デカン高原から西に向かって流れ下るカーヴェリー川のデルタ地帯にはチョーラ朝時代のいくつかの寺院が点在している。タンジャヴールは9世紀から13世紀にかけてチョーラ朝の都として繁栄し,その時期に多くのヒンドゥー寺院が建立された。
その中でもチョーラ朝最盛期のラージャラージャT世(在位985年-1012年)により建てられたプリハデーシュワラ寺院は南方様式の寺院建築の最高峰として知られている。この街には当時の王宮などの見どころもあるが,プリハデーシュワラ寺院の付録のようなものだ。
マドゥライ→タンジャーヴール 移動
移動日の朝はなんとなく頭が重い感じがする。重いというよりは暑さのため頭の活動が鈍っているような感じだ。部屋の温度は早朝でも30℃を超えているだろう。日中の日差しを受けているところは40℃近くになる。この温度が体にこたえているようだ。
郊外にあるマドゥライの長距離バススタンドまで市バスで移動し,そこでタンジャーヴール行きのバスに乗る。地元の発音では「タンジャーウル」に近い。料金は45Rpなので2時間ほどの行程かと思っていたら甘かった。
バスはいつまでたっても走り続ける。水をもっていなかったのでバススタンドに停車したとき1本調達する。インドではバスが停まると物売りがやってくるのでわざわざ外に買いに行く必要はない。物売りの中でも水は単価に比して重いのでもっとも大変である。ありがたく1本いただいてようやく一息つくことができた。
沿線の風景は緑と茶色のまだら模様となっている。モンスーン前なのでこの地域は乾季にあたり,水があるところだけに緑が広がっており,その他の土地は茶色一色である。水はため池によるものらしく,多くのため池を見かけた。巨大な石切り場が見える。山一つを削って1m立法近い大きな切石が並べられている。しかし,周辺は土手のようになっておりほとんど写真を撮る空間がない。
4時間かけてようやく郊外のバススタンドに到着した。タンジャーヴールの長距離バススタンドはやはり郊外にあり,バスで市内のオールド・バススタンドに移動しなければならない。ところがこのバスがひどく混雑している。最初のものには人々が殺到しており,荷物をもった外国人が乗れるような状況にはない。次のバスにはなんとか乗ることができた。
このバスも途中から140%の乗車率になる。一列5人掛けの座席で通路はとても狭い,そのバスで140%の乗車率はひどい混雑である。しかも,降りる人がいるので通路は大変な状態だ。どうみても,路線バスは必要量の半分しか運行していない。郊外のバススタンドのアイディアはいいが,市内に向かうバスがこの状況では完全にアイディア倒れである。
Thanjai Guest House
バススタンドを出て北側の通りで宿を探す。最初に見つけたのが「Thanjai Guest House」である。この通りに面して何軒かの安宿があり,部屋探しはそれほど難しくはない。比較的新しい建物である。190Rpのシングルの部屋は6畳,WB,T/S付きで清潔である。インドの安宿では珍しくシャワーが飛び散らないでちゃんと出るのもありがたい。
この宿はお勧め,歩き方に投稿してあげようと日記には書いておいたが,まだ果たしていない。それにしても暑い,部屋の中でも33℃もある。停電になると暑さに包まれるのでとても部屋にはいられない。この宿では自家発電の装置を備えており,それはけっこう頻繁に作動することになる。
花環ではない
宿からプリハデーシュワラ寺院の東門まではおよそ700mほどである。その前に商店街を抜けてオールド・バススタンドに行ってみた。バススタンドは大勢の人たちが集まっているので写真の題材が多い。そのときにジャズミンの花環を見かけた。
南インドの女性たちはよくこの花を髪飾りに使用している。白い清楚な色彩と芳香があるので髪飾りとしてはとても良い材料となっている。この花環に見えるものは一本の糸に結び付けられたもので,それを環状にしたものである。必要な長さで販売するのであろう。
オールドバススタンド
市内バススタンドとしてはずいぶん広い。多くの人々がバスで移動するためにここに集まっている。インドではゴミ箱はほとんど見かけることはなかった。そのため人の多く集まるところはゴミが散乱する。市場から出る生ゴミはその辺りをうろついている牛が喜んで食べることになる。彼らは紙や段ボールも口にする。
牛は4つに分かれた巨大な胃をもっており,そこにセルロースを分解する複数種類のバクテリアや微生物を大量に住まわせている。このバクテリアがセルロース(ブドウ糖が数百結合したもの)を分解して,牛が利用できる栄養素にしている。このおかげで,牛は紙からでも栄養を摂取することができる。しかし,牛がいないところではゴミを処理してくれるシステムが働かないのでゴミが散乱することになる。
