マドゥライは人口90万人,タミールナドゥ州第3の都市であり,2000年ほどの歴史を有する古都である。現在の町は西から東に向って流れるヴァイハイ川により二分されており,南側は旧市街,北側が新市街となっている。旧市街はおよそ1.5km四方の広がりをもっており,その中心に東西260m,南北230mの矩形の壁に囲まれたミーナークシー寺院がある。
マドゥライはこの巨大な寺院の門前町として発展してきた。現在でも多くの巡礼者や参拝者が訪れるので,寺院の周辺はとてもにぎやかである。外周壁の内部にある建造物の複雑な配置を見ると,一つの造営プランに基づいて建設されたものとはとても思われない。二つの神殿と内側の周壁ができたのが16世紀であり,17世紀には現在の外周壁と巨大な塔門などが造営されたとすれば全体のつじつまは合う。
カーニャクマリ(09:30)→マドゥライ(15:40) 移動
今日も風が強い。モンスーンの風はほとんど途切れることなく一定の方向から吹き続ける。本物のモンスーンはまだインドには到達していないようだ。アラビア海から大量の水分を含んだ風がインドに強い風と大量の雨をもたらすのがモンスーンであり,現在の風はその前触れである。もうすぐ雲を引き連れた本体がやって来る。
駅を出てメインロードでオートリキシャを拾う。バススタンドまでは30Rpと言われ,20Rpと交渉してみたが埒があかなかった。カーニャクマリのオートリキシャーは1kmで20Rpとインドでももっとも高い部類に入る。バスは09:15頃にやってきた。他の会社のものを含めるとマドゥライ行きは何本かあり,わざわざ予約をとるほどのものではなかった。
外の気温は体温を超えている。窓からは熱風が吹き込んでくるので閉めることにする。この方が涼しく感じるのが暑季のインドである。途中に大規模な発電用の風車群があった。道路の両側の農地や荒地に複数の形状,大きさの風車がある。数を数えるのはとても不可能だが奥行きと道路沿いの距離を考えると1000基は越えているだろう。
風車は折からのモンスーンの風を受けてゆっくりと回っている。風車の支えが比較的古いタイプの鉄塔構造のものと新しい円柱状タワーのものが混在している。風力は再生可能エネルギーの中でもっとも実用化が進んでおり,世界の設備容量は120Gw(2008年)となっており毎年30Gwのペースで増加している。分かりやすい単位に換算すると1Gw=100万kw(大きな原子力発電設備1基分の設備容量)となる。
この通りの周辺に安宿が集まっている
15:40に予定通りマドゥライのマトサーパニ・バススタンドに到着した。ここはマドゥライの郊外にある長距離バススタンドである。市内からは6kmほど離れており,その間は市バスが結んでいる。オートリキシャーは市内まで80Rpだと言ってくるがバスがあるのでお断りする。
地元の人に二回聞いてバススタンドの外に出て市バスに乗り込む。ガイドブックにはNo.5のバスと記されているが,新しい車両のバスもいくつかはペリヤール・バススタンドに行くようだ。30分ほどでペリヤール・バススタンドに到着する。バススタンドを出て大きな通りを渡り駅の近くの安宿街に入る。
第一目標のインターナショナルはシングルが300Rpに値上げされており,ディスカウントにも応じてもらえなかった。ようやくNew Ruby(250Rp)を見つけることができた。3畳,1ベッド,T/S付き,まあまあ清潔である。ちょっと小さめのファンが勢いよく回っているが部屋の温度は33℃もあり涼しさは感じられない。
夕食は大きな通りに面したJayaram Bakery でチキン・フライドライスをいただく。これは大当たり,マサラ味から解放されて涙を流さない食事となった。この4日間,マサラが口内炎にしみると自然に涙が出てしまう。おかげでボウルいっぱいのフライドライスを平らげることができた。チキン・ハンバーガーやピザも見た目は合格点だ。近くにこのような食堂があるととてもこころ強い。
マドゥライ駅まで歩く
宿から5分のところにマドゥライ駅がある。新しい駅舎の正面は庭園のようになっており,そこは広告の看板が林立している。手前からの写真はどうにもならない。看板が途切れたあたりから写真を撮る。
駅の内部にはコンピュータと接続されたタッチパネルで列車の予約状況が確認できるはずなのだが何もなかった。設備面ではカーニャクマリ駅よりも遅れている。駅舎の前では赤帽の男性たちがヒマそうにしており,犬とたわむれていた。
