する。ツアー料金は30元とまあまあだが入場料は莫高窟と鳴砂山で200元ととても高い。

バスは市内から西に進んでいく。真っ直ぐな道の両側は農地になっており,水が豊かなことが分かる。バスは大きな駐車場に到着した。莫高窟は「沙漠の大画廊」と呼ばれ,崖を削って作った石窟には仏像と壁画が溢れている。内部は完全に写真禁止で,入口で手荷物の一切を預けなければならない。手に持っているものは懐中電灯だけだ。

120元の入場料を払い,中に入ると言語別にガイドが付く。日本語ガイドもおり,数人の日本人が集まっている。入場料だけで見られる窟は5つだけであった。テレビなどで紹介されている素晴らしい窟を見るためには,とても高い特別料金が必要である。

内部は暗く,ガイドは懐中電灯の光をあてながら,窟の造営,変遷,壁画の内容を説明してくれるがとても覚えきれるものではない。壁画の保存状態は良くないし,懐中電灯では細かい部分は見えない。消化不良のまま莫高窟を後にすることになる。

これでは日本でビデオを見ているほうがマシというものだ。ゲート内にある博物館はすばらしかった。文書,壁画の模写が展示されており,こちらは満足のいくものであった。ただし,ツアーに参加しているので時間的制約があるのはいたい。

莫高窟から外に出て,バスの時間まで周辺を歩いてみた。涸れた河床の向こうに莫高窟の外れの部分が見える。未完成の小さな削り跡や前窟の建造物も見える。建物の向こう100mくらいまで削り跡は続いている。莫高窟の写真はこの位置からのものでがまんしよう。

雷音寺

午後は鳴砂山に向かう。市内からの距離はわずか7kmで,2車線の道路の左右には広いサイクリングロードが鳴砂山まで続いている。バスは途中で道教の雷音寺に立ち寄った。

色彩豊かで,珍しい壁画と香炉があり,それなりに楽しめる。莫高窟と異なり,近くで見られ,触ることもできるということはすばらしい。これで初めて旅の思い出になるというものだ。桃の実を形どった線香立てには太さ10cm,長さ1.5mもある巨大な線香がくすぶっている。

鳴砂山

鳴砂山の入場料は80元とこれまた高い。中国では観光の見どころの有名度・人気度によって入場料を設定しているのではと勘ぐりたくなる。ここの見どころの一つは月牙泉である。

不思議なことに砂丘に囲まれたところに泉がある。形が三日月に似ているので月牙泉と呼ばれている。砂だらけの一画にきれいな泉と緑があるのはちょっとした驚きである。しかも,この泉は涸れたことがないという。

砂丘からの眺望

鳴砂山は市街地から7kmと書かれているが,街からすぐ近くに見える。ツアーの車が近づくと巨大で美しい砂丘が見える。周囲は平地なのになぜここに砂山ができるのか不思議だ。風の作用ならば風の方向に移動するはずなのに…。

砂の粒子は非常に細かく平らな場所を歩いてもクツが沈み歩きづらいし,斜面を登るのは困難だ。そのため木製のはしご状の階段が2ケ所に付けられており,10元を払うと楽に頂上まで登ることができる。頂上からの眺めは晴らしく,初めての砂丘体験を楽しんだ。やはり,足跡の付いていない砂丘を歩くのは得がたい経験だ。

芸術作品だね

敦煌の子どもたち

敦煌は観光の町,ちょっとした都会である。街の北東部は繁華街となっており,たくさんの土産物屋と立派な商店が並んでいる。わき道には靴の修理屋が並んでいる。

トレッキング・シューズの側面が傷んでいたので縫ってもらう。料金は2足で5元,今にして思うとだいぶ高い。大きな自然石の上で遊んでいる子どもたちの写真を撮る。出会いの機会が少なかったため,敦煌の子どもの写真は数枚しかない。

昼下がりの市場の風景

お母さんと一緒に

お友だちと一緒に

漢字が読めない

再び市場の風景

赤みが不足しているリンゴ

市場の野菜

汽車站の南側にも大きな野菜市があった。自転車に荷車を付けて街中を売り歩く果物の行商をよく見かけた。彼らはここから油桃や杏を仕入れているようだ。

野菜類は近郊の農家が直接持ち込んでいる。ナス,キュウリ,トマト,葉物野菜,セロリと日本のスーパーと品揃えは変わらない。中には見たこともないものも並んでいる。スイカもシーズンなのか大量に積まれていた。

乾燥地域のスイカは糖度が高くおいしい

かなり誤差の大きな計量に見える

朝食屋は繁盛している

南に7kmほどのところに鳴沙山がある

中国式ビニールハウス

茶系のブドウも栽培されている

ポプラの防砂林を見ると西域という感じがする

党河はまるで沙漠のようだ

溝に水を流して防砂林を育てる

けだるい午後に睡魔が忍び寄る

市場の子どもたち

自家用車に乗ってお出かけ

乾燥果物

敦煌の街の市場にはたくさんの乾燥果物屋がある。乾燥の激しい中国西域では果物を干して保存食料にすることが盛んだ。杏やぶどうなどはすぐ分かるが,中には原形がどんなものか分からないものも多い。

その中でも干しぶどうと干しマンゴーは旅の友に最適だ。適度の甘さとカロリーがあるので,ちょっとおなかが空いたときはよく食べていた。ちなみに,蘭州の干しぶどうは500gが4元であった。ときどき食べるのだが中国を出る頃までザックの中にあった。

大きな生地を縫い合わせる

石の上にも三人

クツの修理屋はどこにでもある


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