寺院の前の土産物屋
16時前であるが寺院は開いていた。南インドの寺院は12時から16時くらいまでは閉鎖されることが多い。そのため,日中の貴重な時間が寺院見学に充てられないことになる。もっともこの時期についていえば,この時間帯は気温が高すぎて参拝する人はほとんどいないのではと思う。
南インドのヒンドゥー寺院は周壁に囲まれていることが多い。この寺院もまるで城壁のような壁に囲まれており,その外側には濠のような構造になっている。現在は干上がっているが,往時はここに水がたたえられていたのであろう。実際,タンジャーヴールの地図を見ると,王宮とプリハティーシュワラ寺院の地域は濠により囲まれている。東門の近くには土産物屋が集まっており,バラタナーティアムと思われる踊り子像が目についた。
プリハデーシュワラ寺院は二重の壁で囲われている
この寺院には出入り口が東門の一つしかない。そこには彩色の無い塔門がある。南インドのヒンドゥー寺院には極彩色の塔門が多いが,ここのものは素材の色がそのままとなっているようだ。
寺院は二重の周壁に囲まれており、特に外側の壁は武骨であり、グランド・アニカット運河およびその分岐運河に囲まれている。現在は干上がっているが雨季には水で満たされた堀のようになることだろう。地図で確認するとこの分岐運河は寺院の北から王宮を含む街の一画を囲んでいる。
二重周壁に合わせて、東門は外側と内側に塔門構造をもっている。外側のものが大きいため外からは二重の塔門構造がよく分からない。
塔門とは南インドのヒンドゥー寺院に独特の構造である。南方様式(ドゥラヴィダ様式)の寺院の基本構成要素はガルバグリハ(聖室)とそれに接続されたマンダパ(前室)と呼ばれるホール状の建物である。場合によっては前室の手前に前殿と呼ばれる構造をもつこともある。そこには,塔門という構成要素はなかった。ところが,14世紀のヴィジャヤナガラ朝時代になると突然塔門が現れる。
プリハデーシュワラ寺院が建造されたのは10世紀末から11世紀初頭なので,この時期にはまだ塔門という構造はなかったはずである。塔門は寺院本体とは異なる時期に建造された可能性もある。この寺院の塔門はマドゥライのミーナークシ寺院のような巨大ではなく,高さは10-15mほどになっており,高さ63mの本殿に比べると控えめなものになっている。
寺院の基軸は東西方向となっている
塔門は東に面しているので午後の日差しでは正面からは逆光になる。構造的には西側(内側)にも同じ彫像が飾られているのでそちらを撮ることにする。塔門を飾る神々の像は塑像のようだ。しかも材料の粘土の色合いがそのまま出ているような感じを受ける。女性を伴った珍しいガネーシュの像がある。おそらくこの女性はガネーシュの連れ合いであろう。この女神は初めて見たような気がする。
内側の壁面
内側の周壁は半分ほどが回廊形式になっており,その内側は広い空間となっている。寺院の基軸は東西となっており,塔門,ナンディー像,前殿・前室・本殿が一直線に並んでいる。インドのヒンドゥー寺院としては珍しく,建造物に比して広い空間となっており,そこに本殿以外にも複数の神殿と祠堂が配置されている。
牡牛のナンディーはシヴァ神の従者
本殿の手前には巨大なナーンディの像が置かれており,顔は本堂の方向を向いている。ナンディー像は巨大な岩をそのまま加工したもので,黒い色粉を溶かした油脂で磨かれているのため真黒である。インドではナンディー(牡牛)はシヴァ神の従者の内で最も忠実な守護者とされており,シヴァ信仰に結びついている牡牛は聖なる動物とされている。
ギリシャ神話においても,「おうし座」のアルファ星アルデバランはアラビア語の「従う者」を意味している。アルデバランはプレアデス星団の後に続いて東の地平から昇ってくることから,このような命名となった。古代社会の東西で,牡牛に同じ意味合いが込められたのは興味深い。インドでは古から聖なる動物とされてきた牛も,現在は使役動物として扱われ,都市においてはやっかいなノラ牛として嫌われている。
マンタバ(礼拝堂)
二つ目の塔門をくぐった左側に履物を預けるところがある。そこから先は履物が禁止されている。履物の預かり所には料金という概念はないが,帰りには2-5Rpの心付けをあげるのが慣習である。
中庭は石畳もしくは芝生となっており,強い日差しで石畳は焼けている。日本人の足裏ではこの石畳には耐えられない。そのため参拝者用にジュートのような材質の布が敷かれており,その上ならば僕でも歩くことができる。