ミーナークシー寺院西塔門
ミーナークシー寺院の敷地は230mX260mの周壁に囲まれており東西南北に4つの塔門がある。それぞれの塔門から中に入ることはできるが,メインは東と西である。宿から東に歩いていくと西の塔門に突き当たる。ガイドブックでは東門から入るように勧めているが,距離の関係からか西門から入る参拝者も多い。
写真を撮るなら午前中は東塔門の光の具合がよい。層状に神殿が積みあがっている構造が見て取れる。なんとなく,カソリックの大聖堂が想起される。どちらも高みに続くファサードで宗教の偉大さを表現しようとしており,宗教の権威を象徴している。
ミーナークシー寺院東塔門
1/4周すると南塔門に出る。ミーナークシの数ある塔門の中で最も高いものである。かっては最上部まで登ることができたが,転落事故があったため11年前に来たときもすでに塔門の上に登ることは禁止されていた。確かに塔門には下から最上部にかけていくつもの窓のような開口部があるが,仕切りは何もないので足を滑らしたら一巻の終わりである。
11年前に来たときは東塔門のあたりはかなり雑然としていたような気がしたが,現在では外側の塀の周囲はすべて整理され,4ヶ所(と思う)の履物の預かり所があるだけだ。東塔門はミーナクシー寺院の本来の入り口である。しかし,ここから入る前に道路を挟んで東側にあるプドゥ・マンダタプをのぞいて見ることにする。
プドゥ・マンダタプ
プドゥ・マンダタプはミーナークシ寺院と類似の構造をもつ寺院の遺構である。寺院であった頃の石の建造物はほとんどそのまま残されており,一見の価値はある。西側と東側の石像は光の具合が良いので何枚か写真にする。モチーフはミーナークシ寺院と同じであるが,ミーナークシ寺院のものはほとんど屋根に覆われているためきれいな写真はあまり期待できない。
内部には仕立て屋の店がびっしりと入っており,寺院としての機能は半分失われている。これだけの文化財を納めた寺院が現在は仕立て屋のための空間となっているのは不思議なことだ。
大きなナーンディの彩色像
この建造物の東側にはかなり大きなナーンディの彩色像が置かれている。ナーンディは西の方向を向いている。ナーンディ像の背後には巨大な木製の扉があり,そこから見ると,ナーンディの頭の先にはプドゥ・マンダタプの建物があり,その上部は彩色されている。その背後にはミーナークシー寺院の東塔門が巨大な姿を見せており,木製の扉の内側が同一のプランに基づいて建造されたものであることが分かる。
東塔門から中に入ると土産物屋が並ぶ
ミーナークシーは「魚の目を持つ女神」とされており,この地域で古くから信仰されてきた土着の女神であった。おそらく現在のミーナークシー寺院ができるずっと以前から信仰されてきたものであろう。インド・アーリア人が持ち込んだ支配階級の宗教であるバラモン教が民衆のヒンドゥー教に変貌していく過程において,多くの土着の神々や神話,叙事詩の英雄はヒンドゥーの神々と関連付けられていった。
ミーナークシー女神もパールバティ(シヴァ神の神妃)と同一視されるようになり,夫のスンダレーシュワラはシヴァ神となってしまった。簡単に言うと地方の神がメジャーの神に乗っ取られたということになる。 @象が参拝者の頭をなでる空間,Aミーナークシー寺院,B千柱堂,Cスンダレーシュワラ神殿,Dミーナークシー神殿,E黄金のハスのタンク。
ミーナークシー寺院は外周壁に囲まれており,入り口は東西南北に配された4つの巨大な塔門(ゴープラム)である。本来のドラヴィダ様式の寺院はガルバグリハ(聖室)とそれに接続されたマンダパ(前室)と呼ばれるホール状の建物から構成されていた。ところが,14世紀のヴィジャヤナガラ朝時代になると突然塔門が現れる。
寺院の主建造物であるべき本堂(ヴィマーナ)をそのままにして,境内を矩形の周壁で囲い,本堂を凌駕するような巨大な塔門を付属させるようになった。この寺院には12の塔門があると紹介されている。ミーナークシー寺院の場合,外周壁の内側にも周壁と塔門があるので,古い寺院の外側に外周壁を設け,さらに巨大な塔門を建造したと考えられる。塔門はそれ自体として多くの神殿の集合体のような構造をもっている。
ミーナークシー寺院の内部はすべて履物禁止である。靴を預かり所に預けて中に入る。決まった料金のようなものはなく,帰るときに2-5Rp程度の心付けをあげることになる。
預かり所から門までは20mほどあり,すでに石畳はかなりの高温になっている。僕の足裏ではとても耐えられない。砂地の部分を歩いて東塔門に到達する。午後に北門から入ったときは内側の塔門が閉まっていたため,東門まで石畳の中庭を歩くことになり,やけどしそうな熱さに閉口した。
東塔門から中に入ると屋根のある列柱の空間となり,両側には土産物屋が並んでいる。その先には象のいる場所がある。実はそこまでが中庭に相当するところで,その先が内側の塀に囲まれた寺院本体の空間となる。
お供え物の定番
お供え物や灯明を扱う店やたくさん出ている。表皮を取り除いたココナッツとバナナはお供え物の定番である。
参拝者の相手をして小銭を稼いでいる象
ここで参拝者の相手をして小銭を稼いでいる象は11年前にもいた。象は人間以上に長生きなのでおそらく同じ象であろう。参拝者が小銭を出すと象は鼻で受け取り飼育係の足もとにころがす。参拝者が頭を出すと象は鼻で頭を軽く触るというサービスをしてくれる。
僕は11年前に頭を触ってもらったことがある。やはり大きな動物に触られるのでちょっとドキドキする。象が呼吸するとかなりの風が吹いてくるのを感じる。今日は大サービスの日なのか,子どもたちを背中に乗せる芸も披露してくれた。
スンダレーシュワラ神殿の周囲は広い回廊になっている
象の場所から中に進むと多くの石柱で支えられた屋根をもつ広い空間に出る。正面にスンダレーシュワラ神殿があり,そこの入り口はヒンドゥー教徒以外の立ち入りは禁止となっている。神殿には入れないけれどこの薄暗い空間はなかなか趣がある。ミーナークシー寺院の中ではもっともいろんな石像が見られるところである。
また,スンダレーシュワラ神殿の周囲は広い回廊になっており,二列の石柱に支えれてた空間が続いている。石柱の上部には獅子の飾りがあり,その部分は極彩色で彩色されている。天井も鮮やかな色彩の紋様が描かれている。さすがに一回りはしないで途中で広い空間のところに戻ってくる。
想像上の動物を題材にした飾り柱
想像上の動物を題材にした飾り柱がある。この動物は「ヤーリー」と呼ばれ,ライオンの頭,象の鼻,虎の足,牛の尾,馬の胴体をもつとされる。この情報は「添乗員メモ」のサイトでたまたま見つけた。やはり,このような不思議な動物を見たツアー参加者が添乗員に質問することがあるのだろう。それらに答えられるようにするため添乗員はそれなりの情報武装をしなければならない。
平安・鎌倉時代の日本にも鵺(ぬえ)という想像上の動物がおり,複数の文献に記されている。それによるとサルの顔,タヌキの胴体,トラの手足を持ち,尾はヘビと記されているが,いくつかのバージョンがある。複数の動物の特徴をつなぎ合わせたいわゆるキメラ動物の話は世界中にある。古代メソポタミアでは翼をもった四足獣がよく登場してくる。
かなり大きいナーンディ像
広間の中心部には大きなナーンディー像もある。もちろん頭はスンダレーシュワラ神殿の方を向いている。ここではスンダレーシュワラはシヴァ神ということになっている。
広間の梁を支える柱の上部
広間の梁を支える柱の上部には彩色された獅子の飾りがあり,こちらは蛍光灯に近いので写真にしやすい。
多くの神像が壁面を飾っている
ナーンディに乗ったシヴァ神とパールバティの像もある。しかし,二人とも腕が2本しかない。通常の像では少なくとも4本の腕をもっているのでこれはちょっと変わっている。
ガネーシュの前はいつも込み合っていた
主神の祀られているスンダレーシュワラ神殿は10mほども手前から異教徒の立ち入りは禁止されており,入り口を見ることができるだけである。その代わりに,いくつかの神々が祀られている聖室を見ることができた。商売の神として人気のあるガネーシュはもっとも分かりやすい。
彼の坐っている台座には鼻先のとがったネズミが描かれており,ガネーシュの乗り物を象徴している。それにしても,最大の陸上動物の頭をもつガネーシュの乗り物がネズミとは,ヒンドゥー教の遊び心を感じる。さすがに人気のある神様だけに,ガネーシュの前はいつも込み合っており,像の写真を撮るのはけっこう大変であった。
黄金のハスのタンク
ミーナークシー神殿も小さな塔門の先は立ち入り禁止となっており,聖室の内部はうかがうこともできない。その横は黄金のハスのタンクを囲む回廊となっている。ここは寺院内では唯一,自然光の入るところとなっており,天井画,壁画,回廊周辺の神像などが分かりやすい。いままでずっと薄暗い空間を回ってきたので,明るい空間は気分転換になる。