東門から向かって右側にあるマンタバ(礼拝堂)の入り口付近には大きな神像が飾られており,内部の壁面にはリンガを讃えるレリーフがある。正面のご神体はなんだか分からない。しかし,写真の像は持ち物からビシュヌ神のようだ。ナンディー像と同様に石造は真っ黒に彩色されている。この空間の神像はできがよく,自由に写真を撮ることができる。
ブリハディーシュワラ寺院の全景
周壁の内側空間に比して本堂はそれほど大きくない印象であるが,急峻な角度で空に向かっている本殿の高さは63mもある。その本殿を含む本堂がそれほど大きく感じられないのは,周辺空間がとても広いためである。
本堂の構造は一直線であり,その最後に本殿がそびえている。南方様式の最高傑作とされているが,このように高い本殿をもつ南方様式の寺院は珍しい。
石材を積み上げてピラミッド型の建造物にする南方型の基本構造は8世紀のマハーバリプラムの海岸寺院やカンチープラムのカイラーサナータ寺院が原型となっている。ハッサンやマイソールで見てきた12-14世紀のホイサラ朝の寺院群はほとんど平屋構造であり,ブリハディーシュワラ寺院の特異性は際立っている。
本殿は四角錐の形状をしており,最上部には巨大な冠石が置かれている。間近で見ると本殿の傾斜の急峻さにちょっとたじろぐ。最上部に置かれた冠石ははるか高いところにあり,そこに向かって多くの彫像やレリーフをちりばめた壁面が続いている。
インドのヒンドゥー寺院建築は「北方様式」と「南方(ドラヴィダ)様式」に大きく区分される。一般的に本殿を高い塔状の構造するものは北方様式の特徴である。ウダイプル,カジュラーホ,オリッサ州には北方様式の特徴であるシカラと呼ばれる高塔を備えた寺院が数多く見られる。それに対して,南方様式でこのように高い本殿をもつものは非常に珍しい。
本堂には東側の正式な入り口の他に左右に4つの出口が設けてある。僕は東の入り口から入り,本殿の横の出口から出てきた。出口の石段には手すりが付いており,その両側には手すりと一体化した象の石像がある。横から見るとこの象の鼻が手すりになっていることが分かる。
壁面の芸術作品
たしかに多くの神像が壁面を飾っているが,それほどすごいという感じは受けなかった。すでに壁面を飾る彫刻ではマイソール近郊にあるホイサラ朝の彫刻の寺院を見ているせいであろう。
本殿外壁の最下段を飾るこの彫像は神殿の中にいるべき神々を外に出して,人々の目に触れさせようとしているようだ。暗い聖室の中ではほとんど写真にならないので僕としては歓迎したい。外壁を飾るようになっても神像はやはり神殿の中に置かれるイメージを維持する構成となっているのもおもしろい。
水受け
ブリハディーシュワラ寺院本堂の外壁や急峻に競り上がっていく本殿の外壁も多くの彫像により飾られており興味深い。前殿から前室にかけての壁面から象の鼻さきのような構造物が出ており,その下には4頭の獅子に支えられた水盤があった。象の鼻さきから聖なる水が出て,それを水盤で受ける構造に見える。この時期のせいか,すでにそのような仕組みがなくなっているのか,水は出ていない。
11世紀チョーサラ朝時代の文字であろうか
壁面には古そうな文字が刻まれていた。11世紀のチョーサラ朝時代の文字であろうか。丸みがかった文字は現在のタミールナドゥ州の文字とかなり類似している。インドは歴史の大半において統一王朝は存在しなかった。そのため,州により独自の言語と文字が使用されている。
インド圏で使用されている文字の起源はブラフミー文字とされている。世界中で使用されている音素文字の起源とされているのは源カナン文字,あるいはフェニキア文字(BC14世紀)とされている。フェニキア文字からアラム文字(BC9世紀)が派生し,そこからブラフミー文字が派生している。ブラフミー文字はBC6世紀ころから使用されており,南アジア,東南アジア,チベット,モンゴルのほとんどの文字体系の祖となっている。
前殿から前室へは列柱の通路になっている
前殿の両側にはナタラージャの巨大な像が飾られている。バラモンが詰めており小さなプージャが行われている。前殿の内部は列柱の通路となっており,柱にはほとんど装飾は無い。そのまま先のほうに歩いていたら通路は狭くなり渋滞している。ここから先はヒンドゥー教徒以外は入ることができない。しかし,人の流れのままに僕は先に進んでしまった。