どうして沐浴のための池が「黄金のハスのタンク」と呼ばれているのか分からない。そこでtank を英和辞典で引いてみると,「せきとめられたもの」が語源となっており,人工的な容器としてのタンクの他に,米国やインドの方言として貯水池,池などの意味もあることが分かった。もう完全に日本語としても定着しているタンクの新しい意味に少し驚いた。
乾季の今はほとんど水がなくなっており,参拝者の水浴びはとても無理だ。そのおかげで,名前の由来となっている黄金のハスが完全に姿を現している。
池の周囲は二列の石柱により支えられた回廊となっており,半分だけ光が入るのでおもしろい写真になるかもしれない。ガイドブックにはここから黄金の屋根が見えるとあった。確かにミーナークシ神殿の屋根をわずかに見ることができる。
小さな参拝者
他の場所に比べて明るい空間なので子どもたちもこの周辺に多い。近くに石膏の粉が山盛りになっているところがあり,子どもたちの格好の遊び場所となっている。子ども同士の遊びでも額には二本線が引かれている。本当は三本なのだが,それはシヴァ派の記号である。こどもたちはちゃんと理解しているようだ。
さまざまな灯明
床に描かれた吉祥文様の上に置かれた灯明と供物もすばらしく艶かしいので写真に収める。オートモードではこのような艶めかしを表現するには難しい。せっかく一眼レフを使用するのであるから,マニュアル撮影にもう少し理解を深めなければならない。
広間のあちらこちらには灯明台があり,人々はそこにお参りし,額に色粉で印しを付けている。石像の前で灯される灯明の明かりがなんだかとても艶かしい。マニュアルで灯明の集合を写真にする。
千柱堂と象牙細工の展示
千柱堂は文字通り千本(正確には985本)の石柱が立ち並ぶ空間である。それらの石柱には豪華な装飾が施されており,見ごたえがある。しかし,なにぶんにも数が多すぎるのですぐに飽きてくる。ある区画の柱はまったく装飾がなく,ノミの跡だけが残されている。これだけの石柱の装飾は大変な作業なのだろう。
この空間の一部は博物館となっており,ブロンズ像や象牙細工が展示されている。特に象牙細工は薄暗い空間で白さが際立っており,とてもよい写真の題材になる。しかし,暗いためオートフォーカスがうまく機能せず,ピントの甘い写真が多かった。
校庭で授業を受ける
宿の南側を歩るいているときキリスト教系の学校を見つけた。子どもたちが保護者と中に入っていくので一緒に入ってみた。立派な校舎があるのに,子どもたちは中庭の木陰に坐って勉強を始めている。下級生はノートの代わりに石板を使用している。給食はないので,お昼は持参しているようだ。時間が経つと子どもたちはどんどん増えてくる。
上級生もやはり中庭で授業を受けることになりそうだ。おそらく12-15歳くらいのクラスの女子学生は長い上着とエンジ色のズボン,それに同じエンジ色の胸飾りをしている。これが彼女たちの制服であろう。もっとも彼女たちの髪型は一様に中央で分ける三つ編であり,リボンの色まで一緒である。髪型とリボンまでが制服の一部になっているようだ。
ガンディー博物館
入場は無料であるがカメラの持ち込みは50Rpとなる。英国がインドを支配してから独立を果たすまでの主要なできごとが20数枚のパネルで展示してあった。このブロックは英文で説明されており,もう一つのブロックはローカル言語で説明されていた。ガンディーはパネルの後半から出てきて非暴力・不服従運動を通して,民主主義国家としての独立を志向していたと記されている。
ヒンドゥー教徒であるガンディーには本来の意味での墓はない。ここにあるものは遺骨の一部を納めて日本山妙法寺が墓としたものである。
ヴァイハイ川は完全に干上がっていた
ヴァイハイ川は完全に干上がっていた。11年前に北側の川岸に密集していた小さな家屋は無くなっていた。南側の川原には白い布が数十枚干してあり,ここにも洗濯のカーストが存在している。デカン高原は西から東に向って緩やかに傾斜している。そのため,デカン高原を源とする川の大半は西から東に流れている。しかし,乾季が深まると多くの川はこのように涸れてしまう。
この川が再び流れ出すのは1月後くらいであろう。モンスーンはすぐ近くまで来ている。川の中央部には井戸があり,何人かの女性が水を汲み出している。おそらくこの辺りは地下水位が高いのであろう。雨季と乾季がはっきりしているインドでは水の確保は古くからの大きな課題であり,歴代の王朝はダムを造って水の確保を目指してきた。