本殿の中心部にはバラモンの祝福を受ける人が大勢おり,ここで行列は渋滞する。その先には巨大なリンガが祀られていると記されているがよく分からない。バラモンの祝福を受けた人々は左側の出口に向かうことになるが,この折り返しのスペースは人一人がようやく通れるほどのものしかなく,渋滞となる。僕にとってはつまらないところであり,ここはヒンドゥー教徒だけが聖なるものを感じる空間である。
先生に引率された子どもたちが見学に来ていた
外に出ると先生に引率された子どもたちがやってきた。彼らはブリハディーシュワラ寺院の敷地の外に集合し,持参した大きな容器からごはんを取りだし食事を始めた。時刻は09時なので朝食なのか昼食なのか微妙なところだ。集団の中で重い容器や水タンクを運ぶのは男の子の役割のようだ。子どもたちは地面に腰を下ろし,周壁の外から寺院を眺めながら食事をしていた。
周壁の回廊には多数のリンガが奉納されている
内側の周壁は回廊となっており,そこにはたくさんのシヴァ神の象徴であるリンガが奉納されていた。多くの信者がリンガを奉納してシヴァ神の加護を願ったものであろう。多くの人々の願いは回廊を一巡している。壁面はインドでは珍しいフレスコ画が描かれている。当時の風習や戦いの様子を描いたもののようだが内容はよく分からない。
この寺院にも象がいる
帰る時に塔門のところに象がいた。とくに参拝者からお金を受け取るというような芸はしないようだ。象は木の葉やバナナをもくもくと食べていた。しかし、次の日の午前中に再訪すると参拝者の頭に鼻先を置いていた。
象の仲間はサハラ以南のアフリカとインドから東南アジアにかけての地域にしか生息していない。約250万年前にはオーストラリアと南極大陸を除く全ての大陸に分布していたが,自然環境の変化や人類の狩猟などにより生息範囲は著しく狭められている。
恒温動物では大きな体をもつものは体温の維持が容易となり,体重あたりの消費エネルギーも小さくなり,環境の変化や飢餓に対しては適応能力が高い。しかし,数の少なさと繁殖力が小さいことから,より大きな環境変化に対しては種を維持できなくなる。人類の出現により真っ先に絶滅に向かうのは,哺乳類,鳥類のうちで体の大きな種である。
王宮に向かう
王宮くらいは見なければならないと思い,お出かけする。バススタンドの南側には時計塔がある。いちおうガイドブックにも掲載されている。レンガ造りのずいぶん立派な建物であり,周辺は公園のようになっている。なぜかこの公園の木陰涼んでいるのは男性だけである。
王宮かと思ったら…
王宮は時計塔からまっすぐ北に向かえばすぐに見つかるはずであるが,ずいぶん分かりづらかった。立派な建物があり,出窓の下の装飾はジャイサルメールのハーヴェーリーに類似している。ここが王宮の建物の一部かと思って尋ねてみると,さらに先だと告げられた。
王宮内部は極彩色の世界
確かに入り口のような門はあったが,内部は人々の生活空間となっており,ガイドブックにあるような施設名を表示した案内標識はどこにもない。しかも,王宮の内部は地元の人の道路としても使用されており,どこがどうなっているのかさっぱり分からない。
ようやくマラーター・ダルバール・ホールの入り口に出た。係員がチケットを要求するがどこにチケット売り場があったんだと言いたくなる。時刻は16:30,係員は17時で閉まるというので100Rpを渡しチケットを買ってきてとお願いする。
見学時間は30分しかない
金曜日のせいか17時に閉まるというのは困ったことだ。30分しか時間は残されていない。ホールは壁画と彩色された彫像で飾られており,きれいにはちがいないが,とても落ち着ける空間ではない。ざっと一回りをして目に付いたものを片端から写真をとる。石像を集めたところもあったが,とても一つ一つを見ているわけにはいかない。入り口に戻りお釣りの20Rpを返してもらい(入場料50Rp,カメラ持ち込み30Rp)見張り塔に向かう。
見張り塔
見張り塔は特徴のある建物なのですぐに分かる。しかし,入り口はどこにあるのか分からない「Bell Tower」という表示と矢印があり,その矢印は道路の方を指していた。おかしいな,外から回るのかと半周して入り口がないことを確認して,さきほどの矢印の表示のところで階段を下りる。入り口では係員がチケットをしつこくチェックする。
美術館
上に登るらせん階段は狭いが,十分に明るいのでさほど苦労はしない。屋上からは正面に美術館の一部となっているヒンドゥー寺院の本殿のような建物が見える。構造はブリハディーシュワラ寺院のものと類似している。この建物も相当な高さである。
ブリハディーシュワラ寺院が遠望できる
はるか遠くにはブリハディーシュワラ寺院の塔門と本殿が見える。北東側は緑豊かな地域となっている。西側には学校があり,眼下には広い二つのグランドがある。